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艶姿と耐え忍び
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中山道をゆるゆると歩きながらも、藤次郎は呆れきった表情で小さな溜息をついていた。
(もう、おなか一杯だよ……)
溜息の先には、お市とお福に辰吉が居る。溜息の理由はと云うと、お市の艶姿である。
お福の肝入りで、入念な仕上げで娘姿となったお市は、すっかりと見違えた娘姿になっていた。
旅支度ではあるものの江戸紫の上掛けには百日紅が咲き乱れた柄模様に、朱色を下地の朝顔柄の帯をきゅっとしめ、脚絆に足袋まで桜色で揃えて華やかに着こなしている。
「馬子にも衣装とは当にこの事だ」
初めは、気恥ずかしくて、憎まれ口を叩かねばならない藤次郎であったが、その後がどうにもいけない。
辰吉はお市の艶姿に、何度目だか判らない満面の笑みを浮かべ、
「いやあ、これは魂消るような、別嬪さんじゃあねえか。お嬢は三国一の美人になるって、初次郎兄ぃがよく言ってたが、当にその通りだ。兄ぃが見たらどんだけ喜ぶか。眼福とはこの事だなぁ」
これまた、本日何度目か判らない感激に、今にも泣きだしそうな声で言った。
「もう、嫌ですよ。辰吉さん。この子、直ぐ調子に乗りますから、余り褒め過ぎないで下さい」
そういうお福の顔は自分のこと以上に嬉しいのだろう。
桜色の唇から、春風の様な笑みが零れている。
これも何度目か数える気すらしない。
安兵衛一家へお見舞いに行くにしては、表情は思いの外、皆、明るい。
出立前、辰吉が、
『安兵衛兄いは短気でした。中でも湿っぽいのは滅法嫌いなんでさぁ。兄いから言われた事を思い出しまして、俺が死んだら、先ずは笑って過ごせ。何でえ、安もくたばりやがったって、笑い飛ばしてくれ、でさぁ。たった今から、いつも通りに御願いしやす』
と話してくれたからもある。
その後、辰吉は米之助を交えて、朝から景気づけだと一杯ひっかけ、照に皆の前でこっぴどく叱られ、皆に笑われて、場の空気を一変させていた。
藤次郎はその一部始終を、深く心に刻み込んでいた。
姉といい、辰吉といい、素晴らしい人達に恵まれていると思う反面、今は、
(いい加減にしたらどうだ。何度同じ事を繰り返せば気が済むんだ。この人たちは)
とても冷ややかな目線で三人を見ていた。
同じく三人を、実に冷ややかな目線で見ていたアオと眼が合って気持ちが通じた様である。
アオは喋りかける様に、ぶるるっと一声鳴き、藤次郎は慌てて「しっー」と右手の人差し指を唇に当てて、アオに沈黙を促した。
こういう時のお市は手強い。
地獄耳という言葉が在るが、当にその通りだと思う。
「アオ、なあに、今の。しつこいって、気に入らないわね。えっ、そう。藤次郎とねぇ。ふうん、どういうことかしら。藤次郎っ、優しい姉様に言ってみなさいな」
ほら、来た。やっぱり来た。こういう時だけは聞き逃さない。
藤次郎がアオの影に隠れてやり過ごそうとしたその時、微かに何かの鳴き声が聞こえた。
途端に緩んでいたお市の顔が堅くなった。
「痛い、止めてって、助けてって叫んでる」
お市ははそう呟いた。
辰吉が誰よりも早く、
「お嬢。何があるか分かったもんじゃない。直ぐには動かないで――」
と、釘を刺そうとしたのだが、
「うん、分かっているわ。気を付けて、ちょっと見て来るね」
とまともに話も聞かず、黒丸を促して声のする方へ駆けていく。
「姉さんっ」
「お市」
藤次郎とお福の声まで余所にしてお市は走り出していた。
急がないと。命が消えかけている。
(直ぐに行くから、もう少し堪えてね)
ぴたりと突然、黒丸が立ち止まり、お市にわふっと一声鳴いて警戒を促した。
そのまま、頭を低くした状態で鼻をヒクヒクさせながら、じっと一点を怖い顔で見つめている。
甲斐犬は元々警戒心がとても強い。
「黒丸。どうし――」
お市はそう言いかけて、動きを止めた。
三丈程向こうに離れた岩陰から、矢に射抜かれて地に落ちている鴉が二羽バタバタしている。
(助けを求めているのはあの鴉達ね。)
お市は辺りの気配を探った。
相手がまだ悪い者と限ってはいないが、山人の類であれば大変なことになる。
こっそりと覗き込むと、代官所紋所のはいった提灯をぶら下げた武士が二人、近くに馬をつないで其処に居た。
酒井田様の配下のお武家様かしら。でも何か嫌な感じがする。
山人の類ではなかったが、手には狩猟用の半弓を持って、嫌な笑みを浮かべながら、満足に動けない鴉に態々矢を射かけ、一羽を射殺してしまった。
食べるために生きるために仕留めるではなく、遊びで命を奪い取っている。
もう一羽の鴉が激しく声を上げていた。
やめてっ、どうしてこんな惨いことをっ。
