上 下
1 / 1

偽りの政略結婚 ~氷の公爵とアリエッタの甘い復讐劇~

しおりを挟む
第一章:政略結婚の罠

1-1 結婚の命令


---

アリエッタ・アストリアは、父の硬い表情と母の悲しげな瞳を前に、ただ静かに座っていた。窓の外では穏やかな陽光が庭を照らし、白い花が風に揺れている。だが、今この部屋に漂う重苦しい空気は、その美しい光景を遠くに追いやっていた。

「……アリエッタ。お前は公爵家へ嫁ぐことになる」

父であるアストリア伯爵のその言葉は、彼女にとってまるで冬の冷たい風が吹きつけるような衝撃だった。

「えっ……公爵家、ですか?」

小さな声で聞き返すが、父は彼女の目を見ることなく、ただ冷たく頷くだけだった。

「ヴィンセント・アルカナ公爵だ。知っているだろう。王国屈指の名門で、資産も莫大。……お前が嫁ぐことで、我が家も救われる」

氷の公爵――その名前は誰もが知っている。彼は冷酷無情な男として有名であり、その威厳と非情さで周囲を震え上がらせる存在だ。王国の北の領地を治め、貴族社会では常に孤高を保ち、感情を表に出すことはないと噂されていた。

そんな男に嫁げと、父は言う。

「救われる、とはどういう意味でしょうか?」

アリエッタは震える声で問いかけた。父は彼女の声に苛立ったように、机を軽く叩く。

「我が家の財政は限界だ。お前も薄々気づいているだろう。公爵家との縁談は、我らにとって最後の希望なのだ」

「……そんな」

財政難――その言葉は彼女にとって初耳ではない。家の使用人の数は減り、母が贅沢品を控えるようになったのも知っていた。それでも、彼女は希望を持っていた。何かのきっかけで、この困難は乗り越えられるのだと。だが、その「希望」とは彼女自身が犠牲になることでしか得られないものだったのだ。

「アリエッタ、これもお前の務めだ」

父のその言葉に、アリエッタは絶句した。伯爵家の娘として、家を救うために政略結婚を受け入れる――それが当たり前だと、父は言いたいのだ。

「……分かりました。お受けいたします」

涙がこぼれそうになるのを堪えながら、アリエッタは静かに答えた。父は満足げに頷き、母は彼女の肩にそっと手を置いた。

「良い子ね、アリエッタ。あなたなら、きっと公爵にも気に入られるわ」

母の優しさが逆に胸を締め付ける。気に入られる――そんな簡単なものではない。公爵は冷酷で無情な男、彼がアリエッタをどう扱うのかなど想像もできない。


---

義姉・クラリッサが、その様子を見下すように笑っているのに、アリエッタは気がついた。

「まあ、随分と良いご縁じゃない? アリエッタ。氷の公爵夫人だなんて、聞くだけで寒気がしそうだわ」

クラリッサはアリエッタと同じくアストリア伯爵家の娘だが、母が違う。美しく高慢な義姉は、いつもアリエッタに対して優位に立とうとする。今もその笑みに込められた侮蔑を、アリエッタは感じ取った。

「そうね、クラリッサ姉様。私に務まるか分かりませんが……努めさせていただきます」

「まあ、健気ねえ。でも公爵に捨てられないよう、せいぜい頑張ることね? 冷酷な男ですもの、飽きたらすぐに……ふふっ」

クラリッサの言葉は氷のように冷たく、刺すようだった。だが、アリエッタは反論しなかった。ただ俯き、静かにその言葉をやり過ごすことしかできない。

私が嫁ぐことで家が救われるなら、それでいい。
そう自分に言い聞かせるしかなかった。


---

その夜、アリエッタは自室のベッドで小さな声で呟いた。

「ヴィンセント・アルカナ公爵……冷たい人、と噂されていますけれど、どんな方なのかしら……」

夜の闇は彼女の不安をさらに大きくする。明日には公爵邸へ向かう馬車が迎えに来ると聞いている。もう後戻りはできない。

(私は、無事にやっていけるのだろうか)

彼の冷たい瞳が、自分を見下す姿を想像し、震えが止まらない。だが、恐怖に屈している時間はないのだと、アリエッタは無理にでも目を閉じた。

「大丈夫……私なら、きっと……」


---

翌朝、伯爵邸に豪奢な馬車が到着した。黒く磨き上げられた馬車は、まさに威圧的で、公爵家の権威を示していた。

「準備はいいか、アリエッタ」

父の言葉に、アリエッタはゆっくりと頷く。そして、彼女の目の前には執事らしき男性が恭しく立っていた。

「アリエッタ様、お迎えにあがりました。どうぞ、こちらへ」

アリエッタは少しだけ躊躇したが、深呼吸をして馬車に乗り込む。その瞬間、義姉クラリッサが嘲笑うように囁いた。

「お気をつけて、公爵夫人様。せいぜい冷たくされないようにね」

クラリッサのその言葉が耳に残ったまま、馬車はゆっくりと動き出す。

外の風景は次第に遠くなり、アリエッタの心も少しずつ離れていく。新たな生活、冷酷な夫、そして待ち受ける未来――彼女の運命が、今大きく動き出したのだ。

(私は、どうなってしまうの……?)

馬車の窓から差し込む陽光は冷たく、アリエッタの不安を少しも温めることはなかった。


第一章:政略結婚の罠

1-2 義姉クラリッサの策略


---

公爵家へ向かう馬車が見えなくなった頃、アストリア伯爵邸の庭には静寂が戻っていた。だが、その静けさを破るように、義姉クラリッサは冷たい笑みを浮かべていた。

「ふん、あの小娘が公爵夫人になるですって? 冗談じゃないわ」

クラリッサは豪華なドレスの裾を翻しながら、自室へと向かう。その後を追うように、彼女の侍女であるベアトリスが慌ててついていく。

「お嬢様、そんなに急いでどちらへ?」

「決まっているでしょう。少しばかり“楽しいこと”を計画しなくてはね」

クラリッサの瞳には冷たい光が宿っていた。彼女は生まれながらにして美しく、父親である伯爵からも溺愛されてきた。しかし、母親の違う妹アリエッタが生まれてからというもの、父の愛情が彼女にも向けられるようになり、それがクラリッサの嫉妬を煽っていた。

「アリエッタなんて、所詮は私の影に過ぎないのよ。なのに、公爵夫人だなんて立場が上になるなんて許せないわ」

ベアトリスはその言葉に困惑しながらも、クラリッサの機嫌を損ねないよう注意深く言葉を選んだ。

「ですが、お嬢様。公爵様は冷酷無情と噂されていますし、アリエッタ様も大変かと……」

「だからこそよ。あの子が公爵家で苦しむ姿を見るのも一興だけれど、もっと面白いことができそうじゃない?」

クラリッサは窓際に立ち、遠くを見つめながら微笑んだ。その笑みは美しいが、どこか冷たさを感じさせる。


---

その日の夜、クラリッサは密かに一通の手紙を書き上げた。宛先は貴族社会で影響力を持つ男爵夫人、エリザベス・モンゴメリー。彼女は噂好きで、情報を操ることで知られている。

「親愛なるエリザベス夫人へ。ご機嫌いかがかしら? 実は、妹のアリエッタが公爵家に嫁ぐことになったの。でも、彼女には秘密があって……」

クラリッサは巧みに嘘と真実を織り交ぜ、アリエッタに関する悪い噂を広めようとしていた。手紙を書き終えると、封をし、ベアトリスに手渡した。

「この手紙を確実にエリザベス夫人の元へ届けなさい。そして、誰にも見られないようにするのよ」

「承知いたしました、お嬢様」

ベアトリスは深く頭を下げ、部屋を後にした。


---

翌日、貴族たちの間で小さな噂が広がり始めた。

「聞いたかしら? アストリア伯爵家の次女、アリエッタさんについての話」

「ええ、なんでも過去に不適切な関係があったとか……」

「まあ、それが本当なら公爵家も大変ね」

クラリッサの狙いは的中した。エリザベス夫人を通じて広まった噂は、瞬く間に貴族社会を駆け巡った。

「これで公爵も考え直すかもしれないわね」

クラリッサは満足げに微笑んだ。しかし、彼女の策略はそれだけでは終わらない。


---

さらに、クラリッサはアリエッタの結婚式を混乱させる計画を立てていた。彼女は公爵家の内部に協力者を見つけ出し、式の最中に問題を起こすよう仕向けた。

「公爵家の使用人に手を回しておいたわ。式の最中にアリエッタが恥をかくよう、うまくやってくれるでしょう」

ベアトリスは不安げに尋ねた。

「でも、お嬢様。それが露見したら大変なことに……」

「心配はいらないわ。すべて私ではなく、他の者の仕業に見せかけてあるから」

クラリッサの計画は周到だった。彼女は自分の手を汚すことなく、アリエッタを陥れる手段を次々と講じていく。

「これであの子は公爵家から追い出され、我が家も公爵家との関係を絶つことになる。そうすれば、父も私を頼るしかなくなるわ」

クラリッサの真の目的は、父親の愛情を独占することだった。アリエッタが公爵家に嫁ぎ、成功すれば父の誇りとなる。しかし、彼女が失敗し、恥をかけば、クラリッサが再び父の信頼を取り戻せると考えていた。


---

結婚式の日が近づく中、クラリッサの策略は着々と進行していた。彼女はさらにアリエッタ宛てに匿名の手紙を送り、不安を煽る。

「あなたは公爵家にふさわしくない。全てが偽りであり、いずれ真実が明らかになるだろう」

アリエッタはその手紙を読んで、胸を痛めた。誰が書いたのかも分からない中傷に、彼女の不安は募るばかりだった。

「私、本当に大丈夫なのかしら……」

しかし、彼女には相談できる相手もおらず、一人でその悩みを抱え込むしかなかった。


---

そして、結婚式当日。クラリッサは美しいドレスを身にまとい、客人たちの前で完璧な笑みを浮かべていた。

「おめでとう、アリエッタ。とても綺麗よ」

その言葉の裏に隠された嘲笑に、アリエッタは気づかない。彼女は緊張と不安で心がいっぱいだった。

式が始まると、クラリッサは密かに合図を送った。彼女の計画が実行に移される瞬間だ。

「さあ、見せてもらおうじゃない。あなたの運命が崩れ落ちる様を」

しかし、クラリッサは知らなかった。彼女の策略が思わぬ方向へと転がり始めていることを。


---

クラリッサの嫉妬と陰謀が渦巻く中、アリエッタの運命は如何に――。




---

こうして、アリエッタの「政略結婚」の物語が始まる――。




第一章:政略結婚の罠

1-3 結婚式の波乱


---

黒光りする馬車に揺られながら、アリエッタは手元に置かれた白い手袋をぎゅっと握りしめた。冷たい緊張が彼女の胸を締めつける。馬車の窓から見える景色は、どんどん変わっていく。生まれ育った伯爵家の領地を離れ、見たこともない広大な森と、北の厳しい風が彼女の頬をかすめた。

「……本当にここから始まるのね」

静かに呟くアリエッタの声は、馬車の中に沈んでいった。彼女の前には、まだ見ぬ夫――「氷の公爵」ヴィンセント・アルカナが待っている。冷酷無情、非情な男として噂される彼の元へ嫁ぐことが、果たして幸せに繋がるのだろうか。答えはどこにもない。

「アリエッタ様、公爵邸が見えてまいりました」

従者の声が馬車越しに響き、アリエッタははっと顔を上げた。遠くに見えるその邸宅は、まさに「氷の城」と呼ぶにふさわしい。白銀の外壁に飾られた重厚な装飾、冬の空にそびえ立つその姿は、気高くもどこか冷たさを漂わせている。

(これが……私の新しい家)

馬車が公爵邸の前で止まり、扉が静かに開かれる。外には数人の使用人が列を作って彼女を出迎えていた。

「ようこそ、アルカナ公爵家へ。アリエッタ様」

先頭に立つ執事が恭しく頭を下げる。その隣には、美しい漆黒の髪と鋭い金色の瞳を持つ青年が立っていた。

――ヴィンセント・アルカナ公爵。

彼の姿を見た瞬間、アリエッタの胸が一瞬だけ止まったように感じた。噂通りの冷たい瞳と無表情な顔立ち。しかし、その整った顔は絵画のように美しく、まるで彫刻のようだった。

「……はじめまして、公爵様。アリエッタ・アストリアと申します」

アリエッタは礼儀正しく頭を下げた。ヴィンセントは彼女を一瞥し、無言のまま数秒間、視線を向けた。そして低く落ち着いた声で言った。

「遠路ご苦労だった。今夜の式に備え、支度を整えるといい」

それだけを言い残し、彼は邸内へと向かっていった。

(……挨拶もこんなに冷たいなんて)

噂通りの無愛想な態度に、アリエッタの不安はさらに募った。だが彼の背中を見つめる中で、どこか孤独な影を感じたのも確かだった。


---

そしてその夜――。

アリエッタとヴィンセントの結婚式が、邸内の広間で行われた。そこには近しい貴族や、王国の名士たちが集まり、式の進行を見守っている。

アリエッタは純白のドレスに身を包み、静かに立っていた。緊張と不安に手が震えそうになるのを、何とか堪える。

「……本当に、私で良いのかしら」

呟く彼女に、控えていた侍女が小さく微笑み、言葉をかける。

「アリエッタ様はとても美しいですわ。どうかご自信を」

その言葉に少しだけ救われ、アリエッタはゆっくりと顔を上げた。


---

そして式が始まった。貴族たちの視線が彼女に集中する中、ヴィンセントが静かに立ち、彼女の前に手を差し出す。彼はやはり冷たい表情のままだったが、その手には迷いも震えもなかった。

