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2│婚約破棄されてから二日後に婚約するなんて前代未聞です
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アルスラン公爵邸はとにかく広い。俺の屋敷よりも遥かに大きい。門から屋敷に着くまで歩きで一時間くらいかかりそうだ。
馬車の中で揺られながらそんなことを考えていると、あっという間に屋敷付近に着いたようだ。
使用人に案内されて入った部屋は、応接室のようだった。ソファに座って待っていると、しばらくして扉が強く開かれる。
「あのクソ親父…次会ったら殺………………」
入ってきた男は、公爵夫人と同じ栗色の髪に金色の瞳をしていた。金色の瞳に吸い込まれそうになりながらじっと見つめていると、男がこちらに気づいて近づいてくる。
「……!お客さんがいるとは知りませんでした、ははっ」
男は苦笑いして品があるように振る舞うが、さっきの言葉使いを聞いたせいでどこか野蛮さが残っているように聞こえる。
「私はロード・アルスランです、あなたの名前は?」
アルスラン公爵家は最も貴族の中で位の高い武家のひとつだ。そして目の前にいるこの男は、帝国騎士団の最年少騎士団長であり、次期公爵でもある。
「俺はクリスタ・エバンドです。よろしくお願い致します」
俺が勢いよく立って挨拶すると、彼は俺を流れで椅子に座らせると俺の隣に腰掛けた。そして、俺の顔をまじまじと見ると、ニコッと笑って俺の耳元に寄る。
この人は妙に色気があって、近付くとドキドキしてしまう。きっとこの人に嫁ぐ人は幸せになるのだろう。
「君の噂は聞いてます。確か、婚約者の浮気をパーティーで暴露したとか……」
「はは……」
俺は乾いた笑みを浮かべる。
そこはかなり痛いところなのであんまり口に出して欲しくない。
「まぁ、それは置いておいて……君はどうしてここに来たんですか?」
「えっと…公爵夫人に呼ばれまして……」
俺がそう言うと、彼は何故かすべて納得したような顔で「ああ…あなたの事でしたか…」と呟いた。
「あの、俺の事って……?」
「ん?ああ、……母上が私に合う人を連れてくるって言っていたんです」
「は、はあ……」
「まさか、こんなに可愛い人だとは思いもしませんでしたよ」
そう言って彼は俺に微笑む。
金色の目が、輝いているように一瞬見えた。
「かっ……」
顔が熱くなる。
彼はすぐに俺から離れ、「きっと後で会うと思いますが、母の手前私たちは初対面ということにしましょう」と唇に人差し指を当てると、俺にウインクをして応接間から出ていった。
◆
「ごめんなさい、待ったかしら」
アルスラン公爵夫人は部屋に入ってくるなり、申し訳なさそうな表情をする。
「いえ、大丈夫です」
「それなら良かったわ。それで、貴方に聞きたいことがあるのだけど……」
「はい、なんでしょうか?」
彼女は優雅な動作で俺の向かい側の席に座り、足を組む。
「……新しい婚約者に目星は着いているかしら?」
俺は彼女の言葉に、心臓が跳ね上がった。
「い、いいえ。まだです」
「そう。貴方にピッタリな子が居るの。アルファだし、顔もそこそこ綺麗よ。ちょうどドアの前で待機させてるの」
彼女は嬉しそうにそう言うと、「ロード、入りなさい」と言って誰かを呼ぶ。
「失礼します」
そう言いながら入ってきたのは、アルスラン公爵家の令息、ロードだった。
「ロード、こちらクリスタ・エバンド侯爵令息よ」
ロード令息は金色の目で俺を見る。やはり顔が良すぎて、思わず目を逸らす。
もう、薔薇を背負ってしまっている。
「……はじめまして、エバンド侯爵令息」
「は、はいっ!」
緊張して声が裏返ってしまった。
「ふふっ」
夫人が笑うのを見て、恥ずかしくて自分の頬が赤くなったのがわかった。
ロードはどこか冷たい目線をこちらにずっと向け続けている。そんなに緊張したことが悪いのか、と少し不満に思ったが、あんまり気にしないことにした。
「クリスタさん、これはうちの息子のロードよ」
「噂に聞いてます。確か、最年少で騎士団長になられた方ですよね」
「あら、嬉しいこと。クリスタさんも情報力があるわね」
夫人があまりにも褒めてくるものだから、俺は照れてしまう。すると、また彼が口を開く。
「では、私はこれで」
「え、もう行くの?もっとゆっくりしていけばいいのに」
「はい、こんな茶会に私が出る意味はありませんので」
「でも、あなたもそろそろ婚約しないと行き遅れになってしまうわよ?」
夫人の言葉に、俺はハッとする。確かに、彼は公爵家の嫡男だ。このまま結婚しなければ、彼も公爵も困ってしまうだろう。
「……母上、余計なお世話というものです。適当に結婚するので世継ぎのことは心配しないでください」
「もう、いつもそんなんだから……」
呆れたように溜息をつくと、俺の方を向いて笑顔になる。
「……じゃあ、単刀直入に言うわね。この息子、貰ってくれないかしら?」
「……へ?」
「……は?」
俺とロードの声が重なる。
「な、何言ってるのですか母上!私とエバンド侯爵令息が?あり得ません!!」
