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第一章 うつけ信長、我が道を行く!
第五話 老臣・平手政秀、健在なり!
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天文十八年二月――、尾張の地にも雪が舞い始めた。
べっとりと湿った霙が確かな氷片に変り、そして不透明な雪になった。さらりとした雪とは違って、現在降っている雪は体にまつわりつくような嫌な雪だった。
それまでは氷を粉末にしたような霜が地を固めていたが、雪天(※雪空)は黙っていられくなったようだ。
「どおりで朝から冷え込む筈じゃ」
書院にいた恒興は、廊に立つ人物に気づけなかった。
織田弾正忠家家老にして、信長の傅役・平手政秀である。
「お見えとは存ぜす、ご無礼を致しました」
恒興は書を閉じると、頭を下げた。
「構わぬ。兵法書か」
政秀は、恒興が呼んでいた書に目を細める。
「はい。いざというときに、信長さまをお守りするために学んでおります」
兵法書として主に知られるのは武経七書と言われる七書で、『孫子』『呉子』『尉繚子』『六韜』『三略』『司馬法』『李衛公問対』だという。
「成長したのう?恒興」
恒興に関心しつつも、政秀の眉間には小さな皺が刻まれている。
「平手さま、美濃との和睦の件、捗っていないのでございますか?」
「いや、その件は解決済みじゃ。大殿も満足されておいでであった。だが、この那古野城内はもちろん、末森城内でも若(※信長)を良しとせぬ者が多い。なにしろ、若がああではの」
政秀は今回の美濃との和睦を成立させ、信長と斎藤道三の娘との婚儀を取り纏めた人物らしい。だが当の信長は、この日も川へ行くと城を空けている。
「信長さまははたして、本当にうつけであらせましょうや」
恒興の問に、政秀が再び目を細める。
「本当は違うと……?」
「わかりませぬが、吉法師(※信長の幼名)さまの御味方でいよとこの私に言われたのは平手さまにございます」
「そうであったのう……」
恒興が信長の小姓となったのは十歳、まだ数年しか仕えていないが、本当の信長は違うように思えた。もしそれが『振り』ならば、そうせざるを得ぬことが信長にあるのだろう。
すると、庭の砂利敷に小物が片膝をついた。
「申し上げます」
「何事じゃ?」
「守護代大和家家臣・坂井大膳と名乗る者が、殿に御目通りをと参っておりまする」
「大和家の人間が、何用で……」
胡乱に眉を寄せる政秀に習って、恒興もなんとなく嫌な予感がするのだった。
◆
織田大和家――、弱体化を辿る尾張守護大名・斯波氏に代わり、尾張制覇を目論んでいると言われる尾張下四郡の守護代。
あくまで噂だが、織田信秀がまだ古渡城を居城としていた頃に留守を見計らって攻めてきたとされるのが、織田弾正忠家の本家でもあるこの大和家である。
「――坂井大膳にござる」
坂井大膳と名乗る大和家家臣は、そう頭を下げた。
「織田弾正忠家・家老、平手政秀にござる。若殿は多忙ゆえ、某が要件を承る」
名古屋城広間――、彼を迎えた政秀は坂井大膳の真正面に着座、恒興はその斜め後ろに座った。だが信長に会いに来たであろうに、その信長が現れなくても大膳は気にはしていなかった。その大膳の目が、恒興に向く。
「そちらは?」
「織田弾正忠家家臣・池田恒利が一子、池田勝三郎恒興にございます。若輩者ゆえ、ご無礼の断、お許し願いまする」
恒興は、そう言って頭を垂れた。
「して、守護代・信友さまの家臣である貴殿が、若殿に何用でござろう?」
「昨年の観月(※十五夜の月見)の折、わが殿(※信友)を末森城の信行どのが訪ねて参った。織田弾正忠家の不穏な動きを殿は危惧されておられる。よもや、守護代である大和家を蔑ろにし、尾張を手中にするのではないか、と」