(この人が……私の夫)

アリエッタは静かに手を取り、彼の隣に並んだ。司祭が二人の結婚を宣言し、祝福の言葉が広間に響く。

しかし――その瞬間だった。

「なんと!?」
「そんな……!」

突如、広間の一角で騒ぎが起こった。何事かと貴族たちがざわつき、アリエッタも目を見開いてその方向を見た。

「これが何だか分かるか?」

そこには、公爵家の使用人を名乗る男が立ち、手には何かの書類が握られていた。彼の顔には明らかな焦りと混乱が浮かんでいる。

「この手紙には、アリエッタ様が以前、他の男性と密会していたという記述が――」

「なんですって!?」

貴族たちが一斉に息を呑む。義姉クラリッサの仕掛けた罠――それはここで明らかになるはずだった。

アリエッタは驚き、ヴィンセントを見上げる。しかし彼は、男を一瞥しただけで冷静な声で言った。

「その手紙をよこせ」

男は震えながら手紙を差し出す。ヴィンセントは手紙を開き、冷たい視線で内容を一読する。そして、静かに書類を破り捨てた。

「そんなくだらない噂を、私が信じるとでも思ったか?」

その言葉に、広間の空気が一気に凍り付く。ヴィンセントはゆっくりと男に近づき、冷たい声で言った。

「私の妻を侮辱する者は、どうなるか覚悟しておけ」

男は怯え、震えながら後ずさる。そして、騒ぎを起こした彼は衛兵によって連れ出された。

ヴィンセントはアリエッタに向き直り、冷静なまま言葉を紡ぐ。

「何も心配することはない。お前は私の妻だ。それ以上でもそれ以下でもない」

その言葉に、アリエッタは涙が出そうになるのを堪え、ただ静かに頷いた。広間には再び静寂が戻り、式は何事もなかったかのように続けられる。

(この人は……冷たい人だと思っていたけれど)

アリエッタは初めて、ヴィンセントの中にある「揺るがぬ強さ」と「信頼」を感じた。彼は彼女を守った――それだけで、彼女の心の中の不安は少しだけ和らいだ。


---

その夜、ヴィンセントとアリエッタの間に結ばれた小さな信頼の糸は、まだ細く弱いものだった。
だが、それは確かに未来への第一歩だった。

クラリッサの策略は失敗に終わり、新たな日々が幕を開ける――。

第一章:政略結婚の罠

1-4 新たな生活の幕開け


---

結婚式の翌朝、アリエッタは早くに目を覚ました。普段より硬いベッドに違和感を覚えながら、重厚な天蓋と見慣れぬ装飾に囲まれた自室をぼんやりと見渡す。

(ここが、公爵邸……私の新しい家)

昨夜の出来事を思い出すと、まだ胸の奥がざわつく。結婚式の最中、義姉クラリッサが仕掛けた罠――「アリエッタの浮気の噂」が突然暴露されかけた。だが、公爵ヴィンセントはその噂を一蹴し、彼女を守った。

(私の妻だ。それ以上でもそれ以下でもない――)

彼の冷たくも揺るがぬ言葉が、今も耳の奥に残っている。その一言にどれだけ救われたことか。アリエッタはため息をつき、小さく自分の頬を叩いた。

「……しっかりしなくちゃ」

ここからが本当の始まりだ。アリエッタ・アルカナとして、公爵夫人として、新たな生活を築いていかなければならない。


---

支度を終えたアリエッタが自室を出ると、廊下の端で待っていた侍女たちが一斉に頭を下げた。昨日から彼女を担当することになった筆頭侍女のリリアが、優雅に微笑む。

「おはようございます、アリエッタ様。本日からこちらの邸宅でのお勤めが始まります。何かお困りごとがあれば、どうぞお申し付けください」

「ありがとうございます、リリアさん。……あの、公爵様は?」

アリエッタの問いに、リリアは一瞬ためらうような表情を見せた。

「ヴィンセント様は、朝早くから書斎に籠もっておられます。お忙しいご様子ですので、お会いになる機会はしばらくないかと」

やはり、とアリエッタは小さく頷いた。結婚式の際に彼が見せた強い言葉とは裏腹に、彼の態度は依然として冷たい。新婚の妻に対しての挨拶もなく、執務に籠もっているというのだから、やはり彼は噂通り「氷の公爵」なのだろう。

(でも……彼は私を守ってくれた。それだけで十分)

自分に言い聞かせ、アリエッタは邸内を案内してもらうことにした。


---

アルカナ公爵邸は王国の北に位置し、厳しい冬が訪れる土地柄に合わせて設計されていた。白を基調とした壁と黒い装飾が施され、どこか冷たく荘厳な印象を与える。広い廊下には絵画や鎧が並び、無駄のない美しさが漂っている。

「こちらが食堂でございます。朝食はもうご用意しておりますが、アリエッタ様にはまだ召し上がっていただけておりませんでしたね」

「いえ、私は……あとで構いません」

アリエッタは遠慮がちに答えると、リリアが微笑んだ。

「どうぞ、気になさらないでくださいませ。ここはアリエッタ様の家なのですから」

その言葉に、アリエッタの心が少しだけ温かくなる。ここは自分の家――そう自分に言い聞かせても、まだ実感は湧かない。

食堂の扉が開くと、そこには思いがけない人物がいた。

「……公爵様?」

「……」

長いテーブルの端に座り、静かに紅茶を飲んでいるヴィンセントの姿が目に飛び込んできた。彼はアリエッタに気づくと、軽く視線を向け、静かに口を開いた。

「もう目が覚めたか」

それだけを言って、彼は再び紅茶に視線を落とす。まるで彼の世界にはアリエッタしか存在していないような、そんな冷たい空気に、アリエッタは少しだけ胸を締めつけられた。

「あの、昨日は……その、ありがとうございました」

恐る恐るお礼を伝えると、ヴィンセントは少しだけ目を細めた。

「礼を言うことはない。私の妻だと公にした以上、誰にもお前を侮辱させない。それだけだ」

冷たい言葉だったが、その中にはどこか誠実さが感じられた。アリエッタは小さく頷き、彼の隣ではなく、テーブルの少し離れた場所に座った。


---

朝食の時間は静寂に包まれたまま過ぎていった。ヴィンセントは食事を終えると立ち上がり、部屋を出る間際に言葉を残す。

「今日から邸内のことはリリアに聞くといい。余計なことは考えるな」

「……はい、公爵様」

その背中を見送ると、アリエッタは深く息を吐いた。

(やはり、この人は冷たい……)

だが、不思議とその冷たさは彼の本質ではない気がする。彼の目の奥には、何か隠された孤独がある――アリエッタはそう感じずにはいられなかった。


---

その日、アリエッタは邸内の仕事を覚えるため、リリアと共に使用人たちの様子を見て回った。公爵家の領地を管理する責務がある以上、公爵夫人としても邸内の状況を把握する必要がある。

「アリエッタ様、こちらが温室でございます」

案内された温室の中は、公爵邸とは打って変わって温かく、色とりどりの花が咲き誇っていた。白い花々が風に揺れ、優しい香りが漂っている。

「まあ……なんて綺麗なの」

アリエッタは思わず笑みを浮かべ、花に手を伸ばした。その表情を見たリリアが、少しだけ驚いたような顔をした。

「アリエッタ様は花がお好きなのですね」

「ええ。小さい頃から庭で花を育てるのが好きでした」

温室に咲く花々を愛おしそうに見つめながら、アリエッタはふと呟いた。

(いつか……この場所が本当の意味で私の家だと思える日が来るのかしら)

彼女の新しい生活はまだ始まったばかり。氷のように冷たい夫ヴィンセントと、冷たくも美しい公爵邸――だがその氷の中に、確かな温かさが隠されていることを、アリエッタはまだ知らなかった。

新たな生活が幕を開け、氷の中に秘められた真実が、少しずつ動き出そうとしていた――。

第二章:冷たさの裏の優しさ

2-1 孤独な公爵


---

結婚から数日が過ぎたが、公爵邸は静寂に包まれたままだった。アリエッタは新しい生活に慣れるため、日々邸内を巡り、使用人たちと話を交わしていた。だが、肝心の夫ヴィンセントとはほとんど顔を合わせることがない。

彼はいつも書斎に籠もり、朝食の席以外では姿を見せない。まるで妻という存在に興味がないかのように。

「……やはり、噂通りの方なのね」

アリエッタは一人、広大な庭のベンチに腰掛け、ぼんやりと空を見上げた。灰色の雲が低く垂れ込め、北の冷たい風が花壇の花を揺らしている。

氷の公爵――ヴィンセント・アルカナ。
その名前の通り、彼は感情を見せず、冷徹に人々と距離を置いてきた。公爵家の権威を守るためには当然の態度だと言われているが、彼のその姿はどこか孤独に見えた。

(でも、あの時……私を守ってくれた)

結婚式の騒動で、ヴィンセントはアリエッタを侮辱する男を冷然と退けた。あの瞬間の彼の姿は、噂の「冷酷な公爵」ではなく、彼女を確かに守る「夫」だった。

「……どうして私にあそこまでしてくれたのかしら」

考え込んでいると、後ろから声がした。

「アリエッタ様、こちらにいらしたのですね」

振り返ると、筆頭侍女のリリアが立っていた。その手には、温かい紅茶の乗った銀のトレイがある。

「少し冷え込んでおりますので、温かいお茶をお持ちいたしました」

「あら、ありがとうございます」

アリエッタは微笑んで紅茶を受け取った。湯気の立つ香りに心が少し落ち着く。リリアは彼女の隣に立ち、静かに尋ねた。

「アリエッタ様、公爵様との生活には慣れましたでしょうか?」

「……ええ、何とか。でも、公爵様とはまだほとんどお話ができなくて……」

言葉を濁すアリエッタに、リリアは穏やかな表情で続けた。

「どうかお気を悪くなさらないでくださいませ。公爵様は、昔から感情を表に出すことが苦手なお方なのです」

「苦手……?」

アリエッタは意外そうにリリアを見つめた。彼女の中で、ヴィンセントは「冷たさ」と「無関心」の象徴のように思えていたからだ。

「はい。幼い頃から、公爵様は人を信じることが難しい環境で育ってこられました」

リリアの語る言葉には、どこかヴィンセントへの敬意と哀れみが含まれているように思えた。アリエッタは耳を傾ける。

「……何か、理由があるのですか?」

リリアは一瞬、言葉を飲み込むような表情を見せたが、やがて静かに口を開いた。

「以前、公爵様はご自身の側近や親族に裏切られたことがありました。それ以来、公爵様は誰にも心を許さず、孤独の中で生きることを選ばれたのです」

「裏切り……」

「それでも公爵様は、領地のため、そして民のために尽くしておられます。誰よりも責務に忠実でありながら、ご自身を犠牲にしていらっしゃる……それが公爵様のお姿なのです」

アリエッタは静かに息を飲んだ。リリアの言葉を通して見えたのは、孤独と責務を背負い続けるヴィンセントの姿だった。

(公爵様も、誰にも頼れないままここまで……)

アリエッタの心の中に、冷たい人だと思っていた彼への印象が少しずつ変わり始める。彼の冷たさの裏にある孤独と、不器用な優しさ――それを知ったことで、彼女はほんの少しだけヴィンセントに近づけたような気がした。


---

その日の夕暮れ時、アリエッタは邸内を歩いていると、書斎の前で立ち止まった。扉の向こうからは、かすかに羽ペンを走らせる音が聞こえる。

(……話してみようかしら)

ためらいながらも、アリエッタは扉を軽くノックした。

「公爵様、少しよろしいでしょうか?」

数秒の沈黙の後、扉の向こうから低い声が返ってきた。

「入れ」

アリエッタは深呼吸をして、静かに扉を開けた。書斎の中には、大きな机と高く積まれた書類が並んでいる。その中心に座るヴィンセントは、淡々と書類に目を落としていた。

「どうした」

彼の視線は書類から動かず、無関心なようにも見える。しかし、アリエッタは勇気を振り絞り、彼に向かって歩み寄った。

「あの……お疲れではありませんか? 少し休まれたほうが良いのでは……」

ヴィンセントは手を止め、初めて彼女に目を向けた。その金色の瞳は鋭く、少しだけ驚いたように見える。

「私に休息は必要ない」

「……でも、公爵様が倒れてしまったら、領地はどうなるのですか?」

その言葉に、ヴィンセントの表情が僅かに揺れた。アリエッタはその瞬間を逃さず、続けた。

「私は、公爵様の妻です。何かお手伝いができるなら……」

「……余計なことを考えるな」

ヴィンセントは短くそう告げると、再び書類に目を落とした。その姿は冷たく、遠い――それでも、アリエッタはその背中がどこか寂しそうに見えた。

「分かりました。でも、何かあればお知らせくださいね」

そう言ってアリエッタは書斎を出た。その瞬間、ヴィンセントはふと手を止め、静かに呟いた。

「……余計なことを」

だが彼の声には、いつもの冷たさではなく、どこか戸惑いが混ざっていた。


---

書斎を後にしたアリエッタは、自分の胸に手を当てた。

(やっぱり、公爵様は冷たいだけの人ではないわ)

彼の心の扉は固く閉ざされている――でも、その扉の向こうにはきっと、優しさが隠れている。アリエッタはそう信じずにはいられなかった。

(少しずつでいいから……私は彼の心に寄り添いたい)