顔を真っ青にして必死に抵抗するロードだが、そんな彼を全く気にせず話を続ける。
どうやら、夫人は俺が気に入ったようで、息子の嫁に欲しいらしい。
「アルファとオメガは相性がいいと聞いたわ。普段も夜も──」
「ああー!わかりました!母上、では一年婚約して私がエバンド侯爵令息と恋に落ちたら結婚します!」
ロードは夫人の話を遮るように顔を赤くしながらそう叫ぶ。
「え、俺の意見は……」
「あら、クリスタさんは嫌なのかしら?」
「い、いえ!そういうわけではありませんが……」
目線で圧力的なものを感じ、口をチャックすることにした。
「まぁ、それなら良かったわ。じゃあ、よろしくお願いするわ」
「は、はい……」
夫人は逃げるようにして部屋を出ていく。残された俺とロードの間には気まずい空気が流れる。
「……お前…絶対私のことを好きになるなよ?わかっているな?」
先程の凛々しいイケメンはどこへ行ったのか、途端口調が悪くなる。
「…え、あの……?」
口調が悪くなった彼の姿に驚いていると、彼は「こっちが素だ」と苛立ち混じりの声で呟いた。
「母上はあれぐらい言わないと、諦めないからな」
「でも、なんで俺なんかを選んだのでしょう?」
俺が聞くと、彼は少し考えてから答える。
「…ただ単に顔が母上の好みなだけかもしれない……」
「あはは……」
乾いた笑みを浮かべると、彼は俺を睨む。
「まあひとまず、これで半年間はパーティーのペアに困らずに済む」
「でも、もし本当にお互い好きになったら婚約解消は出来ないですよね」
俺は少しの希望を抱きながら彼にそう聞くと、彼は鼻で笑い、俺の目を見る。
「そうだな……だが私はお前を好かないし、お前は私を好きにならないだろ?」
自信満々に言われるので俺もつられて「まあ、そうですね」と返す。すると、彼は何故か悔しそうな表情をしたかと思うと、すぐに不敵な笑みへと変わった。
「そうか、ならいい」
そう言った彼の瞳にはどこか哀愁が漂っていた気がした。
◆
ロードは帰る時送ってくれて、玄関まで見送りに来てくれた。
「クリスタ様、では失礼します」
俺は屋敷に戻るロードの背中を見つめる。何故だろうか?彼とどこか会ったことがあるのではと錯覚してしまうのだ。
いや、初対面だというのは分かっているのだが……でもどうしても彼を見ていると何かを思い出せそうで思い出せないのがもどかしい気持ちになる──。
「いいや、きっと気のせいだ」
俺は首を横に振る。馬車が出発するまで間、彼の背中をぼんやりと見つめていた。
◆
しばらく馬車に乗っていて気づいたのだが、この馬車はエバンド侯爵邸とは反対方向に向かっている。
「あの……方向が違っていると思いますが……」
「ええ、存じております」
帽子を深く被った御者は平然とそう答え、馬車のスピードが上がった気がした。慌てて窓から外を見ると、人通りの少ない道で明らかにおかしかった。しかも、俺は今日に限ってエレスが付いていない。
「……下ろしてください」
「それは無理ですね」
御者はそう言って、馬のスピードを一層早くする。そして、その途端急に馬車が止まると、俺は扉から現れた男に羽交い締めにされる。
「ぐっ…!」
男の腕を強く噛んでやると、男は痛みに声を上げながら、俺の腹に拳を入れてきた。
「うっ……」
俺はそのまま意識を失った。
◆
目が覚めると、俺は冷たい床の上に転がされていた。辺りは薄暗く、鉄格子が見えることから牢屋に入れられていることがわかる。
「痛ッ……」
身体中が悲鳴を上げていて、思わず声が出る。すると、二人分の歩く音が聞こえてきて、誰かが近づいてくるのがわかった。
「やっと起きたか、このクソオメガ」
「…おや、オフニス侯爵令息。こんばんは」
二日前のパーティーで、恥を晒されたからってこんなに早く復讐しに来るなんて…
「……なんで俺を捕まえたのですか?」
「は?そんなこともわからないのか?」
俺の質問に呆れたように溜息をつくと、彼は口を開く。
「お前はオメガのくせに偉そうだからだ!俺より目立つから!」
俺の言葉を聞いた彼は顔を真っ赤にして怒り出す。どうやら、彼の地雷を踏んだらしい。
今日はやけに人に怒鳴られてると何故か頭が痛くなる──。
「オメガは大人しく俺らに従っていればいいんだ!なのにお前ときたら……!」
彼は俺の肩を掴んで強く揺さぶる。すると、俺は彼の手を振りほどく。
「触らないでください!!」
「な、なんだと!?」
俺の言葉を聞いて、彼は目を丸くしている。
「あなたはアルファで、俺はオメガです。だから、アルファに逆らったらダメなのは知っていますが……」
俺は深呼吸をして、彼を見る。
「それでも、俺は貴方に従いたくありません」
すると、彼は顔を赤くし、俺に近付いてくる。殴られると思いぎゅっと目を閉じると、痛みは来ずに代わりに目の前でパチンという音が鳴った。
俺の代わりに誰か打たれたのだ。
思わずびっくりして、目を開くと美しい肩までの銀髪が見えた。銀髪が月光に照らされて、まるでもうひとつの月のように輝く。
「オリオ様、やめてください」
彼は、オリオの浮気相手、確か名前はレノンだったか。彼が俺を庇った……?