「お止め下さいっ」
お市はその声を聴くと、我をを忘れて大きな声を上げ、岩陰から飛び出した。
その声に侍達が、一斉にこちらを振り返る。
遊び半分で鴉を射ていた割には、若干殺気だっており矢張り剣呑な侍達の心象は拭えない。
さっと見て取り、何かを察知した辰吉は、お市達を庇うように、侍たちの前へ割り込むように出て行った。
「お役人様。ご苦労でがす」
侍たちの右手は、腰の人斬り庖丁に、しっかりと掛かっている。
それが気に入らないのか、お市が怪訝に思う位、ぼんやりと怯えた、らしからぬ表情を見せた辰吉である。
「貴様ら何れの者かっ。ぐずぐずせずに早く答えいっ」
齢の頃なら三十位の、一重瞼の酷薄そうな目つきの侍が、その風貌に負けず劣らずの思いやりなど知らぬであろう物言いで、尋ねて来た。
百姓町人を路傍の石だと思っているかのような、言い方である。
「へ、へ、へい。ああ、あの、あのこれから、と、となり宿場まで、ち、ちょいとばかし弔いがございまして、へぇ」
辰吉は、間の伸びた大きな声で、つっかえつっかえ、お市や藤次郎、お福に聞こえる様に喋った。
利巧は馬鹿の上に立ち、馬鹿になれるは利巧の上に立つもの也。
これは、先代初次郎の残した金言である。
身分が才覚を上回っている時代に生きた男の処世術であった。
「辰じい、御免なさい。あたし……」
「姉さん。何があったんだ?」
様子を見ているお市と不思議顔をする藤次郎を庇うように、お福が前に立って、
「焼き蛤」
と一言告げた。
これは、焼き蛤のように大きな口を開けてはならない、つまりは、迂闊な事は口にするなという、おつかわし屋での隠語である。
「お侍様方、うちの者が何かご迷惑を、お掛け致しましたでしょうか?」
お福は笑顔で明るく近寄ると侍達に話しかけた。
「私はこの先の宿場にございます、おつかわし屋の女将、福と申します。此処に揃うは、荷運びの強力と隣村の庄屋様の娘さんと丁稚で御座います」
酷薄そうな侍が、お福を値踏みするように下から眺めながら、
「貴様らが、なる程、おつかわし屋か。酒井田様より聞き及んでおる。内儀、噂通りの別嬪よな。しかしな、この火急の折、出かける等と我等は聞いておらぬ。御用の向きで赴いておる我々が知らぬのには問題があるぞ。弔いへ行くといっておったが何処へ参るのだ」
人の意など解さぬ物言いで、居丈高に言い放った。
視線から貌の表情から、ねちっこい嫌な殺気みたいなものが漂っている。
臆することなくお福が淀み無く答える。
「これはこれは。御用の皆々様に言を尽くせぬご無礼を、ご容赦くださいませ。吉さん、あれ程皆様にお伝えせよと申したではありませぬか。また抜けましたね。至らぬこと深くお詫び申し上げます。この先の屋蔵村で弔いが御座いまして、少し離れたところなれば、中々の道行きにて、供連れを連れて参ろうとしている次第でございます」
酒井田から、誰かにどこへ行くかを聞かれたら、例え相手が同心与力の類でも、必ずこう答えろと教えられた通りに、お福は答えていた。
「御無礼はこれこの通り、御容赦下さいませ」
腰を折って優雅に会釈するお福に、いけ好かない侍たちも相好を崩した。
「この先の屋蔵村か。相分かった」
辰吉もその隙を見逃さない。
米つきバッタの様に、何度も頭を下げる。
「ああっ、ま、また、も、申し訳もございませんっ」
「ふんっ、この薄ら者がっ」
「へ、へい。すまんこってす」
頭を下げるうち、懐からひもの緩い巾着が落ちて、派手な音を立て、泥で汚れたビタ銭が、其処此処に転がった。
道中の何かの折に使用する、見せ巾着である。この巾着にも意味がある。
一つは見せ金であるが、もう一つは、同行する者達に、注意を迫る為のもので、『相手を良く見よ』という隠語である。
辰吉は大仰に「ああっ」と声を上げながら、金を拾い集め始めた。
「誠に戯けか。内儀っ、連れは選ばねば碌なことに成らんぞ。このままでは道中も危ういわっ」
酷薄な目付きの侍の一人が、いきなり、鞘で辰吉を厳しく打ち据え、辰吉は派手に転がった。
見事に転ぶ辰吉を見て、お市の手に力が入ると、黒丸が低く唸り、アオが後ろ足で土を蹴り始めた。
藤次郎は、辰吉に駆け寄ろうとして、辰吉に目配せで止められていた。
「お侍様っ」
きっとした表情と物言いをお福がした。
「此度は、お忙しい中お役目とは言え、ご足労を戴き、誠に有難うございます。しかし、今のなさり様は余りに御無体。此度の弔いにつきましては、酒井田様にはお話し申し上げております。お控えくださいますよう、切にお願い申し上げます」
たおやかに頭を下げるお福の目先は、侍たちの足元に在った。
「耐え忍ぶだよね。姉さん」
藤次郎がお市へ小さく囁いた。
お市はそのままこくんと頷き、黒丸の首を強く抱きしめた。
アオは不愉快そうに小さく嘶いている。