坂井大膳の視線は、なんとも不快なものだった。
守護代に仕える自分が上と思っているのかわからないが、不遜な態度は目に十分に現れている。嫌味を言いに来ただけなら帰って欲しいが、相手は守護代の家臣である。
「そのようなことはござらん」
「信行どのもそう申された。ただ、殿の心配はもう一つござってな。弾正忠家の跡取りは、信行どのという噂でござる。弾正忠家は守護代を支える立場、内紛は困り申す」
「織田弾正忠家のお世継ぎは、信長さまにござる!」
「信行どのも同じことを言われた。世継ぎは兄上であり、兄上を差し置いて家督を相続する気は毛頭ないと。まだ十四歳ながら、実に立派」
「これは……?」
散々文句を言った後、大膳がすっと床を滑らせてきたものに、政秀・恒興両名は眉を寄せた。それは黒漆の箱で、蓋には織田家家紋・織田木瓜紋が金彩で描かれている。
「南蛮菓子でござる。信行さまが殿に兄上に何かを差し上げたいと相談されたのだ。ならば南蛮菓子ではどうかと、堺から取寄させた。聞けば信長どのは、大層な南蛮贔屓。どうやらかの御仁にも、大和家に弓を引く意思はないと見えますな」
「……っ」
明らかな侮辱に、恒興は立ち上がりかけた。
主君を軽んじられて平気でいられなかったのだ。しかしそれを遮る形で、政秀が口を開いた。老洛しているとはいえ、政秀は信秀が信をおく重臣である。戦場に於いても、数々の功績を上げたに違いない。
「坂井大膳どの、と言われたか。確かに織田大和家は尾張下四郡の守護代にして、弾正忠家のご本家。なれど貴殿は臣下の身、口が過ぎよう」
政秀の声は冷静だが、坂井大膳の表情が引き攣った。
「某は、尾張のために申しておる。気に触ったのであれば許されよ」
坂井大膳はそう言ったが、やはり恒興の嫌な予感は当たったようで、彼が帰った後も不快なものがしばらく居続けた。
◆◆◆
「政秀の爺め、そんなことを言ったのか」
夕刻――、帰城した信長は馬屋にて愛馬を撫でながら笑った。
「笑っている場合ではありませぬ!」
「確かに見てみたかったな。奴の顔を」
「平手さまなら、奥書院におられますが?」
「坂井大膳という男の顔さ。爺に睨まれて退散したんだろ?」
「さすがは、平手さまにございました」
「あの父上に仕えて、白髪頭になっても俺を追いかけ回す元気な男だ。間違っていることは間違っていると誰であろうと意見する。そういう男だ、爺は」
平手政秀という人物を、主君・信秀の他に見てきた人物がここにいた。
本人に聞かせてやりたい台詞だったが、信長は聞かせたくないようだ。
「私は平手さまのおっしゃったことは正しいと存じます」
未だ残る余憤に、信長が呆れる。
「お前が怒ってどうする?勝三郎。悪口を言われたのは俺なんだろう?」
「だから悔しいんです……!」
「ま、尾張を手中にしたいのは寧ろ、織田信友のほうだと俺は思うがな」
「大殿に挑まれたのも、そのためと……?」
「あの父上にその意志があったかどうかはわからんが、尾張の混乱を鎮めたいと思っていただろうな。しかし、勘十郎も成長したもんだな」
勘十郎とは、信長の二歳下の実弟・伸行のことである。恒興がその信行と会ったのは数度だが、信長に素直に甘えてくる少年であった。
しかし信行に弾正忠家の跡取りになるという意思はなくても、彼を担ぐ者は少なくはないだろう。
上段の間に座った信長は、坂井大膳が置いていった黒漆の箱を手に取り蓋を開けた。
「ですがこれで、信長さのまお立場はさらに悪くなりました」
「構わんさ。言いたいやつには言わせておけばいい。かえって肚が見えて助かる」
「肚……、ですか?」
「ああ。誰が真の味方か、そうでないか」
やはりな、と思った恒興である。
うつけなのは、振りなのだろう。戦国の下剋上の世ゆえに、疑心暗鬼にさらざるを得ない。ゆえに、大和家が弾正忠家を恐れるのは無理はないと信長は笑う。