「レノン、そんな奴のためにお前が……!」
オリオはレノンを抱きしめると、彼に顔を近付かせる。
「僕はあなたが人を傷つけるところを見たくない」
「……わかったよ、じゃあ今日はこれで帰るとするけど……」
レノンはオリオの頬に軽く口付けをすると、俺の方にやってきて「大丈夫ですか?」と俺の拘束具を解き、手を引いて牢屋からだす。
「あの、どうして助けてくれたんですか?」
彼に手を引かれながら聞くと、彼は少し悩んでから答える。
「…僕が、貴方からオリオ様を奪ってしまったからです」
「え…?」
彼が言っている意味がわからなかったが、彼は俺に微笑むだけだった。そして、そのまま二人で牢屋の外に出ると、オリオがレノンに声を掛ける姿が目に映る。
そしてオリオがこちらに向かってくるとすれ違いざまに「レノンに感謝するんだな」と言った。
レノンがオリオに俺を殺さないように言ったのだろう。
そしてオリオは一度止まりもう一言俺に言う。
「────。」
「ええ」
その一言に相槌を打つと、オリオはレノンの方に向かっていった。
オフニス侯爵の屋敷の前には一台の馬車があった。見慣れた、エバンド侯爵家の家紋が記された馬車だ。先程の馬車は確か無印の馬車だった気がする。ロードに気がいっていて、気が付かなかったのだろう。
「お迎えに上がりました。クリスタ様」
エレスが迎えに来てくれて、やっと安心する。
「ありがとう。エレス」
馬車に乗るといつもの席に座り、エレスがドアを閉めてくれる。
「ではお屋敷に戻りましょう」と言うと、馬車が走り出す音がしたのだった──。
俺は屋敷に戻ってからもずっと考えていたことがあった。それは俺の新しい婚約者、ロードのことだ。何故だろうか、彼と昔どこかで会ったことがあるような、そんな気がしてならないのだ。それに、何故か彼の瞳はどこかあの人に似ている──。
その答えは出なかったが、一つだけ確かなのは彼を知りたいと思ったことだ。
◆
エレスに部屋までエスコートされながら、俺はずっとロードのことだけを考えていた。
「クリスタ様、足元お気をつけください」
「あっ、」
段差に気付かず、転けそうになった俺をエレスが支えてくれる。
「ありがとう、エレス」
「いえいえ、これも従者としての役目ですから」
彼はそう言って微笑む。
すると、俺の部屋のドアが開きそこから父上が出てくるのが見えた。そして父は俺を見つけると、俺とエレスを引き離した。
「お前…どこかへふらっと行ったと思ったら、公爵家と婚約を結んできたとは……でかした。さすがは私の息子だ!どうやって婚約を結んできたのだ?私の執務室で聞いてあげるから来なさい」
言葉だけ見れば嬉しそうに言っているが、表情は明らかに怒っている。エレスの手前、怒れないのだ。
父は俺の腕を掴み、執務室に連れて行く。エレスには先に戻っていていいと口パクで伝えると、彼は「それでは、失礼します」と言って去っていった。
エレスが居なくなったことにより、父が俺の腕を掴む手が強くなる。俺は痛みをこらえながら、父が口を開くのを待った。
そして執務室に着くと、俺を突き飛ばし、扉を閉めて、鍵をかける。
「よくやった、が…」
父は俺を上から睨むように見る。まるで蛇に睨まれた蛙のように萎縮してしまいそうになる。
「先程のアレはなんだ?侍従と抱き合っていたのはなんだ?私の見間違えか?」
「……俺が転びそうになったのを助けて貰っただけです」
淡々と真実を述べる。父は俺の髪を乱暴に掴み、俺の腹に膝蹴りをしてきた。俺はその衝撃に咳き込むが、父はお構い無しで俺の体を何度も蹴った。
「私がどれだけお前に厳しくしていると思っているのだ?お前は名家に嫁ぐのだぞ!なのに、それなのに……お前は私をバカにしているのか?」
痛みに耐えながら、父の顔を伺うと、そこにはいつもの威厳のある顔つきはなかった。今の父には余裕がなく、憎悪という感情しかなかった。
「申し訳ございませんでした……」
小さな声でそう呟くが、父がそれに耳を傾けるわけがない。また何か言おうと口を開いたと同時に、部屋にノック音が鳴り響いた。
その音に俺は助かったと思い、安堵のため息をついたが、それは間違いだったと瞬時に感じる。
「誰だ?今は仕事中だ、後にしてくれ」
父は俺を見たあと舌打ちをする。父にとって俺は公爵家に嫁ぐと信じているが、俺とロードは結婚しない。
(俺とロードが結婚しないと知ったら?名家に嫁げなかったら?)
その時は、捨てられるかもしれない。
どれだけ仕事ができたとしても、どれだけ商談が上手く行ったとしても、オメガだと知られたらその時点で向こうにとってどれだけ有益なことでも契約は無かったことにされる。そのくらい、オメガは世間から冷遇されている。
(嫌だ、捨てられたくない)
すると、またノック音が響くと同時に扉が開く音がする。父は俺から離れ、扉の方に向かっていったようだ。
「今日、クリスタさんの婚約者になったロード・アルスランです。ご挨拶が夜分遅くになってしまって申し訳ありません」
この声は、俺が聞き間違えるはずのない声だ。俺はすぐに扉に寄っていき、父の肩を押し退ける。そして扉を開いた先に居たのは、紛れもなくロードであった。
「……っ、」
突然俺が出てきたことに驚いたのか、ロードが目を見開くのが分かる。
「クリスタさん、こんな遅い時間まで執務室にいるのは良くないですよ。それに……もしかして、お取り込み中でしたか?」
そのロードの言葉の意味にハッとする。先程父は俺を蹴るだけでなく、何度か殴ったりもしていた。服だって乱れていて、酷い有様だ。それを隠すために急いで服を正すがもう遅いだろう。俺は彼になんと言えばいいのか分からず黙っていると、父が俺に近寄り肩を掴んで「ハハッ、少し剣術を教えてやっていただけですよ」と、笑った。
「エバンド侯爵……そうだったんですね!クリスタさんが騎士団の見学をさせて欲しいって言っていたんですけど、まさかここでだったんですか」
ロードは納得がいったように頷く。父はそんなロードを見て、笑みを深めると俺の方を見た。
「クリスタ、騎士団長に嫁ぐのなら、今のうちから剣術を練習しておかないと──」
「殴る蹴ることが剣術だなんて、笑えますね」
ロードは張り付けの笑みを浮かべながら呟く。それが父の恐怖を煽るのか、彼は「こ、これは……」とだけ呟く。
すると、ロードは急に父の手を掴み、顔を近づける。そして先程とは打って変わって冷酷な表情で彼を睨みつけた。
「私の騎士団長という職は伊達ではありません。どれが剣術でできた傷か、それとも一方的に殴られ蹴られた傷かなんて人目で分かります」
父は彼の威圧感に圧倒されたのか、何も言えずに固まってしまった。ロードは父から手を離し、俺と向き合うと「大丈夫ですよ」と笑う。
俺はその笑みがいつもと違って見えて、少し怖いと思ってしまい、後退りをする。まるで別人みたいだ──と思ったが、それはロードの服装が原因だと気付いた。会った時は貴族の服だったが、今は騎士団の服だからだろうか?