お市がふうと大きく息をつくと、黒丸は唸るのを止め、お市を見上げて、ぺろりとその手を舐める。
アオは不満げに隣に立つ藤次郎を鼻で強く突いた。
辰吉は痛そうにゆっくり起き上がると、
「いや申し訳もねえ。御用の方々のお邪魔をするつもりは滅相もありやせん」
そのまま、土下座した。
侍達は様子を窺っていた様であったが、直ぐに「有無」と頷き合うと、妙な殺気を放つのを辞めた。
「逃散では無い様だ」「よかろう」
と小声で話すと、刀から手が離れた。
「ふん。相分かった。そこな戯け。余りにも憐れ故、銭に足してやる」
豆板銀をビタ銭の上に零すように落とすと、辰吉を嘲りながら吐くように告げた。
「恵んでやるから、感謝せい」
「へい。御心遣い、有難うございやす。お邪魔にならぬよう、さっさと参りやす」
辰吉は、先程とは打って変わって、実に素早く立ち回り銭を片付けたが、侍たちはそんな事等気にも留めていない風である。
「おつかわし屋には、主人一家は在所か。答えよ」
「はい。主人、二代目初次郎に大女将の照共々、皆控えております。酒井田様より、何やらあると宜しくないと御指図いただき、私のみが弔いへ参ります」
「そちらを見張っていた方がよさそうだ」
「有無」
侍達はおつかわし屋へと、足を向けることを決めたようだ。
辰吉は侍達に悟られぬよう、その顔つき身体つきに家紋を詳細に頭に叩き込んだ。
「おい、貴様らっ。幾日程みておる」
侍の一人が詰問してきた。
お福がすかさず答える。
「はい。少なくとも七日のうちは見ております」
「おつかわし屋は儲かっておるのだな。随分とゆるりとしたものだ。ご内儀と云えば、稚児小姓を連れての道中、羨ましい限りよな」
侍連中は嫌味を言い放つと、馬に乗って立ち去っていった。
辰吉は、侍達に見えぬ様に、渋い顔をしながら、侍達の姿が視えなくなるまで見送って、完全にもう大丈夫だろうというところで、ホッと一息ついた。
「やれやれだ。見張ったり、戻ってきて後を追いかけて来る気配は無ぇな」
心配顔のお市が辰吉に駆け寄った。
「辰じい。あたしのせいで御免なさい。怪我はないの、痛い処は何処?」
今にも診せろと言わんばかりである。
「ああ。有難うよ、お嬢。怪我はないし痛くもないさ。心配かけちまったな。申し訳もない」
「少し打たれた所を見せて頂戴。打ち身に効く貼り薬も、たんとあるから」
大丈夫だと笑う辰吉の言を、聞こうとすらしていない。
そんなお市に、お福がそっと肩に手を添え、優しく言った。
「打ち据えられた時、引き身をしていたから大丈夫。あれは激しく打たれたように見せかけただけなのよ」
今度は、藤次郎が目を剥いた。
「おっ母さん。辰吉さんの動きが見えていたのでしょうか」
「ええ、勿論です。私は確かに、貴方達より年寄りですが、まだまだ捨てたものではありませんよ。腕は落ちたとは言え、目端は多少なりと利くつもりです」
「え、……ああ。成程。そうですね」
藤次郎の中で、わが母は何者なのか、という思いが募った。
今の言いようは、一端の武辺者ではないか。自分は何も分らなかったというのに。
そんな藤次郎を余所に、辰吉が神妙な顔をして告げた。
「若女将、お嬢、藤坊。ちょいと話を聴いてくれ。今、俺たちは、危ない処に身を置いちまっている。あの威張り腐った三一共が、しっかりと証してくれた」
辰吉の顔には笑顔はなく、真顔のままの厳しいものである。
知らず知らず、お市も藤次郎にお福も、その雰囲気に、固唾を飲んで待っていた。
「酒井田様からのご指示の中身で、もしやと思っていたんだが、今ので間違いねぇと思い至った。残念なことに代官所の役人の中にも悪者がいるってことさ。そしてそれを一番心配していなさるのが、酒井田様だ」
「まさか、幾らなんでも、お代官所のお役人様がそんなことを」
にわかに信じたくないとお福が呟く。
辰吉は、静かに言った。
「あの三一共が、俺たちのことを知らされていないってえ事は、かなり性質が悪い。どいつが賊に通じている奴か、何人いるか見当がついていない。百戦錬磨のあの安兵衛親分が、手に掛かる程にまで、根深いってぇ事だ」
今にも震えだしそうな青い顔をして、藤次郎が呟いた。
「そうか、そうか。相手はお侍様で、しかも代官所のお役人。町人相手なら、幾ら疑われようとも構わない」
お市が怪訝そうな顔をして尋ねた。
「つまりはどういうことなの? 今どのようになってしまっているの?」
「代官所の酒井田様のその配下の中に、もしかすると……」
「もしかって何よ。先を言いなさいよ」
嫌な雰囲気を吹き飛ばすべく、お市が大きな声で藤次郎に言った。
普段の藤次郎なら、こういった場合、何て言おうかと考えてものを言うのだが、今はその余裕が無い程、焦っていた。
「安兵衛さん達を手に掛けた下手人か安兵衛さん達を売り渡した奴ばらが、代官所の中に居るかも知れない。合っていますよね、辰吉さん」
