天下布武~必勝!桶狭間

斑鳩陽菜

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序章

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 ――雲行きが怪しくなってきたな……。
  曇天どんてんを見上げ、織田家重臣・池田恒興いけだつねおきは眉を寄せた。
  尾張国おわりのくに・熱田神宮――、鬱金色うこんいろ織田木瓜紋おだもつこうもん旗印はたじるしが、風に揺らめく。
 清州城を出陣した織田信長率いる二千の織田軍は、陣が置かれることになる善照寺砦ぜんしようじとりでへ向かう前に、熱田神宮への参拝に馳せ参じじていた。
 熱田神宮は「三種の神器」の一つ、草薙神剣くさなぎのつるぎまつり、伊勢宮に次ぐ神社である。
 熱田神宮へ来た目的は戦勝祈願だが、恒興以下家臣団の胸中は、この日の空のように不安一色であろう。
 この日――、駿河・遠江を領する今川義元が、尾張領内まで攻め上ってきた。
 報せではその数、四万五千。
 数で勝る敵を前に、不安を抱くのは恒興だけではないだろう。
 歴戦の猛者と言われた柴田勝家でさえ、口をへの字に曲げている。
 そんな恒興の心を読んだかどうかわからないが、重臣の一人が口を開いた。
「此度の戦、難しものとなろう」
「佐久間さま」
 小声ではあるが、その声ははっきりと恒興に届いた。
 佐久間信盛さくまのぶもり――、恒興より年長だが信長が幼い頃から仕える重臣の一人である。
「お前もそう思っているのだろう? 恒興」
「我々が負けると言われるのですか?」
「そんな事は言ってはいない。だが、我軍があっと的不利であることは事実だ。相手はあの今川義元、我が織田とは因縁浅からぬ男だ。ついに尾張まで攻め上ってきたからには、よほどの自信があるとみえる。対しうちは兵の数で劣れば、今川軍の数を聞くやどいつもこいつも自信なさそうな顔ばかり。これで勝てると思うか?」
 佐久間信盛の問いに、恒興は答えられなかった。
 尾張はかねてから、今川と対立関係にあった。
 きっかけは、信長の父・織田信秀おだのぶひでが西三河平野部への進出に始まるという。
 これを迎え撃つべく出陣してきたのが、東三河から西三河へと勢力を伸ばしつつあった今川義元だという。両者が激突したのは天文十一年年八月、岡崎城東南の小豆坂だという。
 この戦いは織田軍の勝利に終わったらしいが、同年三月再び小豆坂において激突、だが今川・松平連合軍に敗北したという。以降、今川との因縁は続くことになる。
 そしてついに織田信秀が嘗めた辛酸しんさんを、その息子・信長が晴らすときがきた。
  しかしである。
 そんな恒興の隣に、一人の若武者が立った。
「浮かない顔ですねぇ? 池田さま」
「お前もか。又左衛門またさえもん
 かつて犬千代いぬちよと呼ばれていた織田家小姓の青年は、現在は前田又左衛門利家まえだまたざえもんとしいえ(※前田利家)と名を改め、やりの使い手でもある彼は、槍の又左衛門の異名がついていた。
 そんな利家が「お前もか」と言われたことに首を傾げる。
 どうやや恒興の顔には、不安の二文字がはっきりと出ているらしい。
「お前も……?」
「いや、こっちの話だ」
 佐久間信盛にずばり心の中をいいあてられたとは言わず、恒興は明るい顔の利家を見た。
 二十一歳となった利家だが、口調は犬千代時代そのままである。
「お前は昔から変わらんな……」
「勝ちましょう、池田さま。信長さまのために」
「誰にものを言っている?」
「さすが、信長さまの懐刀ふところがたな・池田さま。ですが、大将首は譲りませんよ」
 はたして自分が主君・信長の懐刀かどうかわかりかねる恒興だが、幼い頃より側にいて信長をみてきたのは確かだ。
 恒興にとっては主君であり、乳兄弟でもある人物――、織田上総守信長おたかずさのかみのぶなが
(信長さま……)
 恒興の数歩前、拝殿で手を合わせる信長がいる。
 長い髪を緋色の組み紐で高くくくり、甲冑かつちゆうに深紅の外套がいとうを纏っている。
 その表情は伺い知れないが、少なくとも家臣たちのような不安な顔はしていないだろう。
(昔から、そういう方だ)
 思えば、彼には敵は多くても味方は少なかったように恒興には感じられる。
 今や尾張一国の主となった信長だが、それまでの尾張は織田と名乗っていても一族間は良好な関係とは言えず、信長が生まれた織田弾正忠家おだだんじようのじようけは本家にして守護代、織田大和家おだやまとけに睨まれ、さらにその弾正忠家でも家臣が二派に割れるなど、ごたごたつづきであった。
 それでも、信長は自由であった。
 大うつけと周囲から揶揄やゆされても彼は気にすることなく、好奇心旺盛で破天荒で、そして本当は寂しがりやだということを、恒興は知っている。
 そう、一番不安なのは信長自身だということも。
 これから二千あまりの軍を指揮して、今川義元と戦わねばならない。
 一軍を指揮する大将である彼に、不安な表情は許されることではないだろう。軍の士気が落ちるばかりではなく、大敗を喫し、多くの兵をも失うことになるのだから。

 ――勝三郎、俺はいつか天下を取るぞ!
 
 ふと恒興の脳裏に、過去の記憶が蘇る。
 まだ家督を相続する前の信長が、恒興に言い放った言葉だ。
 恒興は視線を、信長の背に戻した。
(信長さまなら、成し遂げるでしょう。この池田勝三郎恒興、何処までもお供仕りまする)
 彼とともに、恒興も歩み続ける。
  ゆえに――。
 ――熱田の祭神よ、何卒我軍に天の加護を。殿に勝利を。
 恒興も祈る。
 そんな祈りが天に届いたか、雷鳴が聞こえてきた。
「殿!」
「狙うは今川義元の首一つ!!」
 振り向かぬ主の声に、恒興の不安が払拭される。
 幼い時よりともに歩み続け、戦場で命をかけて戦う信長と恒興。主従関係であり幼馴染であり、乳兄弟である二人の歩みは天下統一の夢に一直線である。
  永禄三年五月十九日――、織田軍は曇天下を進軍を開始した。


 ――世にいう、桶狭間の戦いの始まりである。 
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