「クリスタさん、剣術を習いたいのなら私がお教えしましょう」
「え、」
まさかの提案に思わずそう声を漏らす。ロードは笑みを深めると、俺の手を取り、また話し始める。
「きっと、クリスタさんは、オメガは剣術なんて習わなくても良い──と思っていますね。その考えは貴方の父上の教育が悪いだけです」
父は図星をつかれたのか顔を赤くしたかと思うと、俺とロードを引き離そうとしてくる。しかし俺は先程の恐怖からかその手を避けてしまう。父の怒りの標的は俺に変わったようだ。
「クリスタ、お前のようなオメガに教育をさせるわけがないだろう!」
父はそう叫ぶと、俺の手を強引に引き、部屋から出ようとする。しかし俺はそれに抵抗し、父を止めた。今ここでロードから離れてしまえば、もう会えないような気がしたからだ。
「っ、」
俺と父の力比べなどすぐに終わった。ロードは父のことを止めようとしたが、それよりも先に父に引っ張られてしまい、俺と距離ができてしまった。しかし父はそんなことも気にせず俺を部屋から連れ出そうとする。その時だった──
「っ、?」
父の首の後ろに何か銀の物が現れたかと思うと、父はその銀を見ようと振り返った。そこには剣の先端を父の首に突き付けているロードの姿があったのだ。俺も初めて目にするその光景に驚いてしまった。
「その手を離しなさい、エバンド侯爵。クリスタさんはあなたの息子ですが、私の婚約者でもありますよ?」
先程とは打って変わって、冷酷な声と表情で父は剣先を見る。しかし彼の表情は変わらず笑っていた。まるでこの状況を楽しんでいるかのように見えた。ロードは突き付けている剣をほんの少し父に近付ける。そして刃は父の首に軽く触れ、赤い線が少しだけ首の皮膚に着く。その瞬間、父が冷や汗を流したのが分かった。
「まさか、こんなところで剣を使うことになるとは思いませんでした……ね、エバンド侯爵?」
父は俺から手を離し、降伏のサイン──両手を上げる。すると、ロードが突き付けていた剣を下ろした。
「申し訳ございません、手が滑ってしまって……ところで、エバンド侯爵、私のクリスタさんの教育を私以外の者がするだなんておこがましいと思いませんか?剣で教えるならこの私が適任だと思うのですが?」
「それは……」
父は俺のことを睨みつけると、逃げた。逃げる父の背中を二人で見ていると、ロードがこちらを向き、俺に手を差し伸べる。
「突然押しかけてしまってすまない。その日のうちに挨拶をしておけと母上が言っていたため、来ただけだ」
俺はロードの差し出された手を取り、立ち上がる。すぐさま礼を言わなければ、と口を開いたが、それと同時に先程の父の豹変した姿を思い出し、声が出なかった。
「あ……っ」
「クリスタさん?」
ロードは俺の顔を覗き込む。そこでやっと俺は声が出た。しかし情けないくらい小さな声でロードの耳に届いたとは思えなかった。
「……いや、ありがとうございます」
俺は何とか声を絞り出し、礼を言う。ロードはキョトンとした顔で俺を見たが、すぐに笑顔を見せる。「どういたしまして」と言うと、彼は何かを思い出したようにまた扉の方に向かった。
そして彼は扉を開けようとすると、突然こちらを振り向いた。
「エバンド侯爵のことは少し気になるのだが、また今度にしよう。公務もあるから、そろそろ失礼する」
「あ、はい、」
ロードはニコッと笑うと俺の頬を撫でて、扉を閉めた。しかしすぐに扉が開き、中から顔を出したのは先程出ていったはずの父である。彼は眉間にしわを寄せて俺を睨みつけてきたかと思うと、何も言わずに扉を閉めてしまった。
(……本当に何しに来たんだ?)
俺はそう思いながらも自室に戻ったのだった。
──翌日、父の変わりようはメイド達に人が変わったのではないかと噂されるくらいに変わっていた。
今までは妊娠中のオメガを無理やり働かせたり、育児休暇は与えなかったのだが、その事を改め、育児休暇を取れるようにし、休みを与えていたのだ。
俺はそれに戸惑いながらも「良い気分に浸らせるために言っているのか」と疑うことしか出来なかった。
「──おい、クリスタ」
「……っ!?お父様……」
考え事をしながら廊下を歩いていると、後ろから父が声をかけてきた。俺は驚いて思わず肩が跳ね上がるが、父の方はそんなことにも気付かずに話を進める。
「ロード卿とは仲良くなさい」
それだけ言うと、風のようにすぐ執務室へ戻っていってしまった。俺は何が何だか分からないまま、また歩き出す。
「クリスタ様、昨日は大丈夫でしたか?」
すると、今度はエレスが心配そうな顔をしてこちらに駆け寄ってきた。
昨日──父との事か。
「大丈夫、すぐにロード卿が来たから」
俺は苦笑しながらエレスの心配を拭う。彼はホッとしたように胸を撫で下ろすと、小さくため息を吐いた。その表情には安堵だけでなく、疲労の色も混じっていたのが分かった。
(昨日……)
「エレス、何かあったの?」
俺がそう聞くと、彼はこちらを驚いた顔で見てきた。まさか聞かれるとは思っていなかったのだろう。
「……クリスタ様が心配で、寝れなくて」
エレスのルビーみたいな赤い瞳が揺れる。それを見て、俺は自分のしてしまったことの重大さに気付いた。
「心配かけてごめんね」
俺がそう言うと、彼は首を横に振った。そして何か言おうと口をパクパクさせ始めたが、何を思ったのか口を閉じてしまった。エレスは覚悟を決めたように俺を見つめると、口を開いた。
「………っ…クリスタ様はどんな男性がお好みですか?」
