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第1章
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第1セクション: 婚約破棄の宣告
煌びやかなシャンデリアが舞踏会場全体を優雅に照らし出し、天井から吊るされた水晶の輝きがまるで星空のように輝いていた。エリオット公爵家が主催するこの舞踏会は、年に一度の華やかな社交の集いとして知られ、貴族たちが最新のファッションと洗練されたマナーを競い合う場となっていた。ローゼリア伯爵家の令嬢、アヴェント・ローゼリアもその一員として出席していた。
アヴェントは長い金髪を完璧にまとめ、エレガントな白銀色のドレスを身にまとっていた。青い瞳は輝き、周囲の注目を一身に集める存在感を放っていた。彼女は幼少期から厳格な教育を受け、礼儀作法や社交術に長けていた。そのため、「薔薇の令嬢」と称され、誰もがその美しさと気品に魅了されていた。
しかし、今日のアヴェントの心は晴れやかではなかった。彼女の胸には重くのしかかる不安が渦巻いていた。数ヶ月前に婚約を交わしたクラウス・エリオットとの関係に、微かな変化の兆しを感じ取っていたのだ。クラウスは優しく、頼もしい存在だったが、最近彼の態度がどこか冷たく、心ここにあらずといった様子を見せることが増えていた。
「アヴェント、少しお話があるの。」
クラウスの声が、遠くからでもはっきりと聞こえてきた。アヴェントは振り向き、クラウスの姿を探した。彼は端正な顔立ちに整えられた黒髪をなびかせ、落ち着いた青いスーツ姿で彼女に近づいてきた。彼の瞳には普段の優しさとは異なる、どこか決意に満ちた光が宿っていた。
「はい、クラウス様。どうぞ。」
アヴェントは微笑みを浮かべながらも、その内面では心臓が高鳴り、不安が募るのを感じていた。クラウスは彼女の手を優しく握り、二人は舞踏会場の喧騒から離れ、静かな庭園へと足を運んだ。庭園には美しく手入れされた花々が咲き乱れ、夜空には満天の星が輝いていたが、その美しさがアヴェントの心の重さを和らげることはなかった。
「アヴェント、君との婚約について話さなければならない。」
クラウスは深く息を吸い込み、目を見据えたまま静かに口を開いた。その声には揺るぎない決意が感じられ、アヴェントはその言葉の重みを感じ取った。
「はい、クラウス様。何か問題がございましたか?」
彼女の声は穏やかだったが、内心では不安が募る一方だった。
「実は、君との婚約を解消したいと考えているんだ。」
その瞬間、アヴェントの世界が一瞬で崩れ去るような感覚に襲われた。彼女の目には涙が浮かび、心臓が一瞬止まったかのように感じた。しかし、彼女は冷静さを保とうと必死だった。
「……婚約を解消する、ということですか?」
声は震えていたが、その表情には決して感情を見せない強さがあった。
「そうだ。君は素晴らしい女性で、ローゼリア伯爵家の令嬢として相応しい。しかし、僕には他にふさわしい相手が見つかったんだ。」
クラウスの言葉は冷たく、まるでアヴェントの存在が取るに足らないもののように感じられた。その瞬間、アヴェントはクラウスの視線の先に、鮮やかなピンクのドレスを身にまとったセシリア・オルディナが立っていることに気づいた。セシリアはエレガントな微笑みを浮かべ、彼女の存在感もまた圧倒的だった。
「セシリア様ですのですね。」
アヴェントは冷静さを保とうと努めたが、その声には抑えきれない痛みが滲んでいた。
「そうだ。セシリアは情熱的で、僕の人生に新たな風を吹き込んでくれる。君は完璧すぎる。冷たく感じる部分があるんだ。」
その言葉に、アヴェントの心は深く傷ついた。彼女は長年にわたりクラウスの理想を追い求め、自分を犠牲にしてきた。しかし、その努力が今、無情にも否定されたのだ。
「……それが、クラウス様のご意志なのですね。」
アヴェントは震える声で返したが、涙は頬を伝わらなかった。彼女の心の中には、怒りと屈辱、そして新たな決意が渦巻いていた。
「本日をもって、私はアヴェント・ローゼリアとの婚約を破棄する。そして、セシリア・オルディナを新たな婚約者とすることをここに宣言する!」
クラウスの宣言は庭園中に響き渡り、その瞬間、周囲の貴族たちが一斉に視線を向けた。驚きと同情、そしてささやかな興味が交錯する中、アヴェントはその場に立ち尽くしていた。
「アヴェント様……」
メイドの一人が駆け寄り、彼女の手をそっと握った。アヴェントはその手を握り返し、深呼吸をした。周囲の視線に耐えながら、彼女は内心で決意を固めていた。この屈辱を乗り越え、自分自身の力で未来を切り開く覚悟を決めた瞬間だった。
「……愚かですわ。」
アヴェントは小さく呟いた。その声はかすかだったが、彼女の中では新たな強さが芽生えていた。クラウスとセシリアが背を向けて去るのを見送りながら、アヴェントは自分自身に誓った。彼らに自分の価値を証明し、真実の幸福を掴み取るために。
舞踏会場に戻ると、周囲の貴族たちの視線が冷たく感じられた。彼女の家族もまた、この公衆の場での屈辱に顔を曇らせていた。ローゼリア伯爵家の名誉が傷つけられたことを理解しており、家族からの厳しい視線もアヴェントに向けられていた。しかし、彼女はその重圧に屈することなく、堂々とした姿勢を保った。
