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第一章:追放と新たな生活の始まり
第二節:故郷での再出発―
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馬車に揺られること数日。エスメラルダは夕刻が迫るころ、ようやく故郷の村へと戻ってきた。王都に比べれば木造の家々が立ち並ぶだけの小さな集落だが、彼女にとっては生まれ育った思い出の場所でもある。道端には畑の作物が実り、遠くの林からは小鳥のさえずりが聞こえ、見上げた空はひどく広く感じられた。
けれど、その懐かしさを噛み締める余裕など、今の彼女にはほとんどなかった。王都での苛烈な仕打ちの記憶がまだ生々しく、追放された事実に心が追いついていない。馬車から降り立った瞬間、彼女は身体中に染みついた疲労感を強く感じ、思わずふらついてしまいそうになる。そんなエスメラルダを見ても、護衛の兵士たちは声をかけることなく、そのまま早足に立ち去っていった。
彼らが王都に戻ってしまえば、もう彼女を見守る者は誰もいない。この村には王国の監視役が常駐しているわけでもなく、まして聖女を迎え入れるための施設など存在しない。すべてが、彼女ひとりの力で生き延びていかなければならない現実を示していた。
日も傾きはじめた頃、エスメラルダは自分の生家へと足を向けた。両親はすでに亡くなって久しいが、その家は今でも村の人々が管理してくれているらしいという話を王都にいた頃に聞いたことがある。けれど、長らく帰ってこなかったため、果たして住める状態かどうかはわからない。道を進むたびに、幼少期の記憶が甦っては消えていく。畑の傍を走り回ったこと、両親と一緒に祭りで踊ったこと、そして村の少年少女と笑い合った日々。いつもなら心が和むはずの思い出が、いまはやけに遠い日の幻に感じられた。
村の入口を抜けると、暮れなずむ空気の中、いくつかの家の窓から灯りが漏れている。人々は夕餉の準備に忙しそうだ。ごく自然な生活の営みがそこにあり、一見すれば平穏そのものだ。けれど、どの家にもまばらにしか明かりがついていないところを見ると、かつてここを離れる前よりも人口が減ってしまったのかもしれない。だが、そんなことを考える余裕すら持てずにいるエスメラルダは、重い足取りで進んでいく。
そのとき、不意に村はずれの道端から声がかかった。
「もしかして……エスメラルダ、か?」
低く落ち着いた男性の声がして、エスメラルダははっと顔を上げる。そこにいたのは、長身で日に焼けた肌を持つ一人の若い農夫だった。薄暗がりの中でもわかる、その茶色がかった髪とたくましい腕の筋。幼いころに一緒に畑で遊んだ幼馴染、レオンの姿がそこにあった。
「レオン……久しぶり……」
小さく呟いた言葉に、レオンは最初こそ驚いた表情を浮かべていたが、すぐに柔らかな笑みを返した。
「まさか、本当にエスメラルダが帰ってくるとはな。王都で聖女になったんだって、ずっと噂を聞いて誇りに思ってたのに……どうしてこんな遅い時間にひとりで?」
その問いかけに、エスメラルダは何と答えればいいのか迷った。追放され、すべてを失って帰ってきたなどと正直に話せば、彼の優しさに触れた瞬間に溢れ出る感情を自分で抑えきれなくなるかもしれない。それでも、これ以上嘘を重ねる理由もない。彼女は自嘲するように唇を結ぶと、ぽつりぽつりと事情を説明し始めた。
聖女として迎えられたものの、陰謀に巻き込まれ、虚偽の罪を着せられて追放されたこと。無実を叫んでも聞き入れられなかったこと。王都の人々から突き放され、アルヴィスからも見放されてしまったこと……。口にするたび、ありありと頭に浮かぶのは、あの玉座の間での冷たい視線と、容赦ない言葉の数々。もう二度とあの場所に戻ることは許されないのだと、改めて実感すると心が締め付けられた。語るほどに、胸の奥に滲む痛みが増していく。
「……そんな、大変だったんだな」
レオンは黙って話を聞き終えると、声を沈ませて返事をした。その表情には怒りとも悲しみともつかない、複雑な感情が浮かんでいる。しかし、彼はエスメラルダを責めることも、否定することもなかった。ただ、手を差し伸べて彼女の肩を支えてくれる。彼女の瞳からぽろりと涙がこぼれ落ちそうになるのを見て、ゆっくりと言葉を続けた。
「すぐに家へ行ってみろよ。中はどうなってるか分からないけど、住める状態じゃなかったら俺の家で休んでいけばいい。ここはお前の故郷なんだから、遠慮なんていらないんだ」
