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くすみのない笑顔と桜色の想い
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湯之町、草津。
大昔より温泉で名を馳せるこの町に着くや否や、お市も藤次郎もお福も、その溢れるばかりの活気と熱気に押され気味で大層驚いていた。
行き交う人々の多さに比類する居並ぶ沢山の出店に、道筋の奥迄続く湯屋旅籠の軒先は六十数余を数え、先が見えない。
目を瞠る藤次郎に、辰吉がニヤニヤしながら藤次郎へ耳打ちした。
「藤坊。藤坊は初心で男前だ。宿客引きの白粉女の色香に見とれて攫われるんじゃあ無えぞ。宿の奥まで押し込まれて、裸の年増女に囲まれてべそを掻いても知らないからな」
お市は、お市で温泉場の独特な華やいだ雰囲気に、目をキョロキョロさせていた。
「湯治場は初めて来たけど、板橋宿とはまた違った感じがするのね。藤次郎は綺麗な女の人を見られて眼福ね」
藤次郎に当てこする事を忘れない。
珍しくも言い返せず、赤面する藤次郎の眼先に、赤い肌襦袢に真っ白な太腿を露わにした客引き女が、しなを造りながら迫って来る。
「あらぁ、先が楽しみな綺麗な顔した和子だ事。女をまだ知らないのなら、お姐さんが教えてあげるわ。勿論おあしだなんてけち臭いことは云わないわよ」
「折角のお誘いでございますが、私共、湯元長者様へ御用が御座いますので、先を急ぎます。御免下さいませ」
間を断ち切るように、普段のお福からは想像もつかない様な、はっきりとした大きな声で機先を制した。
「あれま、これまたお綺麗な弁天様だ事。湯気の河原の錦なりけりってところかしら。弁天様が一緒なら秋の吐息もままならずね」
そう客引きの白粉女は呟くと、思いの外朗らかな笑顔で教えてくれた。
「迷惑ついでに弁天様。ここいらじゃあ長者様ではなくて、湯守様で通っているから、湯守様御用と声をかければ、皆、道行は邪魔しないよ」
「これは丁寧に、有難うございます」
しっかりと頭を下げるお福に、
「止して下さい。貴女みたいな人が、アタシなんかに頭、下げちゃ駄目ですよ。評判を落としてしまう」
と、はすっぱな言葉すら忘れて、目線を逸らした。
存外初心なのかもしれない。人の良さが何となく滲み出ているのだ。
万事に卒のない辰吉は、白粉女の手を取って、そっと小銭を握らせ、耳打ちした。
「心尽くしを有難うよ。助かる。姐さんだけだよ。他の連中には内緒だ」
握った手を開いて思いの外の額の多さに、驚いた白粉女は、先へ進むお市達へ、
「アタシは小春って言います。何時も此処にいるので、何かあったら声掛けて」
と、大きな声と笑顔で見送った。
お市と藤次郎も、小春と名乗った白粉女の人の良さは感じ取っていた。
藤次郎はしみじみと、どちらかというと大人びたというより、じじむさく言った。
「おっ母さん。今の小春という女人は、人柄もかなりよろしいですが、それなりの学もお有りかと存じます。あの例えは……」
「百人一首の詠まれたものからの例えでしょうね。お市も見たことあるでしょう?」
お市はしばし考え込んでいたが、あっという顔をした。
「御婆様の宝物の貝合わせの御歌ね」
あんな人が何故、あのような生業をするようになってしまったのか。皆、同じ思いが胸をよぎってはいたが、其の事を決して口にしてはいけないことも良く分かっていた。
お市と藤次郎はまだ子供であるが、世の中の酷な事は少しばかり身知って居る。
そんな空気を掻き消そうと、藤次郎が鴉の墨助の傷を見ながら、口を開いた。
「姉さん。湯治は鴉にも大丈夫なのかなあ」
「ものにもよると思うけど、墨助が嫌がるところだけは止しておいたらどうかしら」
先頭で歩く辰吉とお福は、二人のそんな会話に慰められながら、少しばかりの道のりを結構な時間をかけて進んでいった。