新たな決意を胸に、アリエッタの瞳には小さな光が宿っていた。

冷たさの裏に隠れた孤独。その氷の中に眠る心を、アリエッタは少しずつ見つけ始めた――。



第二章:冷たさの裏の優しさ

2-2 クラリッサの偽りの噂


---

公爵邸での生活が少しずつ落ち着いてきた頃、アリエッタにとって最も避けたい事態が起こり始めた。噂――それは小さな火種のように公爵領内を漂い、徐々に彼女を追い詰めていった。

「公爵夫人が以前、他の男性と密会していた――」
「彼女は家のために無理やり嫁いだらしい」
「公爵様の妻としてふさわしくないのでは?」

貴族や使用人たちの間で流れ始めたその噂は、間違いなくクラリッサが仕掛けたものだった。手紙や偽の証拠を密かに送りつけ、外部の者に流布させたのだろう。その目的はただ一つ――アリエッタを公爵家から追い出すため。

アリエッタ自身も、侍女たちのひそひそ話や不自然な視線に気づいていた。邸内に広がる冷たい空気が、彼女の居場所を少しずつ奪っていく。


---

ある朝、アリエッタは庭で花に水をやりながら、心の整理をしていた。義姉クラリッサがどれほどの陰謀を巡らせても、彼女は屈するつもりはない。

(私がここにいる理由は、家のためだけではないわ。……公爵様との生活を、きちんと守りたいの)

しかし、その強い決意を打ち砕くように、一人の侍女が慌てた様子で駆け寄ってきた。

「アリエッタ様、大変です!」

「どうしたの、リリア?」

筆頭侍女リリアの顔は青ざめており、何か重大なことが起きたのだと一目で分かった。

「公爵様の側近であるレオナード様が、アリエッタ様にご相談があると仰っています……」

「レオナード様が?」

ヴィンセントの側近として仕えるレオナードは、公爵邸の執務や領地の管理を支える有能な人物だ。そんな彼が突然、自分を呼び出すとは――。

(何か嫌な予感がする……)


---

書斎に通されたアリエッタは、室内の空気がいつも以上に張り詰めていることを感じ取った。部屋の中央にはヴィンセントが立ち、その隣にはレオナードが控えている。

「……公爵様」

アリエッタが小さく声をかけると、ヴィンセントは無言のまま彼女を一瞥した。その金色の瞳は相変わらず冷たく、何を考えているのか読み取れない。

レオナードが前に進み出て、静かな声で言った。

「アリエッタ様、ご存じでしょうか。最近、貴女について不穏な噂が広がっております」

「……噂、ですか?」

「ええ。貴女が以前、他の男性と密会していたという話です。その真偽を確認するため、公爵様は私に調査を命じられました」

その瞬間、アリエッタの体が凍りついた。
――クラリッサの策略だ。

確信を持ったものの、彼女はすぐには言葉が出てこなかった。噂がここまで公爵様の耳にまで届いていたとは。

「私は――」

何かを言いかけたその時、ヴィンセントが静かに口を開いた。

「……答える必要はない」

その一言に、アリエッタとレオナードの視線がヴィンセントに向く。彼は机の上の書類を閉じ、ゆっくりとアリエッタに目を向けた。

「くだらない噂だ。いちいち相手にするな」

「ですが、公爵様――」

レオナードが抗議の声を上げようとしたが、ヴィンセントは手を軽く上げて制した。

「私が信じているのは、事実ではなく目の前にいる者だ」

その言葉は冷たくもあり、どこか温かくもあった。ヴィンセントの視線はまっすぐにアリエッタを見つめている。彼がアリエッタの弁明を求めず、ただ「信じる」と言ったことに、彼女は胸が熱くなった。

「公爵様……ありがとうございます」

アリエッタは頭を下げながらも、涙がこぼれそうになるのを必死に堪えた。ヴィンセントの言葉に救われたのだ――この邸内で、彼女の味方は確かに存在していた。


---

その後、レオナードは書斎を後にし、アリエッタとヴィンセントだけが残された。

「……公爵様、どうして私を信じてくださるのですか?」

アリエッタは、震える声で問いかけた。ヴィンセントは彼女をじっと見つめ、静かに答えた。

「誰の言葉よりも、お前自身の姿を見て判断している」

その言葉に、アリエッタは胸が締め付けられた。ヴィンセントは冷酷な公爵と呼ばれているが、その裏には彼なりの誠実さと、揺るがぬ信念がある。

(この人は――本当に冷たいだけの人じゃない)

彼女はもう一度、彼のことを知りたいと強く思った。


---

数日後、公爵邸に新たな動きがあった。ヴィンセントが「噂を広めた者を探し出せ」と命じ、徹底的に調査が行われたのだ。結果、クラリッサの仕組んだ罠は明るみに出ることになるのだが――その真実が暴かれるのは、もう少し先の話である。


---

その夜、アリエッタは寝室で一人、窓の外に広がる月を見上げていた。

「私がここにいる限り、公爵様を支えることができるかしら……」

彼女の心には、少しずつ芽生え始めた信頼と、ヴィンセントへの新たな感情が宿り始めていた。

(きっと、彼の心の氷は溶けるはず……)

アリエッタは静かに目を閉じ、微かな笑みを浮かべた。クラリッサの仕掛けた罠は彼女の心を砕くことはなく、むしろアリエッタの中に強さを生んでいた。

冷たい噂の中で揺れる二人の距離――だが、そこには確かな絆の芽が根付いていた。

第二章:冷たさの裏の優しさ

2-3 ふたりの距離


---

数日間続いたクラリッサの噂騒動は、公爵ヴィンセントの迅速な対応によって、少しずつ鎮静化していった。しかし、アリエッタの心にはまだわずかな不安が残っていた。

(公爵様が私を信じてくださった……それだけでも嬉しい。でも、私はまだ公爵様のことを何も知らない)

彼の冷たい視線の奥に何が隠されているのか――アリエッタは、少しでも彼に近づきたいと強く思うようになっていた。


---

その日、公爵邸には珍しく穏やかな陽が差し込んでいた。冬の厳しい北の地において、こんな日和は滅多にない。使用人たちはその晴れ間に庭の整備や窓の掃除に忙しくしている。

アリエッタは、そんな賑やかな様子を見て微笑んだ。

「……私も、何かできることを」

彼女は筆頭侍女リリアに頼み込み、庭の手入れを少しだけ手伝わせてもらうことにした。

「アリエッタ様、こんなお仕事は我々がいたしますから、どうぞお休みを――」

「いいえ、私もこの庭が好きなのです。一緒にお手伝いさせてください」

リリアは困ったような顔をしつつも、アリエッタの強い意志を感じ取り、頭を下げた。

「かしこまりました。ただし、どうかお手を汚さない程度にお願いします」


---

アリエッタは庭の花壇に膝をつき、小さなシャベルを使って土を耕し始めた。色とりどりの花が風に揺れ、その香りが心を落ち着かせる。

「……この庭、もっとたくさんの花が咲けばいいのに」

無意識に口にした彼女の言葉に、背後から低い声が返ってきた。

「何をしている」

「――!」

驚いて振り向くと、そこにはヴィンセントが立っていた。黒いコートをまとい、金色の瞳が彼女を見下ろしている。その姿はやはり威圧的で、アリエッタは慌てて立ち上がろうとした。

「公爵様、申し訳ありません! 私、少しだけ庭の手入れを――」

「お前がする必要はない」

ヴィンセントは冷静にそう言うと、アリエッタをじっと見つめた。その視線には怒りではなく、どこか呆れたような、そして少しだけ柔らかい光が含まれているように見えた。

「……ここは私の家でもありますから。少しでも手をかけたいのです」

アリエッタは恥ずかしそうにそう告げた。ヴィンセントは一瞬、何かを言おうとしたが、代わりに静かに息を吐いた。

「その花は、北の地では育てるのが難しい。寒さに弱いからな」

「えっ?」

ヴィンセントが視線を向けた先には、アリエッタが手入れをしていた白い花が咲いていた。

「公爵様は、この花がお好きなのですか?」

アリエッタの問いに、ヴィンセントは少しだけ目を伏せた。

「……子供の頃に、母が育てていた花だ。それだけだ」

その言葉に、アリエッタははっとした。普段の冷たい表情からは想像もつかない、過去の思い出を垣間見た気がした。

「素敵なお話ですね。お母様が大切にされていたのなら、私もこの花を守りたいです」

そう言いながらアリエッタは微笑んだ。その笑顔に、ヴィンセントの目が一瞬だけ揺れ動いた。

「……勝手にすればいい」

そう言い残し、彼は踵を返して邸内へ戻っていった。だが、彼の後ろ姿はどこかいつもより柔らかく見えた。


---

その夜、アリエッタは食堂で一人夕食を取っていた。ヴィンセントは相変わらず書斎に籠もっているのだろう。

「公爵様も、少しはお食事を取れば良いのに……」

ふと呟いたその時、扉が開く音がした。振り向くと、なんとヴィンセントが立っていた。

「公爵様……!」

「遅くなったが、食事を取る」

彼は淡々とした声でそう言い、アリエッタの向かい側に静かに座った。使用人がすぐに食事を用意し始め、二人きりの静かな食卓が始まった。

普段なら黙々と食事を進めるヴィンセントだが、今夜は少しだけ違った。アリエッタが小さなパンを割りながら言葉を選ぶ。

「あの……公爵様、今日はありがとうございました」

「何のことだ」

「庭で、お花のことを教えてくださって……」

アリエッタが微笑むと、ヴィンセントはわずかに目を細めた。そして、静かに言葉を紡ぐ。

「お前が無理に何かをする必要はない。だが……その花を枯らさないようにしろ」

その言葉は、彼なりの優しさだと分かった。アリエッタの胸に、じんわりと温かさが広がる。

「はい、必ず守ります」

食卓に再び静寂が戻るが、それはいつもの冷たいものではなく、どこか穏やかで心地よい空気だった。


---

その晩、アリエッタは寝室に戻り、ベッドに横たわりながら天井を見つめた。

(少しずつ……少しずつだけれど、公爵様との距離が縮まっている気がする)

彼の冷たさの裏にある過去や優しさ――それを知るたびに、彼女は彼にもっと近づきたいと願うようになっていた。

「公爵様……きっと、あなたの孤独を癒せる日が来るわ」

そう静かに呟き、アリエッタはそっと目を閉じた。

氷のように冷たい距離の中に、わずかな温もりが灯る――ふたりの物語は、少しずつ動き始めていた。


第二章:冷たさの裏の優しさ

2-4 クラリッサへの対策


---

アリエッタとヴィンセントの距離が少しずつ縮まりつつあった頃、再び不穏な影が公爵邸に忍び寄っていた。噂は一度鎮まったかに見えたが、今度は邸内の使用人たちの間で奇妙な話が広まっていた。

「聞きましたか? 伯爵家の令嬢が、公爵様にふさわしくない行いをしていたとか……」
「いや、もっと酷い噂もありますよ。アリエッタ様は他国の貴族と内通しているだなんて」

アリエッタは廊下を歩いている最中、そのささやき声を偶然耳にしてしまった。息が詰まりそうになり、立ち止まる。リリアが彼女の表情に気づいて、心配そうに声をかけた。

「アリエッタ様、大丈夫ですか?」

「……ええ。何でもありません」

必死に微笑みを浮かべて見せたものの、心の中は穏やかではいられなかった。

(またクラリッサ姉様の仕業……。今度は、私だけでなく公爵様にまで迷惑がかかってしまうかもしれない)

義姉クラリッサの妬みが、どれだけ悪質なものかはよく分かっている。それでも、公爵家の名誉を汚すようなことがあれば、それはヴィンセントの立場をも危うくしてしまう。

「このままではいけないわ……」

アリエッタは小さく呟き、何か手を打つ決意を固めた。


---

その日の夜。ヴィンセントは書斎で執務を続けていた。蝋燭の炎が揺れ、積まれた書類の影が机の上に広がる。彼の瞳は相変わらず冷たく、しかしどこか疲れが滲んでいる。

「……公爵様、少しお時間をいただけませんか?」

静かに扉が開き、アリエッタが入ってきた。その姿に、ヴィンセントは一瞬驚いたように眉を動かしたが、すぐにいつもの無表情に戻る。

「何の用だ」

「ご相談したいことがあります」

アリエッタは彼の前まで歩み寄り、まっすぐに彼の瞳を見つめた。その視線に、ヴィンセントは小さくため息をつき、椅子に深く腰掛けた。

「言え」

アリエッタは静かに息を整え、話し始めた。

「……最近、公爵邸の中で私について新しい噂が流れています。おそらく、私を陥れようとする者の仕業です」

「……またか」

ヴィンセントの声には微かな苛立ちが滲んでいた。彼は机に肘をつき、指を組んで彼女を見つめる。

「それで?」

「公爵様にご迷惑がかからないように、私も動きたいのです。この噂がどこから来たのか、しっかりと突き止めたいと思います」

アリエッタの言葉に、ヴィンセントの金色の瞳が一瞬鋭く光った。

「お前が動く必要はない」

「でも――」

「その必要はないと言った」

ヴィンセントの声が静かに響き、アリエッタは言葉を飲み込んだ。彼は目を細めながら、ゆっくりと続けた。

「私の妻に対する侮辱は、私自身に対する侮辱だ。それを放っておくつもりはない」

アリエッタはその言葉に、胸の中が温かくなるのを感じた。ヴィンセントの態度は冷たいが、その言葉には揺るがぬ信頼と責任が宿っている。

「ですが……」

「お前は余計なことを考えず、ただここにいればいい。それが私の望みだ」

ヴィンセントの言葉には、どこか彼なりの優しさが含まれているように思えた。アリエッタはその強さに少しだけ頼ってもいいのだと、そう感じた。

「分かりました、公爵様……。信じます」

アリエッタの静かな返事に、ヴィンセントはわずかに目を細め、口元に微かな笑みを浮かべたように見えた。


---

翌日、公爵邸では異例の動きが始まった。ヴィンセントの命令により、使用人全員に噂の出どころについての調査が行われたのだ。

「公爵様がここまでされるなんて……」
「やはり、アリエッタ様がそれほど大切な方だということかしら」

使用人たちの間でそんな声が漏れ始め、いつの間にか噂は逆の形で収束し始めていた。

そして、数日後――クラリッサの仕掛けた使者が邸内に紛れ込んでいたことが明らかになる。ヴィンセントはその者を静かに取り調べ、その証拠を手に入れた。

「まったくくだらない」

ヴィンセントは手元の報告書を見下ろし、冷たく呟いた。そしてその夜、アリエッタの元を訪れ、こう告げた。

「お前を陥れようとした者はすでに排除した。これ以上の戯言は許さん」

アリエッタはその報告に、目を見開いてヴィンセントを見つめた。

「……公爵様、ありがとうございます」

「私の妻を守るのは当然だ」

彼はそれだけを言い残し、静かに部屋を出ていった。しかし、去り際に見えた彼の背中は、どこか頼もしく、そして温かかった。


---

その夜、アリエッタは窓辺に立ち、空に浮かぶ月を見上げた。クラリッサの策謀はまたも失敗に終わった――それはヴィンセントが彼女を信じ、守ってくれたからだ。

(公爵様……やっぱり冷たい人なんかじゃない)