「ああ、その通りだよ。藤坊」
藤次郎の端正な顔が歪む。
「これはダメだ。全くもって、抜き差しならない。どう手を打てばいいんだ。お役人のお侍様相手に…………。代官所の悪者は、証左さえ無くなってしまえば、町人が何を言おうと関係が無い。だから、証左を持っている人間毎始末しようと網を張っていたんだ」
藤次郎が落ち着きを無くし、焦り始めた。
常に三手四手先を考える頭の先に、どんな光景が浮かんでいるのか。
「頭が廻るのも善し悪しね。心配事が多くなるから」
お市は、黒丸の頭を撫でながら、聞こえよがしに言った。
藤次郎が空気を重く仕掛けるところを、思い切りへそを曲げて粉砕する。
少しばかりどころか、大いに腹を立てているようだ。
口がへの字に曲がっている。
「代官所のお侍が皆、悪者じゃあないし、陰でコソコソ悪さしているんなら、させとけばいいじゃない。それくらいしか出来ないんだから。いきなりやってきてバッサリなんて流石に出来ないでしょ? それより、井戸に毒を投げる山人の賊の方が、あたしは怖い。あたしは、安兵衛さんやお豊さんや他の人の為になる、出来ることを助けになることをするだけだもの」
事も無げにお市が言い放った。放たれた矢は、藤次郎を刺し貫き、目を白黒させ、辰吉にも、苦笑を浮かべさせるくらいの、そこそこの威力である。
「頭は良くないし、がさつだけど、皆大好きだから、皆が笑えるようにしたい。だから、あたしでも、出来ることを出来るだけ遣り切る。アンタもおつかわし屋の男なら、背負いなさいよ。あたしはとっくに皆の思いを背負ったもの。覚悟背負ったもの。アンタの両肩には何も乗っていないの?」
お市が胸に手を当てて、真っ直ぐな瞳できっと藤次郎を見た。
其の瞳には、優しさと厳しさを満面に湛えた、何より強い意志に溢れている。
藤次郎の完敗であった。
言い返す言葉もなく、只立っているだけである。
「お市。もう少し、ものの言い方を考えなさい。今のは酷い言い方よ」
柳眉を上げるお福に辰吉は、
「若女将、怖い気を吹き飛ばそうと元気づけただけです。その辺で」
と声を掛けると、お市と藤次郎に向き直った。
「お嬢。今回ばかりは、人の命が文字通り掛かっている。もう少し、慎重にならねえと困りもんだぞ。藤次郎、お嬢の言う通り、下手な心配をし過ぎだ。用心と心配を取り違えちゃあ無んねえ。二人とも、心の配り処を間違えんなよ」
「はいっ」
「はい」
お市と藤次郎は、辰吉の苦言に、嫌な顔一つせず、神妙に耳を傾けている。
お福はその様子を見て、少しばかり安心したが、表情に出ないように努めていた。今は怖い顔をしておくところだ。
「藤次郎。痛いって声がまだしているの。鴉の子を助けてあげて。あたしは念の為、加勢してくれそうな、森の他の子達に声を掛けて来る」
お市が近くの森の中に足を入れ、藤次郎は言われるがまま、藤次郎は共に射かけられた鴉が居た辺りへ赴いた。
と、近くでバタバタ、ばたつく羽音の方へ眼を向けると、木陰に先程射抜かれていた鴉が、まだ生きてもがいている。
藤次郎がそっと近づくと、一羽は射抜かれ絶命をしていたが、もう一羽は羽に矢が刺さったままであるのに、絶命している鴉を庇い、藤次郎を満足に動かない体で威嚇した。
番であったのかも知れない。
残されたその鴉は、怒りよりも深く悲しんでいるように思えた。
「可哀そうに」
そう呟いて、鴉に駆け寄った。
矢が羽を貫いており、飛ぶどころか動くことさえ、ままならないだろう。
鴉に手を伸ばす藤次郎の横に、いつの間にか辰吉が居て、小刀を手渡してきた。
「半端に苦しんでいるのなら、楽にしてやれ。命の算段を量るのも度量の内だ」
藤次郎は無言で頷き小刀を受け取り近寄ると、羽を射抜かれた鴉は、益々、絶命した鴉を庇おうと、満足に動かない躰で羽を拡げながら藤次郎を威嚇した。
その姿に藤次郎は深く心を打たれ、
「大丈夫だよ。もう悪いことはしない」
とその鴉の目の前で、小刀を捨てて見せた。
そして、死んでいる鴉にそっと手を伸ばし、
「ほら、もうここに命は無い。お前もわかっているだろう」
動かない生命の無いその姿を良く見せた。
カァカァカァと鴉が啼いて、藤次郎の手を血が出る程突いたが、藤次郎は声一つ出さず、鴉にさせるままにしておいた。
やがて、その鴉は骸となった鴉に起きるように促しはじめたが、どうあっても、身動きしない事に気づくと、カァァァと長く一声鳴いて大人しくなった。
「お前の怪我はそのまま放っておけば、ずっと飛べないままで、死んでしまう。その命預けてくれないか」
優しく声をかけると鴉の体に手を伸ばした。
鴉は藤次郎のことを理解したのか、今度は全く抵抗もせず、その体を大人しく預けた。
「姉さんっ、頼みがあるんだっ」
声も大きくお市を振り返る藤次郎。
辰吉はその様子を見て、