それ程狭い道幅ではない処で、ごった返す人や物を避けると、目の間に客引き女が立ちはだかると言った塩梅だったのだ。
ただ、それでも小春の言う通り、「湯守様御用」と声を出しながら歩けば、店の者達は皆道を開けてくれ、思いの外順当ではあったのだが。
人と時折立ち込める湯煙を払いつつ、どうにかこうにか湯元長者の許へ辿り着いた。
瓦を練り込んだ漆喰の塀壁に、屋根瓦のついた重厚な造りの門構えは、一見すると屋敷というより、小さな城を思い起こさせる。
「あら、まあ。随分と豪勢なお屋敷ね」
「姉さん。声が大きい」
辰吉は二人に笑顔で語り掛けた。
「湯元長者様の御一族は、古くからこの一帯を取り仕切っていた御家柄だそうだ」
お福は二人を交互に見やると、しっかりと言い聞かせた。
「お市、藤次郎。元々お武家様で、御家老様までお勤めになるようなお家です。分かっているとは思いますが、御無礼の無い様にくれぐれも気を付けるのですよ」
「はあい」
「はい」
二人の返事にお福は少し安堵した表情を浮かべた。
二人とも照とお福が仕込んだ、礼儀作法が身に染みている。早々襤褸を出すことも無いだろう。
そう思うお福に、態と心配でもかけるかのように、お市はあれやこれやと目を配りながら、興味深げに尋ねた。
「ねえ、辰じい。古いってどれくらい古いの」
「ああ。何でも、源平の頃からはこの辺りを治めて居たって話だからなあ。相当だろう」
お市は目を丸くした。
「へえ、凄く古いんだなぁ。そういえばこの温泉町自体、彼方此方古ぼけていそうだものね」
「だから、姉さん声が大きいっ」
真面目な顔をして姉に説教をしようと、藤次郎が口を開きかけた時、笑い声が聞こえた。
お屋敷の裏木戸で皆の来着を待ち構えていたこの屋敷の使用人のようだ。
「いや、御無礼を致しました。お話がついつい耳に入ってしまいまして。若くて綺麗なお嬢様に湯治場というものは、縁の無い退屈な処でしょう。言い得て妙とはまさにこのこと。しかし、先程のお嬢様のくすみの無い笑顔にこそ、真が乗っておられる様にお見受け致しました。そんなに悪い所でもないでしょう」
何ていい笑顔するのかしら。
くすみの無い笑顔。
この言葉にお市はドキリとし、その笑顔に釘付けになりながら、言葉にまつわる幼い時分のことを、思い出していた。
祖父の初次郎が婚礼に呼ばれての帰りである。
お市は、小さな鯛の形をした砂糖菓子をお土産に貰った。
真っ白な懐紙の上に、桜色をした小さな鯛が数尾踊っている。
見た事の無い見事な細工に、幼いお市は食べることすら忘れて、忽ち夢中になった。
そんな喜び勇むお市を見て初次郎は、頭を撫でながら言った。
「お市も何れは白無垢を着て、嫁いでいっちまうんだなあ」
「嫁ぐってなあに」
「花嫁になるってことさ。好きな人と一緒になる為に祝言を挙げるって事だな」
「おじい、どうしよう」
急に泣きそうになるお市に初次郎は慌てた。
「なんだ。どこか痛いのか」
「ううん。あたし、おじいと、御婆と、父さまと、母さまと、藤次郎と、お花ちゃんと、みんなと祝言まだ挙げていないの」
「そうか。大好きな皆と祝言を挙げるか。そいつはまた、随分と豪儀だ」
わっはっは。
初次郎はお市の答に腹を抱えて大きくそれは愉快に笑った。
お市も、べそを掻いていたという事すら忘れて笑ってしまう程、明るい笑顔であった。
「豪儀ついでに、お前の婿にする男は笑顔にくすみの無い、ピカピカした性根の奴にするんだぞ。ほれっ」
初次郎はそう言うと、鯛の砂糖菓子を一つつまむと、お市の口にそっと入れながら、いい笑顔で笑いかけてくれた。
口の中に拡がる初めての上等の砂糖の甘さと共に、以来、くすみの無い笑顔という言葉はお市の胸の奥に、密やかにそしてしっかりと刻み込まれている。
さして男前でもないが、とても実直そうなその青年から、何やら爽やかな風が吹いてくる気がして、気恥ずかしくなってしまった。
