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凶報届く

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お市たちが戻って月も半ば以上日を重ね、梅雨もすっかりと明け、夏真っ盛りである。
 今夏は猛暑であった。余りの暑さに蝉ですら鳴くのを控える程である。

「あーあ。つまんないなぁ」

 お市は小川で水桶につけた野菜の泥を洗い落としながら、若女中で幼馴染のお花に聞こえよがしに言った。
 
 どこに行くにも、お福の言付けが心の中で目を光らせているのだ。
 お花は笑って聴いている。
 お市が人との約束を違えることなど無い事を、誰よりも理解しており、そんなお市が大好きなのだ。

 二人は姉妹同然に育ち、仲がいいことこの上もない。
 尤も、男勝りのお市と、この上もなく乙女らしい、甘やかさと細やかさを持った優しくてしっかり者のお花は、着物の色や、草履の鼻緒などあからさまに違う部分は多いのだが、頭に挿している珠簪は、お市が茜色、お花が藍色と色違いのお揃いの物を挿している。
 初次郎と照のお年玉であったのだが、藍色を選ぼうとしたお市を、偶には女の子らしい色にしなさいと、お花が無理矢理取り換えたものだ。
 以来、ずっと、今日も当然の如く、二人の髪を挿しあい、飾っている。

「ね、お花ちゃん。後でさ、白鷺淵まで水浴びに行かない。御用を済ませたら、水菓子持って行こう」

 いい思い付きだとばかりにお市の顔が輝いた。お花は笑いながら大きく頷いた。

「別にいいけど、女将さんにきちんと話をしてからでないと、行けないよ。お市ちゃん」

「うん。おっ母さんにはちゃんとお話しするけど、でも、その前に――」

 悪戯な眼差しで、えいっと水飛沫をお花に浴びせかけた。

「やったな。お市ちゃん。負けないわよ」

 お花も嬉しそうに水飛沫をお市へ飛ばす。
 健康的に日焼けした頬に水飛沫が掛かり、お市は嬉しそうに歯を見せて笑った。そして、

「御すまし顔の色白美人の癖に、やりよるなあ、お主。負けぬぞ」

 と水を掬ってまたかけた。
 わんわんと嬉しそうに黒丸もその中に混ざる。お花が其れを見て、

「おお殿方の参陣じゃ」

 とお道化ると、

「おお、誠に。こやつにも鉄槌を降して呉れようぞ」

 とお市が応え、黒丸に水を浴びせかけた。
 水の中を跳ねまわる黒丸に釣られる様に、二人は着物の裾を大きくまくり上げると、膝辺りまで浸かり、きゃあきゃあ黄色い声を上げながら、共に水遊びを始めた。
 うら若き乙女二人と一匹の真っ黒い犬は、忽ち水遊びの虜となった。
 川沿いで水仕事をしているのに、珠の汗が噴き出してくるほど暑いのだから無理はない。

 そんなお市を呼んで来るよう、父の米之助から云いつけられ、藤次郎がたまさかやって来た。
 幼い時分から気になっている、名前の通りたおやかなお花ちゃんと一緒だと聞いて、高まるワクワク感と共に足も軽く落ち着かずにやって来た。
 河縁の洗い小屋に姿が見えず、きゃあきゃあ、わんわんと声ばかり聞こえる。

 随分と楽しそうだが、何をやっているのだろうと、木陰から覗き込んだ。
 途端、露わになった太腿が目に突き刺さり心を奪われ、目のやり処に困り出るに出られない。
 一度その場を離れ少し戻って、やや遠くから声をかけた。

「おーい。お花ちゃん。姉さん、いるかい」

 普段の藤次郎であればまずやらない、不自然な声の掛け方になって仕舞った。

「何よ。変な奴。あぁ、もしかしたら覗いてたかも」

 こういう時のお市の勘は鋭い。
 お花は藤次郎の声が聴こえるや否や、慌てて川から跳び上がると身繕いを始めていたのだが、急に真っ赤になると、

「もう辞めてよ。お市ちゃんの意地悪」

 ともじもじし始めた。

「嫌だなぁ。お花ちゃん。藤次郎は男の数に入っていないんだから、気にする必要なんて無いよ」

「もうっ、いいから早く返事してあげて」

 口を尖らせるお花の様子に何か気付きそうなものであるのだが、そこは妙に鈍いお市であった。

「はーい。真面目だよね。お花ちゃん。藤次郎っ。此処にいるのは分かってるでしょ。お花ちゃんの姿に見とれて鼻の下でも伸ばしているんでしょ、この助平次郎」

 お市は一瞬にして、お花を更に真っ赤に、藤次郎の眼を白黒に、其々期せずして染め上げて言葉と思考を奪ってしまった。
 真っ赤になってぼぉっとしているお花を、お市は何をどうしたか、具合が悪くなったのかと勘違いした。