「アヴェント様、大丈夫ですか?」
母親の声が耳に届く。彼女は微笑みを作りながら答えたが、内心では家族の期待と自分の未来について考えていた。
「はい、母上。少し驚いただけです。」
彼女の声には決意が宿っており、家族もその変化に気づき始めていた。
「クラウス殿がセシリア様を選んだことは残念ですが、アヴェント様ならきっと素晴らしい未来が待っております。」
母親の言葉は優しくもあり、アヴェントの心に少しの安心感を与えた。しかし、彼女の心は既に新たな道を模索し始めていた。
舞踏会の残りの時間、アヴェントは静かに周囲の反応を観察しながら、自分の中で新たな決意を固めていた。クラウスとセシリアの背中を見送りつつ、彼女は自分自身の未来に向けて歩み出す第一歩を踏み出していた。
第2セクション: 家族の反応
舞踏会の夜が明け、冷えた空気と共に新しい朝が訪れた。だが、ローゼリア伯爵家の邸宅内は重苦しい空気に包まれていた。クラウスとの婚約破棄が社交界中に広まり、噂話の的となっていたからだ。名門ローゼリア伯爵家にとって、その汚名は家名に大きな傷をつけるものだった。
アヴェントは朝早くから応接間に呼び出されていた。豪華な家具が並ぶ部屋の中、伯爵夫婦は重々しい表情で娘を見つめていた。父であるヴィクトール・ローゼリア伯爵は厳しい表情を崩さず、母のクラリッサもどこか冷ややかな態度を見せている。
「アヴェント、お前は一体どういうつもりだ。」
父の低い声が静寂を切り裂いた。その問いに込められた怒りと失望の色が、アヴェントの胸を締め付けた。
「どういうつもり、と申されましても……」
アヴェントは冷静を装いながらも、心の中で動揺していた。自分に非がないことは分かっている。それでも、父の視線は容赦なく彼女を責め立てているように感じた。
「クラウス殿との婚約はお前の役目だった。それが破棄されたということは、お前が何かしらの失態を犯したのではないか?」
父の声は冷酷で、まるで婚約破棄が彼女一人の責任であるかのように断じていた。
「失態などございません。ただ、クラウス様が他の女性を選ばれた、それだけです。」
アヴェントは毅然とした口調で答えたが、父はそれを聞いても納得した様子を見せなかった。
「他の女性を選んだだと?それがどれほど我が家にとって屈辱的なことか分かっているのか!お前が彼を繋ぎ止められなかったからだ!」
怒声が応接間に響き渡る。アヴェントは唇を噛みしめながら、父の激しい非難に耐えた。
「ヴィクトール、落ち着いて。」
母が父を諫めるように声をかけたが、その口調はどこか冷ややかで、娘を擁護するつもりはないようだった。
「アヴェント、確かに今回の件であなたに非があるとは断言できません。しかし、結果として我が家の名誉が傷つけられたことは事実です。」
母の言葉は一見冷静に聞こえるが、その奥には責任を追及する意図が透けて見えた。
「母上、私はクラウス様に忠実であろうと努めて参りました。完璧な令嬢であることを目指し、彼の隣にふさわしい存在になるため努力してきました。それが、このような結果になったのは……私の至らなさだけではありません。」
アヴェントは抑えきれない感情を胸に秘めつつ、できるだけ冷静に答えた。
「努力が足りなかったのだろう。」
父の厳しい言葉が再び彼女の心を刺す。
「もういい。」
父は手を振って話を打ち切るように言った。そして続ける。
「これ以上、社交界でローゼリア家の名誉を傷つける行動を取るな。しばらくは外出を控えるように。」
アヴェントはその言葉にショックを受けたが、表情を変えることはなかった。父の命令には逆らえない。それが名門の令嬢としての役目だということを、幼い頃から教えられてきたからだ。
「分かりました。」
彼女は一礼し、父母の前から下がった。
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アヴェントが自室に戻ると、侍女のミリアが待っていた。彼女はアヴェントの表情を見て、すぐに何があったのか察したようだった。
「アヴェント様……伯爵様に叱られたのですね。」
ミリアは同情のこもった声で言った。
「ええ。でも、それが当然のことなのよ。私はローゼリア家の令嬢としての責務を果たせなかったのだから。」
アヴェントは静かに答えたが、その瞳には深い苦悩が宿っていた。
「そんなことありません!アヴェント様は一生懸命努力されていました。それを分からないのは、クラウス様や伯爵様の方です。」
ミリアは熱心に訴えた。その言葉は、アヴェントにとってわずかな慰めとなった。
「ありがとう、ミリア。でも、私は自分の無力さを受け入れなければならないわ。このままでは何も変わらない。私が変わらなければ。」
彼女は窓の外を見つめながら、小さく息を吐いた。太陽が高く昇り、庭園を明るく照らしている。しかし、その光景は彼女にとってどこか遠い世界のように感じられた。
「……私は、このままでは終わらない。」
アヴェントは低い声で呟いた。それは自分自身に対する誓いだった。家族からの非難、社交界での冷たい視線、婚約破棄という屈辱。それらすべてを乗り越え、自分自身の価値を証明するために、彼女は新たな一歩を踏み出す決意を固めていた。