「え?」
予想外の質問に思わず声が漏れる。しかしエレスは真剣な表情を崩さずに俺を見たまま、ただ返事を待っていた。
(どんな男性……そりゃ俺はオメガだからアルファの男性が好ましいが……)
俺は少し考えて、口を開く。
「アルファでもベータでもいいから、俺に優しくしてくれる人でお金持ちがいいな」
俺がそう呟くとエレスは納得したように頷く。それを見て俺もなぜか安心した気持ちになった。
きっとエレスには好きな男の人がいて、その人の参考に俺に聞いてきたのだろう。
「……クリスタ様、失礼ながらもう一つ質問をしてもよろしいでしょうか?」
「うん……?なに?」
俺が首を傾げると、エレスは珍しく頬を赤く染めたかと思うと小さく口を開ける。しかしすぐに閉じると首を横に振った。そして再び俺を見ると口を開くが──結局何も言わずに口を閉じてしまったのだった。俺はその行動の意味もよく分からなかったが、何か言いたくない理由があるのだろう、と思い、「また今度聞くね」とだけ言ってその場を後にした。
馬車の中で揺られながらそんなことを考えていると、あっという間に屋敷付近に着いたようだ。
使用人に案内されて入った部屋は、応接室のようだった。ソファに座って待っていると、しばらくして扉が強く開かれる。
「あのクソ親父…次会ったら殺………………」
入ってきた男は、公爵夫人と同じ栗色の髪に金色の瞳をしていた。金色の瞳に吸い込まれそうになりながらじっと見つめていると、男がこちらに気づいて近づいてくる。
「……!お客さんがいるとは知りませんでした、ははっ」
男は苦笑いして品があるように振る舞うが、さっきの言葉使いを聞いたせいでどこか野蛮さが残っているように聞こえる。
「私はロード・アルスランです、あなたの名前は?」
アルスラン公爵家は最も貴族の中で位の高い武家のひとつだ。そして目の前にいるこの男は、帝国騎士団の最年少騎士団長であり、次期公爵でもある。
「俺はクリスタ・エバンドです。よろしくお願い致します」
俺が勢いよく立って挨拶すると、彼は俺を流れで椅子に座らせると俺の隣に腰掛けた。そして、俺の顔をまじまじと見ると、ニコッと笑って俺の耳元に寄る。
この人は妙に色気があって、近付くとドキドキしてしまう。きっとこの人に嫁ぐ人は幸せになるのだろう。
「君の噂は聞いてます。確か、婚約者の浮気をパーティーで暴露したとか……」
「はは……」
俺は乾いた笑みを浮かべる。
そこはかなり痛いところなのであんまり口に出して欲しくない。
「まぁ、それは置いておいて……君はどうしてここに来たんですか?」
「えっと…公爵夫人に呼ばれまして……」
俺がそう言うと、彼は何故かすべて納得したような顔で「ああ…あなたの事でしたか…」と呟いた。
「あの、俺の事って……?」
「ん?ああ、……母上が私に合う人を連れてくるって言っていたんです」
「は、はあ……」
「まさか、こんなに可愛い人だとは思いもしませんでしたよ」
そう言って彼は俺に微笑む。
金色の目が、輝いているように一瞬見えた。
「かっ……」
顔が熱くなる。
彼はすぐに俺から離れ、「きっと後で会うと思いますが、母の手前私たちは初対面ということにしましょう」と唇に人差し指を当てると、俺にウインクをして応接間から出ていった。
◆
「ごめんなさい、待ったかしら」
アルスラン公爵夫人は部屋に入ってくるなり、申し訳なさそうな表情をする。
「いえ、大丈夫です」
「それなら良かったわ。それで、貴方に聞きたいことがあるのだけど……」
「はい、なんでしょうか?」
彼女は優雅な動作で俺の向かい側の席に座り、足を組む。
「……新しい婚約者に目星は着いているかしら?」
俺は彼女の言葉に、心臓が跳ね上がった。
「い、いいえ。まだです」
「そう。貴方にピッタリな子が居るの。アルファだし、顔もそこそこ綺麗よ。ちょうどドアの前で待機させてるの」
彼女は嬉しそうにそう言うと、「ロード、入りなさい」と言って誰かを呼ぶ。
「失礼します」
そう言いながら入ってきたのは、アルスラン公爵家の令息、ロードだった。
「ロード、こちらクリスタ・エバンド侯爵令息よ」
ロード令息は金色の目で俺を見る。やはり顔が良すぎて、思わず目を逸らす。
もう、薔薇を背負ってしまっている。
「……はじめまして、エバンド侯爵令息」
「は、はいっ!」
緊張して声が裏返ってしまった。
「ふふっ」
夫人が笑うのを見て、恥ずかしくて自分の頬が赤くなったのがわかった。
ロードはどこか冷たい目線をこちらにずっと向け続けている。そんなに緊張したことが悪いのか、と少し不満に思ったが、あんまり気にしないことにした。
「クリスタさん、これはうちの息子のロードよ」
「噂に聞いてます。確か、最年少で騎士団長になられた方ですよね」
「あら、嬉しいこと。クリスタさんも情報力があるわね」
夫人があまりにも褒めてくるものだから、俺は照れてしまう。すると、また彼が口を開く。
「では、私はこれで」
「え、もう行くの?もっとゆっくりしていけばいいのに」
「はい、こんな茶会に私が出る意味はありませんので」
「でも、あなたもそろそろ婚約しないと行き遅れになってしまうわよ?」
夫人の言葉に、俺はハッとする。確かに、彼は公爵家の嫡男だ。このまま結婚しなければ、彼も公爵も困ってしまうだろう。
「……母上、余計なお世話というものです。適当に結婚するので世継ぎのことは心配しないでください」
「もう、いつもそんなんだから……」