くすみの無い笑顔ってこういう事なのかしら。おじい。
急に黙りこくったお市に、清七は怒らせてしまったのかと大きな勘違いをし、慌てて平謝りした。
「横から御無礼を申しまして相済みません。ご勘弁下さい。手前はここの御屋敷、湯本様の手代、清七と申します。おつかわし屋の皆様をご案内するように、申し遣っております者で御座います。お嬢様、皆々様、この通りご勘弁を」
そのまま、清七は土下座でもしそうな勢いである。
お福は、ぼんやりとしているお市の手を取ると、清七へすかさず歩み寄り、
「そんな滅相も無い。こちらこそ、不躾な物言い、お恥ずかしい限りで御座います」
本来この後もお福が応えるのが筋なのだが、お市に挨拶するように促した。
お市は、我に返り居住まいを直すと、
「私共は、おつかわし屋二代目初次郎の名代で御座います。此処にいるのは、初次郎の妻が福。その隣が大番頭の辰吉。小僧は初次郎が一子藤次郎と申します。そして私は……私は娘の市と申します」
と挨拶をした。お福はお市に、更にお詫びをするように促した。
「ほら、しっかりと、お詫び申し上げなさい」
「あたしったら、ぼんやりしてしまって、その、口性もなく御免なさい」
慌てて勢いよく、頭を下げたのだが、その拍子に茜色の珠簪が落ちてしまった。
「おっと、いけない」
清七がそう呟いて、珠簪を拾おうとした時、すかさず、黒丸が嬉しそうにぱくりと咥え、二人を見据えながらお座りすると、尻尾を振った。
清七は黒丸に、優しく真顔で声をかけた。
「なあ。何処から迷い込んだかは知らないが、それは喰えないぞ。それは、此方のお嬢様の大切な物だ。何とか返して呉れ。返して呉れるなら、引き換えに何か美味いものをやろう。山鯨も数切れあるし約束は反故にはしないよ」
黒丸はわふっと一声上げると、簪を清七の足元に置いて、どうだとばかりに見上げた。
「そうかい。有難う」
黒丸の頭をワシワシと撫でると、簪を拾い、懐から手拭を取り出し、丁寧に拭ってお市へと返した。
「傷とか無いとは思いますが、差し出がましい真似を致しました」
お市は大変驚いた。藤次郎もお福も辰吉も、おつかわし屋の皆が驚いた。
黒丸は確かに人懐っこい。
知らない者でも好意を向けてくれる者であれば、撫でられるのが大好きなそんな犬だ。
だが、お市の物を拾って見知らぬ者に渡すという事は、全くと言っていいほど考えられない。
甲斐犬の性分である一代一主の頑なさは伊達ではないのである。
そして皆そのことはよく分かっていた。
なのに、である。
黒丸が家族以外で認めた初めての相手であった。
「あ、有難うございます」
たどたどしくお礼を言うお市は眩しいものを見る様に清七をみていた。
「ここまでの道のり、変な客引きがご迷惑をお掛けしませんでしたか」
お福と辰吉に向かって、清七が声を掛け、お福が花の香がするかのような優しい笑顔で答える。
「いえ、入り口で小春さんという飯場の方に、御親切にも声がけを教えて頂きまして、遅滞なく罷りこす事が出来ました」
「そうですか。小春が……。憐れな身の上ではございますが、腐らず外れず恨まずの、性根のある気立ての良い娘で御座います。御不快な思いをもしかしたらされたかも知れませんが、大目に見て頂けると幸いです」
実に子気味の良い気配りである。
辰吉がいたく気に入ったようで、清七の肩を叩いて軽快に語りかける。
「いやあ、草津もすっかり取り戻したどころか、前よりも更に賑々しくなって、大したモンだ。これも長者様の差配と皆さまがあっての事でしょう」
「そう言って頂けると、主人も喜びましょう。私が今回の皆さまの全ての手配りを整えさせて頂きます。主人からは不在に関してよくよくお詫び申し上げる事と、此度の一件について、くれぐれも万事お助けせよと、きつく命じられておりますので、何なりとお申し付け下さい。ささ、皆さまもお疲れで御座いましょう。先ずは逗留のお宿までご案内致します。取り急ぎ其方へ参りましょう」