エスメラルダはレオンの優しさに触れて、戸惑いながらも胸に少しだけ温かさが蘇るのを感じた。失意の底にあった彼女にとって、その言葉は救いだった。地位も名誉も奪われた自分を、昔のように受け入れてくれる人がいる。その事実だけで、彼女は少しだけ救われた気持ちになる。
二人は連れ立ってエスメラルダの生家へと向かった。小さな木造の家は、ほとんど荒れ果てた様子だったが、扉を開けてみると、不思議と内部はある程度清潔に保たれているようだった。埃は積もっているものの、家具の配置はそのままで、ぬくもりさえ感じさせる。
「村の人が手入れしてくれてたんだろうな。お前の家だってわかってたからさ」
レオンが指先でテーブルを撫でながら言う。そこには薄い埃がついており、しばらく人が使っていなかったことがうかがえたが、放置されて完全に使えなくなっているわけではない。窓を開ければ夜風が室内へ入ってきて、埃をまとった空気をさっと洗い流していくかのように感じられた。
小さく安堵の息をついたエスメラルダは、荷物を床にそっと下ろす。住む場所があるだけでもありがたいが、この家を見ていると自然と両親のことを思い出してしまった。最後にここを出て行ったのは、聖女として王宮に迎えられたとき。あのときは夢と希望に胸を膨らませ、両親の墓前で必ず立派な聖女になって、この村や国の人々を助けてみせると誓ったのだ。まさか追放されて帰ってくることになるなんて、想像もしていなかった。
「なあ、エスメラルダ、今日はゆっくり休めよ。明日から先のことは、それから考えればいい」
レオンが窓辺に立ちながら優しく声をかける。村の夜は静かだ。王都の喧噪に比べれば、ここには穏やかな闇と、虫の音だけがある。自分が聖女であることを大勢に期待された日々とは打って変わり、今は誰も彼女を期待していない――そのことにほっとする一方で、一抹の寂しさもあった。
部屋を歩き回って簡単に埃を払い、レオンが手伝ってくれながら寝る場所を確保する。布団は古いが、少なくとも横になれるだけの柔らかさは保たれていた。
「水が必要なら汲んでこようか? 村の井戸は変わらず使えるよ」
彼の言葉に、エスメラルダは申し訳なさを感じながらも甘えることにした。今の自分にできることはあまりにも少ない。気力も体力も限界だった。再び彼に礼を述べると、遠慮がちに布団へ倒れ込むように身体を横たえ、瞼を閉じる。
眠りに落ちる寸前、彼女の脳裏には王都での出来事がフラッシュバックする。人々の嘲笑、婚約者アルヴィスの裏切りに似た冷たい態度、聖女の力を見せつけたあのカリーナの憎々しい視線。悔しさと悲しさが混ざり合い、不快な熱が体内にたまっていく気がした。けれど、もう思考する余裕はない。意識が遠のき、漆黒の闇がすべてを覆っていく中で、エスメラルダはただ、少しでも希望ある明日が訪れることを願うしかなかった。
翌朝、窓から差し込む朝日とともに目を覚ましたエスメラルダは、薄暗い家の中でしばらくぼんやりとしていた。村の朝は、鳥のさえずりと人々が早起きして畑仕事をはじめる物音とで始まる。それは聖女として王都にいたころには味わえなかった、素朴で懐かしい生活のリズムだ。彼女はひとつ深呼吸をする。まだ目を腫らしているような気がするが、昨夜よりはずいぶんと身体が軽い。
やがて扉を軽くノックする音が聞こえた。
「エスメラルダ、起きてるか? 朝飯を持ってきたんだ」
聞き慣れたレオンの声に、彼女はようやく布団から体を起こし、乱れた髪を手ぐしで整える。扉を開けると、レオンが置きたてのパンと野菜のスープが入った鍋を大きな籠に入れて持ってきてくれた。
「ありがとう、そんな……お世話になりっぱなしだわ」
「気にするなって。昔からの仲だろう? とりあえず腹が減ってちゃ考えごともできないしな」
パンの甘みと温かいスープの香りが、昨夜の辛い記憶を一瞬だけ忘れさせてくれる。スプーンを口に運ぶと、生きている実感がじんわりと湧き上がるようだった。王都での生活は華やかだったかもしれないが、この素朴な味に勝る贅沢はないとさえ思える。食事を終えたエスメラルダの目に、ほんの少しだけ光が戻っているのを感じ取ったのか、レオンも安心したような笑みを浮かべていた。
この日から始まる故郷での生活が、彼女にとって試練であり、癒やしでもあるのだろう。聖女としての力を持っていても、それは今や何の証にもならない。彼女はただ、追放された“元・聖女”として、どう生きていけばいいのかを模索しなければならない。だが、どんな苦難に直面しても、支えてくれる人がここにいることを知った。それだけでも、エスメラルダにとっては新たな一歩を踏み出す勇気となるはずだ。