「藤坊、甘いぞ。今は荷物を増やしている場合じゃあ無い」
と呟いた。
しかし、言葉とは裏腹にその瞳には優しい光が点っていた。
(もう、おなか一杯だよ……)
溜息の先には、お市とお福に辰吉が居る。溜息の理由はと云うと、お市の艶姿である。
お福の肝入りで、入念な仕上げで娘姿となったお市は、すっかりと見違えた娘姿になっていた。
旅支度ではあるものの江戸紫の上掛けには百日紅が咲き乱れた柄模様に、朱色を下地の朝顔柄の帯をきゅっとしめ、脚絆に足袋まで桜色で揃えて華やかに着こなしている。
「馬子にも衣装とは当にこの事だ」
初めは、気恥ずかしくて、憎まれ口を叩かねばならない藤次郎であったが、その後がどうにもいけない。
辰吉はお市の艶姿に、何度目だか判らない満面の笑みを浮かべ、
「いやあ、これは魂消るような、別嬪さんじゃあねえか。お嬢は三国一の美人になるって、初次郎兄ぃがよく言ってたが、当にその通りだ。兄ぃが見たらどんだけ喜ぶか。眼福とはこの事だなぁ」
これまた、本日何度目か判らない感激に、今にも泣きだしそうな声で言った。
「もう、嫌ですよ。辰吉さん。この子、直ぐ調子に乗りますから、余り褒め過ぎないで下さい」
そういうお福の顔は自分のこと以上に嬉しいのだろう。
桜色の唇から、春風の様な笑みが零れている。
これも何度目か数える気すらしない。
安兵衛一家へお見舞いに行くにしては、表情は思いの外、皆、明るい。
出立前、辰吉が、
『安兵衛兄いは短気でした。中でも湿っぽいのは滅法嫌いなんでさぁ。兄いから言われた事を思い出しまして、俺が死んだら、先ずは笑って過ごせ。何でえ、安もくたばりやがったって、笑い飛ばしてくれ、でさぁ。たった今から、いつも通りに御願いしやす』
と話してくれたからもある。
その後、辰吉は米之助を交えて、朝から景気づけだと一杯ひっかけ、照に皆の前でこっぴどく叱られ、皆に笑われて、場の空気を一変させていた。
藤次郎はその一部始終を、深く心に刻み込んでいた。
姉といい、辰吉といい、素晴らしい人達に恵まれていると思う反面、今は、
(いい加減にしたらどうだ。何度同じ事を繰り返せば気が済むんだ。この人たちは)
とても冷ややかな目線で三人を見ていた。
同じく三人を、実に冷ややかな目線で見ていたアオと眼が合って気持ちが通じた様である。
アオは喋りかける様に、ぶるるっと一声鳴き、藤次郎は慌てて「しっー」と右手の人差し指を唇に当てて、アオに沈黙を促した。
こういう時のお市は手強い。
地獄耳という言葉が在るが、当にその通りだと思う。
「アオ、なあに、今の。しつこいって、気に入らないわね。えっ、そう。藤次郎とねぇ。ふうん、どういうことかしら。藤次郎っ、優しい姉様に言ってみなさいな」
ほら、来た。やっぱり来た。こういう時だけは聞き逃さない。
藤次郎がアオの影に隠れてやり過ごそうとしたその時、微かに何かの鳴き声が聞こえた。
途端に緩んでいたお市の顔が堅くなった。
「痛い、止めてって、助けてって叫んでる」
お市ははそう呟いた。
辰吉が誰よりも早く、
「お嬢。何があるか分かったもんじゃない。直ぐには動かないで――」
と、釘を刺そうとしたのだが、
「うん、分かっているわ。気を付けて、ちょっと見て来るね」
とまともに話も聞かず、黒丸を促して声のする方へ駆けていく。
「姉さんっ」
「お市」
藤次郎とお福の声まで余所にしてお市は走り出していた。
急がないと。命が消えかけている。
(直ぐに行くから、もう少し堪えてね)
ぴたりと突然、黒丸が立ち止まり、お市にわふっと一声鳴いて警戒を促した。
そのまま、頭を低くした状態で鼻をヒクヒクさせながら、じっと一点を怖い顔で見つめている。
甲斐犬は元々警戒心がとても強い。
「黒丸。どうし――」
お市はそう言いかけて、動きを止めた。
三丈程向こうに離れた岩陰から、矢に射抜かれて地に落ちている鴉が二羽バタバタしている。
(助けを求めているのはあの鴉達ね。)
お市は辺りの気配を探った。
相手がまだ悪い者と限ってはいないが、山人の類であれば大変なことになる。
こっそりと覗き込むと、代官所紋所のはいった提灯をぶら下げた武士が二人、近くに馬をつないで其処に居た。
酒井田様の配下のお武家様かしら。でも何か嫌な感じがする。
山人の類ではなかったが、手には狩猟用の半弓を持って、嫌な笑みを浮かべながら、満足に動けない鴉に態々矢を射かけ、一羽を射殺してしまった。
食べるために生きるために仕留めるではなく、遊びで命を奪い取っている。
もう一羽の鴉が激しく声を上げていた。
やめてっ、どうしてこんな惨いことをっ。
「お止め下さいっ」
お市はその声を聴くと、我をを忘れて大きな声を上げ、岩陰から飛び出した。
その声に侍達が、一斉にこちらを振り返る。
遊び半分で鴉を射ていた割には、若干殺気だっており矢張り剣呑な侍達の心象は拭えない。
