「白い結婚の終幕:冷たい約束と偽りの愛」

ゆる

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第二章:揺れる思惑

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 朝焼けの光が、王都を見下ろす公爵家の屋敷を静かに照らしていた。風の冷たさはいまだ残り、秋の訪れを感じさせる。深く濃い雲が遠景に流れていく様子は、まるでこの屋敷の住人たちの胸の内を映し出しているかのようで、どこか不穏な気配を帯びていた。
 アスカは昨夜も遅くまで書類の整理をしていたため、疲労でまぶたが重い。しかし、公爵夫人としての日常は、待ってくれない。彼女は朝早くに目を覚まし、リディアの助けを借りながら身支度を整えると、また新たな一日を始めるべく執務室へと足を向けた。

まだ見えぬ夫の影

 屋敷の廊下は広々としており、天井から吊るされたシャンデリアが淡い光を投げかける。朝とはいえ少し暗さの残る空気の中、アスカの靴音だけがやけに響いていた。
 昨日、夜遅くに戻ってきたレイヴンは、食事すら取らず自室へ籠もってしまったようだ。彼と顔を合わせたのはわずか数秒ほどで、まともに会話をする暇さえなかった。
 新婚生活とは到底思えない、こうした“すれ違い”の日常がすでに常態化しつつある。しかし、アスカは自分の胸に芽生えかける虚しさを振り払いながら、今日も“公爵夫人”として成すべきことをこなすしかないと割り切る。

「おはようございます、公爵夫人様。」

 執務室の扉を開けると、執事のオーランドが控えめな笑みを浮かべて出迎えた。整えられた小机には朝の茶が準備され、その横には今日確認するべき書簡や書類が積まれている。
 アスカは軽く会釈し、椅子に腰を下ろすと、まずは机上の書簡にざっと目を通した。内容の大半は、公爵家が抱える領地の状況報告や、取引先の商人からの問い合わせなど、公的なものが多い。中には、社交界で行われる茶会や舞踏会への招待状も混ざっており、彼女に参加の意思を問う文面が見られた。

「公爵夫人様、今週末に開かれる侯爵家主催の舞踏会にご招待が届いております。ご出席なさいますか?」
 オーランドが尋ねると、アスカは軽く眉根を寄せた。社交界への参加は、公爵夫人としての義務のひとつだ。しかし、夫であるレイヴンが同行する意志を見せるとは考えにくい。
(とはいえ、出席しなければ“公爵家の新婦は公の場に出られないほど関係がうまくいっていない”と噂されるかもしれない――。)

 短い思案の末、彼女は参加を決めた。
「ええ、出席いたします。主人の都合が合わない場合でも、私だけで行くことになるでしょうが……準備を進めておいてください。」
「かしこまりました。ドレスや侍女の手配につきましては、改めてご相談させていただきます。」

 こうして、社交界という大舞台への初参加が、具体的に動き始めた。

執務に潜む違和感

 招待状を脇へ置き、アスカは昨日の続きである財務関係の書類を手に取った。公爵家が取り引きしている商会のリストや、領地の管理費用などを細かく確認していくうちに、やはりある一点が気にかかる。
 それは、特定の商人――名を“アーヴィング商会”という――が受注している案件が異様に多いこと。さらに、契約金額も相場を大きく上回っている。それだけならまだしも、その商会と競合する業者に割り当てられる仕事は極端に少なく、公爵家からの支払いも滞りがちだという。
 明らかに歪んだ構図だが、その理由がはっきりしない。執事や秘書官に尋ねても、「公爵様の方針」と一言で片付けられてしまうのが現状だった。

(レイヴンが個人的なメリットを得ているのか、それとも別の何かがあるのか……。)

 疑問は尽きないが、当のレイヴンに直接問いただす機会がほとんどないのがもどかしい。アスカは無意識に手元の書類を強く握りしめ、深いため息をついた。
 そんな彼女の気配に気づいたのか、そばで控えていたリディアが静かに声をかける。

「アスカ様、ご気分でも優れないのでしょうか? もしよければ、少し休憩なさってはいかがですか? お茶をお淹れしましょうか……」
「ありがとう、リディア。でも、もう少しだけ書類を見てからにするわ。」

 アスカは笑みを作って応じる。リディアの存在が、今の彼女にとっていかに心の支えになっているかは言うまでもない。だからこそ、ここで怯んではいけないと自分を奮い立たせるのだ。

セシリアの影

 執務室での作業を一段落させ、昼食まで少し時間がある。アスカは一息つこうと廊下を歩き、中庭へ向かった。青々とした芝生が広がる庭は手入れが行き届いているものの、どこか作り物めいた冷たさが漂っている。
 風に揺れるバラのアーチをくぐった先で、彼女は思わず足を止めた。視界の先に見えるのは、金髪を美しく巻いた女性――セシリアが、目を伏せたままベンチに腰掛けている姿だった。
 一見すると儚げで絵になる光景だが、アスカには警戒心が先に立つ。セシリアは昨夜も屋敷に滞在していたようで、“客人”の域を超えてこの家で振る舞っている節がある。いったい何者なのか。言葉を交わした印象では、ただの“親しい客”ではないことは明白だ。

「……アスカ公爵夫人。偶然ね。散歩かしら?」

 アスカが近づくと、セシリアはすぐに気づいて顔を上げた。その視線には、どこか人を試すような挑発が混ざっている。
 アスカはできるだけ穏やかな表情を保ち、礼儀正しく微笑んだ。

「ええ、少し気分転換に歩いていただけです。セシリア様も、おくつろぎ中でしたか?」
「ええ、そうよ。屋敷の中ばかりでは退屈だもの。たまには外の空気を吸わないと息が詰まってしまうわ。」