呆れたように溜息をつくと、俺の方を向いて笑顔になる。
「……じゃあ、単刀直入に言うわね。この息子、貰ってくれないかしら?」
「……へ?」
「……は?」
俺とロードの声が重なる。
「な、何言ってるのですか母上!私とエバンド侯爵令息が?あり得ません!!」
顔を真っ青にして必死に抵抗するロードだが、そんな彼を全く気にせず話を続ける。
どうやら、夫人は俺が気に入ったようで、息子の嫁に欲しいらしい。
「アルファとオメガは相性がいいと聞いたわ。普段も夜も──」
「ああー!わかりました!母上、では一年婚約して私がエバンド侯爵令息と恋に落ちたら結婚します!」
ロードは夫人の話を遮るように顔を赤くしながらそう叫ぶ。
「え、俺の意見は……」
「あら、クリスタさんは嫌なのかしら?」
「い、いえ!そういうわけではありませんが……」
目線で圧力的なものを感じ、口をチャックすることにした。
「まぁ、それなら良かったわ。じゃあ、よろしくお願いするわ」
「は、はい……」
夫人は逃げるようにして部屋を出ていく。残された俺とロードの間には気まずい空気が流れる。
「……お前…絶対私のことを好きになるなよ?わかっているな?」
先程の凛々しいイケメンはどこへ行ったのか、途端口調が悪くなる。
「…え、あの……?」
口調が悪くなった彼の姿に驚いていると、彼は「こっちが素だ」と苛立ち混じりの声で呟いた。
「母上はあれぐらい言わないと、諦めないからな」
「でも、なんで俺なんかを選んだのでしょう?」
俺が聞くと、彼は少し考えてから答える。
「…ただ単に顔が母上の好みなだけかもしれない……」
「あはは……」
乾いた笑みを浮かべると、彼は俺を睨む。
「まあひとまず、これで半年間はパーティーのペアに困らずに済む」
「でも、もし本当にお互い好きになったら婚約解消は出来ないですよね」
俺は少しの希望を抱きながら彼にそう聞くと、彼は鼻で笑い、俺の目を見る。
「そうだな……だが私はお前を好かないし、お前は私を好きにならないだろ?」
自信満々に言われるので俺もつられて「まあ、そうですね」と返す。すると、彼は何故か悔しそうな表情をしたかと思うと、すぐに不敵な笑みへと変わった。
「そうか、ならいい」
そう言った彼の瞳にはどこか哀愁が漂っていた気がした。
◆
ロードは帰る時送ってくれて、玄関まで見送りに来てくれた。
「クリスタ様、では失礼します」
俺は屋敷に戻るロードの背中を見つめる。何故だろうか?彼とどこか会ったことがあるのではと錯覚してしまうのだ。
いや、初対面だというのは分かっているのだが……でもどうしても彼を見ていると何かを思い出せそうで思い出せないのがもどかしい気持ちになる──。
「いいや、きっと気のせいだ」
俺は首を横に振る。馬車が出発するまで間、彼の背中をぼんやりと見つめていた。
◆
しばらく馬車に乗っていて気づいたのだが、この馬車はエバンド侯爵邸とは反対方向に向かっている。
「あの……方向が違っていると思いますが……」
「ええ、存じております」
帽子を深く被った御者は平然とそう答え、馬車のスピードが上がった気がした。慌てて窓から外を見ると、人通りの少ない道で明らかにおかしかった。しかも、俺は今日に限ってエレスが付いていない。
「……下ろしてください」
「それは無理ですね」
御者はそう言って、馬のスピードを一層早くする。そして、その途端急に馬車が止まると、俺は扉から現れた男に羽交い締めにされる。
「ぐっ…!」
男の腕を強く噛んでやると、男は痛みに声を上げながら、俺の腹に拳を入れてきた。
「うっ……」
俺はそのまま意識を失った。
◆
目が覚めると、俺は冷たい床の上に転がされていた。辺りは薄暗く、鉄格子が見えることから牢屋に入れられていることがわかる。
「痛ッ……」
身体中が悲鳴を上げていて、思わず声が出る。すると、二人分の歩く音が聞こえてきて、誰かが近づいてくるのがわかった。
「やっと起きたか、このクソオメガ」
「…おや、オフニス侯爵令息。こんばんは」
二日前のパーティーで、恥を晒されたからってこんなに早く復讐しに来るなんて…
「……なんで俺を捕まえたのですか?」
「は?そんなこともわからないのか?」
俺の質問に呆れたように溜息をつくと、彼は口を開く。
「お前はオメガのくせに偉そうだからだ!俺より目立つから!」
俺の言葉を聞いた彼は顔を真っ赤にして怒り出す。どうやら、彼の地雷を踏んだらしい。
今日はやけに人に怒鳴られてると何故か頭が痛くなる──。
「オメガは大人しく俺らに従っていればいいんだ!なのにお前ときたら……!」
彼は俺の肩を掴んで強く揺さぶる。すると、俺は彼の手を振りほどく。
「触らないでください!!」
「な、なんだと!?」
俺の言葉を聞いて、彼は目を丸くしている。
「あなたはアルファで、俺はオメガです。だから、アルファに逆らったらダメなのは知っていますが……」
俺は深呼吸をして、彼を見る。
「それでも、俺は貴方に従いたくありません」
すると、彼は顔を赤くし、俺に近付いてくる。殴られると思いぎゅっと目を閉じると、痛みは来ずに代わりに目の前でパチンという音が鳴った。
俺の代わりに誰か打たれたのだ。
思わずびっくりして、目を開くと美しい肩までの銀髪が見えた。銀髪が月光に照らされて、まるでもうひとつの月のように輝く。
「オリオ様、やめてください」
彼は、オリオの浮気相手、確か名前はレノンだったか。彼が俺を庇った……?