さっと見て取り、何かを察知した辰吉は、お市達を庇うように、侍たちの前へ割り込むように出て行った。
「お役人様。ご苦労でがす」
侍たちの右手は、腰の人斬り庖丁に、しっかりと掛かっている。
それが気に入らないのか、お市が怪訝に思う位、ぼんやりと怯えた、らしからぬ表情を見せた辰吉である。
「貴様ら何れの者かっ。ぐずぐずせずに早く答えいっ」
齢の頃なら三十位の、一重瞼の酷薄そうな目つきの侍が、その風貌に負けず劣らずの思いやりなど知らぬであろう物言いで、尋ねて来た。
百姓町人を路傍の石だと思っているかのような、言い方である。
「へ、へ、へい。ああ、あの、あのこれから、と、となり宿場まで、ち、ちょいとばかし弔いがございまして、へぇ」
辰吉は、間の伸びた大きな声で、つっかえつっかえ、お市や藤次郎、お福に聞こえる様に喋った。
利巧は馬鹿の上に立ち、馬鹿になれるは利巧の上に立つもの也。
これは、先代初次郎の残した金言である。
身分が才覚を上回っている時代に生きた男の処世術であった。
「辰じい、御免なさい。あたし……」
「姉さん。何があったんだ?」
様子を見ているお市と不思議顔をする藤次郎を庇うように、お福が前に立って、
「焼き蛤」
と一言告げた。
これは、焼き蛤のように大きな口を開けてはならない、つまりは、迂闊な事は口にするなという、おつかわし屋での隠語である。
「お侍様方、うちの者が何かご迷惑を、お掛け致しましたでしょうか?」
お福は笑顔で明るく近寄ると侍達に話しかけた。
「私はこの先の宿場にございます、おつかわし屋の女将、福と申します。此処に揃うは、荷運びの強力と隣村の庄屋様の娘さんと丁稚で御座います」
酷薄そうな侍が、お福を値踏みするように下から眺めながら、
「貴様らが、なる程、おつかわし屋か。酒井田様より聞き及んでおる。内儀、噂通りの別嬪よな。しかしな、この火急の折、出かける等と我等は聞いておらぬ。御用の向きで赴いておる我々が知らぬのには問題があるぞ。弔いへ行くといっておったが何処へ参るのだ」
人の意など解さぬ物言いで、居丈高に言い放った。
視線から貌の表情から、ねちっこい嫌な殺気みたいなものが漂っている。
臆することなくお福が淀み無く答える。
「これはこれは。御用の皆々様に言を尽くせぬご無礼を、ご容赦くださいませ。吉さん、あれ程皆様にお伝えせよと申したではありませぬか。また抜けましたね。至らぬこと深くお詫び申し上げます。この先の屋蔵村で弔いが御座いまして、少し離れたところなれば、中々の道行きにて、供連れを連れて参ろうとしている次第でございます」
酒井田から、誰かにどこへ行くかを聞かれたら、例え相手が同心与力の類でも、必ずこう答えろと教えられた通りに、お福は答えていた。
「御無礼はこれこの通り、御容赦下さいませ」
腰を折って優雅に会釈するお福に、いけ好かない侍たちも相好を崩した。
「この先の屋蔵村か。相分かった」
辰吉もその隙を見逃さない。
米つきバッタの様に、何度も頭を下げる。
「ああっ、ま、また、も、申し訳もございませんっ」
「ふんっ、この薄ら者がっ」
「へ、へい。すまんこってす」
頭を下げるうち、懐からひもの緩い巾着が落ちて、派手な音を立て、泥で汚れたビタ銭が、其処此処に転がった。
道中の何かの折に使用する、見せ巾着である。この巾着にも意味がある。
一つは見せ金であるが、もう一つは、同行する者達に、注意を迫る為のもので、『相手を良く見よ』という隠語である。
辰吉は大仰に「ああっ」と声を上げながら、金を拾い集め始めた。
「誠に戯けか。内儀っ、連れは選ばねば碌なことに成らんぞ。このままでは道中も危ういわっ」
酷薄な目付きの侍の一人が、いきなり、鞘で辰吉を厳しく打ち据え、辰吉は派手に転がった。
見事に転ぶ辰吉を見て、お市の手に力が入ると、黒丸が低く唸り、アオが後ろ足で土を蹴り始めた。
藤次郎は、辰吉に駆け寄ろうとして、辰吉に目配せで止められていた。
「お侍様っ」
きっとした表情と物言いをお福がした。
「此度は、お忙しい中お役目とは言え、ご足労を戴き、誠に有難うございます。しかし、今のなさり様は余りに御無体。此度の弔いにつきましては、酒井田様にはお話し申し上げております。お控えくださいますよう、切にお願い申し上げます」
たおやかに頭を下げるお福の目先は、侍たちの足元に在った。
「耐え忍ぶだよね。姉さん」
藤次郎がお市へ小さく囁いた。
お市はそのままこくんと頷き、黒丸の首を強く抱きしめた。
アオは不愉快そうに小さく嘶いている。
お市がふうと大きく息をつくと、黒丸は唸るのを止め、お市を見上げて、ぺろりとその手を舐める。
アオは不満げに隣に立つ藤次郎を鼻で強く突いた。
辰吉は痛そうにゆっくり起き上がると、
「いや申し訳もねえ。御用の方々のお邪魔をするつもりは滅相もありやせん」