 そう言いながらも、セシリアはどこか探るような目でアスカを眺める。まるで彼女の表情や仕草から、何かしらの弱点を見出そうとしているかのようだ。
 アスカはその視線を感じながらも、話題を逸らすように問いかける。

「セシリア様は、こちらの屋敷に長く滞在されるご予定なのかしら?」
「さあ、どうかしらね。私は気まぐれだから、飽きたらどこへでも行くかもしれないし、興味のあるところには長居するかもしれない。……そう、例えばこの屋敷とか。」

 セシリアは唇に淡い笑みを宿しながら、わざとらしく周囲を見回した。そこに含まれる意味を、アスカはすぐに悟る。彼女は「公爵家に留まるだけの理由がある」ということを、暗にほのめかしているのだろう。
 昨日、セシリアは挑発的な言葉でアスカの胸をざわつかせたが、今日もその姿勢は変わらない。むしろ、さらに深く干渉しようとしているかのように見える。

(いったい何のつもりなの……。私に夫婦の不仲を見せつけるため? それとも、別の目的があって……?)

 頭の中で疑問が渦巻く。だが、無理に踏み込んだ話題を振るのは、相手の思うツボかもしれない。アスカはやや胸を張り、落ち着いた口調で返した。

「いずれにせよ、こうして屋敷にいらしてくださるのは、公爵家にとってもありがたいことです。きっと主人も退屈しないでしょうし。」
「まあ、そうね。あなたがそう言うなら、しばらく居座っても差し支えないわね。」

 セシリアは意味深な笑みを残して立ち上がり、ゆったりとした足取りで中庭を後にする。その姿を見送るアスカの胸には、言いようのない重苦しさが残った。冷たい風が髪を揺らし、またひとつ不穏な影が心を覆う。

来客と、動き出す影

 午後になって、屋敷の正門から馬車が入り込む音がした。執事が慌ててアスカのもとへ駆け寄り、来客の名を告げる。

「公爵夫人様、リュミエール侯爵家より、イザーク様とマリアンヌ様がお見えになりました。」
「……父と母が? こんな突然に、何の用かしら。」

 思わぬ来訪にアスカは驚きつつも、すぐに応接室へ向かうために身支度を整えた。実家の両親が気軽に訪ねてくることは滅多にない。大抵は手紙や使者を通じて連絡をよこすのだが、今回はどういう風の吹き回しだろうか。
 応接室に入ると、父イザークと母マリアンヌがすでにソファに腰掛けていた。父は相変わらず厳格な表情を崩さず、母はどこか冷めた瞳で室内を見回している。

「……お久しぶりです、父上、母上。何か急用でも?」
 アスカが尋ねると、イザークは言葉少なに切り出した。

「アスカ、お前の嫁入りからそれほど日は経っていないが、どうにも様子がおかしいという噂を耳にした。レイヴン公爵がほとんど姿を見せず、しかも家の中には妙な女が居座っているらしいな。」
 母マリアンヌもため息まじりに続ける。
「リディアからあまり細かいことを聞き出すわけにもいかないけれど、『夫人が苦労されているのでは』と耳にしたの。せっかく公爵夫人になったというのに、何か問題を起こしているなら看過できないわ。」

 どうやらリディアが何らかの形でリュミエール家に状況を報告していたらしい。アスカは心の中で複雑な思いが渦巻く一方、両親の言葉に反論せず、冷静を装って答えた。

「問題というほどではありません。レイヴン様はお忙しいだけですし、あの金髪の女性――セシリア様もあくまで“客人”として滞在しているに過ぎません。ただ、そうですね……多少はいろいろと不便があるのは事実です。」
「なんだ、その曖昧な言い方は。お前、本当にそれでいいのか?」

 イザークの声音には苛立ちがにじんでいる。公爵家との結婚は、リュミエール家にとっても大きな賭けだった。もしそれが破談や不仲によって失敗に終われば、父の目論見は瓦解しかねない。
 母マリアンヌも口調を強めて言う。

「そうよ、アスカ。もし何かあれば、早めに相談してちょうだい。あなたが花嫁として役に立たないとわかったら、どうなるかわかっているわね?」
 その言葉は、娘を気遣うよりも“家のためにちゃんと動け”という圧力の方が強く感じられる。アスカはやるせない思いを堪えながら、なんとか微笑みを作った。

「ええ、承知しています。ただ私も、ここで公爵夫人として果たすべき務めがあります。今後のことは私にお任せください。父上と母上は、どうかリュミエール家のことを優先していただければ。」
「……フン。まったく、どこまで本気で言っているのか。」

 イザークは満足そうでも、納得いかないようでもある複雑な表情を浮かべて椅子から立ち上がった。
 一方、母のマリアンヌは冷笑とも取れる薄い笑みを浮かべ、アスカを見つめる。

「それならいいのだけれど……アスカ、あなたも知っての通り、貴族社会は噂が大好きよ。なるべく早く“公爵家の新婦”として確固たる地位を築きなさい。そうでないと、せっかくの政略結婚が無駄になるわ。」

 そう言い残し、二人は使用人に案内されて屋敷を後にした。訪問はわずかな時間だったが、アスカの心には再び重圧だけが残る。両親が彼女自身を心配して来たわけではないことは、火を見るより明らかだった。

息苦しさと決意

「アスカ様……。」

 応接室を出たところでリディアが申し訳なさそうに頭を下げた。おそらくリュミエール家に向けて何らかの報告をしたことを、アスカが責めるかもしれないと考えているのだろう。
 だが、アスカは責めるような視線を向けず、むしろ淡々とした調子で尋ねた。

