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第一章 うつけ信長、我が道を行く!
第八話 和睦なるか!? 信長と帰蝶の婚礼
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この日――、空は生憎の曇天である。
織田信秀は織田木瓜紋を背に、上段の間にて一人、盃を傾けていた。
尾張の虎と言われ、織田弾正忠家を本家の守護代・織田大和家をも凌ぐほど大きくした男は、息子の晴れの日に何を想うのか。
尾張・末森城――、いつもなら重臣たちが顔を揃えるその広間はガランとしていた。
広間の前を通りかかった末森城織田家家臣・柴田勝家は、信秀の様子に眉を寄せた。
信秀に仕えて長い勝家だが、すべてがわかっているわけではない。
「殿はいったい、なにをお考えか」
そういったのは、林秀貞である。
林秀貞は弟の林通具とともに那古野城織田家家臣だが、信長の行いに最早ついていかれなくなったようだ。
「殿のお考えはもう決していよう」
自身も複雑な思いを抱えつつ、勝家はそう断じた。
「勝家どの」
「殿は間違いなく、弾正忠家を信長さまに譲られる」
場所を変えた上で勝家は、信秀が信長を後継者とする意思があると断定した。
信秀は家督相続に関し、断言することはなかった。結果、それが混乱を招くことになったのだが、長子である信広は庶子ゆえに家督相続権から除外、となれば正室・土田御前の産んだ二男である信長が嫡子となる。
信秀も、信長の素行の悪さを知らぬはずがない。それなのに現在も黙っているということは、そういうことなのだろう。
だが、信長が家督を継ぐということは、勝家たちにとっても主君となる。
「あのうつけが、我らの主君となるですと!?」
秀貞は遠慮なく、声を荒らげた。
「口を慎まれよ。林どの」
「ありえぬ……、ありまえせぬぞ。お方さまも、信行さまを推されておられるというに」
信秀の正室であり、信長の母・土田御前は、信長を見限り、二番目の我が子・信行を推しているというのは勝家も知っている。
「だが、ことを荒立てのは今はやめておくのがよかろう。此度の和睦による婚姻の件は、殿の明らかなご意思。それを失敗させるようなことがあれば、腹を切るのは我ら」
勝家の言葉に、秀貞はそれ以上言い募ってくることはなかった。
◆
尾張・那古野城――、天文十八年二月二十四日、この日はいよいよ信長の婚礼である。
相手は美濃・斎藤道三の娘、帰蝶。道三と織田信秀が交わした和睦の条件として、二人の婚礼となった。だが、無事に済むまでは油断できないのがこの時代である。
和睦と見せかけて、攻めて来られてもおかしくはないのである。
本来ならば主君の婚礼を祝うべきだが、当の本人はもちろん、家臣たちは笑顔ではなかった。
「政秀……、いい加減にしろよ」
上段の間で、素襖に身を包んだ信長は平手政秀を睨んでいた。
さすがにこの日は信長も正装だったが、顔は仏頂面である。
「なんと言われようとこの平手政秀、今日はお側を離れませぬ」
「まさか、厠(※便所)まで付いてくるつもりか?」
「若、今日がどのような日がおわかりか?」
「ああ。蝮の娘が嫁いで来るんだろう? だからと、何故お前が朝から俺に張り付く?」
「放っておけば若のこと、また城を抜け出されます。お諌めすべき者が頼りにならぬゆえ、こうして某めが見張っておりまする」
突然政秀の視線が恒興に注がれ、話が振られると思っていなかった恒興は素っ頓狂な声を上げた。
「は……?」
「は? ではない! 恒興。そなた何年、若の側にいるのじゃ!」
「申し訳ございませぬ」
頭を下げるも、信長の脱走には毎回つきあわされるので、もはや諦めている恒興である。
「勝三郎を責めるな、爺」
「若、今後は何卒、身を慎まれますようお願い申し上げまする」
「申し上げます!」
廊に控えた小者に、その場にいた皆の視線が向く。
「何事じゃ!?」
「あ……」
政秀を視界に捉えた小者は、彼がいると思っていなかったらしい。
「構わん。申せ」
信長の命に、小者は告げた。
「国境の木曽川近辺にて、賊と見られる者に早瀬さま数名が襲われたとの報せ」
「数は?」
「確認できただけで十数名――」
いかん……、美濃から輿が……」