「ねえ、お花ちゃん、大丈夫っ。藤次郎っ、何してるのよ。お花ちゃんが具合悪いみたいだから直ぐにこっちに来て」

 その声を聴いて、

「何だってっ。今すぐ行くっ」

 普段の冷静な藤次郎からは、想像もつかないような大声で返事をすると、慌てて駆け寄って来た。
 お花は其れを見て、あたふたと落ち着きも無く、

「お市ちゃん。アタ……あたし、だ、大丈夫だから、その、直ぐに帰らないと、お、女将さんが、あの、じゃあっ」

 野菜籠片手に走り出した。
 駆け寄って来る藤次郎に、目も合わせずぺこりと会釈をすると、結構な勢いで走り去っていく。
 藤次郎は、声を掛ける暇も与えず、走り去るお花を見送りながら、

「姉さん。もしこの先不肖の弟が一生独り身だったとしたら、其れは姉さんのせいだからね」

 実に恨めしそうにお市に向かって言いながら、その目線はお花の後ろ姿から離れることは無かった。
 自分が見目良い事を知り尽くし、それを利用する事すら覚えつつある藤次郎だが、お花にだけは違うらしい。
 お市は野菜籠を抱えると、何事も無かったような顔をした。

「何言ってるんだか。それで、用事は何? 何か言付けが在ったんでしょ」

「ああそうだった。お父っさんが表の旅籠に直ぐに戻って来いってさ。お武家の御客が沢山来ていたよ」

「へぇ、何だろ」

 放置されていた黒丸は、お市と藤次郎のやり取りを邪魔しないように我慢しながら、いつ遊んでくれるのかと尻尾を振って待っていた。

 街道沿いに建つ、照が営む旅籠『大椛』の前に、代官所の役人と十五人程の捕り方達が集まって、握り飯を齧り茶を啜っていた。
 武具に馬、首桶に捕縛籠まで用意している。
 これから何か大きな捕物でも行うのであろう。
 捕り方の面魂は力強く、臆した処は微塵も見えていない。
 皆頼もしい限りである。
 
 その捕り方の侍や役人相手に、おつかわし屋の若手頭の伊平と六郎を連れて、実にそつなく、そして、僅かな付け入る隙も与えぬよう堂々と接している男がいた。
 お市と藤次郎の父親である米之助である。
 今は二代目として、初次郎を襲名し名乗っている。
 米之助が床几に腰かけた陣笠を被った侍と話をしている処に、お市と藤次郎が到着した。

「これは凄い。此処までの捕物支度は初めて見る。凄い、凄いよ」

 先程の恨めし気な藤次郎は何処へやら、色々な武具に心を奪われている。
 藤次郎とて、男の子なのだ。
 伊平はそんな藤次郎に気付くと、

「藤坊。お嬢の前で、やんちゃは駄目だぜ」

 そう釘を刺し、六郎はそんな口利きを真顔で訂正した。

「伊平よ。間違えている。お嬢にやんちゃは駄目で、藤坊にはしっかりと目付しろだ」
「おっと、違いねえ。その通りだな」

「ちょいと、二人とも、いい加減にしなさいよ。藤次郎、アンタも不謹慎でしょ」

 伊平と六郎を睨みつけ、藤次郎を小突いて黙らせると、お市は侍と米之助に近寄って、

「お武家様。態々のお立ちより、恐縮でございます。本日はようこそ、おいで下さいました。初次郎が娘の市と申します」

 そつなく礼儀正しく、深々と頭を下げた。

「ほう、これはこれは。見目麗しくしっかりとした物言い。前に会ったはほんにまだ女童で在ったのだが、時は無常よな。しかし、二代目は良い娘御をお持ちだな。実に羨ましい。なあ」

「いえいえ、まだまだ、礼儀作法見習い中の不調法者で御座います。御無礼が御座いましたら、何卒ご容赦下さりませ」

 一度頭をあげていたお市であったが、米之助が深々とお辞儀をしたものだから、慌てて頭を再び下げた。

「まあまあ、そう固くならずとも良い。拙者は代官所陣代勤番与力頭の酒井田要一郎と申す。市、よろしく頼む」

 お市は、この鋭い目付きの侍の声に、何処となく優しさと思い遣りを感じ取ってホッとしていた。

「お市、酒井田様は、御定法破りの不埒な者達を取り締まって居られるお方なのだが、今日は、お市の話を御聞きになられたいと、お越し下さったのだ。何事も包み隠さず申し上げ為さい。いいね」
 