清七は否も応も答える隙間を与えず、宿へと向かい始めた。
「宿へは遣いも出しておりますし、お目当てのものはそちらに全て揃っておりますので」
清七は何げなくアオの轡をとろうとして、轡が無い事に驚いていた。
「いやあ、驚きました。この馬は轡も無いのに、こんなに大人しく言う事を聴くのですね。流石は噂に名高いおつかわし屋さん。真に素晴らしい限りです」
そう言うと、アオの顔を撫でた。
ひねくれもののアオが噛みつきもせず、初見の人間に大人しく触られている。
これにもお市も含めて凄く驚いていた。
「アオを初対面で触れるなんざ、大したもんだ。おつかわし屋に欲しいくらいだな。うちで嫁でも貰ってさ。清七さん、鞍替えする気はないかい?」
本気とも冗談とも判らない軽口を叩いて居る辰吉の横で、お市の顔はほんのり桜色に染まっているかの様あった。
元より日に焼けた肌をしているので、確かめようは無い。
大昔より温泉で名を馳せるこの町に着くや否や、お市も藤次郎もお福も、その溢れるばかりの活気と熱気に押され気味で大層驚いていた。
行き交う人々の多さに比類する居並ぶ沢山の出店に、道筋の奥迄続く湯屋旅籠の軒先は六十数余を数え、先が見えない。
目を瞠る藤次郎に、辰吉がニヤニヤしながら藤次郎へ耳打ちした。
「藤坊。藤坊は初心で男前だ。宿客引きの白粉女の色香に見とれて攫われるんじゃあ無えぞ。宿の奥まで押し込まれて、裸の年増女に囲まれてべそを掻いても知らないからな」
お市は、お市で温泉場の独特な華やいだ雰囲気に、目をキョロキョロさせていた。
「湯治場は初めて来たけど、板橋宿とはまた違った感じがするのね。藤次郎は綺麗な女の人を見られて眼福ね」
藤次郎に当てこする事を忘れない。
珍しくも言い返せず、赤面する藤次郎の眼先に、赤い肌襦袢に真っ白な太腿を露わにした客引き女が、しなを造りながら迫って来る。
「あらぁ、先が楽しみな綺麗な顔した和子だ事。女をまだ知らないのなら、お姐さんが教えてあげるわ。勿論おあしだなんてけち臭いことは云わないわよ」
「折角のお誘いでございますが、私共、湯元長者様へ御用が御座いますので、先を急ぎます。御免下さいませ」
間を断ち切るように、普段のお福からは想像もつかない様な、はっきりとした大きな声で機先を制した。
「あれま、これまたお綺麗な弁天様だ事。湯気の河原の錦なりけりってところかしら。弁天様が一緒なら秋の吐息もままならずね」
そう客引きの白粉女は呟くと、思いの外朗らかな笑顔で教えてくれた。
「迷惑ついでに弁天様。ここいらじゃあ長者様ではなくて、湯守様で通っているから、湯守様御用と声をかければ、皆、道行は邪魔しないよ」
「これは丁寧に、有難うございます」
しっかりと頭を下げるお福に、
「止して下さい。貴女みたいな人が、アタシなんかに頭、下げちゃ駄目ですよ。評判を落としてしまう」
と、はすっぱな言葉すら忘れて、目線を逸らした。
存外初心なのかもしれない。人の良さが何となく滲み出ているのだ。
万事に卒のない辰吉は、白粉女の手を取って、そっと小銭を握らせ、耳打ちした。
「心尽くしを有難うよ。助かる。姐さんだけだよ。他の連中には内緒だ」
握った手を開いて思いの外の額の多さに、驚いた白粉女は、先へ進むお市達へ、
「アタシは小春って言います。何時も此処にいるので、何かあったら声掛けて」
と、大きな声と笑顔で見送った。
お市と藤次郎も、小春と名乗った白粉女の人の良さは感じ取っていた。
藤次郎はしみじみと、どちらかというと大人びたというより、じじむさく言った。
「おっ母さん。今の小春という女人は、人柄もかなりよろしいですが、それなりの学もお有りかと存じます。あの例えは……」
「百人一首の詠まれたものからの例えでしょうね。お市も見たことあるでしょう?」