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午後になると、早速噂好きの貴族たちがローゼリア家を訪問してきた。彼らは婚約破棄について根掘り葉掘り尋ねてきたが、アヴェントは毅然とした態度で対応した。彼女の冷静な態度に一部の訪問者は拍子抜けしたようだったが、帰り際には「あの強さはさすがローゼリア家の令嬢だ」と評価する声も聞こえた。
しかし、アヴェントは彼らの言葉に喜びも悲しみも感じなかった。すべてが遠く、どうでもいいことのように思えた。
「私は、私自身のために生きる。それがどんなに時間がかかろうとも。」
アヴェントは心の中で再び決意を新たにした。
第3セクション: 社交界からの孤立
婚約破棄の事件が社交界で公然の事実となるまで、そう時間はかからなかった。翌週にはすでにエリオット公爵家主催の舞踏会での一件が噂の中心となり、ローゼリア伯爵家の令嬢アヴェントは、まるで社交界全体から孤立したかのような状況に追い込まれていた。
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アヴェントが初めてその影響を実感したのは、ある午後の午後茶会だった。彼女は友人の一人、レティシア・フェルナンドに誘われ、少しでも気晴らしになればと思い出席した。しかし、会場に足を踏み入れた瞬間、その場の空気が微妙に変わったのを感じた。
華やかなドレスを身にまとった貴族令嬢たちは、彼女の姿を見るなり目を逸らし、小声で何かを囁き合っていた。かつては笑顔で迎えられ、話の中心に引き込まれるのが常だったアヴェントだが、今はまるで場違いな存在のように感じられた。
「アヴェント様、ごきげんよう。」
レティシアが形式的な挨拶で彼女を迎える。かつて親友と呼べる間柄だったが、その口調には距離を置くような冷たさが感じられた。
「ごきげんよう、レティシア。お招きいただきありがとうございます。」
アヴェントは冷静に微笑み、礼儀正しく答えた。内心では冷たい視線や囁き声に胸が締め付けられる思いだったが、それを表に出すことはなかった。
席に着いた彼女は、他の令嬢たちの会話に耳を傾けたが、話題が彼女に向けられることはほとんどなかった。むしろ、彼女が口を開くたびに話題が変わり、会話がぎこちない空気になるのを感じた。
「そういえば、エリオット公爵家の舞踏会で……」
ある令嬢が何気なく話題にすると、隣に座る友人が急いでその話を遮った。「あ、あまりそういう話題は……ね。」
それが意味するところは明らかだった。アヴェントに配慮するふりをしつつ、彼女を傷つける意図が見え隠れしている。
アヴェントは微笑みを崩さず、紅茶のカップを持つ手を少しだけ強く握った。「こんな風に扱われることになるとは思わなかった」と心の中で呟いた。彼女がこれまで築き上げてきた地位や評判が、たった一夜の婚約破棄で崩れ去ったのだ。
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午後茶会が終わり、アヴェントはレティシアに礼を述べて帰路に着いた。彼女は馬車に乗り込むと、ようやく表情を緩め、深く息を吐いた。
「アヴェント様、大丈夫ですか?」
侍女のミリアが心配そうに声をかける。
「ええ、大丈夫よ。ただ、少し疲れただけ。」
アヴェントは疲れた微笑みを浮かべたが、その言葉の裏には深い孤独感が隠されていた。
馬車がローゼリア伯爵家の屋敷に到着すると、アヴェントはすぐに自室へ向かった。ドアを閉め、窓際の椅子に腰を下ろした彼女は、外の庭園をぼんやりと眺めながら考え込んでいた。
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その夜、彼女は父ヴィクトール伯爵と食事を共にしていたが、会話はほとんどなかった。彼の厳しい視線がアヴェントに突き刺さるようだった。
「お前、今日はフェルナンド家の茶会に出席していたのか?」
ヴィクトールが低い声で問いかける。
「はい、父上。レティシア様にお招きいただきましたので。」
アヴェントは淡々と答えた。
「余計なことをするな。」
その言葉に彼女は驚いた。
「余計なこと、ですか?」
彼女は慎重に問い返す。
「お前が外出すればするほど、ローゼリア家の評判を落とすだけだ。社交界で無駄に顔を出すのはやめろ。」
ヴィクトールの言葉は冷たく、容赦なかった。
「私は、ただ普通に社交界に参加しようと……」
アヴェントが反論しようとすると、父は手を振ってそれを遮った。
「言い訳は聞きたくない。お前はもう、この家の名誉を汚した。それ以上、余計なことをするな。」
ヴィクトールはそれだけ言い放つと、食事を続けた。
アヴェントは心の中で何かが崩れる音を聞いたような気がした。父親からの信頼も、家族の愛情も、すべてが遠いものに思えた。
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夜更け、自室に戻ったアヴェントは、手紙を広げた。それは舞踏会の後、唯一送られてきたものであり、差出人は記されていなかった。しかし、文面には短いながらも心に響く言葉が綴られていた。
> 「あなたの美しさと強さは誰にも奪えない。それを忘れないでください。」