政秀の声が震えている。しかし彼を更に驚かせたのは――。
「勝三郎、馬の用意だ。それと信盛と成政も呼べ!」
正装を解き始めた信長に、政秀の表情が引きつる。
「若っ!」
信盛と成政とは、那古野城織田家家臣・佐久間信盛と佐々成政のことである。
「せっかくの和睦だ。壊れたくはないだろう。爺」
痛い所をつかれ、政秀は信長を制するのを諦めたのであった。
「信長さま、なにゆえ賊は織田家の家臣を襲ったのでございましょう?」
馬屋に向かう道すがら、恒興は眉を寄せた。
国境にいた織田家家臣は、美濃からやってくる輿入れを迎える者たちだったが、その者たちを負かすとはよほどの手練と見える。
「奴らの目的は、織田じゃない」
信長は馬に跨がると、そうきっぱり言い切った。
「と言いますと?」
「どうしてこの時期に、国境に賊が集まり出したのかやっとわかった。誰かが、美濃からの輿入れを賊に教えたんだ。つまり狙いは……」
「まさか――」
恒興にも、ようやくわかった。
賊の狙いが、その輿入れにあると。
「信長さま、いったい何事にございますか?」
血相を変えてやってきた佐久間信盛、佐々成政が馬上の信長を見上げる。
「左様。我らを召すなど……」
信盛に続いて、成政が口を開く。
「これから美濃との国境に向かう」
「な……んですと?」
今日が婚礼であることは、二人も承知している。ゆえに、信盛は言った。
「信長さま自ら、帰蝶さまをお出迎えに向かわなくても――」
「行くつもりはなかったが、賊がその帰蝶を襲おうとしている」
「な……」
同時に言葉を失う二人である。
「猶予はない。急ぐぞ! 勝三郎、信盛、成政!」
「はっ」
馬上の人となった四人は手綱を引き、城門から駆けていった。
◆◆◆
美濃――、稲葉山城を出立したその一行は、尾張を目指していた。周りは険しい峰々が聳えている。美濃北部の大部分は、飛騨山脈をはじめとする山岳地帯で、平地は高山盆地などわずかしかない。
一方南部は伊勢湾沿岸から続く濃尾平野が広がり、低地面積が広い。特に南西部の木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)合流域とその支流域には、水郷地帯が広がっている。
斎藤道三の娘・帰蝶は、輿の上で稲葉山城がある金華山を振り返った。
――父上……。
城を出るこの日、彼女が道三と交わした言葉は三口。
おそらく道三の顔を見るのは、これが最後になるかも知れない。嫁いでしまえば簡単に帰れる立場ではないことは経験上、帰蝶も承知している。
和睦の条件としての婚姻ではあったが、道三は思わぬことを帰蝶に言った。
それが本気だったのか、冗談だったのか測りかねるが。
「お疲れでございましょう、姫」
帰蝶の輿に張り付く形で護衛する稲葉良通が、帰蝶を気遣った。
「いえ……」
「まもなく国境でござる。迎えの者が来ているとの由」
「迎え……ですか?」
帰蝶が不安そうに見えたか、良通が言った。
「ご安心を。万が一のことがあれば、我らがお守り致しまする」
稲葉良通ははじめは美濃守護大名・土岐頼芸に仕えていたがそののちは道三に仕え、美濃三人衆の一人として活躍していた。
他に安藤守就、氏家直元らも随行していたが彼らも良通同様、元は土岐家の家臣で、三人は彼らの居城と領地の地理的位置から、美濃三人衆とも呼ばれている。
万が一のこと――、それは尾張が和睦など望んでおらず、美濃攻めを諦めていないという意味なのだろう。帰蝶を人質に、道三に降伏を迫る――、この婚礼は尾張が仕組んだものだとすればそれもあるかも知れない。
――そなたが、男であったなら……。
いつであったか、道三がそう呟いた。
そう男であれば、戦で充分に戦える。家のため、国のため、そして主のために。
女はいつだって、政の駒。
顔も知らなければ、どんな性格なのか知らぬ男に嫁げと言われれば、嫁がねばならぬ。
それが家のため、果ては国のためならば、本人の意思などお構いなしに。
帰蝶はそれを恨んだことはないが、彼女の心のなかに一人の男が住み始めた。
二度の婚姻を結んだ帰蝶だが、夫であった男に帰蝶は抱かれたことはない。まだ十、二の子供だったせいもあるかも知れないが、帰蝶は今や十五歳、女として芽生えつつある想いは複雑である。