こうして、追放によってすべてを失った彼女の新たな生活が、故郷の小さな村で静かに幕を開けたのである。
けれど、その懐かしさを噛み締める余裕など、今の彼女にはほとんどなかった。王都での苛烈な仕打ちの記憶がまだ生々しく、追放された事実に心が追いついていない。馬車から降り立った瞬間、彼女は身体中に染みついた疲労感を強く感じ、思わずふらついてしまいそうになる。そんなエスメラルダを見ても、護衛の兵士たちは声をかけることなく、そのまま早足に立ち去っていった。
彼らが王都に戻ってしまえば、もう彼女を見守る者は誰もいない。この村には王国の監視役が常駐しているわけでもなく、まして聖女を迎え入れるための施設など存在しない。すべてが、彼女ひとりの力で生き延びていかなければならない現実を示していた。
日も傾きはじめた頃、エスメラルダは自分の生家へと足を向けた。両親はすでに亡くなって久しいが、その家は今でも村の人々が管理してくれているらしいという話を王都にいた頃に聞いたことがある。けれど、長らく帰ってこなかったため、果たして住める状態かどうかはわからない。道を進むたびに、幼少期の記憶が甦っては消えていく。畑の傍を走り回ったこと、両親と一緒に祭りで踊ったこと、そして村の少年少女と笑い合った日々。いつもなら心が和むはずの思い出が、いまはやけに遠い日の幻に感じられた。
村の入口を抜けると、暮れなずむ空気の中、いくつかの家の窓から灯りが漏れている。人々は夕餉の準備に忙しそうだ。ごく自然な生活の営みがそこにあり、一見すれば平穏そのものだ。けれど、どの家にもまばらにしか明かりがついていないところを見ると、かつてここを離れる前よりも人口が減ってしまったのかもしれない。だが、そんなことを考える余裕すら持てずにいるエスメラルダは、重い足取りで進んでいく。
そのとき、不意に村はずれの道端から声がかかった。
「もしかして……エスメラルダ、か?」
低く落ち着いた男性の声がして、エスメラルダははっと顔を上げる。そこにいたのは、長身で日に焼けた肌を持つ一人の若い農夫だった。薄暗がりの中でもわかる、その茶色がかった髪とたくましい腕の筋。幼いころに一緒に畑で遊んだ幼馴染、レオンの姿がそこにあった。
「レオン……久しぶり……」
小さく呟いた言葉に、レオンは最初こそ驚いた表情を浮かべていたが、すぐに柔らかな笑みを返した。
「まさか、本当にエスメラルダが帰ってくるとはな。王都で聖女になったんだって、ずっと噂を聞いて誇りに思ってたのに……どうしてこんな遅い時間にひとりで?」
その問いかけに、エスメラルダは何と答えればいいのか迷った。追放され、すべてを失って帰ってきたなどと正直に話せば、彼の優しさに触れた瞬間に溢れ出る感情を自分で抑えきれなくなるかもしれない。それでも、これ以上嘘を重ねる理由もない。彼女は自嘲するように唇を結ぶと、ぽつりぽつりと事情を説明し始めた。
聖女として迎えられたものの、陰謀に巻き込まれ、虚偽の罪を着せられて追放されたこと。無実を叫んでも聞き入れられなかったこと。王都の人々から突き放され、アルヴィスからも見放されてしまったこと……。口にするたび、ありありと頭に浮かぶのは、あの玉座の間での冷たい視線と、容赦ない言葉の数々。もう二度とあの場所に戻ることは許されないのだと、改めて実感すると心が締め付けられた。語るほどに、胸の奥に滲む痛みが増していく。
「……そんな、大変だったんだな」
レオンは黙って話を聞き終えると、声を沈ませて返事をした。その表情には怒りとも悲しみともつかない、複雑な感情が浮かんでいる。しかし、彼はエスメラルダを責めることも、否定することもなかった。ただ、手を差し伸べて彼女の肩を支えてくれる。彼女の瞳からぽろりと涙がこぼれ落ちそうになるのを見て、ゆっくりと言葉を続けた。
「すぐに家へ行ってみろよ。中はどうなってるか分からないけど、住める状態じゃなかったら俺の家で休んでいけばいい。ここはお前の故郷なんだから、遠慮なんていらないんだ」
エスメラルダはレオンの優しさに触れて、戸惑いながらも胸に少しだけ温かさが蘇るのを感じた。失意の底にあった彼女にとって、その言葉は救いだった。地位も名誉も奪われた自分を、昔のように受け入れてくれる人がいる。その事実だけで、彼女は少しだけ救われた気持ちになる。
