100日後に死ぬ彼女

変愚の人

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「俊太郎……」

眠る彼の手を、そっと撫でる。目を覚ます気配は、ない。
また、目から涙が溢れてくる。もう何度も、何度も泣いたけど、困ったことにそれが枯れる気配もない。


彼が倒れてから3日。その間、あたしは時間が許す限り彼の傍にいた。


倒れた原因は分からないらしい。そして、目を覚まさない原因も。東大病院の偉いお医者さんたちすら、どうしたらいいか全く分からないという。
唯一救いなのは、「とりあえず医学的には何の異常もない」という彼らの言葉だけど……だからといって、目を覚ました時に全く無事な保証もない。
あたしにできることは、こうやって彼の傍に居続けることだけだ。

「由梨花さん」

病室に入った初老の女性が、心配そうにあたしを見た。俊太郎のお母さんだ。彼女もわざわざ高崎から、毎日通ってきている。

「……ごめんなさい。また泣いちゃった」

「いいのよ。私だって、同じ立場ならきっとそうなる。信じてあげることしか、できないから」

寂しそうにお母さんは笑うと、あたしの横に腰掛けて林檎を袋から取り出した。

「疲れたでしょう?私の実家の林檎なの、お一ついかが?」

「……ありがとう、ございます」

シャリ、シャリというナイフが皮を剥く音。お皿に、林檎の皮が重なっていく。


俊太郎が倒れたのは、教授の研究室であるらしかった。何がそこであったのかは、全く分からない。
ただ、その話を聞いた時、毛利さんの表情が険しくなったのは覚えている。彼が言うには、「覚醒レベル」の上昇が起きた可能性があるということだった。

この前の日曜日、「コナン」君が言っていたことを、あたしは思い出した。
「下手に刺激すると、不安定な状況で『目覚める』ことになる」と、彼は言っていた。何かがあそこであったんだ。とすると、今眠っているのって……

また、涙が溢れてきた。


もし、目覚めたとしても……そこにいる俊太郎は、もはやあたしが知る俊太郎でないのかもしれないのだ。


「……大丈夫?」

お母さんに言われて我に返った。いけない、あたしも相当煮詰まってる。

「……大丈夫、じゃないかも、です」

「ごめんなさいね。とりあえず、お腹に何か入れないと、あなたまで壊れちゃう」

食事はろくに喉を通っていなかった。そもそも、お腹が全然空かない。
ただ、気力が失われていってる自覚はあった。何か食べないと……そう思いながら剥かれた林檎に手を伸ばすけど、手が震えてしまう。


……これは本当に、よくない。


その時、病室のドアをノックする音が聞こえた。


「……失礼するよ」

そこに現れたのは、毛利さんと小柄な初老の男性、そして髪の長い30代後半ぐらいの女性だ。……水元さん、ではなさそうだ。初めて見る。

「毛利さん」

彼はお母さんに一礼する。

「お母様ですか」

「え、ええ」

「私、毛利仁と申します。竹下君の『友人』でして」

「は、はあ……少し、年上ですよね」

「趣味のラーメン屋巡りで知り合ったんですよ。こちらが私の名刺です。警察ですが、お気になさらぬよう」

お母さんは呆気に取られている。彼が、あたしの方を見た。

「由梨花さん、話がある」

「……あたし、ですか」

「ああ。少し、彼女を借りていいですか。10分もしないうちに終わりますので」

お母さんは戸惑い気味に頷いた。
あたしたちは同じフロアの談話スペースに向かう。幸いにして、誰もいない。

「こちらの方は」

初老の男性が静かに頭を下げた。

「木暮悟と申します。毛利君の元上司で、今は埼玉県警捜査一課長をやっております」

捜査一課というと、殺人事件などを扱う所だ。こんなに穏やかな人が課長というのは、意外だった。

「まさか、俊太郎が倒れたのって、事件なんですか」

「いやあ、私はただの付き添いですよ。あなたに用があるのは、私の家内です」

長髪の女性が、柔らかな笑みを見せた。

「鷹山みなと、です。埼玉医大付属病院で、脳神経内科を担当しているわ」

この人が奥さん?随分年が離れているように見えるけど。
驚くあたしに気付いたのか、木暮さんが苦笑した。

「一応、6歳差です。私が老け顔なのと、家内が若作りなのがいけない」

「若作りなのは悪いことじゃないでしょ?……まあ、それはいいわ。私も一応、『リターナー』の協力者なの。だから、竹下俊太郎君に何があったかは推測できる」

「……え」

鷹山さんが、毛利さんの方を向いた。

「毛利君、彼女には『覚醒レベル』のことは話してる?」

「藤原と吉岡さんが、ある程度説明したようです」

「なら話は早いわね。……木ノ内さん。薄々見当はついているでしょうけど、竹下君は『覚醒レベル』が上昇しつつあるの。そして、恐らくは精神的に不安定な所に、何かしらの精神的ショックを受けた。
その影響で、彼は倒れたのだと思う。彼本来の人格と、『未来の人格』のどちらが主導権を握るのか、せめぎあっている状況にある可能性が高い」

やはりそうなのか。とすると……

「決着すれば、俊太郎は目覚めるんですか」

「それは何とも言えない。私も、『リターナー』じゃないから。ただ、目覚めてもどちらの人格に固定されるかはまだ不安定だと思う。経験上」

「同じようなことが、前にもあったんですか?」

毛利さんが頭を掻いた。

「……俺のケースだよ。俺も、竹下君と同じように倒れたことがある。俺の『未来の人格』も厄介な奴だったらしくてね……まあ、あの時のことは意識的に思い出さないようにはしてる」

鷹山さんが頷く。

「精神的に強烈なショックを与えられると、人格ごとすり代わることがある……とは藤原君の見解ね。彼、元々医学部なのよ」

「じゃあ、『コナン』君にも同じことが?」

「さあ……彼は特殊かもしれない。詳しく聞いてないけど。とにかく、毛利君の話によれば『レベル4』になった場合は相当な荒療治をしなきゃいけなくなる。『人格の抹消』なんて、彼を廃人にするような処置が必要になるかもしれない」

「そんな……!?」

鷹山さんは目を閉じた。

「だから、あなたが鍵になるの。目覚めた時、彼がこちら側に『戻ってこられるようにする』ためには、彼が未来で何をやったかを受け止める必要がある。
それは私たちにはできないことよ。彼が『リターナー』であると知っている、唯一の親しい人間である、あなたにしか」

「……私に、できるんでしょうか」

ポン、と毛利さんがあたしの肩に手を置いて笑う。

「大丈夫だ。結局の所、意思の力が物を言う。竹下君を愛する気持ちが本物なら、きっと何とかなるはずだ」

「意思の力、ですか」

「そうだ」

愛する気持ちが本物なら、か。あたしはそうだと思っている。でも、客観的はどうなのだろう?何より、俊太郎もそう思ってくれているだろうか。


……信じるしかない、か。


あたしは「コナン」君と愛結さんのことを思い出していた。
多分、愛結さんも同じようなことを経験したのだろう。それを乗り越えたからこそ、あの2人には強い絆と、信頼関係がある。見た目はともかく、彼らがいい恋人同士なのは疑いなかった。

あたしは視線を上げる。

「分かりました」
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