彼の冷たい言葉の裏には、誰よりも真摯な誠実さが隠れている。それに気づいた時、アリエッタは彼の孤独をもっと理解したいと、強く思った。

「いつか……あなたの心の氷を、全部溶かせたらいいのに」

そう静かに呟き、アリエッタは微笑んだ。夜の冷たい風が部屋に吹き込むが、彼女の心には小さな灯がともっていた。


---

クラリッサの罠は打ち砕かれ、アリエッタとヴィンセントの絆はさらに深まっていく――。冷たい表面の下にある彼の心に、アリエッタの温もりは少しずつ届き始めていた。


第三章:真実の愛の芽生え

3-1 ヴィンセントの告白


---

その朝、公爵邸には柔らかな陽光が差し込んでいた。北の地では珍しい穏やかな日だ。冬の冷たい風も少し和らぎ、庭に咲く白い花々が静かに揺れている。アリエッタは窓の外を眺めながら、小さく微笑んだ。

(今日はいい天気ね……)

それは彼女が公爵邸に来てから、心の底から穏やかな気持ちで迎えた朝だった。クラリッサの仕掛けた罠はすべて打ち砕かれ、ヴィンセントが彼女を信じ、守ってくれたことが、アリエッタの心を支えていた。

「……公爵様、少しずつお優しくなっている気がする」

そう呟くと、アリエッタの頬に自然と赤みが差す。彼の冷たい表情や言葉の奥に、少しずつ見えてくる不器用な優しさが、彼女の心を温めていた。


---

その日の午後、リリアがアリエッタに声をかけた。

「アリエッタ様、公爵様が庭でお待ちだと仰っています」

「公爵様が……? 私を?」

驚きのあまり、アリエッタは思わず聞き返した。ヴィンセントが自ら彼女を呼び出すことなど、これまで一度もなかったのだ。

「はい。どうやら公爵様が、アリエッタ様とお話をなさりたいようです」

リリアの言葉に、アリエッタの胸はどこか高鳴った。彼が自分に何を伝えようとしているのか――考えるだけで、少し緊張する。

(何か、悪い知らせじゃないといいけれど……)

胸の不安を押し殺しながら、アリエッタは庭へと足を運んだ。


---

邸宅の庭に足を踏み入れると、そこにはヴィンセントの姿があった。彼は背中を向け、庭の中央に咲く白い花を静かに見つめている。その姿はまるで氷の彫刻のように凛とし、美しかった。

「公爵様……お呼びだと伺いました」

アリエッタが控えめに声をかけると、ヴィンセントはゆっくりと振り向いた。金色の瞳が彼女を捉え、いつもより少し柔らかい光を宿している。

「来たか」

「はい……」

ヴィンセントは一歩前に進み、花の咲く庭を見渡した。そして、少しの間沈黙した後、ゆっくりと口を開く。

「……お前は、この庭が好きなのか」

「はい。とても好きです。ここに咲く花も、風の音も、とても心を落ち着かせてくれるから」

アリエッタが微笑みながら答えると、ヴィンセントは再び白い花を見つめた。

「この庭に咲く花は、母が好きだった花だ」

「お母様が……」

「母は、病弱だった。幼い頃の私にとって、この庭だけが唯一、母と過ごせる場所だった」

彼の声には、いつもの冷たさではなく、静かな哀しみが滲んでいた。その言葉に、アリエッタの胸がぎゅっと締め付けられる。

(公爵様も……寂しい幼少期を過ごされたのね)

「母が亡くなった後、この庭は放置されかけていた。だが私はそれを許さなかった。ここは、母との思い出が残る場所だからな」

ヴィンセントは静かに語り続ける。その姿は冷たくも見えるが、その実、彼の中に眠る孤独と愛情が垣間見えた。

「……公爵様が大切にしているこの庭を、私も守りたいです」

アリエッタがそう言うと、ヴィンセントは初めて目を細め、彼女をじっと見つめた。

「お前は、変わった女だな」

「えっ?」

「私に近づこうとする者は皆、私の権力や富にしか興味がなかった。だが、お前は違う」

ヴィンセントの声は低く、だが確かに温かかった。アリエッタは彼の言葉に驚き、思わず彼の顔を見つめる。

「私は、ただ――」

「……お前を信じることにしよう」

その一言に、アリエッタの心臓が跳ね上がる。彼が、自分を信じる――。それは彼にとって、どれだけ重い意味を持つ言葉なのか、彼女には分かっていた。

「公爵様……ありがとうございます」

アリエッタは小さく微笑んだ。その笑顔は、彼にとってどこか眩しく映ったのだろう。ヴィンセントはふいに目を逸らし、静かに続けた。

「……お前がここに来てから、私は変わったのかもしれない」

「え?」

「私がずっと抱えてきたものを、少しずつ溶かしている気がする」

その言葉に、アリエッタの目に涙が滲んだ。彼の心の氷が、少しずつ解け始めている――そう感じたからだ。

「……私も、公爵様を支えたいのです。あなたの孤独を、少しでも癒すことができれば」

その言葉に、ヴィンセントはゆっくりとアリエッタを見つめ、静かに微笑んだ。

「余計なことを言うな」

そう言いながらも、彼の表情はいつもより柔らかく、温かかった。


---

その日の夕暮れ、アリエッタは部屋に戻り、胸に手を当てた。彼の言葉が、心の中に何度も響いていた。

(公爵様が……私を信じてくださった)

それは、彼との間に確かな絆が生まれた証拠だった。冷たい氷のような彼の心の中に、少しずつ温かい光が差し込んでいる――その光を絶やさないように、彼女はもっと強くありたいと思った。

「私も……公爵様のそばにいる」

小さく呟いたその言葉は、彼女自身への誓いでもあった。


---

その夜、ヴィンセントは書斎の窓から庭を見下ろしていた。白い花が月明かりに照らされ、静かに揺れている。その姿を見つめながら、彼は小さく呟いた。

「……変わった女だ」

しかし、その声はどこか優しく、微かな笑みが彼の口元に浮かんでいた。

彼の心に差し込んだ小さな光――それは、確かに真実の愛の芽生えだった。



第三章:真実の愛の芽生え

3-2 クラリッサの最後の陰謀


---

ヴィンセントとの心の距離が縮まり始め、アリエッタは少しずつ公爵邸での生活に安らぎを感じるようになっていた。彼の冷たい態度の裏に隠された孤独と優しさを知り、彼女の中にはヴィンセントへの信頼と、まだ名前のつかない特別な感情が芽生えつつあった。

だがその穏やかな日々は、再びクラリッサの陰謀によって乱されようとしていた。


---

「アリエッタ様、少しお話がございます」

ある日、侍女のリリアが焦りを隠しきれない様子でアリエッタの部屋を訪れた。手には一枚の手紙が握られている。

「どうしたの、リリア?」

「こちらを……ご覧ください」

アリエッタはリリアから手紙を受け取り、封を切った。その中に書かれていた内容を目にした瞬間、血の気が引いた。

『アルカナ公爵家の秘密が明らかになる――その鍵は、今夜の舞踏会にて。
アリエッタ、お前の偽りの正体を暴く者が現れるだろう。』

「これは……!」

アリエッタの手が小さく震える。間違いなく、これはクラリッサの仕業だ。噂や陰謀を駆使して彼女を陥れようとしてきた義姉が、今度は公の場で彼女を失脚させようとしている。

「どうしましょう、アリエッタ様。今夜の舞踏会で何か起こるのは間違いありません!」

リリアの声には明らかな不安が滲んでいる。だが、アリエッタは深呼吸をして気持ちを落ち着けた。

「……大丈夫よ、リリア。私はもう逃げたりしないわ」

そう言うアリエッタの表情には、強い決意が宿っていた。これ以上、クラリッサの思い通りにはさせない。


---

その夜、アルカナ公爵邸では格式高い舞踏会が催されていた。広間には煌めくシャンデリアの光が満ち、華やかな音楽が流れる中、招かれた貴族たちが優雅に談笑している。アリエッタは純白のドレスに身を包み、胸の奥にある不安を押し殺して舞踏会に臨んでいた。

(今夜、何が起こるのか分からない。でも……絶対に負けない)

広間の入り口に現れたヴィンセントは、いつものように冷静で凛とした姿を見せていた。彼の隣に立つアリエッタに、周囲の視線が集まる。

「やはり公爵夫人は美しい……」
「いや、しかし最近の噂は……」

そんなささやき声が聞こえるたびに、アリエッタは胸の中に小さな痛みを感じる。しかし、隣にいるヴィンセントの存在が、彼女を支えていた。

「アリエッタ」

ヴィンセントが小さな声で呼びかける。彼の金色の瞳が真っ直ぐに彼女を見つめていた。

「今夜、何があろうと、私がお前を守る」

その言葉に、アリエッタは頷き、微笑んだ。

「ありがとうございます、公爵様。私も……もう逃げません」


---

舞踏会が進む中、事件は突如として起こった。広間の中央に、一人の男が現れたのだ。彼は公爵家の使用人の服装をしていたが、どこか様子がおかしい。そして、手に持った封筒を高々と掲げて叫んだ。

「聞いてください! アリエッタ公爵夫人には、重大な秘密があります!」

広間が一瞬で静まり返る。貴族たちがざわめき、アリエッタに視線が集中する。ヴィンセントは鋭い目で男を睨んだ。

「何の騒ぎだ」

男は震える手で封筒を掲げ続け、言葉を吐き出す。

「この中には、公爵夫人が以前、不貞な行いをしていた証拠が入っております!」

その言葉に、広間が一気に騒然とした。貴族たちの間に動揺が広がり、アリエッタはその場で立ち尽くす。だが――

「くだらん」

ヴィンセントの冷たい声が広間に響き渡った。彼は静かに男に歩み寄り、手に持った封筒を奪い取ると、そのまま床に叩きつけた。

「私の妻を侮辱する愚か者に、何の権利がある」

その言葉には威圧感があり、男はその場に崩れ落ちた。ヴィンセントはアリエッタの手を取り、広間全体に向けて静かに言い放つ。

「お前たちは覚えておけ。私の妻を貶める者は、私の敵だ」

その一言に、広間の空気が凍りつく。誰もがヴィンセントの強い言葉に圧倒され、口を噤んだ。


---

その後、騒ぎを起こした男は衛兵によって捕えられ、彼の背後にクラリッサの名前が浮上したことは言うまでもない。

ヴィンセントとアリエッタは広間を後にし、静かな廊下を歩いていた。アリエッタは胸に手を当て、まだ緊張が解けない様子だった。

「……私、また公爵様にご迷惑を」

「馬鹿を言うな」

ヴィンセントは立ち止まり、アリエッタをじっと見つめた。その金色の瞳には、いつもの冷たさはなく、どこか優しい光が宿っている。

「お前は私の妻だ。何があろうと、私が守る。それだけだ」

アリエッタはその言葉に涙が溢れそうになるのを必死に堪え、微笑んだ。

「……ありがとうございます、公爵様」

彼の手がそっと彼女の髪に触れ、静かに撫でる。その優しさに、アリエッタの胸の中で何かが溶けていくのを感じた。

(この人が、私を守ってくれる……)

氷の公爵――そう呼ばれていた彼の心は、少しずつ温かく、確かな絆で彼女と結ばれ始めていた。


---

クラリッサの陰謀は打ち砕かれ、ふたりの心は確かに近づいていく。冷たい氷の中に、真実の愛が芽生え始めていた――。


第三章:真実の愛の芽生え

3-3 悪事の証拠集め


---

クラリッサの陰謀が舞踏会で露見し、ヴィンセントがその場で噂を一蹴してから数日が経った。しかし、アリエッタの心は完全に晴れたわけではなかった。表向きは沈静化していたものの、彼女を陥れようとする義姉の手は、まだどこかで蠢いている――そう感じていた。