「リディア、父と母はあなたに無理を言わなかった? 私のことを執拗に聞き出そうとしたりとか……。」
「はい……正直、少し厳しい口調で聞かれました。でも、私もアスカ様に不利になるようなことは申し上げておりません。そもそも、あなたがどんなに努力をされているか、私は知っていますから……。」
「そう。大丈夫ならいいの。むしろ、何か問題が起きたら早めに伝えてね。私も対処できるように準備したいし。」

 リディアの目には涙が浮かんでいた。親を含め、誰もアスカを真正面から助けようとはしていないのではないかと感じているのかもしれない。その気持ちはアスカ自身も同じだ。
 愛のない結婚、冷たい夫、敵意むき出しのセシリア、実家からの重圧……。息苦しさに押し潰されそうになるたび、何とか踏みとどまれるのは、ほんの少しの意地と、隣に寄り添ってくれるリディアの存在だけだった。

(私は“白い結婚”に囚われている。ただ、だからといって、このまま黙って従う気はない……。)

 自室へ戻る道すがら、アスカは自分の胸に再び誓う。公爵夫人としての務めを果たすということは、単におとなしく家のために尽くすことを意味しない。むしろ、自分の可能性を最大限に活かし、周囲を出し抜きながら最終的には自由を勝ち取る道を見つける――それこそが、彼女にとっての“生き残る術”だと確信し始めていた。

はじまる社交界への一歩

 翌日、アスカは執事や侍女たちと共に、数日後に迫る舞踏会への準備に着手した。リュミエール家にいた頃から、彼女は社交界の作法や舞踏を一通り学んでいる。しかし、公爵夫人として大勢の貴族の前に立つのはこれが初めてだ。
 舞踏会は侯爵家が主催で、王都の華やかな一角にある広間を貸し切って行われるという。多くの貴族が集まる場は、アスカにとって自分の存在を示せる数少ない機会だ。一方で、失敗すれば“公爵夫人失格”の烙印を押される危険もある。

(もしレイヴンが同行してくれれば、周囲からの目も違ってくるのに……。)

 淡い期待を抱きながら、アスカは思い切ってレイヴンの執事に面会を求めた。だが、帰ってきた返事は「公爵様は予定が詰まっており、おそらく舞踏会には顔を出せない」というもの。つまり、アスカは一人で出席するしかない。
 それでも引き下がるわけにはいかない。貴族社会の噂話は恐ろしいほど瞬く間に広がる。新婚の身で夫を伴わずに舞踏会に現れれば、その理由を憶測され、「公爵夫妻は既に不仲なのでは?」などと面白おかしく囃し立てられるだろう。それを逆手に取り、“公爵夫人の懐の深さ”を見せつけることができるかどうかが、アスカにとっての勝負となる。

「リディア、当日は私が失敗しないよう、念入りに支度をお願いね。衣装は少し派手なくらいでいいわ。存在感を示さなければ、すぐに噂の餌食になるだけ。」

 覚悟を決めるように、アスカの瞳には静かな炎が灯っていた。リディアは力強くうなずき、ドレス職人や髪結いなど、必要な手配を始める。
 同時に、アスカは社交界の動向を把握するため、手元にある情報をさらに精査した。どの貴族がどこと親交を持ち、誰が誰を敵視しているのか――そういったネットワークを把握するのは、これからの立ち回りに必須だからだ。

(レイヴンやセシリアがどんな顔をするかはわからないけど、私は私でやるべきことをやるだけ……。)

動き出す陰謀の気配

 舞踏会の準備を進めながら、アスカは同時に公爵家の財務問題にも少しずつ取り組んでいた。アーヴィング商会に対して支払われている莫大な金額、そしてその他の業者の冷遇――どれも気になる材料だ。
 そんなある日、アスカは使用人たちから奇妙な噂を耳にする。

「……最近、アーヴィング商会の手代がしばしば夜遅くに屋敷を訪れているらしい。公爵様が密談をしているとか、あるいは別の誰かと会っているとか……。」
「ひょっとすると、公爵様は裏で大きな投資か何かをしているんじゃないかって噂ですよ。セシリア様もその話に絡んでいるとか、いないとか……。」

 確証はない。ただの噂に踊らされるのも危険だが、それでも放っておけない内容だった。何しろ、アスカが抱いていた疑念と絶妙に符合する。それにセシリアの存在が絡むとなれば、一層きな臭い雰囲気が漂う。
 彼女は執事や秘書官にさりげなく探りを入れたが、皆一様に「私どもは存じ上げません」という答えしか返さない。あるいは、本当に何も知らないのかもしれない。
 だが、少なくともレイヴンとセシリアが何らかの“密かな計画”を共有している可能性は高まっている。アスカにとっては夫の動向以上に、自分の身に及ぶ影響を無視できない事態だ。

(私が社交界に顔を出すことと、この裏側で進む動き……もしかしたら、どこかで繋がっているのかもしれない。)

 公爵家という巨大な存在を舞台に、様々な思惑が交錯する。アスカが意図せず踏み込もうとしている領域は、単なる“家庭内の不和”ではなく、もっと大きな陰謀を孕んでいるのかもしれない。
 それが彼女の破滅をもたらすのか、それとも“ざまあ”と呼べる逆転劇のきっかけになるのか――いずれにせよ、もう後戻りはできないところまで来ている。

