蒼空のイーグレット

黒陽 光

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Sortie-01:黒翼の舞う空

第十一章:失意の果てに/02

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 走り出した翔一がアリサを探し出すまでに要した時間は、実のところそんなに大した時間じゃあなかった。掛かった時間はざっくり十五分少々だ。こんな夜明け前の微妙な時間だけあって、通りの交通量はほぼ皆無に等しい。殆どフリーウェイ状態だったから、制限速度なんか関係無しに好き放題ブッ飛ばせたのが大きかったのかも知れなかった。
 何にせよ、翔一は偶然――――嘘だ。本当は超感覚のESP能力を使って、無理矢理にアリサの居場所を探し当てた。彼女の気配というか、そういうものは他の人間に比べて特に分かりやすいモノだったから、見つけるのは意外と簡単だった。
 アリサは何故か、片側二車線の大通りを横切る歩道橋の上に居た。手すりの上に両腕を置き、何やらぼうっと虚空を眺めている。遠目に見えるその顔は……やはり影色が多いというか、何処か寂しげで。そして、何やら思い詰めているような風に翔一の眼には映っていた。
 油冷エンジンの乾いた音を立てるイナズマ400を減速させ、歩道橋脇の路肩へと停めて。エンジンを切った翔一はキーを抜き、被っていたフルフェイスのヘルメットも脱いで。そのヘルメットを引っ掛けるとバイクを降りて、ガードレールを跳び越え歩道橋の方へと歩いて行く。
 カンカンカン……とささやかな足音を立て、錆の走るスロープ付きの階段を昇り。そして歩道橋の上へと昇ってみると……そこに居たアリサの横顔は、やはり思い詰めたみたいに深刻な面持ちで。彼女はずっと、手の中にある古びた懐中時計を眺めていた。
 金色の懐中時計だ。遠目でもかなり古い、半分アンティークに足を突っ込んでいるような代物と分かる。それこそ、何十年モノとかだ。古くて、大切そうな懐中時計。それをずっと……アリサは歩道橋の上で眺めていた。
「っ……!」
 すると、アリサはその懐中時計を握る手を唐突に大きく振りかぶった。
 ――――自棄ヤケでも起こしたのだろうか。
 懐中時計を握り締める右手を振りかぶる彼女の横顔は、本当にどうにでもなれといった風で。明らかに大事そうなその懐中時計を、アリサはそのまま車道に向かって投げ捨てようとしていた。
「止すんだ、アリサっ!」
 そんな彼女の仕草を見た瞬間、翔一は思わず駆け出していて。アリサがその懐中時計を投げようとした寸前、翔一は彼女の右手を掴んでそれを止める。
「離してよっ! こんな……こんなもの、アタシが持ってたって!」
「落ち着け、落ち着くんだアリサ……! こんなこと、君らしくも――――!?」
 …………こんなこと、君らしくもない。
 そう言い掛けた翔一だったが、しかしアリサの顔を間近で見た瞬間、彼は紡ぎ掛けていた言葉を思わず呑み込んでしまった。
 ――――だって、彼女は泣いていたから。
 尚も懐中時計を棄ててしまおうと、翔一に掴まれた手を何とか振りほどこうともがく彼女は、確かに泣いていた。あのいつも強気な、視線だけでヒトを刺し殺せてしまいそうなほどに鋭い眼光は何処へやら。沈みかけた月明かりを淡く反射する金色の双眸には……確かに浮かんでいたのだ。透明な、哀しみに満ちた涙粒が。
「一旦落ち着くんだ。冷静になるんだ、アリサ……」
 翔一は彼女の涙に戸惑いつつも、どうにかこうにか宥めてやる。
 そうして彼女の手から、肩から力が抜けたのを見て、翔一もまた彼女から手を離す。
 すると……気付けば彼の右手の中には、さっきアリサが投げ捨てようとしていた懐中時計が握られていた。アリサがもがく内に、いつの間にか彼女の手から取り上げていたらしい。
「これは……」
 黒革の指ぬきグローブに包まれた右手の中、そこに収まる金色の懐中時計にそっと視線を落としてみれば、蓋付きのそれはかなり傷だらけで。その蓋をパカリと開いてみると、ガラスの部分がひび割れていて。その奥にある三本の針も動いておらず、ときを刻む使命を完全に忘れてしまっていた。
 この懐中時計、明らかに壊れている。恐らくは中の……手巻き式だろうムーブメントも駄目になってしまっているだろう。どう見たって壊れているこれを、何故アリサが大事そうに持っていたのか。そして、どうして大事なはずのこれを投げ捨てようとなんかしていたのか…………。
「……パパの形見よ、壊れちゃってるけれど」
 翔一の脳裏に浮かんでいたその疑問を、ポツリと呟いたアリサの一言が消し去っていく。涙声に震えた、とうに限界を超えてしまっているような……辛そうな、震える彼女の声が。
「そんなに大事な物を、どうして」
「私には……私にはもう、そんなもの。持っている資格なんて無いのよ」