お市はしばし考え込んでいたが、あっという顔をした。
「御婆様の宝物の貝合わせの御歌ね」
あんな人が何故、あのような生業をするようになってしまったのか。皆、同じ思いが胸をよぎってはいたが、其の事を決して口にしてはいけないことも良く分かっていた。
お市と藤次郎はまだ子供であるが、世の中の酷な事は少しばかり身知って居る。
そんな空気を掻き消そうと、藤次郎が鴉の墨助の傷を見ながら、口を開いた。
「姉さん。湯治は鴉にも大丈夫なのかなあ」
「ものにもよると思うけど、墨助が嫌がるところだけは止しておいたらどうかしら」
先頭で歩く辰吉とお福は、二人のそんな会話に慰められながら、少しばかりの道のりを結構な時間をかけて進んでいった。
それ程狭い道幅ではない処で、ごった返す人や物を避けると、目の間に客引き女が立ちはだかると言った塩梅だったのだ。
ただ、それでも小春の言う通り、「湯守様御用」と声を出しながら歩けば、店の者達は皆道を開けてくれ、思いの外順当ではあったのだが。
人と時折立ち込める湯煙を払いつつ、どうにかこうにか湯元長者の許へ辿り着いた。
瓦を練り込んだ漆喰の塀壁に、屋根瓦のついた重厚な造りの門構えは、一見すると屋敷というより、小さな城を思い起こさせる。
「あら、まあ。随分と豪勢なお屋敷ね」
「姉さん。声が大きい」
辰吉は二人に笑顔で語り掛けた。
「湯元長者様の御一族は、古くからこの一帯を取り仕切っていた御家柄だそうだ」
お福は二人を交互に見やると、しっかりと言い聞かせた。
「お市、藤次郎。元々お武家様で、御家老様までお勤めになるようなお家です。分かっているとは思いますが、御無礼の無い様にくれぐれも気を付けるのですよ」
「はあい」
「はい」
二人の返事にお福は少し安堵した表情を浮かべた。
二人とも照とお福が仕込んだ、礼儀作法が身に染みている。早々襤褸を出すことも無いだろう。
そう思うお福に、態と心配でもかけるかのように、お市はあれやこれやと目を配りながら、興味深げに尋ねた。
「ねえ、辰じい。古いってどれくらい古いの」
「ああ。何でも、源平の頃からはこの辺りを治めて居たって話だからなあ。相当だろう」
お市は目を丸くした。
「へえ、凄く古いんだなぁ。そういえばこの温泉町自体、彼方此方古ぼけていそうだものね」
「だから、姉さん声が大きいっ」
真面目な顔をして姉に説教をしようと、藤次郎が口を開きかけた時、笑い声が聞こえた。
お屋敷の裏木戸で皆の来着を待ち構えていたこの屋敷の使用人のようだ。
「いや、御無礼を致しました。お話がついつい耳に入ってしまいまして。若くて綺麗なお嬢様に湯治場というものは、縁の無い退屈な処でしょう。言い得て妙とはまさにこのこと。しかし、先程のお嬢様のくすみの無い笑顔にこそ、真が乗っておられる様にお見受け致しました。そんなに悪い所でもないでしょう」
何ていい笑顔するのかしら。
くすみの無い笑顔。
この言葉にお市はドキリとし、その笑顔に釘付けになりながら、言葉にまつわる幼い時分のことを、思い出していた。
祖父の初次郎が婚礼に呼ばれての帰りである。
お市は、小さな鯛の形をした砂糖菓子をお土産に貰った。
真っ白な懐紙の上に、桜色をした小さな鯛が数尾踊っている。
見た事の無い見事な細工に、幼いお市は食べることすら忘れて、忽ち夢中になった。
そんな喜び勇むお市を見て初次郎は、頭を撫でながら言った。
「お市も何れは白無垢を着て、嫁いでいっちまうんだなあ」
「嫁ぐってなあに」
「花嫁になるってことさ。好きな人と一緒になる為に祝言を挙げるって事だな」
「おじい、どうしよう」
急に泣きそうになるお市に初次郎は慌てた。
「なんだ。どこか痛いのか」
「ううん。あたし、おじいと、御婆と、父さまと、母さまと、藤次郎と、お花ちゃんと、みんなと祝言まだ挙げていないの」
