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第1章 貧弱だよ乳児編
第5話 一年経ち
しおりを挟む涼やかな風が地面を撫でながら後方へと吹き抜けていく。
丘一面に生えた草や花々が風に揺れて、そんな動きが目を通して新鮮な興味を俺へともたらす。
俺が住んでいた不毛の地には、こんな豊かな大地はなかった。だから余計にこんな風景が新鮮に感じるのだろう。
鼻孔をくすぐる緑の匂いも俺の好奇心を刺激し、そんなつもりはないのに、両手をバタバタさせながら俺ははしゃいでしまう。
いや、本当にこんなことをしている場合ではないんだけど。
十日前から始めた魔力の底上げ。魔力欠乏に苦しみながら続けたにも拘らず、大した成果は上がっていない。
一回使って魔力欠乏にならない程度。まだ、二回は使えない。俺の感覚では、二割から三割程度上がったかな、くらいだ。そう言うと高い成長に聞こえるが、元が微々たる魔力なのだ、実際は殆ど上がっていない。
落ち込みたい気分だが本能から来る好奇心が新たな環境への刺激に反応して、気分とは裏腹に笑顔を作らせる。
「あらあら、ご機嫌ですねぇ、セー君」
そんな俺の心情を理解してくれない隣に座っている母は、俺の頭を微笑みながら撫でる。
ここは俺の住む村の裏手にある山の中腹らしい。今日は父も休みで家族三人、遊びに来ていた。世間ではピクニックというらしい。
「ははは、今日はセリウスの誕生日だからな。浮かれているんだろ」
「あなたったら、セー君はまだ自分の誕生日なんて、理解出来てないわよ」
「分からんぞー、この子は頭が良いから分かってるかもしれない」
父、正解。俺は、父母の言っていることは理解しているぞ。
俺を間に挟み家族三人で日当たりの良い斜面に座り、眼下に小さく見える村を眺めながらの談笑。言葉が話せないので俺は黙って聞いているだけだが、少し和む。
最近は、強くなりたいと色々焦っていたからな。たまには、こんな穏やかな時間を過ごすのも悪くないかもしれない。
俺の右隣に座る母のお腹は少し大きくなっている。俺の弟か妹が入っているそうだ。
始めてその話を聞いた時、兄弟が出来てしまうと隠れて特訓することが非常に難しくなるかもしれないと困惑したものだが、今は兄弟が産まれてくることを少し楽しみに思っている自分がいる。
魔王だった時の俺は、常に一人だったからな。家族が増える、か……
何故だか知らないがそう考えるとニヤニヤしてしまう。
「本当に今日のセー君はご機嫌ね。いつもこんなだと良いのに」
「偶に難しい顔をしてるんだっけか? そんな時、セリウスは何を考えているんだろうな」
強くなることを考えてます。
心の中でそんな返事をしていると、母が持ってきたお弁当を広げ始める。美味そうな料理が入った弁当……でも、俺が食べるのは……弁当とは別に用意されている離乳食。
うん、分かってはいたよ。まだ、固形物は食べられないしね。
少しブルーになりながら、母がお弁当を広げている姿を見ていると、後方でガサリと音がする。
誰かが草を踏みつける音ーー
咄嗟に振り返ようとする俺に、母が横から覆い被さる抱きついた。父は立ち上がり、後方を見据えながら震える拳を構えている。
何事かと俺に抱きつく母の腕の間から様子を窺うと、そこには巨大な狼がいた。
でかい。一体、どんくらいあるんだ? って、今の俺は小さいから、見た目程でかくはないのか。二メートルくらいか? それでもでかいな。野生の狼、ではなくて、狼タイプの魔獣だろう。
銀色の毛皮を鮮やかにたなびかせる魔獣は、威圧する必要の無い戦闘力しか持たない俺たちに、牙を剥いて唸り声を上げている。
これは勝てんな。あ~あ、死に戻りか……一年頑張っても特に成果が上がらなかったからこれで良かったのかもしれんが……って俺は何を考えている! これまで育ててくれた母や父、それに母のお腹の中にいる兄弟を見捨てて俺だけ死に戻りだと?
確実な死を前にして、諦めから来る冷静さでこれからのことを考え始めていた俺は、突如心の中から湧いてきた自身への怒りでその考えを振り払う。
そんな矮小な考えだから、封印された時に部下から見放されるのだ。
同じ過ちは犯さん。俺を守る為に身を呈している家族に報いる為に、俺は足掻いてやる。
と、決意したものの、今の時点で目の前の魔獣を撃退する術などない。ならばーー
目を瞑り、魂の繋がりを感じ取る。
目的の物はーーこれだな。
魔獣は、俺たちを少しの間観察すると、自分が負ける要素は無いと踏んだのか、前足に重心を掛け飛び掛かる姿勢を取る。
俺に覆い被さる母の腕に力が入り、父は震える足で俺たちと魔獣の間に立ち塞がった。
魔獣と対峙するにはあまりにも儚い戦力。そんな俺たちを嘲笑うかの様に魔獣が飛び掛かろうとしたその時、
「だー、うあ、うーーー」(お前は、何故に俺たちを襲う?)