――これなら、尾張に行くのではなかったわ。
帰蝶は懐から懐剣を取り出して、視線を落とす。
黒漆に蝶の金蒔絵が施された懐剣――、道三から贈られたものだ。
そんなときである。
「美濃・斎藤道三の姫、帰蝶どのの一行とお見受け致す! 左様に違いござらぬか!?」
居丈高な物言いに、帰蝶は顔を上げた。
織田信秀は織田木瓜紋を背に、上段の間にて一人、盃を傾けていた。
尾張の虎と言われ、織田弾正忠家を本家の守護代・織田大和家をも凌ぐほど大きくした男は、息子の晴れの日に何を想うのか。
尾張・末森城――、いつもなら重臣たちが顔を揃えるその広間はガランとしていた。
広間の前を通りかかった末森城織田家家臣・柴田勝家は、信秀の様子に眉を寄せた。
信秀に仕えて長い勝家だが、すべてがわかっているわけではない。
「殿はいったい、なにをお考えか」
そういったのは、林秀貞である。
林秀貞は弟の林通具とともに那古野城織田家家臣だが、信長の行いに最早ついていかれなくなったようだ。
「殿のお考えはもう決していよう」
自身も複雑な思いを抱えつつ、勝家はそう断じた。
「勝家どの」
「殿は間違いなく、弾正忠家を信長さまに譲られる」
場所を変えた上で勝家は、信秀が信長を後継者とする意思があると断定した。
信秀は家督相続に関し、断言することはなかった。結果、それが混乱を招くことになったのだが、長子である信広は庶子ゆえに家督相続権から除外、となれば正室・土田御前の産んだ二男である信長が嫡子となる。
信秀も、信長の素行の悪さを知らぬはずがない。それなのに現在も黙っているということは、そういうことなのだろう。
だが、信長が家督を継ぐということは、勝家たちにとっても主君となる。
「あのうつけが、我らの主君となるですと!?」
秀貞は遠慮なく、声を荒らげた。
「口を慎まれよ。林どの」
「ありえぬ……、ありまえせぬぞ。お方さまも、信行さまを推されておられるというに」
信秀の正室であり、信長の母・土田御前は、信長を見限り、二番目の我が子・信行を推しているというのは勝家も知っている。
「だが、ことを荒立てのは今はやめておくのがよかろう。此度の和睦による婚姻の件は、殿の明らかなご意思。それを失敗させるようなことがあれば、腹を切るのは我ら」
勝家の言葉に、秀貞はそれ以上言い募ってくることはなかった。
◆
尾張・那古野城――、天文十八年二月二十四日、この日はいよいよ信長の婚礼である。
相手は美濃・斎藤道三の娘、帰蝶。道三と織田信秀が交わした和睦の条件として、二人の婚礼となった。だが、無事に済むまでは油断できないのがこの時代である。
和睦と見せかけて、攻めて来られてもおかしくはないのである。
本来ならば主君の婚礼を祝うべきだが、当の本人はもちろん、家臣たちは笑顔ではなかった。
「政秀……、いい加減にしろよ」
上段の間で、素襖に身を包んだ信長は平手政秀を睨んでいた。
さすがにこの日は信長も正装だったが、顔は仏頂面である。
「なんと言われようとこの平手政秀、今日はお側を離れませぬ」
「まさか、厠(※便所)まで付いてくるつもりか?」
「若、今日がどのような日がおわかりか?」
「ああ。蝮の娘が嫁いで来るんだろう? だからと、何故お前が朝から俺に張り付く?」
「放っておけば若のこと、また城を抜け出されます。お諌めすべき者が頼りにならぬゆえ、こうして某めが見張っておりまする」
突然政秀の視線が恒興に注がれ、話が振られると思っていなかった恒興は素っ頓狂な声を上げた。
「は……?」
「は? ではない! 恒興。そなた何年、若の側にいるのじゃ!」
「申し訳ございませぬ」
頭を下げるも、信長の脱走には毎回つきあわされるので、もはや諦めている恒興である。
「勝三郎を責めるな、爺」
「若、今後は何卒、身を慎まれますようお願い申し上げまする」
「申し上げます!」
廊に控えた小者に、その場にいた皆の視線が向く。
「何事じゃ!?」
「あ……」
政秀を視界に捉えた小者は、彼がいると思っていなかったらしい。
「構わん。申せ」
信長の命に、小者は告げた。
「国境の木曽川近辺にて、賊と見られる者に早瀬さま数名が襲われたとの報せ」
「数は?」
「確認できただけで十数名――」
いかん……、美濃から輿が……」
政秀の声が震えている。しかし彼を更に驚かせたのは――。