その手紙が誰からのものかは分からなかったが、アヴェントにとっては孤独の中で唯一の救いだった。彼女はその手紙を静かに折りたたみ、大切に引き出しの奥にしまった。
「私にはまだ、道があるはず……」
小さく呟いたその言葉には、希望の欠片が宿っていた。彼女はこの屈辱と孤独を乗り越え、新しい道を見つける決意を固めつつあった。
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翌日、アヴェントはいつも通りの優雅な装いで屋敷を出た。彼女の目には、新たな決意の光が宿っていた。どれほど周囲から孤立しようとも、彼女は屈しない。自分自身の価値を証明するために、そして新しい未来を切り開くために、彼女は小さな一歩を踏み出した。
これが、彼女が孤立の中で見つけた強さの始まりだった。
第4セクション: 新たな決意
冷たい夜風が屋敷の外から吹き込む中、アヴェントは自室の窓辺に佇んでいた。外の庭園に広がる満月の光が、花々を銀色に照らしている。その光景は美しかったが、彼女の胸には重い思いが渦巻いていた。
婚約破棄以来、彼女を取り巻く環境は一変した。家族の冷たい視線、社交界での孤立、そして自身の努力が無情にも否定されたという屈辱。これまで信じていたものが一つ一つ崩れていく中で、アヴェントは深い孤独を感じていた。
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孤独の中での葛藤
机の上には、これまで書き溜めてきた日記が開かれていた。アヴェントはその一ページをそっと指でなぞる。その日は彼女が初めてクラウスと舞踏会で踊った日だった。
> 「クラウス様は優しくて、頼もしくて、まるで絵本の中の王子様のようだった。私も彼の隣にふさわしい存在になりたい。」
かつての自分が記したその言葉が、今では遠い過去のもののように感じられる。理想を追い、努力を重ね、完璧な令嬢であろうとした結果が、今の自分なのだろうか?
「……私は間違っていたのかしら。」
小さく呟いた言葉は、自らの胸に深く突き刺さる。それでも、今の自分を否定してしまえば、これまでの努力が無意味になる。それだけは許せなかった。
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リヴィオとの再会
そんな時、扉をノックする音が響いた。侍女のミリアがそっと顔を覗かせる。
「アヴェント様、遅い時間に申し訳ありませんが、お客様がいらっしゃっています。」
「お客様?この時間に?」
驚いたアヴェントが応接間に向かうと、そこには見覚えのある男性が立っていた。異国の商人、リヴィオ・カスターニア。以前、ある舞踏会で知り合い、短い会話を交わしただけの相手だった。
「ご無礼を承知でお伺いしました。どうしてもお話ししたいことがありまして。」
リヴィオは頭を下げ、真剣な表情で言った。
「こんな時間に……一体どうされたのですか?」
アヴェントは戸惑いながらも椅子に座り、彼の言葉を待った。
「アヴェント様、あなたが婚約破棄されたという話を耳にしました。そして、社交界で不当に扱われていることも。」
彼の言葉に、アヴェントの心臓が一瞬跳ねる。彼女の置かれた状況がここまで広く知れ渡っていることが、恥ずかしくもあり、悲しくもあった。
「ですが、私はこう思います。あなたの価値は、他人の評価や肩書きで決まるものではないと。」
リヴィオの言葉は、これまでのどんな励ましよりも心に響いた。それは表面的な同情ではなく、彼の心からの信念が込められていると感じられたからだ。
「私が……私自身の価値?」
アヴェントは呟くように言った。
「そうです。アヴェント様、もしよろしければ、私の商会に協力していただけませんか?あなたの知識や教養が必要なのです。そして、あなたの新たな道を見つけるお手伝いをさせてください。」
リヴィオの提案に、アヴェントは戸惑った。これまでの自分が貴族令嬢としての役割に縛られて生きてきた彼女にとって、それはあまりにも突飛な提案に思えた。
「……考えさせてください。」
アヴェントはそれだけ言うのが精一杯だった。
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夜明けの決意
その夜、彼女はほとんど眠れなかった。リヴィオの言葉が頭の中を巡り、これからの自分について深く考えさせられた。
翌朝、窓から差し込む陽光を浴びながら、アヴェントは鏡の前に立った。そこに映る自分の姿をじっと見つめ、深呼吸をする。
「私は、もう過去の自分に囚われるのはやめる。」
彼女の青い瞳には、かつての迷いが消え、新たな決意の光が宿っていた。
「私自身の力で、未来を切り開く。」
アヴェントはそう誓い、新たな一歩を踏み出す準備を始めた。リヴィオの提案を受けるべきかはまだ迷っていたが、それが自分にとって重要な転機になることだけは確信していた。
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新しい道の始まり
その日、アヴェントは久しぶりに外出する決意をした。侍女のミリアは驚きながらも、彼女の支度を手伝った。
「アヴェント様、今日はどちらへ行かれるのですか?」
「少し風に当たりに行きたいの。それから……新しいことを始めるための準備をね。」