二人は連れ立ってエスメラルダの生家へと向かった。小さな木造の家は、ほとんど荒れ果てた様子だったが、扉を開けてみると、不思議と内部はある程度清潔に保たれているようだった。埃は積もっているものの、家具の配置はそのままで、ぬくもりさえ感じさせる。
「村の人が手入れしてくれてたんだろうな。お前の家だってわかってたからさ」
レオンが指先でテーブルを撫でながら言う。そこには薄い埃がついており、しばらく人が使っていなかったことがうかがえたが、放置されて完全に使えなくなっているわけではない。窓を開ければ夜風が室内へ入ってきて、埃をまとった空気をさっと洗い流していくかのように感じられた。
小さく安堵の息をついたエスメラルダは、荷物を床にそっと下ろす。住む場所があるだけでもありがたいが、この家を見ていると自然と両親のことを思い出してしまった。最後にここを出て行ったのは、聖女として王宮に迎えられたとき。あのときは夢と希望に胸を膨らませ、両親の墓前で必ず立派な聖女になって、この村や国の人々を助けてみせると誓ったのだ。まさか追放されて帰ってくることになるなんて、想像もしていなかった。
「なあ、エスメラルダ、今日はゆっくり休めよ。明日から先のことは、それから考えればいい」
レオンが窓辺に立ちながら優しく声をかける。村の夜は静かだ。王都の喧噪に比べれば、ここには穏やかな闇と、虫の音だけがある。自分が聖女であることを大勢に期待された日々とは打って変わり、今は誰も彼女を期待していない――そのことにほっとする一方で、一抹の寂しさもあった。
部屋を歩き回って簡単に埃を払い、レオンが手伝ってくれながら寝る場所を確保する。布団は古いが、少なくとも横になれるだけの柔らかさは保たれていた。
「水が必要なら汲んでこようか? 村の井戸は変わらず使えるよ」
彼の言葉に、エスメラルダは申し訳なさを感じながらも甘えることにした。今の自分にできることはあまりにも少ない。気力も体力も限界だった。再び彼に礼を述べると、遠慮がちに布団へ倒れ込むように身体を横たえ、瞼を閉じる。
眠りに落ちる寸前、彼女の脳裏には王都での出来事がフラッシュバックする。人々の嘲笑、婚約者アルヴィスの裏切りに似た冷たい態度、聖女の力を見せつけたあのカリーナの憎々しい視線。悔しさと悲しさが混ざり合い、不快な熱が体内にたまっていく気がした。けれど、もう思考する余裕はない。意識が遠のき、漆黒の闇がすべてを覆っていく中で、エスメラルダはただ、少しでも希望ある明日が訪れることを願うしかなかった。
翌朝、窓から差し込む朝日とともに目を覚ましたエスメラルダは、薄暗い家の中でしばらくぼんやりとしていた。村の朝は、鳥のさえずりと人々が早起きして畑仕事をはじめる物音とで始まる。それは聖女として王都にいたころには味わえなかった、素朴で懐かしい生活のリズムだ。彼女はひとつ深呼吸をする。まだ目を腫らしているような気がするが、昨夜よりはずいぶんと身体が軽い。
やがて扉を軽くノックする音が聞こえた。
「エスメラルダ、起きてるか? 朝飯を持ってきたんだ」
聞き慣れたレオンの声に、彼女はようやく布団から体を起こし、乱れた髪を手ぐしで整える。扉を開けると、レオンが置きたてのパンと野菜のスープが入った鍋を大きな籠に入れて持ってきてくれた。
「ありがとう、そんな……お世話になりっぱなしだわ」
「気にするなって。昔からの仲だろう? とりあえず腹が減ってちゃ考えごともできないしな」
パンの甘みと温かいスープの香りが、昨夜の辛い記憶を一瞬だけ忘れさせてくれる。スプーンを口に運ぶと、生きている実感がじんわりと湧き上がるようだった。王都での生活は華やかだったかもしれないが、この素朴な味に勝る贅沢はないとさえ思える。食事を終えたエスメラルダの目に、ほんの少しだけ光が戻っているのを感じ取ったのか、レオンも安心したような笑みを浮かべていた。
この日から始まる故郷での生活が、彼女にとって試練であり、癒やしでもあるのだろう。聖女としての力を持っていても、それは今や何の証にもならない。彼女はただ、追放された“元・聖女”として、どう生きていけばいいのかを模索しなければならない。だが、どんな苦難に直面しても、支えてくれる人がここにいることを知った。それだけでも、エスメラルダにとっては新たな一歩を踏み出す勇気となるはずだ。
こうして、追放によってすべてを失った彼女の新たな生活が、故郷の小さな村で静かに幕を開けたのである。
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