エージェント・サイファー

黒陽 光

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Execute.02:巴里より愛を込めて -From Paris with Love-

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 それから数時間が経ち。約束通りにノエルと出掛けて食事をし、ついでにパリの観光――といっても、セーフハウスから歩いて行ける範囲だが――のガイド代わりもして貰い。夕刻頃になってまたセーフハウスに戻ってきた零士は宛がわれた自室に籠もると、仕事用のスライド式携帯でシャーリィに連絡を取ろうとしていた。
 半開きになったドアの向こうから、シャワーの水音が微かに漏れ聞こえてくる。浴室でノエルがシャワーを浴びているのだ。零士はそんな耳触りのいい水音が聞こえてくるドアを背中で閉じると、電話を繋げたスライド式携帯を左耳に押し当てた。
『……はいはい、私だよ』
「俺だ」眠たげな声で電話に出たシャーリィに、零士が短く言う。「一応、連絡をな」
『ああ、パリに着いたんだね……。ふわーぁ、それにしても時差を考えて欲しいな。こちとら、もう後一時間ばかしで日付が変わりそうなんだ』
「連絡をしろって言ったのはシャーリィ、アンタだろうに。……まあ、連絡が遅れたことは謝るが」
『ノエルとはもう逢ったんだね?』
 ああ、と零士はその問いに頷き肯定する。するとシャーリィは『そうかい』と満足げな声で返すと、
『彼女、いいだろう?』
 なんてことを、妙に好色めいた色を滲ませる声で零士に言った。
「まあ、否定はしないさ」
 そんなシャーリィの態度に、零士は呆れ気味に肩を竦めて言い返して。しかしその後で「……シャーリィ」と、途端に声音をシリアスな色に塗り替えて続けた。
『……何だい、零士?』
 そうすれば、シャーリィもまた同じく、声音を深刻な風に切り替える。カチンと小さな金属の音が電話越しで微かに聞こえてきたのは、きっとシャーリィが咥えたマールボロ・ライトの煙草にジッポーで火を付けようとしているからだろう。真面目な話をするときにはどうしても煙草が欠かせないのが、シャーリィの習性だ。
「彼女――ノエル・アジャーニは、何なんだ?」
『何なんだ、と訊かれてもね。質問の主語が見えない以上、私にはその問いに答える術がないワケだが』
 こんな言い回しで切り返してくる辺り、腐っても教師らしいというべきか。回りくどいような彼女の言い方に辟易し、零士は溜息をついて。それから「簡単な話だ」と続ける。
「何故、彼女を俺に付けた?」
『理由が必要なのかい?』
「訊いておきたいまでだ」と、零士。「それに……アンタがノエルに、わざわざ"ミラージュ"なんてコードネームを付けた理由わけも」
『今はまだ、君が知る必要はないよ』
「つまり、俺への当てつけってワケか?」
『そんなワケないじゃないか、他でもない私と君との仲なんだからね』
「じゃあ、何故言わない?」
『今はまだ、知る必要がないからさ。ニード・トゥ・ノゥ。君にだけは出来る限りの情報を開示するのが私のモットーだけれど、今はまだ言えないんだ。彼女の……ノエルのことに関しては』
 こうなると、シャーリィは意地でも口を割らないだろう。シャーロット・グリフィスとはそういう女だ。普段はあんなに気の抜けた風でも、根本的にはかなり芯の強い女だ。でなければイギリス諜報部・MI6や、SIAのエージェントとして活躍することなど、ハナから出来ていなかったはずだ。
「……分かったよ、ノエルのことに関して、今は何も訊かないでおく」
 だから零士は、溜息交じりながらもあっさりと諦めた。彼女との付き合いはかれこれ十数年近くになる。シャーリィのことを誰よりも分かっていると自負する立場だからこそ、零士はサッパリ諦めたのだった。
『悪いね、またその任務が終わった頃に話すよ、彼女のことは色々と』
「そうしてくれると、助かる」
 零士は言うと、その後で「……だが」と続け、
「…………当てつけじゃないとしたら、何故ノエルにあのコードネームを――"ミラージュ"のコードネームを与えたりなんかした?」
『色々な意味はあるよ? だけれど、これも今の君に話すワケにはいかないんだ。申し訳ないけれどね』
「……そうか」
 落胆したように、零士は肩を落とす。出来ることなら、それだけでも知っておきたかった。零士にとってはあまりに因縁の深い、そして愛おしくも哀しい響きに聞こえる特別なコードネーム。蜃気楼を意味する"ミラージュ"の名を彼女に与えた理由だけでも、知っておきたかったのだが。
『まあ、君の新しい相棒バディに相応しい名だからってことだけは。理由の内の一つだけは、出血大サービスで教えておいてあげようか』
 すると、シャーリィもまた電話越しにそんな零士の落胆を感じ取ったのか。仕方ないな、といった風な口調でそう、理由の一つを明かしてくれた。
「俺の……相棒バディ?」
『そうさ』と、シャーリィ。『ともかく、ノエル自体は信頼できるだ。実力もあるし、何があっても君を裏切るような真似はしないだろう。これだけは、シャーロット・グリフィスの名にかけて保証する』
「シャーリィがそこまで言うのなら、俺は彼女を信じるが」
 それにしても、相棒バディか――――。
 二度と、誰かとそんな関係を組むコトなんて無いと思っていたのに。自分はこのまま、今のままの一匹狼ローン・ウルフのままで戦い続けていくものだと、そう思っていたのに。運命は、そしてシャーリィは随分と残酷なことをしてくれるものだ。零士はそう思うと、自嘲するような参ったような、そんな複雑な感情の入り交じった表情を独り浮かべていた。
『大丈夫さ、ノエルはいいだよ。こんな稼業、とても似合わないぐらいにいいだ』
「……俺も感じたよ、それは」
 フッと微かな笑みを浮かべながら、零士が返す。
「本当に俺と同じ世界の人間だってことが、信じられないぐらいだ」
『同感だよ、零士。でもね、ノエルにもノエルなりに、戦う理由があるんだ。
 ……嘗ての君と同じように、ね』
 何処かに含みを込めたシャーリィの言葉が、左耳に当てたスピーカーから聞こえると同時に。背にした扉越しで微かに浴室から聞こえていたシャワーの水音が止まったのを、零士の耳は敏感に捉えていた。
「とにかく、シャーリィがそこまで言うのなら、俺はノエルを全面的に信じてみることにする。
 ……切るぞ。また何かあれば連絡する」
『ああ、気を付けるんだよ零士』
「今更、アンタに言われるまでもない」
『そうだったね……』
 そこで、長々と続いていた国際電話が切れた。零士はスライドし元のサイズに戻した携帯をベッドの上に放り投げれば、ふぅ、と大きな溜息をついた。
「ノエル・アジャーニ、それに"ミラージュ"か……」
 薄暗い部屋の中、零士は独り立ち尽くし。しかし回り回る自らに課せられた運命の歯車が、微かな音を立ててその軌道を交え始めていることに、彼は気が付かないままだった。
 近づくもう一つの歯車と……ノエル・アジャーニのそれと噛み合い、交わり。互いが互いに噛み合って、確かに運命の行く先を変えていることに、零士は気が付かないまま。ただ、もう暫くの間をその薄暗い部屋の中で立ち尽くしていた…………。
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