「……これ以上、黙っていてはいけないわ」

アリエッタは部屋で一人、机に向かい、静かに呟いた。クラリッサの悪事を暴き、完全に終わらせなければ、またいつか公爵邸に不穏な噂が流されるだろう。何より、ヴィンセントの名誉を守るためにも、彼女自身が動かなければならない。


---

アリエッタは筆頭侍女のリリアに、庭の散策と称してひそかに協力を求めた。彼女の中で、クラリッサが公爵邸に送り込んだ密偵や協力者がまだ潜んでいるのではないかという疑念があったのだ。

「リリア、何か不審な者を見かけたり、怪しい行動を取る者がいないか注意してもらえますか?」

「もちろんでございます、アリエッタ様。私もこの邸の侍女として、少しでもお役に立てれば……!」

リリアの目には決意の光が宿っていた。アリエッタは信頼できる味方に感謝しつつ、微笑んだ。


---

その夜、ヴィンセントは書斎で執務に追われていた。蝋燭の火が揺れ、静かな空間に羽ペンの音だけが響いている。

「公爵様、お邪魔いたします」

静かに扉を開け、アリエッタが入ってきた。ヴィンセントは顔を上げ、驚いた様子もなく彼女を見つめた。

「どうした」

「ご相談したいことがあります」

アリエッタは意を決して、ヴィンセントの前まで進み出た。

「……クラリッサ姉様の悪事を、完全に暴きたいのです」

その言葉に、ヴィンセントの金色の瞳が僅かに揺れた。

「またくだらないことを考えているな」

「くだらなくなんてありません! これ以上、公爵様や私が傷つけられるのは我慢できないのです」

アリエッタの真剣な表情に、ヴィンセントはしばらく黙っていた。しかし、彼女の意思が揺るがないことを悟ったのだろう。静かに息を吐いて言った。

「……お前がそう言うなら、協力してやろう」

「公爵様……!」

「だが、無理はするな。私の妻が危険を冒す必要はない」

ヴィンセントのその言葉に、アリエッタは心の底から嬉しさを感じた。彼の信頼と優しさが、彼女をさらに強くしていく。


---

翌日、アリエッタはヴィンセントの許可を得て、邸内で密かに情報を集め始めた。リリアや信頼できる使用人たちと共に、不審な人物の行動や手紙の流れを調べていく。

「アリエッタ様、この書庫で不審な書類が見つかりました」

リリアが差し出したのは、一通の手紙だった。その内容はクラリッサの筆跡で書かれたもので、公爵邸の使用人に指示を出し、噂や誤解を広めるように指示したものだった。

「……やっぱりクラリッサ姉様」

アリエッタの手が震えるが、その目には強い意志が宿っていた。

「これで証拠が揃ったわ。あとは……」

「……あとは、奴を追い詰めるだけだ」

突如、低い声が背後から聞こえた。振り向くと、そこにはヴィンセントが立っていた。彼は静かに手紙を手に取り、一読すると表情を険しくした。

「クラリッサの悪事は許されない。これを使って、彼女の罪を公にする」

「でも、公爵様……伯爵家の立場が危うくなってしまいます」

アリエッタの声には迷いがあった。たとえクラリッサが悪事を働いたとしても、彼女の失墜はアストリア伯爵家そのものの名誉に傷をつけてしまう。

「関係ない」

ヴィンセントは冷静に言い切った。

「悪事は悪事だ。たとえお前の家族であろうと、私の妻を傷つける者を許すつもりはない」

その言葉に、アリエッタの心が震えた。彼が、どれほど自分を大切に思ってくれているのか――その強い意志が伝わってきた。

「……ありがとうございます、公爵様」

「お前は余計なことを考えず、ただ私を信じていればいい」

そう言って、ヴィンセントは彼女の肩にそっと手を置いた。その温もりに、アリエッタは安心感を覚えた。


---

そして数日後、ヴィンセントはクラリッサを邸内に呼び出し、彼女の罪を暴く場を設けた。

「クラリッサ・アストリア、お前の悪事はすべて明るみに出た」

ヴィンセントの声が冷たく響く広間で、クラリッサは目を見開き、言葉を失っていた。証拠の手紙が彼女の前に置かれ、使用人たちもその罪を証言する。

「そ、そんなはずは……! 私はただ――」

「言い訳は聞かん」

ヴィンセントは一蹴し、静かに続けた。

「これ以上、アリエッタを傷つけるようなことがあれば、二度と立ち上がれぬほどの罰を与える。覚悟しておけ」

クラリッサの顔は真っ青になり、その場に崩れ落ちた。彼女の陰謀は完全に潰え、アリエッタは再び公爵夫人としての名誉を取り戻した。


---

その夜、アリエッタは庭の白い花を見つめながら、小さく呟いた。

「これで、ようやく……終わったのね」

背後から、ヴィンセントの声が静かに届く。

「よく頑張ったな」

振り向くと、彼の金色の瞳が彼女を優しく見つめていた。アリエッタは涙を堪えきれず、微笑みながら言う。

「すべて、公爵様のおかげです」

ヴィンセントは言葉なく、彼女の頭を優しく撫でた。その手の温もりに、アリエッタの心は安らぎ、静かな涙が頬を伝う。

(この人のそばにいれば、私は何も怖くない)

ふたりの間に芽生えた信頼は、揺るぎない絆へと変わりつつあった――。


---

悪事は暴かれ、ふたりの心はさらに近づく。冷たい氷は確かに溶け始め、真実の愛が形を成しつつあった――。


第三章:真実の愛の芽生え

3-4 初めての温もり


---

クラリッサの陰謀が完全に暴かれてから数日が経ち、公爵邸はようやく平穏を取り戻していた。クラリッサはアストリア伯爵家に送り返され、彼女の悪事を知った伯爵家は内外に頭を下げることとなり、事態は収束に向かった。

アリエッタもようやく心の重荷が取れ、少しずつ笑顔を取り戻しつつあった。
だがそれと同時に、彼女の中には新たな感情が芽生えつつあった。

(私……公爵様のことをどう思っているのかしら)

彼の冷たい態度の裏に見えた優しさ。誰よりも彼女を守ってくれた強さ。その姿を見ていると、胸の奥がじんわりと温かくなる。そして、彼の心の孤独を少しでも癒したい――そう願わずにはいられなかった。


---

ある日の夕暮れ、アリエッタは公爵邸の広大な庭に立っていた。白い花々が風に揺れ、薄紅色の空を背景に静かに咲いている。

「……綺麗ね」

手を伸ばし、そっと花に触れる。その時――。

「また花か」

低く響く声が背後から聞こえた。アリエッタは驚いて振り向くと、そこにはヴィンセントが立っていた。相変わらず冷徹な表情だが、彼の姿がそこにあるだけで、彼女の胸の中は少し安心した。

「公爵様……。いつの間に?」

「お前がいつもここにいるのは分かっている」

そう言って、ヴィンセントはアリエッタの隣に立つ。彼がこうして何も言わずに隣にいてくれることが、以前よりも自然に感じられた。

「公爵様は、この庭を大切にされているのですね」

「……ああ」

彼は短く答え、庭を見渡す。その横顔はいつも通り無表情だが、どこか柔らかい光が宿っているように見えた。

「私、この庭が本当に好きです。寒いこの土地で、こんなに美しく花が咲いているなんて……」

アリエッタが微笑みながら言うと、ヴィンセントは一瞬だけ彼女を見つめ、再び目を逸らした。

「……お前が、ここに来てからだ」

「え?」

「この花がよく咲くようになったのは、お前が来てからだ」

その言葉に、アリエッタの胸がふわりと温かくなる。

「私のおかげ、なんて……」

「事実だ」

ヴィンセントは静かに言い切った。彼の声はいつもの冷たさを帯びているはずなのに、その言葉には優しさと、どこか照れくささが滲んでいるように感じた。

「公爵様……」

アリエッタはそっと彼の顔を見上げた。夕暮れの光が彼の横顔を照らし、彼の金色の瞳が美しく輝いて見える。彼女は自然と、胸の中に芽生えた想いを言葉にしそうになったが――。

「……寒い。中へ戻るぞ」

ヴィンセントはそう言いながら踵を返す。その言葉がどこかぎこちなく、アリエッタはふっと笑ってしまった。

「公爵様、今夜は少しだけお話ししませんか?」

その言葉に、ヴィンセントは足を止めた。

「話、だと?」

「はい。私は……公爵様のことをもっと知りたいのです」

アリエッタの言葉に、ヴィンセントは無言で彼女を見つめた。そして、ゆっくりと息を吐くと、静かに頷いた。

「……分かった」


---

夜、邸宅の書斎には暖炉の火が灯り、その前にヴィンセントとアリエッタが向かい合って座っていた。アリエッタはお茶を手に取り、少し緊張しながら口を開いた。

「……公爵様は、いつも一人でいらっしゃるのですね」

「それが私の役目だからな」

ヴィンセントは淡々と答える。しかしその言葉の裏には、彼が背負っている孤独が感じ取れた。

「公爵様……本当にそれで良いのですか? 誰にも頼らず、誰にも心を開かずに」

その言葉に、ヴィンセントは目を細め、彼女をじっと見つめた。

「お前は何が言いたい」

「私は、公爵様のそばにいたいのです。誰かがあなたを支えることは、弱さではなく強さだと思いますから」

アリエッタの真っ直ぐな言葉に、ヴィンセントの表情が一瞬だけ揺れた。

「……」

沈黙が落ちる。アリエッタは少し怖くなったが、目をそらさずに彼を見つめ続けた。

「お前は……不思議だな」

ヴィンセントがようやく口を開いた。彼の声は静かで、どこか柔らかい。

「私のことを知ろうとする者は、お前が初めてだ」

その言葉に、アリエッタの目に涙が滲んだ。

「公爵様……」

「……お前が望むなら、これからは少しずつ話すとしよう」

ヴィンセントはそう言いながら、彼女をまっすぐに見つめた。アリエッタは頷き、微笑んだ。

「ありがとうございます、公爵様」

その夜、初めて二人は心からの言葉を交わし合った。静かな書斎に灯る暖炉の火は、まるで二人の心を温めるかのように揺れていた。


---

夜が更け、アリエッタが自室に戻る途中、彼女の胸はじんわりと温かく満たされていた。

(公爵様の心に、少しだけ触れられた気がする)

彼の孤独を癒すことができるのなら、それは彼女にとって何よりの幸せだ。そして、彼の心の氷を溶かすことができるのは――きっと自分だと信じていた。


---

ヴィンセントは一人、書斎で暖炉の火を見つめながら、静かに呟いた。

「……余計なことを考えさせる女だ」

そう言いながらも、彼の口元には微かな笑みが浮かんでいた。

冷たい氷の中に、確かな温もりが宿り始める――それは、二人の心が触れ合い、真実の愛が芽生える瞬間だった。


第四章:揺るがぬ誓い

4-1 未来への約束


---

ヴィンセントとの心の距離が縮まり始め、アリエッタは少しずつ公爵邸での生活に馴染んでいた。冷たい氷のような彼の態度の裏に隠れた優しさに触れるたび、アリエッタの中に芽生えた彼への想いは、日増しに大きくなっていった。

そんなある日、ヴィンセントが公務のため数日間、公爵邸を離れることになった。邸内に彼の姿がないだけで、アリエッタの心にはぽっかりと穴が開いたような寂しさが広がる。


---

「公爵様は、いつお戻りになるのでしょうか?」

アリエッタは不安げに尋ねながら、広間で書類をまとめる筆頭侍女リリアに声をかけた。リリアは微笑みながら答える。

「ヴィンセント様は王都での会議に出席されておりますので、三日後にはお戻りになるかと」

「三日後……」

アリエッタは小さく息を吐き、胸元を押さえた。わずか三日だというのに、彼がいない邸内はどこか冷たく感じる。

(今までは当たり前だったのに……どうしてこんなにも寂しいのかしら)

彼女の心は次第にヴィンセントの存在に強く依存しつつあることに、アリエッタ自身も気づき始めていた。


---

その夜、アリエッタは自室の窓辺に座り、月明かりに照らされた庭をぼんやりと眺めていた。白い花々が夜風に揺れ、静かな庭にはいつもの温かみが欠けているように感じる。

「公爵様……」

小さな呟きが自然と零れる。彼の金色の瞳、冷たくも確かな言葉、そして彼が見せた小さな優しさが、何度も彼女の頭の中を巡った。

その時、コンコンと扉を叩く音が聞こえた。

「失礼いたします、アリエッタ様」

「リリア? どうしたの?」

リリアが部屋に入ってくると、彼女は手に一通の手紙を持っていた。リリアは少し微笑みながら、その手紙をアリエッタに差し出す。

「こちら、公爵様からでございます」

「公爵様から……?」

驚きと戸惑いを隠しきれずに、アリエッタは震える手で封を切った。美しい筆跡で綴られた手紙には、たった数行の言葉が並んでいた。


---

『今夜は冷える。風邪を引くな。
戻ったら、話がある――ヴィンセント』


---

その短い言葉に、アリエッタの目から思わず涙がこぼれそうになった。
彼の素っ気ない文字の中には、彼なりの優しさが確かに詰まっている。

「……公爵様」

その名前を口にしただけで、彼が傍にいるような気がした。風邪を引くな――それだけの言葉に、どれほど彼が自分を気遣ってくれているのかが分かる。

(話がある、って……なんだろう)

