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山鴉、不吉を告げる

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人死にの有った捕り物から十五日程経ち、湯の町の騒動もひと段落して、いつもと変わらぬ生活に戻っていた。
 代官所の番人が時折姿を見せるくらいで、沢山いた侍達も今は番屋に二人ほどで、藤次郎は、人死にの有った大騒ぎなどなかったことにされているのではないか、と思うほどであった。

「皆、働いて口凌ぎをし、今日と明日の為に頑張ってんだよ。何時までも後ろを向いて歩くわけにもいかねえし、悪い事じゃあ無い。用心は俺たちが重ねりゃあいい」

 辰吉はそう言っていたのだが、どうにもこうにも不安が多く、釈然としない。
 少しでも手を打たないと。
 じわじわと焦る藤次郎は、黒丸の湯治を兼ねた治療をしているお市の許へ、息せき切って押しかけて来たのだ。

「姉さん。どうだい?」

「…………」

 どう、と言われてもお市は答える事が出来なかった。
 いきなりに、今ここに鳥獣はどれだけいるかだの、あそこの小鳥に乗り移れだの、弟ながら頭がおかしいのかと思う様な事ばかり言ってきている。

「無理だって言っているでしょう。アンタね。見世物じゃあ無いんだから、はいそうですかって出来るモンじゃあ無いのっ」

「それじゃあ、駄目なんだ。そうだ黒丸ならどうだい。気心の知れた仲なんだし」
 
 お市は思った。
 これは駄目だ……。
 藤次郎が、色々考えていてくれているのは良く判る。
 それでも、焦り過ぎだし、気がはやる気持ちは分かり過ぎるくらいに分かるけど、流石にこれでは話にならない。
 少しばかりお灸をすえてやろう。

 お市はしゃがみこんで、黒丸のあぱんとした表情の顔を手で挟み込み、耳元でひそひそと藤次郎に聞かれない様に話をした。
 黒丸は目と鼻をやられてまだ完全ではないが、お市の手並みによって失明したりするような事も無く、腫れや爛れはかなり引いて、もう一息という処まで回復していた。
 
 大人しくしているようお市にきつく言われているので、ここ二日ばかりじっとしているが、本当は遊びたくてうずうずしているのだ。
 黒丸は藤次郎が来たことではしゃいでいる。
 それならば、思いっ切り遊ばせてやろう。

 お市は黒丸に何やら話をしていたが、急にがっくりと項垂れた。
 同時にすっくと黒丸が立ち上がると、藤次郎の前に座った。

「乗り移りが上手くいったんだ。姉さん、姉さんだよね」

 藤次郎を見つめる黒丸の尻尾がパタパタしている。
 藤次郎は目敏く気付くと、振り返った。

「何だい。からかったな」

 振り返った先には手桶にお湯をたっぷりといれたお市が居た。

「禊をして進ぜる。感謝せよ」

 そうお道化ると頭にお湯を掛け流した。
 避けようにも着物の裾を咥えて離さない黒丸も居る。
 ざぶり。
 頭からお湯を滴らせた藤次郎は、眼の前で尻尾を千切れんばかりに振りながら、期待に満ちた表情の黒丸を見て、小さくため息をついた。 
 そして水柄杓を手に、

「不埒者めらがっ。おつかわし屋が長男にしてその名を馳せた藤次郎と知っての乱暴狼藉かっ。そこへ直れっ」

 とお市と黒丸へ振りまいた。

「わんっわんっわんっ」

 黒丸が尻尾を立ててそれは楽しそうに元気に走り回る。
 お市も藤次郎も目を細めてその様子を見ていた。
 毒粉にやられた直後を考えたら、見違えるようだ。

「おのれっ、黒い獣めっ。貴様等こうしてくれるわっ」

 藤次郎が水柄杓でお湯を掬って振りまき、それを嬉しそうに右へ左へ躱す黒丸。
 今までの事。
 そしてこれから起こるであろう事は、お市や藤次郎の手には有り余る程、辛くて厳しい現実である。
 そんな事を、束の間でも頭の中から追い出すべく、二人と一頭は喜び遊び声を上げて笑っていた。

「獣めぇっ、討取ったりぃ」

 藤次郎が黒丸を抱え上げようと時、遠くで激しく騒ぐ鴉達の声がした。
 お市が見張りを頼んでおいた墨助たちの山鴉が、気をつけろと声高らかに知らせているのだ。
 たちまちお市の顔色が変わる。

「あいつが居る。あの怖い男が近くにいる」

 唇を嚙みしめると、俯くお市は大きく深呼吸をした。

「やらせないっ。誰も、一人も傷つけさせない。アタシには山神様がついているもの。頼もしい家族が居るし、山の皆が居てくれるもの」

 キッとした眼差しで顔を上げるお市の瞳は、何ものにも揺るがない気持ちがある。
 そして、それに反して怖さで震える拳と震えてしまう足があった。

「市の馬鹿ッ。意気地なしっ、しっかりしろ」

 足をどんどんと踏み鳴らし、両手で頬っぺたを叩いていい音を立てた。

「よっしやぁあっ」

 お市は黒丸を促し、背負子の籠に入れ込むと、

「墨助達が教えてくれたの。ぼさっとしないで、行くよ。藤次郎」

 振り返らず、怖いのに足を止めず、安楽豊屋へ向かって走り出した。
 藤次郎は懐に石ころを三つほど拾ってそのうちの一つを手拭に包み込みながら、あの細い体の何処にあんな力を蓄えているのだろうと思いつつ、急いで後を追った。
 藤次郎は、お市のお蔭で怖さを感じずに済んでいる事にまだ気づいてはいない。
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