「レノン、そんな奴のためにお前が……!」
オリオはレノンを抱きしめると、彼に顔を近付かせる。
「僕はあなたが人を傷つけるところを見たくない」
「……わかったよ、じゃあ今日はこれで帰るとするけど……」
レノンはオリオの頬に軽く口付けをすると、俺の方にやってきて「大丈夫ですか?」と俺の拘束具を解き、手を引いて牢屋からだす。
「あの、どうして助けてくれたんですか?」
彼に手を引かれながら聞くと、彼は少し悩んでから答える。
「…僕が、貴方からオリオ様を奪ってしまったからです」
「え…?」
彼が言っている意味がわからなかったが、彼は俺に微笑むだけだった。そして、そのまま二人で牢屋の外に出ると、オリオがレノンに声を掛ける姿が目に映る。
そしてオリオがこちらに向かってくるとすれ違いざまに「レノンに感謝するんだな」と言った。
レノンがオリオに俺を殺さないように言ったのだろう。
そしてオリオは一度止まりもう一言俺に言う。
「────。」
「ええ」
その一言に相槌を打つと、オリオはレノンの方に向かっていった。
オフニス侯爵の屋敷の前には一台の馬車があった。見慣れた、エバンド侯爵家の家紋が記された馬車だ。先程の馬車は確か無印の馬車だった気がする。ロードに気がいっていて、気が付かなかったのだろう。
「お迎えに上がりました。クリスタ様」
エレスが迎えに来てくれて、やっと安心する。
「ありがとう。エレス」
馬車に乗るといつもの席に座り、エレスがドアを閉めてくれる。
「ではお屋敷に戻りましょう」と言うと、馬車が走り出す音がしたのだった──。
俺は屋敷に戻ってからもずっと考えていたことがあった。それは俺の新しい婚約者、ロードのことだ。何故だろうか、彼と昔どこかで会ったことがあるような、そんな気がしてならないのだ。それに、何故か彼の瞳はどこかあの人に似ている──。
その答えは出なかったが、一つだけ確かなのは彼を知りたいと思ったことだ。
◆
エレスに部屋までエスコートされながら、俺はずっとロードのことだけを考えていた。
「クリスタ様、足元お気をつけください」
「あっ、」
段差に気付かず、転けそうになった俺をエレスが支えてくれる。
「ありがとう、エレス」
「いえいえ、これも従者としての役目ですから」
彼はそう言って微笑む。
すると、俺の部屋のドアが開きそこから父上が出てくるのが見えた。そして父は俺を見つけると、俺とエレスを引き離した。
「お前…どこかへふらっと行ったと思ったら、公爵家と婚約を結んできたとは……でかした。さすがは私の息子だ!どうやって婚約を結んできたのだ?私の執務室で聞いてあげるから来なさい」
言葉だけ見れば嬉しそうに言っているが、表情は明らかに怒っている。エレスの手前、怒れないのだ。
父は俺の腕を掴み、執務室に連れて行く。エレスには先に戻っていていいと口パクで伝えると、彼は「それでは、失礼します」と言って去っていった。
エレスが居なくなったことにより、父が俺の腕を掴む手が強くなる。俺は痛みをこらえながら、父が口を開くのを待った。
そして執務室に着くと、俺を突き飛ばし、扉を閉めて、鍵をかける。
「よくやった、が…」
父は俺を上から睨むように見る。まるで蛇に睨まれた蛙のように萎縮してしまいそうになる。
「先程のアレはなんだ?侍従と抱き合っていたのはなんだ?私の見間違えか?」
「……俺が転びそうになったのを助けて貰っただけです」
淡々と真実を述べる。父は俺の髪を乱暴に掴み、俺の腹に膝蹴りをしてきた。俺はその衝撃に咳き込むが、父はお構い無しで俺の体を何度も蹴った。
「私がどれだけお前に厳しくしていると思っているのだ?お前は名家に嫁ぐのだぞ!なのに、それなのに……お前は私をバカにしているのか?」
痛みに耐えながら、父の顔を伺うと、そこにはいつもの威厳のある顔つきはなかった。今の父には余裕がなく、憎悪という感情しかなかった。
「申し訳ございませんでした……」
小さな声でそう呟くが、父がそれに耳を傾けるわけがない。また何か言おうと口を開いたと同時に、部屋にノック音が鳴り響いた。
その音に俺は助かったと思い、安堵のため息をついたが、それは間違いだったと瞬時に感じる。
「誰だ?今は仕事中だ、後にしてくれ」
父は俺を見たあと舌打ちをする。父にとって俺は公爵家に嫁ぐと信じているが、俺とロードは結婚しない。
(俺とロードが結婚しないと知ったら?名家に嫁げなかったら?)
その時は、捨てられるかもしれない。
どれだけ仕事ができたとしても、どれだけ商談が上手く行ったとしても、オメガだと知られたらその時点で向こうにとってどれだけ有益なことでも契約は無かったことにされる。そのくらい、オメガは世間から冷遇されている。
(嫌だ、捨てられたくない)
すると、またノック音が響くと同時に扉が開く音がする。父は俺から離れ、扉の方に向かっていったようだ。
「今日、クリスタさんの婚約者になったロード・アルスランです。ご挨拶が夜分遅くになってしまって申し訳ありません」
この声は、俺が聞き間違えるはずのない声だ。俺はすぐに扉に寄っていき、父の肩を押し退ける。そして扉を開いた先に居たのは、紛れもなくロードであった。
「……っ、」
突然俺が出てきたことに驚いたのか、ロードが目を見開くのが分かる。
「クリスタさん、こんな遅い時間まで執務室にいるのは良くないですよ。それに……もしかして、お取り込み中でしたか?」
そのロードの言葉の意味にハッとする。先程父は俺を蹴るだけでなく、何度か殴ったりもしていた。服だって乱れていて、酷い有様だ。それを隠すために急いで服を正すがもう遅いだろう。俺は彼になんと言えばいいのか分からず黙っていると、父が俺に近寄り肩を掴んで「ハハッ、少し剣術を教えてやっていただけですよ」と、笑った。
「エバンド侯爵……そうだったんですね!クリスタさんが騎士団の見学をさせて欲しいって言っていたんですけど、まさかここでだったんですか」
ロードは納得がいったように頷く。父はそんなロードを見て、笑みを深めると俺の方を見た。
「クリスタ、騎士団長に嫁ぐのなら、今のうちから剣術を練習しておかないと──」
「殴る蹴ることが剣術だなんて、笑えますね」
ロードは張り付けの笑みを浮かべながら呟く。それが父の恐怖を煽るのか、彼は「こ、これは……」とだけ呟く。
すると、ロードは急に父の手を掴み、顔を近づける。そして先程とは打って変わって冷酷な表情で彼を睨みつけた。
「私の騎士団長という職は伊達ではありません。どれが剣術でできた傷か、それとも一方的に殴られ蹴られた傷かなんて人目で分かります」
父は彼の威圧感に圧倒されたのか、何も言えずに固まってしまった。ロードは父から手を離し、俺と向き合うと「大丈夫ですよ」と笑う。
俺はその笑みがいつもと違って見えて、少し怖いと思ってしまい、後退りをする。まるで別人みたいだ──と思ったが、それはロードの服装が原因だと気付いた。会った時は貴族の服だったが、今は騎士団の服だからだろうか?