そのまま、土下座した。
侍達は様子を窺っていた様であったが、直ぐに「有無」と頷き合うと、妙な殺気を放つのを辞めた。
「逃散では無い様だ」「よかろう」
と小声で話すと、刀から手が離れた。
「ふん。相分かった。そこな戯け。余りにも憐れ故、銭に足してやる」
豆板銀をビタ銭の上に零すように落とすと、辰吉を嘲りながら吐くように告げた。
「恵んでやるから、感謝せい」
「へい。御心遣い、有難うございやす。お邪魔にならぬよう、さっさと参りやす」
辰吉は、先程とは打って変わって、実に素早く立ち回り銭を片付けたが、侍たちはそんな事等気にも留めていない風である。
「おつかわし屋には、主人一家は在所か。答えよ」
「はい。主人、二代目初次郎に大女将の照共々、皆控えております。酒井田様より、何やらあると宜しくないと御指図いただき、私のみが弔いへ参ります」
「そちらを見張っていた方がよさそうだ」
「有無」
侍達はおつかわし屋へと、足を向けることを決めたようだ。
辰吉は侍達に悟られぬよう、その顔つき身体つきに家紋を詳細に頭に叩き込んだ。
「おい、貴様らっ。幾日程みておる」
侍の一人が詰問してきた。
お福がすかさず答える。
「はい。少なくとも七日のうちは見ております」
「おつかわし屋は儲かっておるのだな。随分とゆるりとしたものだ。ご内儀と云えば、稚児小姓を連れての道中、羨ましい限りよな」
侍連中は嫌味を言い放つと、馬に乗って立ち去っていった。
辰吉は、侍達に見えぬ様に、渋い顔をしながら、侍達の姿が視えなくなるまで見送って、完全にもう大丈夫だろうというところで、ホッと一息ついた。
「やれやれだ。見張ったり、戻ってきて後を追いかけて来る気配は無ぇな」
心配顔のお市が辰吉に駆け寄った。
「辰じい。あたしのせいで御免なさい。怪我はないの、痛い処は何処?」
今にも診せろと言わんばかりである。
「ああ。有難うよ、お嬢。怪我はないし痛くもないさ。心配かけちまったな。申し訳もない」
「少し打たれた所を見せて頂戴。打ち身に効く貼り薬も、たんとあるから」
大丈夫だと笑う辰吉の言を、聞こうとすらしていない。
そんなお市に、お福がそっと肩に手を添え、優しく言った。
「打ち据えられた時、引き身をしていたから大丈夫。あれは激しく打たれたように見せかけただけなのよ」
今度は、藤次郎が目を剥いた。
「おっ母さん。辰吉さんの動きが見えていたのでしょうか」
「ええ、勿論です。私は確かに、貴方達より年寄りですが、まだまだ捨てたものではありませんよ。腕は落ちたとは言え、目端は多少なりと利くつもりです」
「え、……ああ。成程。そうですね」
藤次郎の中で、わが母は何者なのか、という思いが募った。
今の言いようは、一端の武辺者ではないか。自分は何も分らなかったというのに。
そんな藤次郎を余所に、辰吉が神妙な顔をして告げた。
「若女将、お嬢、藤坊。ちょいと話を聴いてくれ。今、俺たちは、危ない処に身を置いちまっている。あの威張り腐った三一共が、しっかりと証してくれた」
辰吉の顔には笑顔はなく、真顔のままの厳しいものである。
知らず知らず、お市も藤次郎にお福も、その雰囲気に、固唾を飲んで待っていた。
「酒井田様からのご指示の中身で、もしやと思っていたんだが、今ので間違いねぇと思い至った。残念なことに代官所の役人の中にも悪者がいるってことさ。そしてそれを一番心配していなさるのが、酒井田様だ」
「まさか、幾らなんでも、お代官所のお役人様がそんなことを」
にわかに信じたくないとお福が呟く。
辰吉は、静かに言った。
「あの三一共が、俺たちのことを知らされていないってえ事は、かなり性質が悪い。どいつが賊に通じている奴か、何人いるか見当がついていない。百戦錬磨のあの安兵衛親分が、手に掛かる程にまで、根深いってぇ事だ」
今にも震えだしそうな青い顔をして、藤次郎が呟いた。
「そうか、そうか。相手はお侍様で、しかも代官所のお役人。町人相手なら、幾ら疑われようとも構わない」
お市が怪訝そうな顔をして尋ねた。
「つまりはどういうことなの? 今どのようになってしまっているの?」
「代官所の酒井田様のその配下の中に、もしかすると……」
「もしかって何よ。先を言いなさいよ」
嫌な雰囲気を吹き飛ばすべく、お市が大きな声で藤次郎に言った。
普段の藤次郎なら、こういった場合、何て言おうかと考えてものを言うのだが、今はその余裕が無い程、焦っていた。
「安兵衛さん達を手に掛けた下手人か安兵衛さん達を売り渡した奴ばらが、代官所の中に居るかも知れない。合っていますよね、辰吉さん」
「ああ、その通りだよ。藤坊」
藤次郎の端正な顔が歪む。
「これはダメだ。全くもって、抜き差しならない。どう手を打てばいいんだ。お役人のお侍様相手に…………。代官所の悪者は、証左さえ無くなってしまえば、町人が何を言おうと関係が無い。だから、証左を持っている人間毎始末しようと網を張っていたんだ」