馬車に乗り込んだ彼女は、胸を張り、前を見据えた。孤立や屈辱を乗り越えるためには、ただ耐えるだけでは不十分だ。自ら行動を起こし、新たな価値を築く必要がある。
馬車の窓から見える街並みは、これまでとは違う輝きを放っているように思えた。それは、彼女の中で新たな決意が芽生えたからかもしれない。
「私にはまだ、やるべきことがある。そして、それを成し遂げてみせる。」
アヴェントの心には、これまでになかった確かな強さが宿っていた。未来を切り開くための第一歩が、今ここから始まる。
煌びやかなシャンデリアが舞踏会場全体を優雅に照らし出し、天井から吊るされた水晶の輝きがまるで星空のように輝いていた。エリオット公爵家が主催するこの舞踏会は、年に一度の華やかな社交の集いとして知られ、貴族たちが最新のファッションと洗練されたマナーを競い合う場となっていた。ローゼリア伯爵家の令嬢、アヴェント・ローゼリアもその一員として出席していた。
アヴェントは長い金髪を完璧にまとめ、エレガントな白銀色のドレスを身にまとっていた。青い瞳は輝き、周囲の注目を一身に集める存在感を放っていた。彼女は幼少期から厳格な教育を受け、礼儀作法や社交術に長けていた。そのため、「薔薇の令嬢」と称され、誰もがその美しさと気品に魅了されていた。
しかし、今日のアヴェントの心は晴れやかではなかった。彼女の胸には重くのしかかる不安が渦巻いていた。数ヶ月前に婚約を交わしたクラウス・エリオットとの関係に、微かな変化の兆しを感じ取っていたのだ。クラウスは優しく、頼もしい存在だったが、最近彼の態度がどこか冷たく、心ここにあらずといった様子を見せることが増えていた。
「アヴェント、少しお話があるの。」
クラウスの声が、遠くからでもはっきりと聞こえてきた。アヴェントは振り向き、クラウスの姿を探した。彼は端正な顔立ちに整えられた黒髪をなびかせ、落ち着いた青いスーツ姿で彼女に近づいてきた。彼の瞳には普段の優しさとは異なる、どこか決意に満ちた光が宿っていた。
「はい、クラウス様。どうぞ。」
アヴェントは微笑みを浮かべながらも、その内面では心臓が高鳴り、不安が募るのを感じていた。クラウスは彼女の手を優しく握り、二人は舞踏会場の喧騒から離れ、静かな庭園へと足を運んだ。庭園には美しく手入れされた花々が咲き乱れ、夜空には満天の星が輝いていたが、その美しさがアヴェントの心の重さを和らげることはなかった。
「アヴェント、君との婚約について話さなければならない。」
クラウスは深く息を吸い込み、目を見据えたまま静かに口を開いた。その声には揺るぎない決意が感じられ、アヴェントはその言葉の重みを感じ取った。
「はい、クラウス様。何か問題がございましたか?」
彼女の声は穏やかだったが、内心では不安が募る一方だった。
「実は、君との婚約を解消したいと考えているんだ。」
その瞬間、アヴェントの世界が一瞬で崩れ去るような感覚に襲われた。彼女の目には涙が浮かび、心臓が一瞬止まったかのように感じた。しかし、彼女は冷静さを保とうと必死だった。
「……婚約を解消する、ということですか?」
声は震えていたが、その表情には決して感情を見せない強さがあった。
「そうだ。君は素晴らしい女性で、ローゼリア伯爵家の令嬢として相応しい。しかし、僕には他にふさわしい相手が見つかったんだ。」
クラウスの言葉は冷たく、まるでアヴェントの存在が取るに足らないもののように感じられた。その瞬間、アヴェントはクラウスの視線の先に、鮮やかなピンクのドレスを身にまとったセシリア・オルディナが立っていることに気づいた。セシリアはエレガントな微笑みを浮かべ、彼女の存在感もまた圧倒的だった。
「セシリア様ですのですね。」
アヴェントは冷静さを保とうと努めたが、その声には抑えきれない痛みが滲んでいた。
「そうだ。セシリアは情熱的で、僕の人生に新たな風を吹き込んでくれる。君は完璧すぎる。冷たく感じる部分があるんだ。」
その言葉に、アヴェントの心は深く傷ついた。彼女は長年にわたりクラウスの理想を追い求め、自分を犠牲にしてきた。しかし、その努力が今、無情にも否定されたのだ。
「……それが、クラウス様のご意志なのですね。」
アヴェントは震える声で返したが、涙は頬を伝わらなかった。彼女の心の中には、怒りと屈辱、そして新たな決意が渦巻いていた。
「本日をもって、私はアヴェント・ローゼリアとの婚約を破棄する。そして、セシリア・オルディナを新たな婚約者とすることをここに宣言する!」
クラウスの宣言は庭園中に響き渡り、その瞬間、周囲の貴族たちが一斉に視線を向けた。驚きと同情、そしてささやかな興味が交錯する中、アヴェントはその場に立ち尽くしていた。
「アヴェント様……」
メイドの一人が駆け寄り、彼女の手をそっと握った。アヴェントはその手を握り返し、深呼吸をした。周囲の視線に耐えながら、彼女は内心で決意を固めていた。この屈辱を乗り越え、自分自身の力で未来を切り開く覚悟を決めた瞬間だった。
「……愚かですわ。」
アヴェントは小さく呟いた。その声はかすかだったが、彼女の中では新たな強さが芽生えていた。クラウスとセシリアが背を向けて去るのを見送りながら、アヴェントは自分自身に誓った。彼らに自分の価値を証明し、真実の幸福を掴み取るために。