「そうか。大好きな皆と祝言を挙げるか。そいつはまた、随分と豪儀だ」
わっはっは。
初次郎はお市の答に腹を抱えて大きくそれは愉快に笑った。
お市も、べそを掻いていたという事すら忘れて笑ってしまう程、明るい笑顔であった。
「豪儀ついでに、お前の婿にする男は笑顔にくすみの無い、ピカピカした性根の奴にするんだぞ。ほれっ」
初次郎はそう言うと、鯛の砂糖菓子を一つつまむと、お市の口にそっと入れながら、いい笑顔で笑いかけてくれた。
口の中に拡がる初めての上等の砂糖の甘さと共に、以来、くすみの無い笑顔という言葉はお市の胸の奥に、密やかにそしてしっかりと刻み込まれている。
さして男前でもないが、とても実直そうなその青年から、何やら爽やかな風が吹いてくる気がして、気恥ずかしくなってしまった。
くすみの無い笑顔ってこういう事なのかしら。おじい。
急に黙りこくったお市に、清七は怒らせてしまったのかと大きな勘違いをし、慌てて平謝りした。
「横から御無礼を申しまして相済みません。ご勘弁下さい。手前はここの御屋敷、湯本様の手代、清七と申します。おつかわし屋の皆様をご案内するように、申し遣っております者で御座います。お嬢様、皆々様、この通りご勘弁を」
そのまま、清七は土下座でもしそうな勢いである。
お福は、ぼんやりとしているお市の手を取ると、清七へすかさず歩み寄り、
「そんな滅相も無い。こちらこそ、不躾な物言い、お恥ずかしい限りで御座います」
本来この後もお福が応えるのが筋なのだが、お市に挨拶するように促した。
お市は、我に返り居住まいを直すと、
「私共は、おつかわし屋二代目初次郎の名代で御座います。此処にいるのは、初次郎の妻が福。その隣が大番頭の辰吉。小僧は初次郎が一子藤次郎と申します。そして私は……私は娘の市と申します」
と挨拶をした。お福はお市に、更にお詫びをするように促した。
「ほら、しっかりと、お詫び申し上げなさい」
「あたしったら、ぼんやりしてしまって、その、口性もなく御免なさい」
慌てて勢いよく、頭を下げたのだが、その拍子に茜色の珠簪が落ちてしまった。
「おっと、いけない」
清七がそう呟いて、珠簪を拾おうとした時、すかさず、黒丸が嬉しそうにぱくりと咥え、二人を見据えながらお座りすると、尻尾を振った。
清七は黒丸に、優しく真顔で声をかけた。
「なあ。何処から迷い込んだかは知らないが、それは喰えないぞ。それは、此方のお嬢様の大切な物だ。何とか返して呉れ。返して呉れるなら、引き換えに何か美味いものをやろう。山鯨も数切れあるし約束は反故にはしないよ」
黒丸はわふっと一声上げると、簪を清七の足元に置いて、どうだとばかりに見上げた。
「そうかい。有難う」
黒丸の頭をワシワシと撫でると、簪を拾い、懐から手拭を取り出し、丁寧に拭ってお市へと返した。
「傷とか無いとは思いますが、差し出がましい真似を致しました」
お市は大変驚いた。藤次郎もお福も辰吉も、おつかわし屋の皆が驚いた。
黒丸は確かに人懐っこい。
知らない者でも好意を向けてくれる者であれば、撫でられるのが大好きなそんな犬だ。
だが、お市の物を拾って見知らぬ者に渡すという事は、全くと言っていいほど考えられない。
甲斐犬の性分である一代一主の頑なさは伊達ではないのである。
そして皆そのことはよく分かっていた。
なのに、である。
黒丸が家族以外で認めた初めての相手であった。
「あ、有難うございます」
たどたどしくお礼を言うお市は眩しいものを見る様に清七をみていた。
「ここまでの道のり、変な客引きがご迷惑をお掛けしませんでしたか」
お福と辰吉に向かって、清七が声を掛け、お福が花の香がするかのような優しい笑顔で答える。
「いえ、入り口で小春さんという飯場の方に、御親切にも声がけを教えて頂きまして、遅滞なく罷りこす事が出来ました」