孤独を抱えながら

 夜、アスカは自室の灯りを落とし、窓際の椅子に腰掛けて外の景色を眺めていた。視線の先には、暗闇の中に沈む王都の街並みと、ちらほら灯る家々の明かりがある。
 彼女がここに来てから、既に一週間あまり。結婚式の日から振り返れば、華やかさとは程遠い、むしろ冷え切った時間を過ごしてきた。夫からはそっけない態度ばかり、愛人かもしれない女性が堂々と振る舞い、実家からは厳しい視線を注がれ……。
 それでも不思議と、彼女の心は完全に折れてはいなかった。むしろ、燃えるような闘志が少しずつ芽生えている。誰もが「ただの可哀想な人形嫁」と侮るなら、その油断を逆手に取ってやる――。

 リディアがそっと部屋に入ってきて、低い声で話しかける。
「アスカ様、明かりを落とされたままで何を……。」
「少し考えごとをしていたの。大丈夫よ。あなたももう休んで。」

 リディアは心配そうな顔をしたが、それ以上深く追及することはしなかった。ドアが閉まり、再び闇と静寂が部屋を包む。
 アスカは薄闇の中で瞼を閉じ、ゆっくりと息を整える。舞踏会まで、もうあまり日がない。そこでどう立ち回るかが、今後の道を左右すると言っても過言ではないだろう。
 同時に、レイヴンやセシリアの“裏の動き”を掴むためには、社交界で得られる情報が大いに役立つはずだ。もし彼女たちが策略を巡らせているなら、周囲の貴族や商人も何かしらの噂を知っているに違いない。

(私の知らないところで、何が動いているの……?)

 胸を掻きむしられるような不安に駆られながらも、アスカの決意は硬い。貴族社会であろうと、夫婦間であろうと、このまま翻弄されるだけの存在でいるつもりはないのだ。
 夜の静寂の中で、彼女は自分の中に湧き上がる意志を感じる。今はまだ小さな火かもしれない。だが、この火がいつか大きな炎となり、周囲の誰もが予想しない“ざまあ”へと繋がる時が来ると、彼女は信じてやまない。


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 そうして訪れる舞踏会の当日まで、時間は刻一刻と進む。セシリアの存在感は増し、レイヴンは相変わらず不在がち。アスカの背後では実家の両親が苛立ちを募らせ、公爵家の使用人たちは二つの勢力――“公爵夫人”と“セシリア”の間でひそやかに揺れ動く。
 果たして、アスカは社交界という大海原でどのように立ち回り、公爵夫人としての地位を確立していくのか。そして、その裏で進む陰謀の正体は何なのか――。
 孤独と重圧を抱えながらも、彼女の足取りは止まらない。“白い結婚”の名に相応しい冷たい日々が続く中、すべての思惑は次なる幕へと向かっていく。

 薄曇りの朝、王都の街並みがかすかに白い霧に包まれている。光が明るさを取り戻す頃、アスカは一人、執務室の窓辺に立っていた。今日はいよいよ侯爵家主催の舞踏会が開かれる日だ。
 前回の舞踏会とは違い、アスカが“公爵夫人”として正式に社交界へデビューする場でもある。だが、肝心の夫であるレイヴンは、数日前から仕事だと言って屋敷を空けており、今のところまったく戻る気配がない。結局、アスカは単独での参加を余儀なくされていた。

(こんなにあからさまに放置されているのに、私はやはり一人で戦うしかないのか……。)

 窓の外を見つめるアスカの瞳には、一瞬悲しみの色が宿る。しかし、それをすぐさま消し去り、背筋を伸ばす。
 ここ最近、公爵夫人の地位と権限を行使しながら財務を調べ、複数の書類を確認してきたことで、彼女なりに状況がつかめてきた。レイヴンと“アーヴィング商会”の関係、セシリアの存在感、そして公爵家に滞在する使用人たちの微妙な空気――いずれもまだ断片的な情報しかないが、それらが確かに裏でつながっていることを直感している。
 今日の舞踏会は、華やかな社交の場であると同時に、貴族間の情報交換の場でもある。どんな噂が飛び交い、誰と誰がどう繋がっているのか――その一端を探るのは、アスカが自ら動くしかない。

舞踏会への出陣準備

 午前のうちに、アスカは侍女たちと最終的な支度を詰めた。ドレスは淡い青色を基調としたものを選んでいる。上品ながらも少し大胆に肩を露出したデザインで、白い肌が映えるように仕立てられた。背中側には銀糸で繊細な刺繍が施され、動くたびに光を反射して美しく輝く。
 周囲から“公爵夫人”として見られる以上、地味な装いは却って弱々しい印象を与えてしまう。アスカはあえて華やかなデザインを選び、“遠慮なく輝く姿”を示すことを狙っていた。

「アスカ様、とてもお似合いです。きっと会場でも注目を集めることでしょう。」
 鏡越しにリディアが微笑みかける。まるで姉妹のように和やかな光景だが、その内実は緊張感に満ちていた。
「ありがとう、リディア。あとは心構えだけね……。失敗は許されないし、私がどう振る舞うかで周囲の見る目も変わるはず。しっかりやってみるわ。」

 いつになくアスカの声は力強い。半年前までは想像できなかった光景だ。実家にいた頃は、結婚相手との“幸せ”を夢見ることもあったが、今の彼女はまるで別の目標を宿している。それは“自分を見限った周囲を見返す”という意志であり、“こんな白い結婚に終わらせない”という決意だ。

出発前の不穏な出会い

 昼過ぎ、馬車が出発するまで小一時間というところで、アスカはふと執務室に立ち寄り、最後の確認をしていた。舞踏会で出会うかもしれない人名や、話を聞いておくべき領主・貴族のリストなどをざっと頭に叩き込む。
 そこへ、ノックの音もなく扉が開いた。入ってきたのは予想通りの人物――セシリア。深いエメラルドグリーンのドレスに身を包んだ彼女は、いつものように傲慢な笑みを浮かべている。