舞踏会場に戻ると、周囲の貴族たちの視線が冷たく感じられた。彼女の家族もまた、この公衆の場での屈辱に顔を曇らせていた。ローゼリア伯爵家の名誉が傷つけられたことを理解しており、家族からの厳しい視線もアヴェントに向けられていた。しかし、彼女はその重圧に屈することなく、堂々とした姿勢を保った。
「アヴェント様、大丈夫ですか?」
母親の声が耳に届く。彼女は微笑みを作りながら答えたが、内心では家族の期待と自分の未来について考えていた。
「はい、母上。少し驚いただけです。」
彼女の声には決意が宿っており、家族もその変化に気づき始めていた。
「クラウス殿がセシリア様を選んだことは残念ですが、アヴェント様ならきっと素晴らしい未来が待っております。」
母親の言葉は優しくもあり、アヴェントの心に少しの安心感を与えた。しかし、彼女の心は既に新たな道を模索し始めていた。
舞踏会の残りの時間、アヴェントは静かに周囲の反応を観察しながら、自分の中で新たな決意を固めていた。クラウスとセシリアの背中を見送りつつ、彼女は自分自身の未来に向けて歩み出す第一歩を踏み出していた。
第2セクション: 家族の反応
舞踏会の夜が明け、冷えた空気と共に新しい朝が訪れた。だが、ローゼリア伯爵家の邸宅内は重苦しい空気に包まれていた。クラウスとの婚約破棄が社交界中に広まり、噂話の的となっていたからだ。名門ローゼリア伯爵家にとって、その汚名は家名に大きな傷をつけるものだった。
アヴェントは朝早くから応接間に呼び出されていた。豪華な家具が並ぶ部屋の中、伯爵夫婦は重々しい表情で娘を見つめていた。父であるヴィクトール・ローゼリア伯爵は厳しい表情を崩さず、母のクラリッサもどこか冷ややかな態度を見せている。
「アヴェント、お前は一体どういうつもりだ。」
父の低い声が静寂を切り裂いた。その問いに込められた怒りと失望の色が、アヴェントの胸を締め付けた。
「どういうつもり、と申されましても……」
アヴェントは冷静を装いながらも、心の中で動揺していた。自分に非がないことは分かっている。それでも、父の視線は容赦なく彼女を責め立てているように感じた。
「クラウス殿との婚約はお前の役目だった。それが破棄されたということは、お前が何かしらの失態を犯したのではないか?」
父の声は冷酷で、まるで婚約破棄が彼女一人の責任であるかのように断じていた。
「失態などございません。ただ、クラウス様が他の女性を選ばれた、それだけです。」
アヴェントは毅然とした口調で答えたが、父はそれを聞いても納得した様子を見せなかった。
「他の女性を選んだだと?それがどれほど我が家にとって屈辱的なことか分かっているのか!お前が彼を繋ぎ止められなかったからだ!」
怒声が応接間に響き渡る。アヴェントは唇を噛みしめながら、父の激しい非難に耐えた。
「ヴィクトール、落ち着いて。」
母が父を諫めるように声をかけたが、その口調はどこか冷ややかで、娘を擁護するつもりはないようだった。
「アヴェント、確かに今回の件であなたに非があるとは断言できません。しかし、結果として我が家の名誉が傷つけられたことは事実です。」
母の言葉は一見冷静に聞こえるが、その奥には責任を追及する意図が透けて見えた。
「母上、私はクラウス様に忠実であろうと努めて参りました。完璧な令嬢であることを目指し、彼の隣にふさわしい存在になるため努力してきました。それが、このような結果になったのは……私の至らなさだけではありません。」
アヴェントは抑えきれない感情を胸に秘めつつ、できるだけ冷静に答えた。
「努力が足りなかったのだろう。」
父の厳しい言葉が再び彼女の心を刺す。
「もういい。」
父は手を振って話を打ち切るように言った。そして続ける。
「これ以上、社交界でローゼリア家の名誉を傷つける行動を取るな。しばらくは外出を控えるように。」
アヴェントはその言葉にショックを受けたが、表情を変えることはなかった。父の命令には逆らえない。それが名門の令嬢としての役目だということを、幼い頃から教えられてきたからだ。
「分かりました。」
彼女は一礼し、父母の前から下がった。
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アヴェントが自室に戻ると、侍女のミリアが待っていた。彼女はアヴェントの表情を見て、すぐに何があったのか察したようだった。
「アヴェント様……伯爵様に叱られたのですね。」
ミリアは同情のこもった声で言った。
「ええ。でも、それが当然のことなのよ。私はローゼリア家の令嬢としての責務を果たせなかったのだから。」
アヴェントは静かに答えたが、その瞳には深い苦悩が宿っていた。
「そんなことありません!アヴェント様は一生懸命努力されていました。それを分からないのは、クラウス様や伯爵様の方です。」
ミリアは熱心に訴えた。その言葉は、アヴェントにとってわずかな慰めとなった。
「ありがとう、ミリア。でも、私は自分の無力さを受け入れなければならないわ。このままでは何も変わらない。私が変わらなければ。」
彼女は窓の外を見つめながら、小さく息を吐いた。太陽が高く昇り、庭園を明るく照らしている。しかし、その光景は彼女にとってどこか遠い世界のように感じられた。
「……私は、このままでは終わらない。」