俺は魔獣に向かって話しかけた。すると、重心を前足に掛けていた魔獣が、その力を緩めつつ父の股の間から俺を覗き見た。
「がう、ぐるる?」(お前……俺と話せるのか?)
聞き返してくる魔獣。
「あう、わーう、ふむー」(【魔獣語】のスキルだ)
魔獣の疑問に答えてやる俺。
【魔獣語】とは、魔獣の言葉が話せるスキル、というわけではない。魔獣と意思疎通が出来るスキルだ。つまりは、何語を喋ろうと、その言葉が魔獣に分かるように変換され、魔獣の言葉もまた、俺に分かるように変換される。だから、自分でも意味の分からない赤ちゃん言葉で喋っても魔獣には通じるのだ。
「がるる、わう、がる」(【魔獣語】のスキルだと? それを操るお前は何者なのだ?)
「まふ、るーーぶ、ふーーー」(俺か? 俺は見ての通りただの赤ん坊だ。それよりも、最初の質問に答えてくれんか?)
俺の言葉に魔獣はお座りをしながら小首を傾げる。その、愛らしい仕草に、母と父がキョトンとした表情で魔獣を見るが、俺は勿論、気を緩めはしない。
「がるるるる、がる、がる、わふ」(ただの赤ん坊だと? 俺と話すお前がか? まあ、良い。俺がお前たちを襲った理由だったな。それは、俺がお前たちに脅威を感じたからだ)
「きゃ、きゅる、ふるむー」(脅威だと? こんな戦う力の無い俺たちにか? ふざけるなよ)
「ぐる、がわおん、がるー」(ふざけてなどいない。俺は確かに脅威を感じた。そこのふたりではなく、お前にな)
「……だう」(……俺にか)
「がう」(そうだ)
俺に脅威を感じたか……この魔獣は危険察知能力に優れている様だ。おそらく、俺の魂が魔王の身体に繋がっていることを無意識に感じ取ったのだろう。だとしても、何故俺たちを襲う? 危険だと思ったのなら向かってこないで逃げれば良いのに。
その辺のことを聞いてみると、思いもよらない話しが帰ってきた。
なんでもこの魔獣は最近、不毛の地から逃げてきたのだそうだ。今、不毛の地では、複数の闇の者が勢力争いをしているらしい。その為、何処にも属していない闇の者たちを手当たり次第に自分の所に引き入れようと、あちらこちらで闇の者狩りが行われているそうだ。
この魔獣はそんな争いから避ける為、一族を引き連れてここまで来たとのこと。
そんな時に不毛の地にいる様な者の気配を俺に感じ、追っ手に回り込まれたと思って返り討ちにしてやろうとしたらしい。
「がるる、がうがう、わふーー、がる」(昔は、不毛の地の統一など不可能だという考えが一般的だったから、こんな大きな争いなどなかったのだが、あいつがそれを出来ることを実証してしまったからな。二番煎じを狙う野心の強い奴がわらわらと湧いて出て来やがる)
「ばぶばふー」(魔王、か)
「がる、がるる、わふ、がう」(ああ、あの、統一だけして、さっさとやられてしまった間抜けだ)
間抜けか……確かに言い返すことは出来んな。これは早く魔王の身体に戻って不毛の地を平定しなければ、あっちの争いの余波がこっちまで来ることになりかねん。その為にも、死に戻りなんて時間の無駄をするわけにはいかない。この魔獣にはこの場を引いてもらわねば。
「あう、だー! ふきゅう!」(話は分かった。で、お前はまだ俺に敵対するつもりか? 引くなら俺は危害を加えるつもりはない。しかし、そうでないならば、例え相打ちになろうとも、俺はお前を倒す!)
「がう、わおーん、がるる」(大した覚悟だな。何がお前をそこまで掻き立てる?)
「ばぶ、ふーー、きゅうる」(色々と思うところはあるが、今は家族の為だ)
「がるる」(家族の為か……俺も、一族は大事だ)
そう言って魔獣は後ろを振り返る。そこには、雑木林があるのだが、多分、その中にこいつの一族が隠れているのだろう。
「わおーん」(一族に危害を加えないというならば、俺にはお前と敵対する道理はない。では、家族を大事にな)
もう一度俺の方に振り向き、魔獣はそう言って雑木林の方に消えていった。
魔獣の姿が見えなくなると、父はその場にへたり込んだ。
「はぁ~、助かった、のか?」
「そうみたいね。なんか、あの狼さん、セー君と話してたみたいだけど」
「うん、もしかしたら、セリウスがあの狼を追っ払ってくれたのかもな」
俺から離れ安堵の表情を浮かべる母の言葉に、父が振り返って泣き笑いの様な表情をこちらに向ける。
その通りだぞ父。ハッタリだったが上手くいって良かった。
母に抱き上げられながら、俺は心底そう思うのだった。
俺の名はセリウス・ファルマー。家族と不毛の地の心配をする者。一歳である。
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