「まるで戦地へ向かう戦士のような表情ね、公爵夫人。今日が初めての舞踏会ですもの、緊張して当然かしら?」
 嫌味とも挑発ともとれる口調だが、アスカは動じずににこりと微笑んだ。
「ご心配なく。確かに緊張しているけれど、私にとっては大切な場だから、全力で臨むつもりよ。」

 セシリアは机の上をちらりと見やり、紙をめくるアスカの手元をあからさまに覗き込む。
「なるほど……人名リストまで用意して、どの貴族がどんな噂を抱えているのか、調べるつもり? ずいぶんと念入りね。アスカ公爵夫人は意外と策略家なのかしら。」
「策略というほど大げさなものでもありません。公の場に出るなら、それなりの下調べは必要でしょう?」

 淡々と受け答えするアスカに、セシリアは薄く笑って身を引いた。
「ええ、その通り。私も舞踏会に行ってみようかしら。いろいろな人とお話しするのは嫌いじゃないの。……もしかして、あなたの“可愛い夫”がそこに現れるかもしれないものね。」

 最後の言葉にアスカの胸が小さく痛む。レイヴンが姿を現す可能性があるのだろうか。彼は“出張”と称して屋敷を離れているが、セシリアの知るところでは、会場で落ち合うつもりなのかもしれない。
 しかし、アスカは感情を表に出さない。ここで焦りを見せれば相手の思うツボだとわかっている。

「そうね。もしレイヴン様が来るなら、それはそれで朗報だわ。……では、セシリア様もドレスの準備があるんじゃなくて? 私はこれから馬車の出発に間に合うよう、急いで支度を済ませないといけないの。」
「ご親切にどうも。でも私は、いつでも出かける準備はできているわ。あなたと違って、“家の中”で必死に取り仕切る役目はないから。」

 セシリアは優雅に身を翻し、部屋を出て行った。その背中を見送りながら、アスカの心には微かな苛立ちが残る。
(あの人はいったい何を考えているの……。レイヴンのことも、自分の目的も、まったく隠そうとしない。まるで私を弄ぶかのように……。)

華やかな舞踏会の幕開け

 そして夕刻。アスカが乗った馬車は、煌びやかな照明が灯る侯爵家の館へと到着した。敷地に入ると、すでに多くの馬車が並んでおり、貴族たちが次々と玄関ホールへ吸い込まれていく。男性は豪華な礼装を身にまとい、女性は色とりどりのドレスを揺らしながら、笑みを交わし合う。
 アスカは緊張を胸に抱きつつ、車輪止めがされるのを待った。扉が開かれ、従者が丁重に手を差し出す。彼女はその手を借りて馬車から降り立つと、気持ちを引き締めるように深呼吸をする。

(ここからが勝負……。)

 広々としたエントランスホールを進むと、シャンデリアの光が眩いばかりに降り注ぎ、赤いカーペットが奥の大広間へ誘うように伸びている。すでに多くの男女が思い思いに談笑しており、豪華な食事や飲み物を手に楽しんでいる。
 アスカの姿が目に入ると、周囲の人々はささやき合ったり、一瞬視線を投げたりしているのがわかる。そもそも“レイヴン公爵の新妻”というだけで目立つうえ、“夫を伴わずに来た”という事実はスキャンダラスな話題になりやすい。

(さあ、笑いたければ笑えばいいわ。でも私は……公爵夫人としての立ち居振る舞いを見せ、必要な情報を得てみせる。)

 アスカは胸を張り、招待状を確認した係の者に会釈をして大広間へと進む。そこは絢爛豪華な装飾が施され、天井の中央には巨大なシャンデリアが輝いている。響き渡る演奏の調べが耳に心地よい。
 貴婦人たちが輪になって談笑する様子、紳士たちが興味深げに取引の話をする様子――いかにも“貴族の社交界”らしい空気が満ちている。

注目を浴びる公爵夫人

 アスカが一歩足を踏み入れると、さっそく何人かの貴族が彼女に声をかけてきた。
「まあ、レイヴン公爵家の新婦様ですわね。お初にお目にかかります。なんと美しい……!」
「お噂はかねがね。今日はご主人はご一緒ではないのですか?」

 そうやって畳みかけるように質問を浴びせながら、彼らはアスカの表情を探る。やはり“夫が同伴しない新妻”というのは格好の好奇の的だ。
 アスカは微笑みながらそれぞれに丁寧に返礼し、「主人は公務の都合で出席が難しく、誠に残念です」と短い言葉で切り抜けた。相手に余計な情報を与えず、愛想を崩さない――貴族の社交術の基本に沿って立ち回るのだ。

(何も怖がる必要はない。私は私で、公爵夫人としてここに立っている。)

 そう自分に言い聞かせるうちに、自然と笑顔にも余裕が生まれてきた。先ほど話した女性のうち何人かは、意外にも“レイヴン公爵家と関係を深めたい”という下心があるのか、アスカの味方につきたがるそぶりを見せる。
 アスカはそうした人々をうまくあしらいながら、抱えている疑問――アーヴィング商会の評判や、セシリアの噂など――の情報を引き出せないかと探りを入れる。そして、いくつか興味深い断片が耳に入ってきた。

「アーヴィング商会? ええ、最近どんどん勢力を伸ばしているようですわね。裏ではかなり強引な手段を使っているという噂もありますけれど……。」
「レイヴン公爵がお抱えにしているという話を小耳にはさみましたが、詳しいことはわかりません。ただ、莫大な資金が動いているとかなんとか……。」

