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分厚い扉を開けると、カランという音と乾いた木の匂いがした。マスターの大城戸さんが、ニヤリと笑う。
「ども」
「最近良く来るな。また、競馬で勝ったのかな。この前のセントライト記念、竹下君の予想通りだったしな」
「この前のは買ってないんですよ」
大城戸さんが目を丸くした。
「そりゃなんで。馬連で万馬券だっただろ」
「や、何となく」
「うちに君が来る時は、大体大勝ちした時なんだが。株は暴落したしなあ」
大城戸さんが顎髭を触って首をひねった。僕はフフッと笑ってカウンターの椅子に座る。客はまだ僕だけだ。
「実はそれなんですよね。連休前にショート(空売り)仕掛けたんで」
「……凄いな。ここ最近、日経平均はえらい調子よかったから、あそこで売るのってなかなか勇気いるだろ。……っと、1杯目はいつものでいいか?」
「ええ、ギムレットで」
「了解っと」
大城戸さんがシェーカーにジンを入れ始めた。僕は軽くカウンターを撫でる。
この年季の入った古いチーク製のカウンターは、大城戸さんが1年かけて頼み込んで譲ってもらったものらしい。この手触りが、なんとも言えず心地いいのだ。
「で、どうなんだ。例の彼女」
シャカシャカという軽妙な音と共に、大城戸さんが訊いた。昔は湯島にある老舗のバーで働いていたらしく、シェーカーさばきは素人の僕でも分かるほど鮮やかだ。
「由梨花のことですか」
「おう。もう付き合って1年になるだろ。最近姿を見せないからな」
大城戸さんはシェーカーから静かにグラスへとカクテルを注ぐ。ライムの香りを、わずかに感じた。
「上手くいってますよ。この前の休みも会いましたし。インターンで忙しかったんですけど、やっと落ち着いたみたいで」
ギムレットを口に含む。ここのギムレットはコーディアル・ライムジュースを使ったクラシックスタイルだ。切れの中に甘酸っぱさが感じられる。
「あー、年上だっけな。またうちに連れてくればいいのに」
「ええ、就職先も大体決まったみたいですし」
「早いねえ。俺の頃は4年の春まで内定なんて出なかったけどなあ。青田買いってやつか」
すっとお通しの麦チョコが出される。僕はそれをつまみ、口に放り込んだ。
「……就職したら、どうなるんでしょうね」
「んー、何とかなるんじゃないか?結局の所、恋愛って相性だよ。君には、ああいう引っ張ってくれるタイプが合ってる気がするな」
「でも、会える時間は減りますよ」
「そこは密度でカバーさ。何より、彼女の就職はまだ1年半も先だろ。心配しすぎだよ」
大城戸さんが苦笑する。それはそうかもしれない。ただ、あの悪夢を引き合いに出すまでもなく、先に行かれることへの焦りが僕の中にある。
大城戸さんのような大人の余裕を、僕は持てるのだろうか。
ギムレットの苦みを、やけに強く感じた。
*
「Bar Orchid」を出たのは21時ごろだった。ギムレットを含むショートカクテルを3杯、そこにロングアイランドアイスティー。
酒量としてはかなり飲んでいる。店を出る時、心配そうな大城戸さんに「大丈夫れす」と答えたけど、正直足元はおぼつかない。
不安を酒でごまかそうとしているのかな。どうにも、僕らしくもない。
由梨花に電話をしようと思ったけど、確かこの時間は居酒屋のバイト中だ。コミュ障気味で接客業に向かない僕と違い、彼女は職場では看板娘として人気らしい。
株式投資が上手くいっているおかげでお金には苦労していないけど、社会性という意味で僕は由梨花に遠く及ばない。
くすんだ夜空を見上げ、ふーっと深く息をつく。「ネガティブになりすぎるのが俊太郎の悪いところ」と、由梨花に何度言われただろうか。
だからあんな嫌な夢を、何度も見てしまうのだ。つくづく自分が嫌になる。
……コツリ
僕は振り返った。……誰か、僕の後をつけている?
酔いと鬱気味の心理が作り出した、幻想だろうか。祝日夜の中目黒駅前商店街には人がそれなりにいて、もし誰かが僕を尾行しているとしても、特定は難しい。
少し歩くペースを速める。マンションまではあと数分といった所だ。足が少しもつれた。
……カッカッカッ
かすかに硬い、革靴のような足音がする。間違いない、誰か後ろにいる。
僕は走ろうとしたけど、血の中を流れるアルコールがそれを邪魔した。胃液が漏れそうになる。これ以上は限界だ。
立ち止まり、僕は叫んだ。
「誰だっ」
振り向くと、誰もいない。
……そんなはずはない。誰か、いるはずだ。
「か、隠れてないでっ、出てこいっ!」
……返事はない。そんな馬鹿な。確かに、気配と足音はしたのに。
こんな現実と混同するような被害妄想まで出るとは、いよいよカウンセラーに診てもらった方がいいのかもしれない。
僕は自分自身が嫌になり、再び深い溜め息を吐いた。
*
その夜、また、夢を見た。
*
スローモーションのように、あるいはソフトクリームが溶けるように、高層ビルが崩れ落ちていく。
逃げ惑う人々。立ちこめる黒灰色の煙。それはありきたりな言葉で言えば、地獄絵図そのものだった。
僕はそれを、画面越しに見ていた。音は聞こえない。仮に音があったとしても、爆音と轟音しか聞こえないだろう。
ホテルの客室から、窓の外を眺める。丸の内方面から、黒煙が立ち上っているのが分かった。もう、あのオフィスビルは瓦礫と化したはずだ。
僕は満足げに頷き、グラスに缶ビールを注ぐ。そして、僕以外誰もいない部屋で、「乾杯」と呟いた。
そう、僕の復讐は成されたのだ。
*
「……はっ」
思わずベッドから飛び起きた。深酔いのせいで気分は最悪だ。かといって、胃の中の内容物を吐くまでには至らない。それが僕を一層苛立たせた。
「何だってんだよ……」
スマホを見ると、まだ3時過ぎだ。夜明けまでにはかなり時間がある。
いつもの悪夢とは違う。しかし、これも酷い夢であるのには変わりない。しばらく酒量はひかえよう、そう心に誓った。
冷蔵庫に向かい、冷やしてあったスポーツドリンクのペットボトルを開けた。一気飲みすると、身体の中がわずかに洗い流された気がする。
さっきの夢は何だったのだろうか。精神的に参っている所に酔ったのがいけなかったのか。
それにしては、夢の内容は鮮明だった。例の夢ほどじゃないけど、内容はかなりはっきり思い出せる。
何か、強烈な違和感がある。まるで、あれは実際にあったことのような……
その時、ふと気付いた。あのオフィスビル、どこかで見覚えがある。……丸の内にある「三友グランドタワー」。
由梨花が就職する予定の、三友地所の本社が入居しているビルだ。
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