 震える声で、まるで自嘲するかのようにアリサは呟く。項垂れたまま、疲れ切ったように。
「…………」
 そんな彼女の傍ら、翔一は手の中にあるその懐中時計をじっと見つめ……そしておもむろにグッと握り締めると、右手を胸の前に当てて。彼はそっと、そっと眼を閉じる。
 すると――――どういうことだろうか。胸に当てた彼の右手、正確には手の中が軽く発光し始めたではないか。
 そうすれば、彼は右手の光が止んだ頃に。胸に当てて数秒経ってから、翔一が閉じていた瞼を開き、そして握り締めていた右手を開くと。すると……黒革の指ぬきグローブに包まれた彼の手のひらの中。そこに収まる懐中時計は、壊れていたはずのそれは……綺麗に元通りに直っていて。彼が手を開いた瞬間、懐中時計に仕込まれていたオルゴールが、ささやかなメロディを奏で始めた。
「この曲は……」
 懐中時計のオルゴールが鳴り始めると、翔一は一瞬だけ驚いたような顔をする。手のひらの中にある懐中時計から……アリサの父が遺した形見から流れるこのメロディは、翔一にとっても聞き覚えがあるものだったのだ。懐かしく、そして暖かい記憶の中へ確かに刻まれている、そんなメロディだったのだ。
「ちょっと……アンタ、これって」
 そんな彼の傍らで、アリサはただただ驚いていた。
 当然だ。彼の手が光り出したかと思えば、壊れていたはずの懐中時計が元通りに修復されてしまっていたのだから。
 ――――物体の修復能力。
 アリサが驚くのも無理はなかった。この能力のことは、蓬莱島の誰にも話していないのだから。というより……正直、今の今まで自分にこんな力があったことを、彼自身がほぼ忘れてしまっていたのだが。
 何にせよ、ちょっとした物程度なら壊れていても、彼はこうして握り締めるだけで修復できてしまうのだ。それこそ、今実際にやってみせたように。
 こんな能力、何に使うんだと昔から思っていたが――――まさか、こんな意外な形で役に立つ日が来るなんて。
「……アリサ」
 そんなことを頭の片隅で思いつつ、翔一は傍らで泣き顔のまま唖然としているアリサに小さく微笑みかけながら、諭すみたいに穏やかな調子で彼女にこう語り掛ける。
「僕には、君がどうしてそこまで思い詰めているのか。これを持つ資格が無いなんて思っているのか、その理由は分からない。
 けれど……きっと、アリサのお父さんはこう思っているはずだ。君には……アリサには、ずっと笑顔で居て欲しいと。きっと……今でもそう思っていると、僕は思う」
「そんな、そんなこと……! アンタに、アンタに分かるわけ……!!」
 キッと歯を食い縛る彼女に、翔一は「分かるよ」と優しげに微笑みを返す。
「伝わってくるんだ。この懐中時計から……とても暖かくて、深い愛に溢れた感情が。アリサや、アリサのお父さんが、この懐中時計に込めた想いが……その記憶が」
「…………! そういえば、アンタって確かサイコメトリーの能力も持ってたわね」
「ああ。その能力のお陰かも知れない。けれど……そんなものを抜きに、感じるんだ。とても暖かい優しさを、二人分の……とても優しい気持ちを」
 言って、翔一は自分の手の中にあったその懐中時計を、そっとアリサの手に握らせてやった。
 すると、受け取ったアリサは小さく瞼を閉じ……そして、オルゴールの音色に耳を澄ませる。傍らに立つ彼とともに、柔な風に吹かれながら。真っ赤な髪と、そして深蒼のパーカージャケットの長い裾が小さく揺れる中……夜明け前の街に鳴り響く、ささやかな音色に。優しくて、そして何処か懐かしい……そんな音色に。
「…………懐かしいよ。その曲は、僕の父さんも好きだった」
「奇遇ね……」
「ああ、本当に奇遇だ……」
「アタシのパパも、この曲が好きだった。大好きだった、たった一人の大切な相棒も……」
 ――――でも、皆死んじゃった。
「……そう、だったのか」
 うん、とアリサは小さく頷く。泣き腫らした瞼を伏せたまま、閉じた双眸の端から……ほんのささやかな、一粒の透明な雫を滴らせて。
「パパは五年前に。相棒は……ソフィアは、二年前に」
「もし、良ければ。君が……嫌じゃなければ。聞かせてくれないか、君のことを」
 翔一がそっと訊くと、するとフッと小さく笑んだアリサは「良いわ」と頷いた。
「どうせ、情けないトコ見られちゃったしね……。それに、時計を直して貰った借りもある。アンタになら……翔一になら、良いわ。話してあげる。アタシのこと」
 いつまでも鳴り続ける、郷愁に誘うオルゴールの静かな音色に耳を傾けながら、アリサはポツリポツリと語り始めた。翔一に、自分自身のことを。彼女が今日に至るまでの過去、彼女が今までたった独りで背負い続けてきた……独りぼっちで背負うにはあまりに重すぎる、過去の鎖に縛られた十字架のことを。




(第十一章『失意の果てに』了)
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