だがこのままおとなしく、本家が引き下がるか疑惑だけが恒興の中に残った。
べっとりと湿った霙が確かな氷片に変り、そして不透明な雪になった。さらりとした雪とは違って、現在降っている雪は体にまつわりつくような嫌な雪だった。
それまでは氷を粉末にしたような霜が地を固めていたが、雪天(※雪空)は黙っていられくなったようだ。
「どおりで朝から冷え込む筈じゃ」
書院にいた恒興は、廊に立つ人物に気づけなかった。
織田弾正忠家家老にして、信長の傅役・平手政秀である。
「お見えとは存ぜす、ご無礼を致しました」
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「構わぬ。兵法書か」
政秀は、恒興が呼んでいた書に目を細める。
「はい。いざというときに、信長さまをお守りするために学んでおります」
兵法書として主に知られるのは武経七書と言われる七書で、『孫子』『呉子』『尉繚子』『六韜』『三略』『司馬法』『李衛公問対』だという。
「成長したのう?恒興」
恒興に関心しつつも、政秀の眉間には小さな皺が刻まれている。
「平手さま、美濃との和睦の件、捗っていないのでございますか?」
「いや、その件は解決済みじゃ。大殿も満足されておいでであった。だが、この那古野城内はもちろん、末森城内でも若(※信長)を良しとせぬ者が多い。なにしろ、若がああではの」
政秀は今回の美濃との和睦を成立させ、信長と斎藤道三の娘との婚儀を取り纏めた人物らしい。だが当の信長は、この日も川へ行くと城を空けている。
「信長さまははたして、本当にうつけであらせましょうや」
恒興の問に、政秀が再び目を細める。
「本当は違うと……?」
「わかりませぬが、吉法師(※信長の幼名)さまの御味方でいよとこの私に言われたのは平手さまにございます」
「そうであったのう……」
恒興が信長の小姓となったのは十歳、まだ数年しか仕えていないが、本当の信長は違うように思えた。もしそれが『振り』ならば、そうせざるを得ぬことが信長にあるのだろう。
すると、庭の砂利敷に小物が片膝をついた。
「申し上げます」
「何事じゃ?」
「守護代大和家家臣・坂井大膳と名乗る者が、殿に御目通りをと参っておりまする」
「大和家の人間が、何用で……」
胡乱に眉を寄せる政秀に習って、恒興もなんとなく嫌な予感がするのだった。
◆
織田大和家――、弱体化を辿る尾張守護大名・斯波氏に代わり、尾張制覇を目論んでいると言われる尾張下四郡の守護代。
あくまで噂だが、織田信秀がまだ古渡城を居城としていた頃に留守を見計らって攻めてきたとされるのが、織田弾正忠家の本家でもあるこの大和家である。
「――坂井大膳にござる」
坂井大膳と名乗る大和家家臣は、そう頭を下げた。
「織田弾正忠家・家老、平手政秀にござる。若殿は多忙ゆえ、某が要件を承る」
名古屋城広間――、彼を迎えた政秀は坂井大膳の真正面に着座、恒興はその斜め後ろに座った。だが信長に会いに来たであろうに、その信長が現れなくても大膳は気にはしていなかった。その大膳の目が、恒興に向く。
「そちらは?」
「織田弾正忠家家臣・池田恒利が一子、池田勝三郎恒興にございます。若輩者ゆえ、ご無礼の断、お許し願いまする」
恒興は、そう言って頭を垂れた。
「して、守護代・信友さまの家臣である貴殿が、若殿に何用でござろう?」
「昨年の観月(※十五夜の月見)の折、わが殿(※信友)を末森城の信行どのが訪ねて参った。織田弾正忠家の不穏な動きを殿は危惧されておられる。よもや、守護代である大和家を蔑ろにし、尾張を手中にするのではないか、と」
坂井大膳の視線は、なんとも不快なものだった。
守護代に仕える自分が上と思っているのかわからないが、不遜な態度は目に十分に現れている。嫌味を言いに来ただけなら帰って欲しいが、相手は守護代の家臣である。