「クリスタさん、剣術を習いたいのなら私がお教えしましょう」
「え、」
まさかの提案に思わずそう声を漏らす。ロードは笑みを深めると、俺の手を取り、また話し始める。
「きっと、クリスタさんは、オメガは剣術なんて習わなくても良い──と思っていますね。その考えは貴方の父上の教育が悪いだけです」
父は図星をつかれたのか顔を赤くしたかと思うと、俺とロードを引き離そうとしてくる。しかし俺は先程の恐怖からかその手を避けてしまう。父の怒りの標的は俺に変わったようだ。
「クリスタ、お前のようなオメガに教育をさせるわけがないだろう!」
父はそう叫ぶと、俺の手を強引に引き、部屋から出ようとする。しかし俺はそれに抵抗し、父を止めた。今ここでロードから離れてしまえば、もう会えないような気がしたからだ。
「っ、」
俺と父の力比べなどすぐに終わった。ロードは父のことを止めようとしたが、それよりも先に父に引っ張られてしまい、俺と距離ができてしまった。しかし父はそんなことも気にせず俺を部屋から連れ出そうとする。その時だった──
「っ、?」
父の首の後ろに何か銀の物が現れたかと思うと、父はその銀を見ようと振り返った。そこには剣の先端を父の首に突き付けているロードの姿があったのだ。俺も初めて目にするその光景に驚いてしまった。
「その手を離しなさい、エバンド侯爵。クリスタさんはあなたの息子ですが、私の婚約者でもありますよ?」
先程とは打って変わって、冷酷な声と表情で父は剣先を見る。しかし彼の表情は変わらず笑っていた。まるでこの状況を楽しんでいるかのように見えた。ロードは突き付けている剣をほんの少し父に近付ける。そして刃は父の首に軽く触れ、赤い線が少しだけ首の皮膚に着く。その瞬間、父が冷や汗を流したのが分かった。
「まさか、こんなところで剣を使うことになるとは思いませんでした……ね、エバンド侯爵?」
父は俺から手を離し、降伏のサイン──両手を上げる。すると、ロードが突き付けていた剣を下ろした。
「申し訳ございません、手が滑ってしまって……ところで、エバンド侯爵、私のクリスタさんの教育を私以外の者がするだなんておこがましいと思いませんか?剣で教えるならこの私が適任だと思うのですが?」
「それは……」
父は俺のことを睨みつけると、逃げた。逃げる父の背中を二人で見ていると、ロードがこちらを向き、俺に手を差し伸べる。
「突然押しかけてしまってすまない。その日のうちに挨拶をしておけと母上が言っていたため、来ただけだ」
俺はロードの差し出された手を取り、立ち上がる。すぐさま礼を言わなければ、と口を開いたが、それと同時に先程の父の豹変した姿を思い出し、声が出なかった。
「あ……っ」
「クリスタさん?」
ロードは俺の顔を覗き込む。そこでやっと俺は声が出た。しかし情けないくらい小さな声でロードの耳に届いたとは思えなかった。
「……いや、ありがとうございます」
俺は何とか声を絞り出し、礼を言う。ロードはキョトンとした顔で俺を見たが、すぐに笑顔を見せる。「どういたしまして」と言うと、彼は何かを思い出したようにまた扉の方に向かった。
そして彼は扉を開けようとすると、突然こちらを振り向いた。
「エバンド侯爵のことは少し気になるのだが、また今度にしよう。公務もあるから、そろそろ失礼する」
「あ、はい、」
ロードはニコッと笑うと俺の頬を撫でて、扉を閉めた。しかしすぐに扉が開き、中から顔を出したのは先程出ていったはずの父である。彼は眉間にしわを寄せて俺を睨みつけてきたかと思うと、何も言わずに扉を閉めてしまった。
(……本当に何しに来たんだ?)
俺はそう思いながらも自室に戻ったのだった。
──翌日、父の変わりようはメイド達に人が変わったのではないかと噂されるくらいに変わっていた。
今までは妊娠中のオメガを無理やり働かせたり、育児休暇は与えなかったのだが、その事を改め、育児休暇を取れるようにし、休みを与えていたのだ。
俺はそれに戸惑いながらも「良い気分に浸らせるために言っているのか」と疑うことしか出来なかった。
「──おい、クリスタ」
「……っ!?お父様……」
考え事をしながら廊下を歩いていると、後ろから父が声をかけてきた。俺は驚いて思わず肩が跳ね上がるが、父の方はそんなことにも気付かずに話を進める。
「ロード卿とは仲良くなさい」
それだけ言うと、風のようにすぐ執務室へ戻っていってしまった。俺は何が何だか分からないまま、また歩き出す。
「クリスタ様、昨日は大丈夫でしたか?」
すると、今度はエレスが心配そうな顔をしてこちらに駆け寄ってきた。
昨日──父との事か。
「大丈夫、すぐにロード卿が来たから」
俺は苦笑しながらエレスの心配を拭う。彼はホッとしたように胸を撫で下ろすと、小さくため息を吐いた。その表情には安堵だけでなく、疲労の色も混じっていたのが分かった。
(昨日……)
「エレス、何かあったの?」
俺がそう聞くと、彼はこちらを驚いた顔で見てきた。まさか聞かれるとは思っていなかったのだろう。
「……クリスタ様が心配で、寝れなくて」
エレスのルビーみたいな赤い瞳が揺れる。それを見て、俺は自分のしてしまったことの重大さに気付いた。
「心配かけてごめんね」
俺がそう言うと、彼は首を横に振った。そして何か言おうと口をパクパクさせ始めたが、何を思ったのか口を閉じてしまった。エレスは覚悟を決めたように俺を見つめると、口を開いた。
「………っ…クリスタ様はどんな男性がお好みですか?」
「え?」
予想外の質問に思わず声が漏れる。しかしエレスは真剣な表情を崩さずに俺を見たまま、ただ返事を待っていた。
(どんな男性……そりゃ俺はオメガだからアルファの男性が好ましいが……)
俺は少し考えて、口を開く。
「アルファでもベータでもいいから、俺に優しくしてくれる人でお金持ちがいいな」
俺がそう呟くとエレスは納得したように頷く。それを見て俺もなぜか安心した気持ちになった。
きっとエレスには好きな男の人がいて、その人の参考に俺に聞いてきたのだろう。
「……クリスタ様、失礼ながらもう一つ質問をしてもよろしいでしょうか?」
「うん……?なに?」
俺が首を傾げると、エレスは珍しく頬を赤く染めたかと思うと小さく口を開ける。しかしすぐに閉じると首を横に振った。そして再び俺を見ると口を開くが──結局何も言わずに口を閉じてしまったのだった。俺はその行動の意味もよく分からなかったが、何か言いたくない理由があるのだろう、と思い、「また今度聞くね」とだけ言ってその場を後にした。
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