 返事をする代わりに、おっかなびっくり頷くお市を見て、酒井田という身形のいい武士は笑って言った。

「硬くならずとも良いと申して居るに。まあ良い。市、この人相書きに覚えはあるか」

 差し出された人相書きには三人の顔が描かれていたが、真ん中の男の似顔絵は、安兵衛親分の処の、例の馬借の特徴を実に見事に押さえていた。

「はい。この真ん中の男の人は、板橋宿で……その、襲われました馬借の顔で御座います」

「左様か。よし、これで決まりだ。代官所も重い腰をこれで挙げられる。話を聴きに、足を運んで来た甲斐があるというもの」

「一体何があったのでしょうか?」

 ごほんと父の米之助が咳払いをし、流し目でお市の口を封じた。

「酒井田様。そろそろ番頭の辰吉が戻る刻限で御座います。暫しの間の御慰みと致しまして奥座敷で、酒肴をご用意させていただきましたが、如何でございましょう」

「おお、左様か。気を使わせたな。折角だ。馳走になろう」

 米之助の強引な割入りは余程聴かせたくない事があったのであろう。
 良くない話であることだけは間違いない。
 だからこそ、何が在ったのか、当事者である自分は知らなければならない。
 お市は強くそう思った。

「あのちょっと……」

 声を掛けようとした途端、止せと目で遮る米之助に阻まれお市は動けず、切っ掛けを失いその場で立ち尽くした。
 そんな席を立つ酒井田を遮り、黒丸がちょこんとお行儀よく座り、わんと一声吼えた。
 酒井田はかなりの犬好きの様で、

「おおっ、これは実に良い黒虎毛だ。甲斐犬か」

 顔を綻ばせ、ワシワシと頭を撫でる。
 黒丸に助けられたことに心でお礼を言いながら、父の米之助が口を開く前にと、

「酒井田様。まだまだ未熟者の小娘ではございますが、年端のいかぬ童ではございません。障りのない処だけでもお聞かせ下さいまし」

 お市は自分の想いを乗せて必死に告げた。
 自分たちがしでかしたことで、何かがあったのだ。
 知らなければならない。
 そして、出来る事をやって困りごとを追いやらねば。
 酒井田は黒丸を撫でつつ、微笑みながら頷いていた。

「相分かった。二代目、良いな」

「はい。不調法の段、申し訳次第も御座いません」

 深深とまた頭を下げようとする米之助に、酒井田は止せと手配りをした。

「娘御に話を聞かせたくないのは、娘御が事を想うての事。娘御が話を聴きたいのは家の者達の心配をすればこそ。お互い思い合うのであれば、困難な道も開けようというもの。下げる頭など何処にも無いぞ。何れ耳に入る話でもある。しかし、市、聞いて気持ちの良い話では無い。覚悟して聞け」

「はい。宜しくお願い申し上げます」

 お市は怖がりでは無い。
 寧ろその真逆なのだ。お人よしで面倒見がよく、自分の事は二の次で、厄介ごとを見聞きすると何とかしたいと思ってしまう。
 米之助の心配事は当に其処に在った。
 ましてや、今回の話は、人を殺すの殺されるの物騒な話なのだから尚更だ。

「源太という凶状持ちは、お主らとの諍い後、馬借を二人も刺し殺し、懐のものを奪い取った。そして鳴りを潜めて暫くの後、安兵衛の処へ舞い戻ると井戸に毒を放り込み、仲間と共に頃合いを見て押し込んで、金品を奪えるだけ奪い、今山に逃げ込んでいるのだ」

 流石の内容にお市は黙ってしまっていた。
 おつかわし屋では、先代の祖父の初次郎から困った人も獣も助ける、それが家風であり、当然の事だと思っている。
 余りの惨い話に、お市の頭の中に墨が広がったように黒く暗くなり、ぐるぐるし始めて言葉が出ない。
 すかさず、後ろに控えていた藤次郎が助け舟を出した。