少し不安と期待が入り混じりながら、アリエッタはそっと手紙を胸に抱きしめた。


---

そして三日後――。

ヴィンセントが公務から戻る日、アリエッタは朝からそわそわと落ち着かなかった。広間の大時計がいつもより遅く感じられる。

「……もうすぐ、公爵様が戻られるわ」

彼に会えるというだけで、心が高鳴る。いつの間にか、彼の存在が自分にとってかけがえのないものになっていることを、アリエッタは実感していた。

昼過ぎ、公爵邸の門が開き、ヴィンセントが乗った馬車がゆっくりと入ってきた。玄関前で待っていたアリエッタは、彼の姿を見つけると自然と駆け寄った。

「公爵様、お帰りなさいませ!」

ヴィンセントは馬車を降り、アリエッタを一瞥した。その金色の瞳には、いつもより柔らかな光が宿っている。

「ああ、戻った」

彼の短い言葉に、アリエッタの胸は温かさで満たされた。

「公務、お疲れ様でした。お食事の準備が整っています。少しお休みになりますか?」

「その前に……お前に話がある」

ヴィンセントの言葉に、アリエッタは驚き、少し頬を赤くした。手紙に書かれていた「話がある」という言葉が、ようやく現実になる瞬間だ。


---

二人は邸宅の書斎に向かい、ヴィンセントはアリエッタをソファに座らせた。自分も向かいに座り、少しだけ沈黙が流れる。

「……公爵様?」

アリエッタが恐る恐る声をかけると、ヴィンセントはゆっくりと口を開いた。

「お前がここに来てから、私の生活は変わった」

その言葉に、アリエッタの胸が高鳴る。

「最初は……ただの政略結婚だと思っていた。しかし、今は違う」

ヴィンセントはアリエッタを真っ直ぐに見つめる。その金色の瞳は、いつもの冷たさを帯びていない。

「お前は、私にとって必要な存在だ。これからもずっと、私の隣にいてほしい」

その言葉に、アリエッタの目には涙が溢れた。彼の不器用ながらも真っ直ぐな想いが、心に深く届いたからだ。

「公爵様……ありがとうございます。私も……私も、公爵様のそばにいたいです」

涙を拭いながら笑顔を見せるアリエッタに、ヴィンセントは静かに頷いた。そして、彼は立ち上がり、彼女の手をそっと取った。

「これは私の誓いだ。誰にもお前を傷つけさせない」

その強い言葉に、アリエッタは彼を信じることを改めて誓った。


---

その夜、窓の外には満月が輝き、庭の白い花々が静かに揺れていた。

ふたりの心は確かに結ばれ、冷たい氷の中に温かな光が灯る――それは、揺るがぬ未来への約束だった。


第四章:揺るがぬ誓い

4-2 二人の絆を試す者


---

ヴィンセントからの真摯な言葉を受け取って以来、アリエッタの心は喜びと安らぎに満ちていた。彼の冷たく硬い氷のような心が少しずつ解け、二人の間には確かな絆が生まれつつある――それは、まるで冬の終わりに芽吹く小さな蕾のようだった。

しかし、幸せな時間は長く続かなかった。再び二人の関係を引き裂こうとする影が、公爵邸に忍び寄っていた。


---

ある日の午後、公爵邸に一人の客人が訪れた。その男は、ヴィンセントと同じく王都の貴族であり、彼の古くからの友人でもあるという。

「フランツ・ハーデン侯爵だ」

ヴィンセントは渋々といった表情で彼をアリエッタに紹介した。フランツは金色の髪を後ろでまとめ、涼しげな青い瞳を持つ優男だ。どこか軽薄そうな微笑みを浮かべながら、アリエッタに向かって深々と頭を下げる。

「初めまして、公爵夫人。ヴィンセントの妻になる女性がこんなに美しいとは聞いていなかったよ」

「ご丁寧にありがとうございます、ハーデン侯爵」

アリエッタは礼儀正しく微笑みを返したが、彼の視線にどこか居心地の悪さを覚えた。その視線はまるで彼女の本質を見透かそうとするかのように鋭く、そして冷たいものだった。

「アリエッタ、こいつの言うことはあまり気にするな」

ヴィンセントが低い声で言い、フランツを睨む。その険しい表情に、フランツは悪びれた様子もなく笑い声を上げた。

「怖い顔をするな、ヴィンセント。ただ挨拶に来ただけだ」

そう言いつつ、フランツの目は再びアリエッタに向けられる。

「……公爵夫人、お噂は色々と耳にしていますよ。舞踏会での騒動や、アストリア伯爵家の問題など――」

「……!」

アリエッタの胸がぎゅっと痛んだ。そのことをまだ蒸し返されるのか、と。フランツは彼女の反応を見逃さず、さらに言葉を続ける。

「正直なところ、公爵夫人がこの男にふさわしいのかどうか……ねえ?」

「フランツ、口を慎め」

ヴィンセントの声がさらに低く響く。彼の怒りの気配に、室内の空気が張り詰めた。だがフランツはどこ吹く風といった様子で、軽く手を上げて笑う。

「おっと、これは失礼。だがヴィンセント、お前のような男が、真に人を愛するとは思えなくてね」

その言葉に、アリエッタは驚いてフランツを見つめた。彼の言葉にはどこか挑発的な響きがあり、それはヴィンセントだけでなく、アリエッタ自身にも向けられているように感じた。


---

その後、フランツはしばらく公爵邸に滞在すると言い残し、部屋へと案内された。

「……あの方は一体、何を考えているのでしょうか」

アリエッタはリリアと共に廊下を歩きながら、眉をひそめた。フランツの態度はどこか不快で、彼の存在がこれから何か良くないことを引き起こすのではないか――そんな予感がしてならなかった。

「ハーデン侯爵は昔から、ヴィンセント様の良き友であり、同時に彼を試すようなことを好んでいらっしゃいます」

リリアが静かに答える。その言葉に、アリエッタの不安がさらに募った。

(公爵様を試す……? 私たちの関係を試しているということ……?)


---

その夜、ヴィンセントは書斎に籠もっていたが、アリエッタはどうしても彼に確認したいことがあり、扉をノックした。

「公爵様、少しお話を……」

「……入れ」

中に入ると、ヴィンセントは机に肘をつき、何やら考え込んでいるようだった。彼はアリエッタを一瞥し、ゆっくりと背を正す。

「どうした」

「……ハーデン侯爵のことです。彼は一体何をお考えなのでしょうか?」

ヴィンセントは少しだけ目を細め、静かに答えた。

「フランツは、昔から私をからかうのが趣味だ。あいつは私が結婚したことが信じられないのだろう」

「……私たちの関係を疑っている、ということですか?」

アリエッタが恐る恐る尋ねると、ヴィンセントは少しだけ目を伏せた。

「……そうだ」

その言葉に、アリエッタの胸の中に小さな痛みが走った。

「私……公爵様の妻として、ふさわしくないのでしょうか」

思わず漏れたその言葉に、ヴィンセントの表情が僅かに動く。彼は椅子から立ち上がり、アリエッタの目の前に立った。

「そんなことはない」

「でも……」

「お前は私の妻だ。誰が何を言おうと、それが事実だ」

ヴィンセントの低い声は静かに、だが確かに響いた。彼の金色の瞳が、真っ直ぐに彼女を見つめている。

「私が選んだのはお前だ。何があろうと、揺るがない」

その言葉に、アリエッタの胸が温かくなった。

「……公爵様」

彼の言葉が、彼女の心の不安を溶かしていく。その瞬間、彼女は彼の信頼と愛情を信じてみようと、強く決意した。


---

だが翌朝――。

広間にフランツが現れ、笑みを浮かべながら声を上げた。

「公爵夫人、どうか私とお茶でもいかがですか? あなたが本当にヴィンセントにふさわしいか、私自身が確かめたいのです」

その言葉に、アリエッタは静かに息を吐き、フランツに向き合った。

「分かりました。お相手いたしましょう」

彼女の目には、決意の光が宿っていた。二人の絆を試そうとする者に、アリエッタは堂々と立ち向かおうとしていた――。


第四章:揺るがぬ誓い

4-3 試される愛


---

フランツ・ハーデン侯爵の言葉を受け、アリエッタは静かにお茶会に臨むことを決めた。その挑発的な態度が何を意図しているのかは分からないが、彼女の中には揺るがぬ決意があった。

(私は、公爵様の妻だもの。誰が何を言おうと、私の誇りとこの気持ちは揺るがないわ)

お茶会は公爵邸の庭園の一角に設けられた。昼下がりの柔らかな陽光が白いテーブルクロスに反射し、用意されたお茶と菓子が美しく並んでいる。アリエッタは落ち着いた笑みを浮かべ、フランツの向かいに座った。

「お招きありがとうございます、ハーデン侯爵」

「いえいえ、公爵夫人とこうしてお話しできる機会をいただけるとは光栄ですよ」

フランツは優雅な笑みを浮かべたまま、青い瞳を細めてアリエッタを見つめた。その視線はどこか試すようで、彼女を値踏みしているように感じる。

(彼は私がどんな反応をするか、見極めようとしているのね)

アリエッタは心の中で息を整えながら、微笑みを崩さずにお茶に口をつけた。


---

「公爵夫人、ここだけの話ですが……ヴィンセントが貴女を本当に愛していると思いますか?」

突然の問いかけに、アリエッタの手が一瞬止まる。だがすぐに冷静さを取り戻し、フランツの目を真っ直ぐに見つめた。

「もちろんです。公爵様は私を守り、信じてくださっています」

「ほう、信じている、と」

フランツは興味深そうに顎に手を当てる。そして、わざとらしく笑みを浮かべて続けた。

「しかし、公爵は氷のような男です。これまで多くの者が彼に近づこうとしましたが、誰も彼の心に触れることはできなかった」

「……」

「そんなヴィンセントが貴女に心を開いたと、本当に思いますか?」

その言葉はまるで鋭い刃のようだった。アリエッタの胸の奥に小さな痛みが走る。しかし、彼女は負けなかった。そっとカップを置き、静かに口を開いた。

「ハーデン侯爵、確かに公爵様は他人に心を見せることが少ないお方です。でも、それは彼が弱いからではありません」

「ほう?」

「公爵様は、大切なものを守るために強くあろうとしているのです。私には分かります――彼の言葉や行動のひとつひとつが、不器用な優しさだということが」

アリエッタの言葉に、フランツの笑みが僅かに消えた。彼女は続ける。

「私が公爵様を信じるのは、彼が誰よりも誠実で、私に嘘をつかない方だからです。愛とは、目に見えるものではなく、信じることから始まるのではないでしょうか?」

その堂々とした言葉に、フランツはしばし沈黙する。やがて、彼はふっと笑い出した。

「公爵夫人、貴女はなかなか面白い人だ」

「……?」

「なるほど、ヴィンセントが貴女を選んだ理由が少し分かりましたよ」

フランツは青い瞳を細め、少しだけ柔らかい表情を見せた。先ほどまでの挑発的な態度は少し和らぎ、どこか興味深そうな視線に変わっている。

「だが、貴女の言葉が真実かどうか――それを決めるのは私ではない。ヴィンセント自身だ」

彼はそう言い残すと、ゆっくりと立ち上がった。

「お茶会、楽しかったですよ。公爵夫人。またお会いしましょう」

アリエッタはフランツの去る背中を見つめながら、小さく息を吐いた。

(……彼は一体、何がしたかったのかしら)

フランツの言葉には何か深い意味があったように思えるが、アリエッタにはそれがまだ分からなかった。


---

その夜、ヴィンセントは書斎で静かに本を読んでいた。そこへ、アリエッタがそっと扉を叩き、入室した。

「公爵様、お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」

「ああ、座れ」

アリエッタは彼の向かいに座り、少し迷った後に口を開いた。

「今日、ハーデン侯爵とお茶会をしました」

「……あいつが何か言ったのか?」

ヴィンセントの声にはわずかな苛立ちが滲んでいた。アリエッタは小さく頷き、続ける。

「彼は……公爵様が私を本当に愛しているのか、と尋ねました」

ヴィンセントの金色の瞳が鋭く光る。

「くだらん」

「でも、私は答えました。公爵様が私を信じてくださっていること、そして私も公爵様を信じていることを」

その言葉に、ヴィンセントの表情がわずかに緩んだ。

「お前は……本当に不思議な女だな」

「そうでしょうか?」

「フランツのような男に何を言われようと、お前は揺るがない」

ヴィンセントは立ち上がり、ゆっくりとアリエッタの前に立った。そして、彼女の手を取り、静かに囁く。

「私が言ったことを忘れるな。お前は私の妻だ。誰が何と言おうと、それが事実だ」

その力強い言葉に、アリエッタの心は温かさで満たされた。

「はい、公爵様。私はずっと、あなたのそばにいます」

アリエッタの瞳に映るヴィンセントの姿は、もう氷の公爵ではなかった。その金色の瞳は静かに彼女を見つめ、確かな愛を宿していた。


---

その夜、二人は初めて心を通わせることができたように感じた。

試される愛の中で、二人の絆はさらに強くなり、揺るがぬ誓いへと変わり始めていた――。



第四章:揺るがぬ誓い

4-4 未来を共に


---

ハーデン侯爵との一件から数日が経ち、公爵邸には再び穏やかな日常が戻っていた。フランツが最後に残した言葉――「真実を決めるのはヴィンセント自身だ」――は、アリエッタの心に小さな余韻を残していた。

(公爵様が私をどう思っているのか……もう、私の心は決まっているのに)

ヴィンセントは変わらず淡々と日々の公務をこなしているが、その姿を遠目に見ているだけでも、アリエッタの胸は温かく、そして少し切なくなる。


---

その夜、アリエッタは寝付けずにいた。窓の外には満月が浮かび、静寂の中で庭の白い花が月明かりに照らされている。ふと風が吹き、窓から冷たい空気が流れ込む。

「……少し、外に出ようかしら」

彼女は静かに部屋を出て、廊下を歩き、庭へと向かった。冬の冷たい空気が肌を刺すが、心は落ち着いていた。白い花の咲く場所へたどり着くと、そこにはすでに見慣れた後ろ姿があった。