「そうですか。小春が……。憐れな身の上ではございますが、腐らず外れず恨まずの、性根のある気立ての良い娘で御座います。御不快な思いをもしかしたらされたかも知れませんが、大目に見て頂けると幸いです」
実に子気味の良い気配りである。
辰吉がいたく気に入ったようで、清七の肩を叩いて軽快に語りかける。
「いやあ、草津もすっかり取り戻したどころか、前よりも更に賑々しくなって、大したモンだ。これも長者様の差配と皆さまがあっての事でしょう」
「そう言って頂けると、主人も喜びましょう。私が今回の皆さまの全ての手配りを整えさせて頂きます。主人からは不在に関してよくよくお詫び申し上げる事と、此度の一件について、くれぐれも万事お助けせよと、きつく命じられておりますので、何なりとお申し付け下さい。ささ、皆さまもお疲れで御座いましょう。先ずは逗留のお宿までご案内致します。取り急ぎ其方へ参りましょう」
清七は否も応も答える隙間を与えず、宿へと向かい始めた。
「宿へは遣いも出しておりますし、お目当てのものはそちらに全て揃っておりますので」
清七は何げなくアオの轡をとろうとして、轡が無い事に驚いていた。
「いやあ、驚きました。この馬は轡も無いのに、こんなに大人しく言う事を聴くのですね。流石は噂に名高いおつかわし屋さん。真に素晴らしい限りです」
そう言うと、アオの顔を撫でた。
ひねくれもののアオが噛みつきもせず、初見の人間に大人しく触られている。
これにもお市も含めて凄く驚いていた。
「アオを初対面で触れるなんざ、大したもんだ。おつかわし屋に欲しいくらいだな。うちで嫁でも貰ってさ。清七さん、鞍替えする気はないかい?」
本気とも冗談とも判らない軽口を叩いて居る辰吉の横で、お市の顔はほんのり桜色に染まっているかの様あった。
元より日に焼けた肌をしているので、確かめようは無い。
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金さえあれば──。それが文吉を突き動かす。
下男を辞め、醤油問屋に奉公に出て使いに出される。その帰り、稲荷神社のお社で休憩していると不思議な白い玉に“出会った”。
超貧乏奴隷が日本一の大金持ちになる成り上がりストーリー!!
和ませ屋仇討ち始末
志波 連
歴史・時代
山名藩家老家次男の三沢新之助が学問所から戻ると、屋敷が異様な雰囲気に包まれていた。
門の近くにいた新之助をいち早く見つけ出した安藤久秀に手を引かれ、納戸の裏を通り台所から屋内へ入っる。
久秀に手を引かれ庭の見える納戸に入った新之助の目に飛び込んだのは、今まさに切腹しようとしている父長政の姿だった。
父が正座している筵の横には変わり果てた長兄の姿がある。
「目に焼き付けてください」
久秀の声に頷いた新之助だったが、介錯の刀が振り下ろされると同時に気を失ってしまった。
新之助が意識を取り戻したのは、城下から二番目の宿場町にある旅籠だった。
「江戸に向かいます」
同行するのは三沢家剣術指南役だった安藤久秀と、新之助付き侍女咲良のみ。
父と兄の死の真相を探り、その無念を晴らす旅が始まった。
他サイトでも掲載しています
表紙は写真ACより引用しています
R15は保険です
藤散華
水城真以
歴史・時代
――藤と梅の下に埋められた、禁忌と、恋と、呪い。
時は平安――左大臣の一の姫・彰子は、父・道長の命令で今上帝の女御となる。顔も知らない夫となった人に焦がれる彰子だが、既に帝には、定子という最愛の妃がいた。
やがて年月は過ぎ、定子の夭折により、帝と彰子の距離は必然的に近づいたように見えたが、彰子は新たな中宮となって数年が経っても懐妊の兆しはなかった。焦燥に駆られた左大臣に、妖しの影が忍び寄る。
非凡な運命に絡め取られた少女の命運は。
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