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全てを抱えて、ただ、前へ

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「次こそは、た、退治してやるぅうっ。化物娘ぇ」
 
    源太は大きな声で叫ぶと、次の矢をつがえて構えた。
 大猪の兄弟はその様子にギラリと目を光らせ、猛烈な気概を躰に毛並みに纏い際立たせながら、「ぶいっ」と一声鋭く鳴くと、源太に突進を開始した。
 力強い四肢が土を蹴り上げ、その勢いたるや、触れるもの全てをなぎ倒すのではないかと思われるほどであった。それが二頭である。

「猪なんかにやられるかよっ」

 源太は、跳ね飛ばされるかと思われた矢先、実に素早く近くの大岩に駆け上がると、避けるだけではなく、直線的ではあるが突進する猪相手に矢を射掛け、見事命中させていた。
 大猪の兄弟も流石はこのあたりの山の主である。
 背に刺さった矢など欠片ほども気にも止めず、源太をつけ狙う。

 お市は目を瞠った。
 源太のその動きは、辰吉と同じように、余りにも素早く、余りにも的確であった。前とはまるで人が違う。
 それを察知したのか、ニヤリと源太が笑い、その口元から、一瞬、何やら黒い煙のようなものが立ち上ったように見えた。
 源太は、お市を睨みつけながら叫んだ。

「化物娘っ。ようく聞けっ。お前を退治する力を俺は、授かったんだああ。お前だけじゃあ無ぇんだっ。てめぇらっ、やれっぇぇ」

 音もなく、幽鬼じみた顔つきの山犬達が、唸り声すら上げず、いきなり、猪たちに襲いかかった。
 獣たちに察知されなかった源太と、源太の声で襲い掛かる、闇から湧いたような餓えた山犬達。
 まるで物の怪である。
 だが、お市はその幽鬼めいた山犬達を怖いどころか、哀しみと痛みをもって見つめていた。

「あの子達に何をしたのっ!」

 意志の光をその目に宿し、源太を睨みつける。

「ま、又その目かぁっ。だがなぁ、も、もう怖くねえ」

 怯む源太に、追い打ちを掛けようと足を踏み出した。
 と、山犬達と丁々発止を繰り広げていた猪の一頭がが悲鳴をあげ、どうっと倒れた。矢を射られた方である。
 二頭の連携が乱れた途端、山犬達は猪たちを引き倒し、噛み裂いて、血に狂い喰らい始めた。

「化物娘に操られる獣共も、普通に毒で殺せるなぁ」

「茶絞り、豆柄っ」

 お市が悲鳴を上げた。
 その声に庇い建てようと動いたアオは、声を立てずに、地響きが鳴るほどに勢いよく地に倒れた。

「アオッ」

 お市の眼が気持ちがアオに全て向いた刹那の隙を、源太はドンピシャにとらえ、ニヤリとうすら笑いを殺気と共に浮かべた。

「へっ、化物女、死ねや」

 毒矢をつがえて構えるその狙いは、ピタリとお市の心の臓辺りに付けられている。
 弓が引き絞られ、放たれようとしたその時である。

「シャアアアッ」

 鋭い威嚇の声とがしたかと思えば、

「ぐぎゃっ」

 源太が変な叫び声をあげ、弓を取り落とし片眼を抑えた。抑えたところからは、血がにじんでいる。

「くそがあ、くそがあ、痛ぇええぇ」

 喚きながら、すぐさま、腰に差していた刀を振り回すが、黄色い影はひらりひらりと躱すと、あっという間にお市の足元へとやってきた。

「にゃんっ」

 待たせたわ、と言わんばかりに、尻尾をゆらゆらと揺らしながら、毛並みのいいトラ猫が、お市を見上げていた。
「山吹さん……やっぱりそうなのね。山吹さん。いつも危ない時に……ありがとう」

 お市の声に山吹は振り返ると、

「わーおわわーお」

 と油断するなと言わんばかりに、怒りの声と共に源太に睨んだ。
 その目線の先には、燃える様な眼をした山犬達が、口から血を滴らせながら、こちらを振り返っている。
 片目を抑えながら源太は喚き散らした。

「糞があぁあ、痛えぇ、痛えぇえ。テメエらっ、化け物娘を食い殺しちまえっ」

 幽鬼の如き山犬達は、その声に従い、あばらの浮いた躰をゆっくりと向けながら、何の声も発さずに、お市へと静かに殺気を放つ。
 最早、魔物である。
 だが、お市は、はたと、闇かと見紛う山犬達を見つめて、視線を外さない。

「そう……、辛いのね、貴方達も。だからといって、そんな薄暗いものに呑まれては駄目。牙を噛み鳴らして踏ん張んなさい」

 お市の朗とした声が、山犬達に突き刺さり、一瞬怯んで、普通の顔に戻った。
 だが、源太がどんっと大きな音を立ててつつ、地を踏みつけて、

「なにやってやがる。喰らえっ、殺せ。存分に憂さをはらせぇええっ」

 と叫ぶと、山犬達は再び、幽鬼のような顔つきに戻り、静かな殺気を放ち、お市達へと殺到する。

「おおーんっ」

 狼の遠吠えが一つ力強く奔り、山犬達は動きを止めた。
 おおーんっ、おおーんっ。
 狼達の遠吠えが重なり覆い被さる。
 山犬はその声に気を取られて足を止めており、その間を黒い旋風が走り抜けた。
 旋風は、お市に向かう山犬達を次々に薙ぎ払うと、山犬達の前に立ちはだかった。

「ぐるるるるっ」

 鬼をも噛み殺さんばかりの勢いの黒丸であった。
 その気勢は激しく、幽鬼のような山犬達を尻込みさせるほどである。
 それだけではない。
 灰王率いる狼の一団が、低い唸り声をあげながら、輪のように山犬達を取り囲み、睨み合いをしつつ動きを封じた。

「黒っ、灰王っ、しばらくお願いっ」

 お市はそう叫ぶと、アオの矢を引き抜き、傷口を竹筒の水で洗い流し、懐から四角く切った炭の塊と、どくだみ草を口に放り込み、咀嚼すると、躊躇わず傷口から毒を吸い出す。
 すぐそばに湧き出ている泥水で、口を漱ぎ、何度か血を吸い出した。
 アオはぶるるっと小さく嘶いて、お市を鼻先で小突いた。

 やめろ。先にすることがあるだろう。あれを放っておいてはいけない。

 お市の胸にアオの気持ちが流れ込む。
 下唇をぎゅっと噛んで、覚悟を決めた。
「アオ、アオ、御免、御免なさい。あたし――」

 俯くお市の頬に一条二条と光るものを、袖口でぐいと力任せに男の子の様に拭き取り、すっくと立ちあがって、源太を真っ直ぐに睨みつけた。
 その瞳に在るものは、哀しみであり、怒りであり、恐怖であり、憎しみであり、命への愛しさであり、万感の想いが意志と共に渦巻いて光となっている。
 お市はありのままの自分から目を背けず、自分の想いを受け止めて、

(皆の幸せを乱させはしない。悲しみはもう沢山)

 と強い祈りに変えた。

「もう誰も、悲しませたくない。だから前に進むのっ。意気地なしだからこそ前へ」

 誰に言い聞かせるでもない、言葉が口をついた。
 もう、震えていない。
 涙も止まっていた。
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