「公爵様……?」

振り返ったヴィンセントは驚いた様子もなく、ただ静かに彼女を見つめる。

「お前か。こんな時間にどうした」

「……眠れなくて、つい外に出てしまいました」

ヴィンセントは小さくため息をつき、彼女の隣に立つよう手招きした。

「風邪を引くぞ」

「公爵様こそ、どうしてこんな夜更けにここに?」

アリエッタが問いかけると、ヴィンセントは月を見上げながら、静かに答えた。

「昔から……この場所に来ると、落ち着くからだ」

その言葉に、アリエッタもそっと白い花を見つめる。二人の間にしばらく静寂が流れ、月明かりが静かに二人を照らす。

「公爵様……私、ずっと考えていました」

「何をだ」

「私にとって、公爵様がどれほど大切な方なのか――」

ヴィンセントの瞳がわずかに揺れたのを、アリエッタは見逃さなかった。彼女は続ける。

「最初はただの政略結婚で、このお屋敷で生きていくだけだと思っていました。でも、公爵様と過ごすうちに、私は気づいたのです」

「何にだ」

「……私は、公爵様をお慕いしています」

その言葉が夜の冷たい空気に溶ける。アリエッタは震える声で続けた。

「どれほど冷たく見えても、その裏にある優しさと誠実さを知っています。だからこそ……私は、ずっと公爵様のそばにいたい」

ヴィンセントは目を細め、彼女の言葉を静かに受け止める。そして、数秒の沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。

「……私は、人を信じることができない男だ」

「……」

「過去に裏切られ、失い、それでもこの地を守るためだけに生きてきた。だからこそ、お前がここに来た時、どうしても信じられなかった」

「……公爵様」

「だが――」

ヴィンセントはアリエッタを真っ直ぐに見つめ、その金色の瞳に揺るがぬ光を宿す。

「今は違う。お前だけは、私の孤独を溶かしてくれた」

アリエッタの目に涙が滲む。彼の言葉が、彼の心の真実が、まっすぐに胸に届いたからだ。

「私は不器用だが……お前と共に生きることを望んでいる。これから先、どんな困難があろうと、私はお前を守る」

彼はゆっくりとアリエッタの手を取り、そっと彼女の指に口づけを落とした。その仕草は紳士的でありながら、彼の強い決意を感じさせた。

「公爵様……!」

涙が頬を伝い、アリエッタはその場に立ち尽くしたまま微笑んだ。彼が、自分だけを見つめ、確かな言葉で未来を約束してくれたことが、何よりも嬉しかった。

「私も……ずっと、公爵様のおそばにいます。これから先、何があっても」

彼女の言葉に、ヴィンセントは僅かに微笑んだ。その笑みは彼が初めて見せた、氷を溶かすような温かい表情だった。


---

それから数日後、公爵邸には春の訪れを告げる穏やかな陽が差していた。庭の白い花々はさらに美しく咲き誇り、アリエッタはその中をゆっくりと歩いていた。

「アリエッタ」

背後からヴィンセントの声が聞こえる。振り向くと、彼はいつも通りの冷静な表情で立っていたが、その瞳には確かな温かさが宿っている。

「……どうされましたか、公爵様?」

「来い」

ヴィンセントが手を差し出し、アリエッタは驚きながらも、その手を取った。二人はゆっくりと庭を歩き、彼が口を開いた。

「お前がここにいてくれて、良かった」

その言葉に、アリエッタの頬が赤く染まる。

「私も……公爵様に出会えて、本当に幸せです」

手を繋ぎながら歩く二人の姿を、花々が静かに見守っていた。


---

冷たい氷の中に灯った温もりは、確かな愛となり、二人の未来を照らす――。それは、揺るがぬ誓いとともに紡がれた、新たな始まりの物語だった。


第五章:永遠の誓い

5-1 訪れる試練


---

アリエッタとヴィンセントの間には、確かな信頼と愛が育まれていた。氷のように冷たかった彼の心も、アリエッタの温もりによって少しずつ溶かされ、公爵邸には穏やかな時間が流れていた。

しかし、幸福な時間の影には、新たな試練が静かに忍び寄っていた。


---

ある日の朝、書斎で公務をこなすヴィンセントの元に、彼の側近レオナードが慌ただしく駆け込んできた。
「公爵様、緊急の報告がございます!」

「何事だ?」

ヴィンセントが手を止めて顔を上げると、レオナードは神妙な表情で答えた。

「王都から急報が届きました。隣国の軍が国境に兵を集結させているとのことです。現時点では動きはありませんが、状況は緊迫しています」

ヴィンセントの表情が一瞬で硬くなった。

「……ついに動いたか」

隣国との間には、数年前から領地を巡る不穏な動きがあった。今回の兵の集結は、明らかに挑発行為であり、戦争の火種になる可能性が高い。

「すぐに防衛の準備を進めろ。近隣の領地と連携し、騎士団を動かす」

「承知いたしました!」

レオナードが書斎を出ていくと、ヴィンセントは重い空気の中で窓の外を見つめた。広大な庭が平穏に揺れているが、それが今にも崩れ去るような予感が彼を襲った。


---

その報告を耳にしたアリエッタも、すぐに事の重大さを察した。庭に出て花に水をやっていた彼女の元に、リリアが青ざめた顔で駆け寄る。

「アリエッタ様、大変です!」

「どうしたの、リリア?」

「公爵様が、隣国との対立の件で防衛の指揮を取られることになりました。軍を率いて、前線に立たれるご決断をされたそうです」

その言葉に、アリエッタの心臓が大きく跳ねた。

「公爵様が、前線に……?」

「はい。この事態を収めるためには、ヴィンセント様自らが動くしかないと」

リリアの言葉を聞きながら、アリエッタは胸の中に冷たい恐怖を感じた。彼が命の危険にさらされる――それが何よりも怖かった。


---

その夜、ヴィンセントがいつものように書斎にいることを知ったアリエッタは、意を決して彼を訪ねた。

「公爵様、お話があります」

「……何だ」

ヴィンセントは淡々と答えながらも、アリエッタの表情がいつもと違うことに気づき、静かに彼女の言葉を待った。

「お聞きしました。公爵様が前線に立たれると……本当ですか?」

「ああ」

その一言に、アリエッタの胸が痛む。

「危険です……! 公爵様がそんな場所へ行かなくても、他に方法は――」

「私が行くしかない」

ヴィンセントは静かに言い放った。その金色の瞳には、揺るぎない決意が宿っている。

「公爵家を、そしてこの領地を守るのは私の役目だ。誰よりも私が動くことで、戦争を未然に防ぐ可能性が高まる」

「でも……!」

アリエッタは言葉を詰まらせた。彼の言葉が正しいことは分かっている。それでも、彼が危険な場所へ向かうことが耐えられなかった。

「……公爵様がいなくなったら、私はどうすればいいのですか?」

その小さな呟きに、ヴィンセントは僅かに目を見開いた。彼女が不安と恐怖を押し隠しながらも、自分の気持ちを伝えようとしていることが分かった。

「お前はここで待っていろ。私が必ず戻る」

ヴィンセントはゆっくりと立ち上がり、アリエッタの前に立つ。そして、彼女の肩にそっと手を置き、真っ直ぐに目を見つめた。

「お前は私の妻だ。だからこそ、守られるべき存在だ」

「……私は、公爵様と共にいたいのです」

涙がこぼれそうになるのを堪えながら、アリエッタは必死に言葉を絞り出す。

「公爵様がどれほど強くても、あなたも一人の人間です。だから……どうか、無事に戻ると約束してください」

その言葉に、ヴィンセントは静かに頷いた。

「約束しよう。必ず戻る」

そして彼は、彼女の手を取り、優しくその手の甲に口づけた。

「お前を残して死ぬようなことはしない。それだけは信じろ」

その言葉に、アリエッタの瞳から涙が零れ落ちた。彼の不器用な優しさと誓いが、彼女の心を強く支えてくれる。

「……分かりました。私は、ここで待っています」


---

翌朝、ヴィンセントは防衛のための軍を率いて公爵邸を出発した。庭で彼を見送るアリエッタの姿は凛としていたが、その胸には彼の無事を願う祈りしかなかった。

「必ず戻ってきてください、公爵様……」

彼の背中が遠ざかり、見えなくなった時、アリエッタはそっと胸のペンダントを握りしめた。それは彼から贈られたものであり、彼女にとって、彼がここにいる証だった。


---

静かな邸宅に残るのは、祈りと決意――アリエッタは彼の帰りを待ち続ける。二人の愛が試される、本当の試練が今、始まろうとしていた。


第五章:永遠の誓い

5-2 不安な日々と決意


---

ヴィンセントが軍を率いて公爵邸を離れてから数日が経った。彼が最後に残した「必ず戻る」という約束は、アリエッタの胸の中で強い光となっていたが、それでも不安が彼女を支配する日が続いていた。

邸内にはヴィンセント不在の緊張感が漂い、使用人たちもどこか落ち着かない様子を見せている。

「公爵様は……大丈夫よね」

アリエッタは窓辺に立ち、遠くの空を見上げながら小さく呟いた。北の地の空はどこまでも灰色で、冷たい風が冬の訪れを告げている。

その時、控えめなノックの音がし、侍女のリリアが部屋へ入ってきた。

「アリエッタ様、温かいお茶をお持ちしました」

「ああ、ありがとう、リリア」

アリエッタは微笑みを浮かべたものの、その表情はどこか力なく見えた。リリアは彼女の様子に心を痛め、優しく声をかける。

「公爵様は、必ずお戻りになります。あの方はどんな時でも冷静で、誰よりも強いお方ですから」

「……ええ、そうですね」

アリエッタは頷くが、その声には少し震えが滲んでいた。リリアは彼女の傍らに立ち、静かに続ける。

「ですが、アリエッタ様もどうかご無理なさらないでください。公爵様が何よりも心配なさるのは、貴女が倒れることですから」

その言葉に、アリエッタの心が少しだけ温かくなった。

(そうね。私が弱気になっていては、公爵様を待つ妻として失格だわ)

彼女は小さく息を吸い込み、リリアに微笑んだ。

「ありがとう、リリア。私は大丈夫。公爵様が戻られるまで、しっかり待つわ」


---

それから数日、アリエッタは公爵夫人として邸宅を守り続けた。公爵不在の中、領地の報告や使用人たちの指揮を執るのは彼女の役目だ。

ある日、執務室に届いた手紙を見て、アリエッタは胸をなでおろした。それは戦況の報告書であり、ヴィンセント率いる軍は隣国の動きを抑え、いまだ大きな衝突には至っていないという内容だった。

「……良かった。公爵様が無事で」

だが、手紙の最後には「隣国が再び動きを見せているため、緊張状態は続いている」とも記されていた。

(まだ安心はできない……。でも、公爵様なら必ず乗り越えてくださる)

アリエッタは再び決意を胸に刻み込み、今日も公爵邸を守るために動き続けた。


---

そんな日々の中、ある晩、邸内で不穏な報せがもたらされた。玄関に現れた一人の兵士が、息を切らせながら声を張り上げる。

「急報です! 隣国軍が再び攻勢に出たとのこと!」

「なに……?」

その場に居合わせたアリエッタは、息を呑んで兵士を見つめた。

「公爵様は……!」

「公爵様は前線に立ち、兵を率いております! しかし、敵は数が多く、状況は厳しいとのこと……!」

「公爵様が危険な状態だというのですか!」

アリエッタの声が震える。冷たい恐怖が彼女を襲い、心が締め付けられるようだった。

(どうしよう……。公爵様が危ないかもしれない……!)

だが、アリエッタはその場で拳を握りしめた。恐怖に飲まれそうになる自分を必死に奮い立たせる。

「私が……私が何かしなければ」

彼女は静かに目を閉じ、決意を固めると、リリアに向かって力強く言った。

「馬を用意して。私も前線へ向かいます」

「アリエッタ様、それは……! 危険でございます!」

リリアは目を見開き、必死に引き留めようとするが、アリエッタは譲らなかった。

「分かっています。でも、私は公爵様の妻です。私の居場所は、あの方のそばなのです」

その強い言葉に、リリアは驚きつつも、彼女の意思が揺るがないことを悟った。

「……承知いたしました」


---

翌朝、アリエッタは馬に乗り、最小限の護衛を引き連れて前線へと向かった。冬の北風が容赦なく吹きつける中、彼女の心にはただ一つの願いがあった。

(どうか、公爵様のもとへ……。どうか無事でいてください)

険しい道を進む中、彼女の心に浮かぶのはヴィンセントとの日々だった。冷たい表情の裏に隠れた優しさ、彼がくれた言葉と約束――それだけが、彼女を前へと進ませる力となっていた。

「必ず、公爵様を迎えに行くわ」

彼女は呟き、強く手綱を握る。その瞳には、恐れではなく決意の光が宿っていた。


---

その頃、前線ではヴィンセントが兵を率いて戦況の打開を図っていた。敵軍の数は多く、緊迫した状況が続いている。

彼は剣を手に、冷徹な指揮を執りながらも、心の片隅にアリエッタの姿を思い浮かべていた。

(必ず戻ると約束した。私が守らなければならないものがある)

だが、その瞬間、前方から敵の大軍が押し寄せる気配がした。

「全軍、布陣を整えろ!」

ヴィンセントは強く号令をかける。そして、彼の瞳には揺るぎない決意と、必ず帰るという誓いが宿っていた。


---

アリエッタが前線にたどり着くまで、あと少し。
二人の想いは交わり、最大の試練を乗り越えようとしていた――。



第五章:永遠の誓い

5-3 戦場の邂逅


---

前線に向かう道のりは過酷だった。冷たい北風がアリエッタの頬を刺し、雪混じりの風が視界を遮る。馬を走らせながらも、彼女の心はただ一つの願いだけを繰り返していた。

(どうか、公爵様が無事でありますように――)

彼の「必ず戻る」という約束を信じながらも、不安は消えない。遠くに聞こえる金属音と低い怒声が、戦場が近いことを知らせていた。


---

やがて、アリエッタが護衛の騎士と共に到着した場所は、まさに戦の最前線だった。広がる荒野には、剣と盾を手にした兵士たちが一進一退の攻防を繰り広げている。敵軍は多く、その勢いに押されつつある味方の姿が目に飛び込んだ。

「公爵様はどこに……!」

アリエッタは焦りとともに視線を彷徨わせる。その時、遠くに見えた一人の騎士――白銀の鎧に身を包み、金色の瞳を輝かせながら剣を振るう姿。

「……公爵様!」

アリエッタの声は風に掻き消されそうになるが、確かにそれはヴィンセントだった。彼は少数の精鋭部隊を率い、敵の包囲網を突破しようとしている。威厳と冷徹さを持ち合わせた彼の指揮は見事で、兵士たちは彼を中心に戦意を奮い立たせていた。

だが――。

(あれは……!)