「酒井田様。手前は二代目初次郎が一子、藤次郎と申します。御無礼の段、平に御容赦下さいませ。安兵衛親分さんの御一家御郎党の皆様の安否はどのように?」

 藤次郎の問いに酒井田の眼がギラリと底光りした。
 他者を圧倒し、射抜くようなその鋭い目付きは、陣代勤番は伊達では無い事を証明していた。
 お市も藤次郎もその眼力に圧倒されていた。
 だが、二人とも全く怯まない。
 大事な人たちの大事な命がかかっているのだ。
 お市など身を乗り出しそうな勢いであった。
 米之助はその様子に嬉しくもあり、心配でもある。想いが場に溢れている。

 酒井田は二人の覚悟と皆の気持ちの程を見てとり、表情は厳しいままではあるが、言葉柔らかに続けた。

「安兵衛は大した男よ。毒を盛られながらも一人を討ち取り、もう一人を捕えた。また他の手下たちも良く働き、お蔭で女子供は皆無事だ。幾人かは無事な男衆もいたが、後は安兵衛も含めて皆……最期を遂げた。さぞや無念であろうな」

 酒井田は悔しそうに持っている指揮杖で地面を強く突いた。

「案ずるな。必ずや安兵衛の無念は晴らす。悪党どもは残らず獄門台に掛けてやる」

 そう静かに怒りを込めて言った。
 その言葉の重さと迫力に藤次郎は二の句が継げず何を言えばいいのか分からない。
 そしてお市は、目の前の話であるにも関わらず、事の大きさを飲み込めないでいた。

(安兵衛親分さんが……そんな……だってついぞあんなに……嘘……そんな筈ない)

 足元の黒丸が、くぅーんと哭きながらお市を支えようと気遣っている。
 自分の足が震え始め、涙があふれて、知らず知らずのうちに、着物の袖を拳で握りしめている事に気付いた。
 頭の中の暗闇で大きくうねるものが有る。
 お市は怒っていた。そして泣いていた。
 しかし、声は出さず、震えそうになる膝にぐっと力を入れ、袖を握る拳に更に力を込めると、真っ直ぐに見つめる瞳から溢れて零れる涙を拭いもせず、芯の通った声で、

「小娘ではございますが、私に、何かお手伝いできるような事はございましょうか」

 酒井田を見据えながら、凛と告げた。
 視線から物言いから、その総身から溢れる気迫は実に芯の通った固いものである。
 酒井田は、そんなお市に実に優しく応える。

「この犬の名前は何というのだ」
「はい。黒丸で御座います」

 わんっと黒丸が返事をする。酒井田は黒丸の頭を撫でると、

「世知辛い世の中じゃ。悪い奴を退治する為に、お主のような娘に迄、嫌な話を聴かせねばならぬ。なればこそ、この黒丸の様に誰もかれもが、真っ直ぐに見上げられるような場所を護って、皆の笑顔を助けてやってくれ。そういう場所や人が増え、そんな人や場所ばかりになれば、儂も無駄飯喰らいの昼行燈になれるというものよ」

 そう静かに笑い、米之助と共に宿へ入っていった。
 その姿を見送りながら、お市も藤次郎も目線すら動かさず、暫し無言であったのだが、お市は堰き止めた思いが溢れるが如く、急に言葉を発した。

「藤次郎。あたし、あたし……悔しい。安兵衛親分さんに、お豊さん……。皆いい人たちばかりだった。それなのに……。酒井田様のお言葉はどうすればそうなるの。ねえっ、御願い教えてよ」

 振える声を振り絞り耐え忍ぶお市の瞳は、強い意志の光を湛えつつも、大粒の涙が頬を濡らしている。
 ああ、覚悟を決めたときの顔だ。
 放っておいても、突っ走ってしまう時の顔だ。
 真っ直ぐな想いを明け透けに伝えている。
 お市の側にある人々は、見ず知らずの赤の他人ですら、その真っ直ぐな想いに何かを衝かれて、動かされるのだ。
 代官所の侍が言った。

「娘。気に病ませ、泣かせてしまって済まぬ。代官所の捕り方として、詫びよう。この通りだ。安兵衛の無念は酒井田様と此処に居る皆と共に必ず晴らす。だから許せ」

 手代の伊平がどんと胸を叩き、お市に告げた。

「ああ、そうだ。お嬢。ここには、お武家様方以外にも、龍の辰吉に、大岩かってくらいドンとした二代目がいる。鬼より怖い大女将もだ。そんな海千山千の手練れに、毎日鍛えられている俺達は、山人達くらい蹴散らせる腕っ扱きさぁ。だからよ、安心しろい」