藤次郎が落ち着きを無くし、焦り始めた。
常に三手四手先を考える頭の先に、どんな光景が浮かんでいるのか。
「頭が廻るのも善し悪しね。心配事が多くなるから」
お市は、黒丸の頭を撫でながら、聞こえよがしに言った。
藤次郎が空気を重く仕掛けるところを、思い切りへそを曲げて粉砕する。
少しばかりどころか、大いに腹を立てているようだ。
口がへの字に曲がっている。
「代官所のお侍が皆、悪者じゃあないし、陰でコソコソ悪さしているんなら、させとけばいいじゃない。それくらいしか出来ないんだから。いきなりやってきてバッサリなんて流石に出来ないでしょ? それより、井戸に毒を投げる山人の賊の方が、あたしは怖い。あたしは、安兵衛さんやお豊さんや他の人の為になる、出来ることを助けになることをするだけだもの」
事も無げにお市が言い放った。放たれた矢は、藤次郎を刺し貫き、目を白黒させ、辰吉にも、苦笑を浮かべさせるくらいの、そこそこの威力である。
「頭は良くないし、がさつだけど、皆大好きだから、皆が笑えるようにしたい。だから、あたしでも、出来ることを出来るだけ遣り切る。アンタもおつかわし屋の男なら、背負いなさいよ。あたしはとっくに皆の思いを背負ったもの。覚悟背負ったもの。アンタの両肩には何も乗っていないの?」
お市が胸に手を当てて、真っ直ぐな瞳できっと藤次郎を見た。
其の瞳には、優しさと厳しさを満面に湛えた、何より強い意志に溢れている。
藤次郎の完敗であった。
言い返す言葉もなく、只立っているだけである。
「お市。もう少し、ものの言い方を考えなさい。今のは酷い言い方よ」
柳眉を上げるお福に辰吉は、
「若女将、怖い気を吹き飛ばそうと元気づけただけです。その辺で」
と声を掛けると、お市と藤次郎に向き直った。
「お嬢。今回ばかりは、人の命が文字通り掛かっている。もう少し、慎重にならねえと困りもんだぞ。藤次郎、お嬢の言う通り、下手な心配をし過ぎだ。用心と心配を取り違えちゃあ無んねえ。二人とも、心の配り処を間違えんなよ」
「はいっ」
「はい」
お市と藤次郎は、辰吉の苦言に、嫌な顔一つせず、神妙に耳を傾けている。
お福はその様子を見て、少しばかり安心したが、表情に出ないように努めていた。今は怖い顔をしておくところだ。
「藤次郎。痛いって声がまだしているの。鴉の子を助けてあげて。あたしは念の為、加勢してくれそうな、森の他の子達に声を掛けて来る」
お市が近くの森の中に足を入れ、藤次郎は言われるがまま、藤次郎は共に射かけられた鴉が居た辺りへ赴いた。
と、近くでバタバタ、ばたつく羽音の方へ眼を向けると、木陰に先程射抜かれていた鴉が、まだ生きてもがいている。
藤次郎がそっと近づくと、一羽は射抜かれ絶命をしていたが、もう一羽は羽に矢が刺さったままであるのに、絶命している鴉を庇い、藤次郎を満足に動かない体で威嚇した。
番であったのかも知れない。
残されたその鴉は、怒りよりも深く悲しんでいるように思えた。
「可哀そうに」
そう呟いて、鴉に駆け寄った。
矢が羽を貫いており、飛ぶどころか動くことさえ、ままならないだろう。
鴉に手を伸ばす藤次郎の横に、いつの間にか辰吉が居て、小刀を手渡してきた。
「半端に苦しんでいるのなら、楽にしてやれ。命の算段を量るのも度量の内だ」
藤次郎は無言で頷き小刀を受け取り近寄ると、羽を射抜かれた鴉は、益々、絶命した鴉を庇おうと、満足に動かない躰で羽を拡げながら藤次郎を威嚇した。
その姿に藤次郎は深く心を打たれ、
「大丈夫だよ。もう悪いことはしない」
とその鴉の目の前で、小刀を捨てて見せた。
そして、死んでいる鴉にそっと手を伸ばし、
「ほら、もうここに命は無い。お前もわかっているだろう」
動かない生命の無いその姿を良く見せた。
カァカァカァと鴉が啼いて、藤次郎の手を血が出る程突いたが、藤次郎は声一つ出さず、鴉にさせるままにしておいた。
やがて、その鴉は骸となった鴉に起きるように促しはじめたが、どうあっても、身動きしない事に気づくと、カァァァと長く一声鳴いて大人しくなった。
「お前の怪我はそのまま放っておけば、ずっと飛べないままで、死んでしまう。その命預けてくれないか」
優しく声をかけると鴉の体に手を伸ばした。
鴉は藤次郎のことを理解したのか、今度は全く抵抗もせず、その体を大人しく預けた。
「姉さんっ、頼みがあるんだっ」
声も大きくお市を振り返る藤次郎。
辰吉はその様子を見て、
「藤坊、甘いぞ。今は荷物を増やしている場合じゃあ無い」
と呟いた。
しかし、言葉とは裏腹にその瞳には優しい光が点っていた。
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