「勝三郎、馬の用意だ。それと信盛と成政も呼べ!」
正装を解き始めた信長に、政秀の表情が引きつる。
「若っ!」
信盛と成政とは、那古野城織田家家臣・佐久間信盛と佐々成政のことである。
「せっかくの和睦だ。壊れたくはないだろう。爺」
痛い所をつかれ、政秀は信長を制するのを諦めたのであった。
「信長さま、なにゆえ賊は織田家の家臣を襲ったのでございましょう?」
馬屋に向かう道すがら、恒興は眉を寄せた。
国境にいた織田家家臣は、美濃からやってくる輿入れを迎える者たちだったが、その者たちを負かすとはよほどの手練と見える。
「奴らの目的は、織田じゃない」
信長は馬に跨がると、そうきっぱり言い切った。
「と言いますと?」
「どうしてこの時期に、国境に賊が集まり出したのかやっとわかった。誰かが、美濃からの輿入れを賊に教えたんだ。つまり狙いは……」
「まさか――」
恒興にも、ようやくわかった。
賊の狙いが、その輿入れにあると。
「信長さま、いったい何事にございますか?」
血相を変えてやってきた佐久間信盛、佐々成政が馬上の信長を見上げる。
「左様。我らを召すなど……」
信盛に続いて、成政が口を開く。
「これから美濃との国境に向かう」
「な……んですと?」
今日が婚礼であることは、二人も承知している。ゆえに、信盛は言った。
「信長さま自ら、帰蝶さまをお出迎えに向かわなくても――」
「行くつもりはなかったが、賊がその帰蝶を襲おうとしている」
「な……」
同時に言葉を失う二人である。
「猶予はない。急ぐぞ! 勝三郎、信盛、成政!」
「はっ」
馬上の人となった四人は手綱を引き、城門から駆けていった。
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斎藤道三の娘・帰蝶は、輿の上で稲葉山城がある金華山を振り返った。
――父上……。
城を出るこの日、彼女が道三と交わした言葉は三口。
おそらく道三の顔を見るのは、これが最後になるかも知れない。嫁いでしまえば簡単に帰れる立場ではないことは経験上、帰蝶も承知している。
和睦の条件としての婚姻ではあったが、道三は思わぬことを帰蝶に言った。
それが本気だったのか、冗談だったのか測りかねるが。
「お疲れでございましょう、姫」
帰蝶の輿に張り付く形で護衛する稲葉良通が、帰蝶を気遣った。
「いえ……」
「まもなく国境でござる。迎えの者が来ているとの由」
「迎え……ですか?」
帰蝶が不安そうに見えたか、良通が言った。
「ご安心を。万が一のことがあれば、我らがお守り致しまする」
稲葉良通ははじめは美濃守護大名・土岐頼芸に仕えていたがそののちは道三に仕え、美濃三人衆の一人として活躍していた。
他に安藤守就、氏家直元らも随行していたが彼らも良通同様、元は土岐家の家臣で、三人は彼らの居城と領地の地理的位置から、美濃三人衆とも呼ばれている。
万が一のこと――、それは尾張が和睦など望んでおらず、美濃攻めを諦めていないという意味なのだろう。帰蝶を人質に、道三に降伏を迫る――、この婚礼は尾張が仕組んだものだとすればそれもあるかも知れない。
――そなたが、男であったなら……。
いつであったか、道三がそう呟いた。
そう男であれば、戦で充分に戦える。家のため、国のため、そして主のために。
女はいつだって、政の駒。
顔も知らなければ、どんな性格なのか知らぬ男に嫁げと言われれば、嫁がねばならぬ。
それが家のため、果ては国のためならば、本人の意思などお構いなしに。
帰蝶はそれを恨んだことはないが、彼女の心のなかに一人の男が住み始めた。
二度の婚姻を結んだ帰蝶だが、夫であった男に帰蝶は抱かれたことはない。まだ十、二の子供だったせいもあるかも知れないが、帰蝶は今や十五歳、女として芽生えつつある想いは複雑である。
――これなら、尾張に行くのではなかったわ。
帰蝶は懐から懐剣を取り出して、視線を落とす。
黒漆に蝶の金蒔絵が施された懐剣――、道三から贈られたものだ。
そんなときである。
「美濃・斎藤道三の姫、帰蝶どのの一行とお見受け致す! 左様に違いござらぬか!?」
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