アヴェントは低い声で呟いた。それは自分自身に対する誓いだった。家族からの非難、社交界での冷たい視線、婚約破棄という屈辱。それらすべてを乗り越え、自分自身の価値を証明するために、彼女は新たな一歩を踏み出す決意を固めていた。
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午後になると、早速噂好きの貴族たちがローゼリア家を訪問してきた。彼らは婚約破棄について根掘り葉掘り尋ねてきたが、アヴェントは毅然とした態度で対応した。彼女の冷静な態度に一部の訪問者は拍子抜けしたようだったが、帰り際には「あの強さはさすがローゼリア家の令嬢だ」と評価する声も聞こえた。
しかし、アヴェントは彼らの言葉に喜びも悲しみも感じなかった。すべてが遠く、どうでもいいことのように思えた。
「私は、私自身のために生きる。それがどんなに時間がかかろうとも。」
アヴェントは心の中で再び決意を新たにした。
第3セクション: 社交界からの孤立
婚約破棄の事件が社交界で公然の事実となるまで、そう時間はかからなかった。翌週にはすでにエリオット公爵家主催の舞踏会での一件が噂の中心となり、ローゼリア伯爵家の令嬢アヴェントは、まるで社交界全体から孤立したかのような状況に追い込まれていた。
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アヴェントが初めてその影響を実感したのは、ある午後の午後茶会だった。彼女は友人の一人、レティシア・フェルナンドに誘われ、少しでも気晴らしになればと思い出席した。しかし、会場に足を踏み入れた瞬間、その場の空気が微妙に変わったのを感じた。
華やかなドレスを身にまとった貴族令嬢たちは、彼女の姿を見るなり目を逸らし、小声で何かを囁き合っていた。かつては笑顔で迎えられ、話の中心に引き込まれるのが常だったアヴェントだが、今はまるで場違いな存在のように感じられた。
「アヴェント様、ごきげんよう。」
レティシアが形式的な挨拶で彼女を迎える。かつて親友と呼べる間柄だったが、その口調には距離を置くような冷たさが感じられた。
「ごきげんよう、レティシア。お招きいただきありがとうございます。」
アヴェントは冷静に微笑み、礼儀正しく答えた。内心では冷たい視線や囁き声に胸が締め付けられる思いだったが、それを表に出すことはなかった。
席に着いた彼女は、他の令嬢たちの会話に耳を傾けたが、話題が彼女に向けられることはほとんどなかった。むしろ、彼女が口を開くたびに話題が変わり、会話がぎこちない空気になるのを感じた。
「そういえば、エリオット公爵家の舞踏会で……」
ある令嬢が何気なく話題にすると、隣に座る友人が急いでその話を遮った。「あ、あまりそういう話題は……ね。」
それが意味するところは明らかだった。アヴェントに配慮するふりをしつつ、彼女を傷つける意図が見え隠れしている。
アヴェントは微笑みを崩さず、紅茶のカップを持つ手を少しだけ強く握った。「こんな風に扱われることになるとは思わなかった」と心の中で呟いた。彼女がこれまで築き上げてきた地位や評判が、たった一夜の婚約破棄で崩れ去ったのだ。
---
午後茶会が終わり、アヴェントはレティシアに礼を述べて帰路に着いた。彼女は馬車に乗り込むと、ようやく表情を緩め、深く息を吐いた。
「アヴェント様、大丈夫ですか?」
侍女のミリアが心配そうに声をかける。
「ええ、大丈夫よ。ただ、少し疲れただけ。」
アヴェントは疲れた微笑みを浮かべたが、その言葉の裏には深い孤独感が隠されていた。
馬車がローゼリア伯爵家の屋敷に到着すると、アヴェントはすぐに自室へ向かった。ドアを閉め、窓際の椅子に腰を下ろした彼女は、外の庭園をぼんやりと眺めながら考え込んでいた。
---
その夜、彼女は父ヴィクトール伯爵と食事を共にしていたが、会話はほとんどなかった。彼の厳しい視線がアヴェントに突き刺さるようだった。
「お前、今日はフェルナンド家の茶会に出席していたのか?」
ヴィクトールが低い声で問いかける。
「はい、父上。レティシア様にお招きいただきましたので。」
アヴェントは淡々と答えた。
「余計なことをするな。」
その言葉に彼女は驚いた。
「余計なこと、ですか?」
彼女は慎重に問い返す。
「お前が外出すればするほど、ローゼリア家の評判を落とすだけだ。社交界で無駄に顔を出すのはやめろ。」
ヴィクトールの言葉は冷たく、容赦なかった。
「私は、ただ普通に社交界に参加しようと……」
アヴェントが反論しようとすると、父は手を振ってそれを遮った。
「言い訳は聞きたくない。お前はもう、この家の名誉を汚した。それ以上、余計なことをするな。」
ヴィクトールはそれだけ言い放つと、食事を続けた。
アヴェントは心の中で何かが崩れる音を聞いたような気がした。父親からの信頼も、家族の愛情も、すべてが遠いものに思えた。
---
夜更け、自室に戻ったアヴェントは、手紙を広げた。それは舞踏会の後、唯一送られてきたものであり、差出人は記されていなかった。しかし、文面には短いながらも心に響く言葉が綴られていた。
> 「あなたの美しさと強さは誰にも奪えない。それを忘れないでください。」
その手紙が誰からのものかは分からなかったが、アヴェントにとっては孤独の中で唯一の救いだった。彼女はその手紙を静かに折りたたみ、大切に引き出しの奥にしまった。