敵の別働隊が、ヴィンセントの背後から密かに迫っているのが見えた。彼は前方の敵に集中しており、後方の危険に気づいていない。

「危ない! 公爵様――!」

アリエッタは咄嗟に叫び、護衛の騎士を振り返った。

「私を公爵様の元へ連れて行って!」

「しかし、アリエッタ様――!」

「お願いします! 私が行かなくては!」

その強い決意に、騎士は頷き、彼女を馬に乗せて駆け出した。彼女の心臓は激しく打ち、視界はただ一人の男――ヴィンセントだけを捉えている。


---

「ヴィンセント様!」

彼の背後に迫る敵兵の槍が振り下ろされようとしたその瞬間――。

「公爵様、伏せてください!」

アリエッタの声と同時に、彼女が駆け寄った馬上から石つぶてを投げつけた。それは奇跡的に敵兵の兜に当たり、その攻撃を一瞬遅らせる。

「何をしている!?」

ヴィンセントが振り向き、驚愕の表情を浮かべた。しかしその刹那、彼は即座に状況を理解し、背後に剣を振り下ろし、敵兵を一閃する。

「お前、なぜここに――!」

戦いがひと段落した瞬間、ヴィンセントは怒りを滲ませながらアリエッタに詰め寄った。彼の鎧には血と泥が跳ね、戦場の厳しさを物語っている。

「どうしてここに来た! 言ったはずだ、待っていろと!」

アリエッタは息を切らしながらも、ヴィンセントを真っ直ぐに見つめた。

「だって……! あなたが危険だと聞いて、黙ってなんていられなかったのです!」

「だからといって、お前が来る理由にはならん!」

「なります!」

ヴィンセントの怒りを含んだ声に、アリエッタも負けずに声を張り上げる。

「私はあなたの妻です。公爵様がどれほど強くても、たった一人で戦うことがどれだけ辛いか、私には分かります!」

「……!」

「私はあなたを守りたかった。ただの足手まといだとしても、私はあなたのそばにいたいのです!」

涙が彼女の瞳に浮かぶ。それでも、彼女の声は強く、揺るがなかった。

「あなたに何かあれば、私の心は壊れてしまう。だから、ここに来ました。あなたの無事を確かめるために……」

アリエッタの言葉に、ヴィンセントはしばらく言葉を失った。そして、ゆっくりと息を吐き出し、金色の瞳で彼女を見つめる。

「お前という女は……」

ヴィンセントは鎧に汚れた手で彼女の頬をそっと撫でた。その手は冷たく硬いが、彼の表情にはこれまで見せたことのない温かさが宿っていた。

「お前が無事で良かった」

その一言が、アリエッタの胸に深く染み渡る。

「公爵様……」

「もう少しでこの戦いも終わる。だから、お前は安全な場所に――」

「いいえ」

アリエッタは首を振り、彼の手を握り締めた。

「私はここにいます。あなたのそばで、最後まで」

その言葉に、ヴィンセントの瞳が静かに揺れた。そして、彼は小さく笑う。

「……分かった。だが、絶対に無理はするな」

「はい、公爵様」

その瞬間、二人の間には戦場の喧騒を忘れるほどの静けさが流れた。お互いの手の温もりが、心に刻まれた誓いを確かに伝えていた。


---

その後、ヴィンセントの指揮によって戦況は好転し、ついに敵軍は撤退を余儀なくされた。戦いが終わり、夜が訪れた頃――。

ヴィンセントはアリエッタと共に月明かりの下に立ち、静かに言った。

「お前のおかげで、私は生き延びた」

「いいえ。公爵様の強さがあったからこそ、です」

「だが、もうお前に無茶はさせない。お前は……私にとって何よりも大切な存在だから」

その言葉に、アリエッタの目から涙が零れる。彼の不器用な告白が、彼女の心を温かく満たした。

「私も、公爵様のそばにいられるなら、それだけで幸せです」

ヴィンセントは彼女をそっと抱き寄せ、夜の静けさの中で二人の影が一つになった。


---

戦いの中で交わされた愛の誓いは、何よりも強く、二人の未来を照らす光となった――。


第五章:永遠の誓い

5-4 幸せの誓い


---

戦場に広がる静けさ――隣国の軍はついに撤退し、長く続いた緊張の糸がようやく解けた。ヴィンセント率いる軍の勝利は確実なものとなり、辺りには勝利の歓声が微かに響く。

だが、アリエッタにとってそれ以上に大切なことがあった。彼の無事だ。

「公爵様……!」

ヴィンセントが鎧に僅かな傷を負いながらも、確かな足取りで戻ってくるのを見つけると、アリエッタは胸の奥にこみ上げる感情を抑えきれず、彼に駆け寄った。

「お前、泣いているのか?」

ヴィンセントは彼女の涙を見つけ、呆れたように言う。しかしその言葉とは裏腹に、彼の目には静かな優しさが滲んでいた。

「だって……本当に、無事で良かったんです……!」

アリエッタは涙を拭おうともせず、ヴィンセントの鎧にしがみついた。彼の温もりを感じた瞬間、心の底にあった不安と恐れが一気に解けていく。

「私は、あなたの無事だけを願っていました……。それだけが、私にとって何よりも――」

「分かっている」

ヴィンセントは小さなため息をつくと、彼女の肩にそっと手を置いた。そして、彼女の顔を真っ直ぐに見つめ、金色の瞳に確かな光を宿す。

「私は必ず戻ると約束しただろう。お前のために――そして、私自身のために」

その言葉に、アリエッタは涙をこぼしながらも微笑んだ。戦場の混乱が終わり、彼の言葉だけが静かに心に響く。


---

翌日、ヴィンセントとアリエッタは共に軍とともに領地へと帰還した。彼らの勝利と無事を祝うため、村人や領民たちは城門の前で盛大に彼らを迎え入れる。

「公爵様! そして公爵夫人! どうかこれからも私たちをお守りください!」

その歓声の中、ヴィンセントは馬上で静かに手を上げた。その姿は威厳に満ち、領地の守護者としての責務と誇りが彼の背中に宿っていた。そして、アリエッタもまた彼の隣で堂々と顔を上げ、優しい微笑みを浮かべていた。


---

夜になり、戦いの終わりを祝う晩餐会が公爵邸で開かれた。広間にはたくさんの笑顔が溢れ、兵士たちや使用人たちも勝利の喜びを分かち合っている。

そんな中、アリエッタは静かにヴィンセントの隣に座り、彼の顔を見つめた。

「公爵様、皆がとても嬉しそうですね」

「ああ。戦いが終わり、ようやく平穏が戻った」

ヴィンセントの声は低く落ち着いているが、その表情は以前とは違う。彼の氷のような態度はすでに崩れ去り、今は静かな安らぎが漂っていた。

「これも……公爵様が守ってくださったおかげです」

アリエッタが微笑みながら言うと、ヴィンセントは小さく首を振った。

「違う。お前がいたからだ」

「私が……?」

「お前がここにいて、私を信じてくれたからだ。お前がいなければ、私はこんな風に領地を守ることもできなかっただろう」

ヴィンセントの言葉に、アリエッタの目に涙が滲む。

「公爵様……」

「だから、これからも私の隣にいろ」

彼の言葉は命令のようでありながらも、どこか温かい愛情に満ちていた。

「私も……ずっと、公爵様の隣にいます。何があっても、離れません」

アリエッタは微笑みながら彼に誓う。その瞬間、ヴィンセントはゆっくりと彼女の手を取り、静かに口づけを落とした。

「お前と共に生きることを、私も誓おう」

その言葉は彼にとって、何よりも重く、そして確かな愛の証だった。


---

晩餐会が終わり、夜の静けさが戻った公爵邸の庭で、二人は再び白い花々に囲まれて立っていた。月明かりが花を照らし、冬の終わりの気配が感じられる。

「この庭……本当に綺麗ですね」

アリエッタは静かに呟き、白い花に手を伸ばす。

「お前がここに来てから、よく咲くようになった」

「公爵様も、そう言ってくださいましたね」

アリエッタは微笑みながらヴィンセントの顔を見上げた。その視線に、彼は静かに答える。

「お前のおかげだ。私の心も、この花のように少しずつ温かくなった」

彼の言葉は不器用だが、その真っ直ぐな気持ちが、アリエッタの心に温かく響いた。

「私も、公爵様のおかげです。あなたがいたから、強くなれました」

アリエッタが彼に向かって微笑むと、ヴィンセントはそっと彼女を抱き寄せた。

「……これからも、ずっとお前を守る」

「はい、私も公爵様のそばで、あなたを支えます」

二人は月明かりの下で静かに誓い合う。冷たい冬が終わりを告げ、新たな季節が二人に訪れようとしていた。


---

氷の公爵と呼ばれた男は、温かな愛を手にし、彼女と共に未来を歩み始める――。それは永遠に続く、幸せの誓いだった。
























しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

お兄様の指輪が壊れたら、溺愛が始まりまして

みこと。
恋愛
お兄様は女王陛下からいただいた指輪を、ずっと大切にしている。 きっと苦しい片恋をなさっているお兄様。 私はただ、お兄様の家に引き取られただけの存在。血の繋がってない妹。 だから、早々に屋敷を出なくては。私がお兄様の恋路を邪魔するわけにはいかないの。私の想いは、ずっと秘めて生きていく──。 なのに、ある日、お兄様の指輪が壊れて? 全7話、ご都合主義のハピエンです! 楽しんでいただけると嬉しいです! ※「小説家になろう」様にも掲載しています。

私が我慢する必要ありますか?【2024年12月25日電子書籍配信決定しました】

青太郎
恋愛
ある日前世の記憶が戻りました。 そして気付いてしまったのです。 私が我慢する必要ありますか? ※ 株式会社MARCOT様より電子書籍化決定! コミックシーモア様にて12/25より配信されます。 コミックシーモア様限定の短編もありますので興味のある方はぜひお手に取って頂けると嬉しいです。 リンク先 https://www.cmoa.jp/title/1101438094/vol/1/

騎士の元に届いた最愛の貴族令嬢からの最後の手紙

刻芦葉
恋愛
ミュルンハルト王国騎士団長であるアルヴィスには忘れられない女性がいる。 それはまだ若い頃に付き合っていた貴族令嬢のことだ。 政略結婚で隣国へと嫁いでしまった彼女のことを忘れられなくて今も独り身でいる。 そんな中で彼女から最後に送られた手紙を読み返した。 その手紙の意味をアルヴィスは今も知らない。

婚約者の番

毛蟹葵葉
恋愛
私の婚約者は、獅子の獣人だ。 大切にされる日々を過ごして、私はある日1番恐れていた事が起こってしまった。 「彼を譲ってくれない?」 とうとう彼の番が現れてしまった。

女騎士と文官男子は婚約して10年の月日が流れた

宮野 楓
恋愛
幼馴染のエリック・リウェンとの婚約が家同士に整えられて早10年。 リサは25の誕生日である日に誕生日プレゼントも届かず、婚約に終わりを告げる事決める。 だがエリックはリサの事を……

【完結】仰る通り、貴方の子ではありません

ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは 私に似た待望の男児だった。 なのに認められず、 不貞の濡れ衣を着せられ、 追い出されてしまった。 実家からも勘当され 息子と2人で生きていくことにした。 * 作り話です * 暇つぶしにどうぞ * 4万文字未満 * 完結保証付き * 少し大人表現あり

完結 「愛が重い」と言われたので尽くすのを全部止めたところ

音爽(ネソウ)
恋愛
アルミロ・ルファーノ伯爵令息は身体が弱くいつも臥せっていた。財があっても自由がないと嘆く。 だが、そんな彼を幼少期から知る婚約者ニーナ・ガーナインは献身的につくした。 相思相愛で結ばれたはずが健気に尽くす彼女を疎ましく感じる相手。 どんな無茶な要望にも応えていたはずが裏切られることになる。

悪役令嬢の末路

ラプラス
恋愛
政略結婚ではあったけれど、夫を愛していたのは本当。でも、もう疲れてしまった。 だから…いいわよね、あなた?

処理中です...