「そのようなことはござらん」
「信行どのもそう申された。ただ、殿の心配はもう一つござってな。弾正忠家の跡取りは、信行どのという噂でござる。弾正忠家は守護代を支える立場、内紛は困り申す」
「織田弾正忠家のお世継ぎは、信長さまにござる!」
「信行どのも同じことを言われた。世継ぎは兄上であり、兄上を差し置いて家督を相続する気は毛頭ないと。まだ十四歳ながら、実に立派」
「これは……?」
散々文句を言った後、大膳がすっと床を滑らせてきたものに、政秀・恒興両名は眉を寄せた。それは黒漆の箱で、蓋には織田家家紋・織田木瓜紋が金彩で描かれている。
「南蛮菓子でござる。信行さまが殿に兄上に何かを差し上げたいと相談されたのだ。ならば南蛮菓子ではどうかと、堺から取寄させた。聞けば信長どのは、大層な南蛮贔屓。どうやらかの御仁にも、大和家に弓を引く意思はないと見えますな」
「……っ」
明らかな侮辱に、恒興は立ち上がりかけた。
主君を軽んじられて平気でいられなかったのだ。しかしそれを遮る形で、政秀が口を開いた。老洛しているとはいえ、政秀は信秀が信をおく重臣である。戦場に於いても、数々の功績を上げたに違いない。
「坂井大膳どの、と言われたか。確かに織田大和家は尾張下四郡の守護代にして、弾正忠家のご本家。なれど貴殿は臣下の身、口が過ぎよう」
政秀の声は冷静だが、坂井大膳の表情が引き攣った。
「某は、尾張のために申しておる。気に触ったのであれば許されよ」
坂井大膳はそう言ったが、やはり恒興の嫌な予感は当たったようで、彼が帰った後も不快なものがしばらく居続けた。
◆◆◆
「政秀の爺め、そんなことを言ったのか」
夕刻――、帰城した信長は馬屋にて愛馬を撫でながら笑った。
「笑っている場合ではありませぬ!」
「確かに見てみたかったな。奴の顔を」
「平手さまなら、奥書院におられますが?」
「坂井大膳という男の顔さ。爺に睨まれて退散したんだろ?」
「さすがは、平手さまにございました」
「あの父上に仕えて、白髪頭になっても俺を追いかけ回す元気な男だ。間違っていることは間違っていると誰であろうと意見する。そういう男だ、爺は」
平手政秀という人物を、主君・信秀の他に見てきた人物がここにいた。
本人に聞かせてやりたい台詞だったが、信長は聞かせたくないようだ。
「私は平手さまのおっしゃったことは正しいと存じます」
未だ残る余憤に、信長が呆れる。
「お前が怒ってどうする?勝三郎。悪口を言われたのは俺なんだろう?」
「だから悔しいんです……!」
「ま、尾張を手中にしたいのは寧ろ、織田信友のほうだと俺は思うがな」
「大殿に挑まれたのも、そのためと……?」
「あの父上にその意志があったかどうかはわからんが、尾張の混乱を鎮めたいと思っていただろうな。しかし、勘十郎も成長したもんだな」
勘十郎とは、信長の二歳下の実弟・伸行のことである。恒興がその信行と会ったのは数度だが、信長に素直に甘えてくる少年であった。
しかし信行に弾正忠家の跡取りになるという意思はなくても、彼を担ぐ者は少なくはないだろう。
上段の間に座った信長は、坂井大膳が置いていった黒漆の箱を手に取り蓋を開けた。
「ですがこれで、信長さのまお立場はさらに悪くなりました」
「構わんさ。言いたいやつには言わせておけばいい。かえって肚が見えて助かる」
「肚……、ですか?」
「ああ。誰が真の味方か、そうでないか」
やはりな、と思った恒興である。
うつけなのは、振りなのだろう。戦国の下剋上の世ゆえに、疑心暗鬼にさらざるを得ない。ゆえに、大和家が弾正忠家を恐れるのは無理はないと信長は笑う。
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