「私にはまだ、道があるはず……」
小さく呟いたその言葉には、希望の欠片が宿っていた。彼女はこの屈辱と孤独を乗り越え、新しい道を見つける決意を固めつつあった。
---
翌日、アヴェントはいつも通りの優雅な装いで屋敷を出た。彼女の目には、新たな決意の光が宿っていた。どれほど周囲から孤立しようとも、彼女は屈しない。自分自身の価値を証明するために、そして新しい未来を切り開くために、彼女は小さな一歩を踏み出した。
これが、彼女が孤立の中で見つけた強さの始まりだった。
第4セクション: 新たな決意
冷たい夜風が屋敷の外から吹き込む中、アヴェントは自室の窓辺に佇んでいた。外の庭園に広がる満月の光が、花々を銀色に照らしている。その光景は美しかったが、彼女の胸には重い思いが渦巻いていた。
婚約破棄以来、彼女を取り巻く環境は一変した。家族の冷たい視線、社交界での孤立、そして自身の努力が無情にも否定されたという屈辱。これまで信じていたものが一つ一つ崩れていく中で、アヴェントは深い孤独を感じていた。
---
孤独の中での葛藤
机の上には、これまで書き溜めてきた日記が開かれていた。アヴェントはその一ページをそっと指でなぞる。その日は彼女が初めてクラウスと舞踏会で踊った日だった。
> 「クラウス様は優しくて、頼もしくて、まるで絵本の中の王子様のようだった。私も彼の隣にふさわしい存在になりたい。」
かつての自分が記したその言葉が、今では遠い過去のもののように感じられる。理想を追い、努力を重ね、完璧な令嬢であろうとした結果が、今の自分なのだろうか?
「……私は間違っていたのかしら。」
小さく呟いた言葉は、自らの胸に深く突き刺さる。それでも、今の自分を否定してしまえば、これまでの努力が無意味になる。それだけは許せなかった。
---
リヴィオとの再会
そんな時、扉をノックする音が響いた。侍女のミリアがそっと顔を覗かせる。
「アヴェント様、遅い時間に申し訳ありませんが、お客様がいらっしゃっています。」
「お客様?この時間に?」
驚いたアヴェントが応接間に向かうと、そこには見覚えのある男性が立っていた。異国の商人、リヴィオ・カスターニア。以前、ある舞踏会で知り合い、短い会話を交わしただけの相手だった。
「ご無礼を承知でお伺いしました。どうしてもお話ししたいことがありまして。」
リヴィオは頭を下げ、真剣な表情で言った。
「こんな時間に……一体どうされたのですか?」
アヴェントは戸惑いながらも椅子に座り、彼の言葉を待った。
「アヴェント様、あなたが婚約破棄されたという話を耳にしました。そして、社交界で不当に扱われていることも。」
彼の言葉に、アヴェントの心臓が一瞬跳ねる。彼女の置かれた状況がここまで広く知れ渡っていることが、恥ずかしくもあり、悲しくもあった。
「ですが、私はこう思います。あなたの価値は、他人の評価や肩書きで決まるものではないと。」
リヴィオの言葉は、これまでのどんな励ましよりも心に響いた。それは表面的な同情ではなく、彼の心からの信念が込められていると感じられたからだ。
「私が……私自身の価値?」
アヴェントは呟くように言った。
「そうです。アヴェント様、もしよろしければ、私の商会に協力していただけませんか?あなたの知識や教養が必要なのです。そして、あなたの新たな道を見つけるお手伝いをさせてください。」
リヴィオの提案に、アヴェントは戸惑った。これまでの自分が貴族令嬢としての役割に縛られて生きてきた彼女にとって、それはあまりにも突飛な提案に思えた。
「……考えさせてください。」
アヴェントはそれだけ言うのが精一杯だった。
---
夜明けの決意
その夜、彼女はほとんど眠れなかった。リヴィオの言葉が頭の中を巡り、これからの自分について深く考えさせられた。
翌朝、窓から差し込む陽光を浴びながら、アヴェントは鏡の前に立った。そこに映る自分の姿をじっと見つめ、深呼吸をする。
「私は、もう過去の自分に囚われるのはやめる。」
彼女の青い瞳には、かつての迷いが消え、新たな決意の光が宿っていた。
「私自身の力で、未来を切り開く。」
アヴェントはそう誓い、新たな一歩を踏み出す準備を始めた。リヴィオの提案を受けるべきかはまだ迷っていたが、それが自分にとって重要な転機になることだけは確信していた。
---
新しい道の始まり
その日、アヴェントは久しぶりに外出する決意をした。侍女のミリアは驚きながらも、彼女の支度を手伝った。
「アヴェント様、今日はどちらへ行かれるのですか?」
「少し風に当たりに行きたいの。それから……新しいことを始めるための準備をね。」
馬車に乗り込んだ彼女は、胸を張り、前を見据えた。孤立や屈辱を乗り越えるためには、ただ耐えるだけでは不十分だ。自ら行動を起こし、新たな価値を築く必要がある。
馬車の窓から見える街並みは、これまでとは違う輝きを放っているように思えた。それは、彼女の中で新たな決意が芽生えたからかもしれない。
「私にはまだ、やるべきことがある。そして、それを成し遂げてみせる。」
アヴェントの心には、これまでになかった確かな強さが宿っていた。未来を切り開くための第一歩が、今ここから始まる。
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