 やはり、その名は社交界でも耳にする。しかも、“強引な手段”や“莫大な資金”という不穏な単語がちらつくあたり、アスカが感じた違和感は的中しているようだ。
 しかし、誰もが口ごもるように曖昧に話を止めてしまう。アーヴィング商会を真正面から批判するのは、レイヴン公爵を敵に回すことにもなりかねないからだろう。アスカ自身が当の“公爵夫人”である以上、人々も気を遣って言葉を濁すのだ。

思わぬ再会と揺れる真相

 しばらくして、舞踏会の中心ではダンスが始まった。煌めく音楽に合わせて、人々がペアを組み、華麗にフロアを舞う。
 アスカは誘いを受けるたびに軽く踊りつつ、合間に情報収集を続けた。ところが、音楽の休止するタイミングで振り向いた瞬間、息をのむほど驚く存在が視界に飛び込んできた。
 一瞬だけ、背の高い黒髪の男性の姿を見た気がしたのだ。白い手袋と漆黒の礼服が鮮明に目に入り、その姿は紛れもなくレイヴンに似ていた。しかし、すぐに人波に紛れて消えてしまい、アスカは確信を持てない。

(いまの……レイヴン? まさか、あの人が本当に来ているの……?)

 胸がざわつく。もし彼が本当に来ているのなら、どうして私に何も言わず、こうして人目を避けるように現れているのか。さまざまな疑問が頭をよぎる。
 そんな混乱の中、また別の人物の声がアスカを呼び止めた。

「これはこれは、アスカ公爵夫人。お美しいお姿で、我々も目福ですな。」

 見れば、そこに立っていたのはリュミエール家の昔馴染みでもある伯爵――カルデール伯。かつてアスカが社交界の下見をしていた頃に、一度顔を合わせたことがある人物だ。豊かな口ひげを湛え、朗らかな笑顔を浮かべている。
 だが、その笑顔の裏側に鋭い洞察が隠れていることを、彼女は知っていた。カルデール伯は、噂好きかつ情報通であることで知られ、王都の社交界の裏話を数多く握っているという。

「こんなに大勢の目がある場所に、よくお一人でいらっしゃいましたね。……やはりレイヴン公爵は多忙でお越しになれなかったので?」
 アスカは笑顔のまま短く息を吐く。
「ええ、仕事の都合がつかなかったのです。私としても残念ですが……。」

 伯爵は視線を左右に泳がせながら、口元をゆるめた。
「なるほど、なるほど。ですが、噂によれば今夜、王都の外からとある客人が公爵様を探しているとか。アーヴィング商会の手代がうろうろしているという話を耳にしましたよ。こんな社交界に、あの商会の人間が来るのは珍しい。もっとも、私はまだ直接見かけておりませんがね。」

 突然のアーヴィング商会の名に、アスカは心臓が高鳴るのを感じた。
「……伯爵は何かご存知で?」
「さあ、何も確証はありません。ただ、アーヴィング商会というのは近頃怪しげな噂が絶えない。王都の貴族たちとも深く取引をしているらしいですが、その手法がどうも表に出せないようなものだという話もある。実際、公爵家とも――」

 伯爵がそこまで言いかけたとき、周囲の喧騒が一段と増した。どうやら、会場の入り口付近で誰かがやや大きな声を上げたようだ。人々の関心が一斉にそちらに向かう。
 アスカも気になってそちらへと視線を走らせると、人だかりの向こうに見えたのは――金髪を光らせるセシリアの姿。そして、その隣には小柄な男がいた。毛皮をまとった商人風の出で立ちで、顔が険しい。

(あれが……アーヴィング商会の手代?)

 セシリアは男を制するように腕を押さえ、何事かをささやいているらしい。男は気まずそうにあたりを見回しながら、落ち着きを失っているようだった。
 その光景を横目に、カルデール伯がひそひそ声で続ける。

「ご覧なさい、あれではありませんかな。私が聞いた噂によれば、セシリア様もアーヴィング商会と関わりを持っているとか。まったく、何がどう繋がっているやら……。」
「……ええ、本当に。」

 アスカは内心でぞくりとする。セシリアは明らかに男を連れて来ている。そして、その男は会場で何かを探し回っているように見える。もしかすると、その“何か”とはレイヴン公爵自身かもしれない。
 しかし、セシリアが男を連れ立って舞踏会を訪れること自体、相当な不自然さを伴う。彼女自身は貴族階級の出身ではあるようだが、“商人の手代”と公の場を行動するのは、貴族社会の慣習から見て異例のことだ。

突如として現れた“夫”

 どこからか再び華やかな演奏が始まり、ダンスが再開される。それに合わせるようにして人々が動き出し、先ほどの人だかりは散っていった。セシリアと商人風の男も、どこかへ消えていく。
 アスカは何としても彼らの動きを追いたかったが、周囲には社交辞令を交わそうと近づいてくる貴族たちが何人もいるため、そう簡単には動けない。ここで無礼を働けば“公爵夫人”の印象が悪くなる。一瞬でも気を抜けば、スキャンダルの餌食にされるだろう。
 そんなもどかしさを抱えつつも、次々に話しかけてくる相手に微笑みながら挨拶を交わしていると――目の前に、またしても黒髪の高身長の人影が立ちはだかった。

「……おや、ずいぶんと社交界に溶け込んでいるようだな、アスカ。」

 低く冷たい声。しかし、アスカにとっては覚えのある響きだ。ゆっくりと顔を上げれば、そこに立っていたのは――やはりレイヴン公爵本人。漆黒の礼装に身を包み、表情には相変わらずの無愛想さが漂っているが、確かに本人である。
「レ、レイヴン様……いつの間に会場へ……?」