「ああ、その通りさ。お嬢。お嬢を泣かす悪党は俺が叩きのめしてやるさ」

 六郎も頷きながら心からの声を掛ける。
 お市のその心根から零れて来る思いの丈が、皆の心持をより良く強く引っ張って行く。

「子曰く、徳は孤ならず、必ず鄰有。相も変わらずだな、姉さんは」

 藤次郎は姉の凄さと危うさをこんな時にいつも感じてしまうのだ。

「お武家様。伊平さん。六郎さん。姉の為に、御心折りを戴きまして、誠に有難うございます。感謝に絶えません」

 藤次郎は皆に深々と頭を下げると、大桑の木陰にお市と連れ立ち、向き合った。
 お市は女の子らしく、泣き跡を金魚の柄の手拭で拭き取っていた。

「話の途中で御免ね。それで、さっきの話だけど、何とか先生のお話はいいから、分かり易く教えて」

「何とか先生じゃない。孔子という偉い人の御言葉だよ。まあそれは置いといて、姉さんにぴったりなのは、笑顔に勝る妙薬は無し、だね。皆が笑顔で居られる様に頑張るという事で、心配さえ掛けなければ、姉さんは今のままで良いと思うよ。弟が言うのもなんだけどね」

「なあに、それ。おじいの云ってたまんまじゃない」

 笑顔に勝る妙薬は無し、そういうこった。分かったかい。お市。
 落ち込んだり、泣いていたりする時によく祖父の初次郎に聞かされた言葉であった。 
 空を眩しそうに見上げると、お市の顔がふっと緩む。

「あたしが頑張ると、皆に心配を掛けてしまうの。特におっ母さんには申し訳なくて……」

「後先考えずに突っ走るのを止めればいいんだよ」
「だってさ、どうせやるなら、一所懸命にやらないと――」

「だから、後先考えず、加減知らずのがむしゃらにと、一所懸命の意味は違うよ。人の事を思いやるのは、自分の事は後にしていいって事じゃあないって、お父っさんも言っているじゃないか」

「…………」

 実際、お市のお節介は、筋金入りである。
 人も獣も助けるためなら、野山を駆けずり回り、他人の評判など気にしない。
 困ったら助ける。
 躊躇せず、損得も関係なく助ける。
 苦労して、何とか助けた相手から、罵られても、

「助かって良かったね。元気になって良かったね」

 と笑顔になれる娘である。

 この宿場界隈では、お市の事を女だてらにとか、嫁入り前なのにとか、ただのお人好しだとかという、決まり文句を口にする者は、今はもう誰もいない。
 お市と問えば、みな一様に笑顔になる程であり、藤次郎は、だからこそ一番近くの自分がしっかりしなければ、と常日頃から思っているのだ。

「姉さん。おいらたちが落ち込んだり、逆に無茶をしたりしたら、お父っさんやおっ母さん、お婆様におつかわし屋の皆に迷惑と心配をかけてしまう。だから、無茶はしないし、言付けを守るし、普段通りいつも通りが肝要だよ。本当に加減知らずだけは止めてくれないと。いいかい?」

 お市は弟ながら、自分より辺りをよく見て何時も良くしてくれる藤次郎を、凄い奴だと認めている。
 そして今も、その言うことに従うつもりは満々なのだが、其処は肉親である。
 気に要らないことも妙に多い。
 お市は大きく息をすうと、自分のほっぺを両手でバシンっと大きく叩いた。

「加減知らずは余計よ。意地悪藤次郎」

 むっとした表情のお市は、色々な匂いを嗅いで楽しそうな黒丸に、

「藤次郎が遊んで欲しいんだって。はめ外していいから、力いっぱい、思いっきり遊んで貰いなさいね」

 と藤次郎を指さしながら、にっこりと微笑んだ。
 やっと来たっ、本当ですかっ、と云わんばかりに黒丸の眼は輝いた。
 黒丸にとって、お市と藤次郎に遊んで貰う事は、ご飯と同じくらい全ての事に優先される事柄である。

「わんわんわんっ」

 黒丸は、それはそれは、嬉しそうに吼えると、尻尾を千切れそうになるくらい振っている。
 藤次郎は黒丸の様子を見て、ため息をつくとあきらめた。
 伏せの状態で、お尻がフルフルしている。何時でも来いの合図だ。
 あの状態ではもうだめだ。遊ばないと収まりはつかない。

「ええいっ、かかってこい黒丸っ」

 藤次郎はそう言うと全速力で走り出した。
 黒丸はその様子を見送って、やや遅れてから黒い疾風となって後を追う。

「やっちゃえー黒丸っ」

 黄色い声援を送るお市を、捕り方達は茶を飲みながら、笑って見守っていた。
 痛みのある中の、束の間の和やかな時間であった。
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