 驚きと戸惑いで、アスカは思わず声を詰まらせる。レイヴンは淡々とした様子で周囲を見回し、まるで先ほどまでいなかったことを当然のように受け流している。
「こちらには少し用事があった。だが、表立って動くわけにはいかない。……お前こそ、よくこんなに堂々と出席したものだな。」
「公爵夫人として、招かれた以上は務めを果たさなくては。あなたがいらっしゃらないなら、なおさら私が場を保たないといけないと思いましたから。」

 レイヴンはわずかに唇を歪め、嘲笑とも取れる表情を浮かべる。
「ふん……。まあ、お前の自由だ。俺がどうこう言うつもりはない。ただ……。」

 そこで言葉を切り、レイヴンは視線を周囲に走らせる。すぐに、遠巻きにこちらを見ているセシリアの姿を捉えたのだろう。彼の瞳が鋭く光り、まるで状況を一瞬にして把握したかのように見えた。
「セシリアは……そうか、やはりここに来ているのか。あの男も一緒のようだな。」
「レイヴン様、いったい何が……」

 思わず問いかけるアスカに、レイヴンは冷たく言い放つ。
「お前は関わるな。余計なことをする必要はない。」
「関わるな、ですって? 公爵家の問題なら、私は“夫人”として――」

 しかし、レイヴンはそれを遮るようにアスカの腕を掴み、もう一段声を低くする。
「お前はただ、公の場で体裁を取り繕っていればいい。聞き分けのない真似をするな。あれは俺の問題だ。」

 まるで警告するような厳しい口調。アスカはその冷酷さに胸が痛むが、同時にレイヴンが何か大きな秘密を抱えていることを確信する。自分に何も話さないのは、“夫人”と呼びながら本当に利用価値のある存在だと思っていないからなのか、それとも危険な目に遭わせないためなのか――判断がつかない。
 だが、アスカは引き下がるつもりはなかった。

(私はもう人形のままでいるわけにはいかない。あなたが何を隠していようと、このまま黙って言いなりになるつもりはないの……!)

 心の内で強くそう叫びながら、アスカはレイヴンの手を振りほどこうとする。しかし、その瞬間、会場の向こうでまた人々のどよめきが起こった。

崩れゆくダンスフロア

 何事かと目を向けると、ダンスフロアの中心でセシリアと先ほどの商人風の男が口論を始めているようだ。人々が驚きの声を上げながら距離を置き、あっという間に円を描くような形になった。
 セシリアは必死に男を制止しているが、男は興奮状態なのか、激しい口調でセシリアを責め立てている。断片的に聞こえてくるのは「約束が違う」「早く会わせろ」といった言葉だ。
 そして男は、セシリアの腕を振り払うと、フロアの中央から周囲を見渡した。その視線がレイヴンを捉えたようだ。

「そこにいるのがレイヴン公爵か!? いい加減にしてくれ……俺たちはこんなところで待ちぼうけを食うために来たんじゃない! 大損させられたまま、逃げられるとでも思ったか……!?」

 男の怒号が会場に響き渡る。華やかな舞踏会の空気が凍りつき、人々は息を呑んで事態を見守る。
 レイヴンは一瞬だけ表情を固くし、すぐに無表情に戻って、男を睨みつける。

「……そちらこそ、勝手に会場へ乗り込んできて何のつもりだ。場所を弁えろ。ここは社交の場だ。」
「関係ないね! お前が金を引っ張るだけ引っ張って、その後は知らん顔なんて許さないぞ……!」

 どうやらこの男はアーヴィング商会の手代に違いない。先に話に出た“強引な手段”の片鱗が、こんな形で露わになるとはアスカも予想していなかった。
 セシリアは必死に男の腕を掴もうとしているが、暴れ回る男を抑えられず、悲鳴のような声を上げる。周囲の貴族たちはショックで硬直し、一部の者はこの“醜態”から距離を取ろうと後ずさりする。

「レイヴン公爵……! いつまで私たちを利用するつもりだ……!? お前はあの件を早急に処理すると言ったじゃないか……!!」

 男の叫ぶ「あの件」とは何なのか。アスカには見当がつかないが、少なくとも大金や利権が絡む話のようだ。
 レイヴンはやや険しい表情のまま、ゆっくりと歩み寄り、相手を睨み据える。
「警備兵を呼べ。騒ぎを収めろ。」
 彼が短く命じると、会場を管理する侯爵家の使用人たちが数名、急いでフロアに入ってきた。男はなおも暴れようとするが、逡巡ののちに引きずり出されていく。セシリアも気まずそうにその後を追って会場から姿を消した。

静まり返る会場、渦巻く疑念

 騒ぎが収まると同時に、会場には重苦しい沈黙が落ちた。先ほどまで華やかなダンスを楽しんでいた貴族たちは、まるで災害に遭遇したかのように青ざめ、互いに不安げな目を交わす。レイヴンはそんな視線を一身に浴びながら、まったく悪びれた様子は見せない。
 アスカも混乱を抱えたまま、どう対処すべきかを考えあぐねていた。だが、ここで動揺した姿を見せれば、“公爵家が問題を抱えている”と広めることになる。彼女は必死で平静を装い、周囲の目に“公爵夫人としての冷静さ”を示さなければならないと思い至る。
 果たして、王都の社交界はすでに騒ぎを起こしたレイヴンとアーヴィング商会の関係を面白おかしく噂にするだろう。今夜の騒動だけでなく、これまでに囁かれてきた“レイヴン公爵の裏取引”が一気に加熱する可能性もある。

(私が公爵夫人として、どう振る舞えばいいの……!?)

 苛立ちと不安を胸に、アスカは視界の端にレイヴンを捉える。彼はまるで興味を失ったかのように踵を返し、会場の出口へ足早に向かい始めた。追いかけたくても、大勢の視線が自分を捉えている状況では、迂闊に動けない。
 そのとき、不意にカルデール伯がそっと近寄り、小声で囁く。

「アスカ公爵夫人、いったんここはお引きになったほうがよいでしょう。今の状況では、これ以上ここに留まるのは逆効果かと。誰の耳にもいろいろと都合の悪い噂が入る前に……。」
「……ええ、そうですね。」

 アスカは微かにうなずき、伯爵と共に場を離れることにする。幸いにも、出入り口付近ではまだ騒ぎの余韻が続いており、目立たずに会場を抜け出すのは難しくない。
 こうして彼女の“公爵夫人としての初めての舞踏会”は、あまりにも不穏な余韻を残したまま幕を下ろすこととなった。

帰路につく決断

 馬車の中、揺れる車輪の音を聞きながら、アスカは放心したように外を見つめていた。どんな言葉でこの夜をまとめればいいのか、まったく見当がつかない。
 セシリアとアーヴィング商会の手代が引き起こした騒動、姿を消したレイヴン公爵、そして人々の疑惑の眼差し――どれもが“白い結婚”の虚しさと、その裏に潜む巨大な謎を浮き彫りにしている。
 ようやく落ち着き始めたアスカの隣で、リディアがしきりに心配そうな声をかけてきた。

「アスカ様……。大丈夫ですか? お身体は……。」
「ごめんなさい、リディア。私は平気よ。ただ……頭の中が混乱してる。」

 そう言いながらも、アスカの声にはわずかな力がこもっていた。失意や不安を抱えながらも、どこか腹をくくったような落ち着きがある。
 今回の舞踏会でアスカが得たものは、決して少なくない。社交界からの印象は一長一短かもしれないが、少なくとも“公爵夫人”がいることを世間に広く知らしめたと言える。さらに、アーヴィング商会の動向やセシリアの動き、レイヴン公爵の不可解な態度についても、確かな手応えを感じた。
 そして彼女は、今日の出来事を糸口として、より大胆に行動していく決意を固めつつある。いつまでも“白い結婚”の被害者でいるつもりはない。夫が何を隠していようと、自分の幸せを勝ち取るために踏み込むべきところには踏み込んでいく――。

(もう、逃げるわけにはいかない。私は公爵夫人として、私自身として、この家とこの結婚の真相を暴き、利用し尽くしてでも自分の未来を掴んでやる……!)

 馬車が夜の街道を進むにつれ、暗い路面に月明かりが淡く射している。まるで、長い迷路の向こう側に微かな光があるかのように。アスカはその光を頼りに進むしかないのだ。
 屋敷へ帰還すると、正門を入ったあたりで彼女は馬車を降り、どこかにいるはずのレイヴンの姿を探そうとする。しかし、すでに彼の姿はどこにもなく、使用人も「公爵様はお戻りになっていない」と口を揃えて言う。
 おそらく彼は、あの騒ぎが起きた後、舞踏会の裏手からひっそりと退場したのだろう。あるいは、まだ別の場所に向かったのかもしれない。アスカに事情を説明するつもりなど毛頭ないということだ。

白い結婚の奥底へ

 自室へ戻ったアスカは、夜着に着替え、ドレスから解放された身体をベッドの端に投げ出した。ぐったりと疲れが全身にのしかかるが、瞼を閉じても眠りが訪れる気配はない。
 脳裏には、フロアで怒鳴り声を上げていた商人風の男の姿と、あの冷たい表情で「関わるな」と言い放ったレイヴンの言葉が繰り返し浮かんでくる。

(何を隠しているの、レイヴン……。あなたは、私を本当に“ただの人形”としか思っていないの? それとも……)

 悶々とした思いを抱えるアスカの耳に、廊下のほうからかすかな足音が聞こえてきた。ドアを開けてみると、そこにはリディアが立っている。どこか緊張した面持ちで、手には小さな紙片を持っていた。
「アスカ様、遅い時間に申し訳ありません。先ほど、こちらの紙を秘書官の一人から預かりました。『公爵夫人に渡してほしい』とだけ言われて……。」

 リディアが手渡してきたのは、折りたたまれたメモ用紙のようなもの。アスカが開いてみると、中には短い一文が走り書きされていた。

> “公爵の動きを探るなら、地下の書庫を見ろ。そこに全てが隠されている。”



 誰が書いたのかはわからない。文字から見ても筆跡に特徴はなく、意図的に崩してあるようにも思える。だが、地下の書庫といえば、レイヴンが管理している秘密の文書や公的な記録を保管する場所だと耳にしたことがある。普段は施錠されており、関係者しか立ち入れないと聞くが……。

(これが罠なのか、本物の情報なのか……。でも、何かが隠されているのは間違いないはず。)

 これまでは屋敷の主要な部屋しか使ってこなかったアスカだが、“公爵夫人”という立場を持つ以上、書庫への出入りを禁止される筋合いはないはずだ。問題は、レイヴンがこの動きを許容するかどうか。だが、そもそも何も話してくれない彼を待っていても埒が明かない。
 アスカはメモ用紙を静かに握りしめ、固い決意を胸に抱く。外から見ると豪奢で美しい結婚生活は、実際には冷たくて真実が見えない“白い結婚”にすぎない。それを覆して、この手に自分の未来を掴むためには、危険を承知で足を踏み入れるしかないのだ。

(わかったわ。これ以上、黙ってあなたに振り回されるつもりはない。私がこの結婚の真相を暴いて、好き勝手されないようにしてみせる……!)

 疲れを感じながらも、アスカの心は燃え上がるような緊張感に包まれていた。いつか、周囲を“ざまあ”と言わしめる逆転劇を成し遂げるために――彼女はここで立ち止まるわけにはいかない。
 
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