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第1章

第1話 不人気プリンスの日常

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【逃げるのですか? さすがは紛い物の王子フェイク・プリンスですね】
 
 目の前の上級生は小馬鹿にした様な笑みを浮かべて英語で暴言を吐いた。

 数仁かずひとは面食らった。
 
 彼女、もしかして皇族の僕が英語を理解できないと思っているのか?
 幼いころから英語力は養ってきた。日常会話くらいなら不自由はない。

【この程度の英語も分からないのですか? 紛い物はさっさと身を引いて本物に道をお譲りなさい】
 
 さらに彼女は嘲る様に言い放った。
 それは、およそ未来の天皇に向ける言葉とは思えなかった。

 数仁は次世代唯一の皇位継承資格者、即ち未来の天皇である。「礼和」の皇室には彼以外に将来、皇位を継ぐべき者がいなかった。 
 彼の正式は名乗りは「春日宮数仁王かすがのみやかずひとおう」である。
 
 昼休み、大学の食堂で議論をふっかけてきた上級生の女子学生がいた。彼女は藤沢と名乗っていた。親はエリート外交官で、自分はアメリカの一流大学に留学した。
 そうやって親の職業と学歴でマウントを取ってきた。その上、数仁の知性を試す様な不躾ぶしつけな質問をあれこれぶつけてきた。数仁は適当にあしらっていたが、側にいた彼の仲間の間に険悪な空気が漂い始めていた。
 
「そろそろ次の講義がありますので……」
  
 数仁は空気を読んで、席を立とうとした。

 そこに英語で罵倒されたのである。

 数仁は聞こえない振りをしてそれを聞き流そうとした。

 その時――
 
「紛い物ってどういう意味ですか!? 失礼じゃないですか!? 数仁君に謝ってください!」

 数仁の左隣に座っていた河合千華子かわいちかこが立ち上がって叫んでいた。彼女は怒りで顔を真っ赤にして上級生をにらんでいる。
 上級生は呆気に取られている。

 数仁の右隣の春日雅人かすがまさとがわざとらしく仲間に話しかける。
 
はじめ、今の聞いたか? お前の親父さんて外務大臣と仲良しなんだよな? これってやっぱ問題になるのか?」

 雅人の右隣の半田啓はんだはじめは重々しい声で答える。
 
「そうだな、雅人。大臣の頭痛のタネが増えるだろう。俺の親父は大臣の一番の子分だからな。伝えるのは辛いだろうな」
 
 彼の父親は国会議員だった。
 
 それを聞いた上級生の表情が固まった。

「特ダネ、特ダネ! スクープ、スクープ!」
 
 千華子の左隣りの宇沢久美うざわくみがワクワクした様にスマホをいじり出す。
 
「さっそくウチの親に教えてやらなきゃー!」

 それを見て雅人が周りに聞こえるような大声で久美に話しかける。
 
「そう言えば久美。お前の両親、テレビ東洋の社員だったもんな。やっぱり今のネタになるのか?」
 
 テレビ東洋は地上波テレビ局の1つである。
 
「なるなる。そりゃエリート外交官の娘が未来の天皇を侮辱したなんてもう、大ニュースだって」
 
 久美は嬉しそうだった。

「俺もウチに出入りの記者に投げてやるかな、このネタ。もっとも車関係の記者が食い付くかな?」
 
 雅人の声は独り言にしては大きい。
 
「カスガ自動車の御曹司おんぞうしがくれるネタだからね。きっと食い付きいいよ」
 
 久美は楽しそうに言う。
 カスガ自動車は日本を代表する自動車メーカーの一つである。雅人はその社長の息子だった。

 上級生の顔から血の気が引いた。数仁とその取巻きは英語が理解できない劣等生だと勝手に思い込んでいた様だ。
 
 英語で悪口を言っても分からないだろうというアテが外れた。全部数仁達に筒抜けだったのだ。
 しかも、聞かれた相手が悪かった。数仁の仲間は大企業経営者、マスコミ関係者、国会議員――いわゆる「上級国民」の子弟だった。
  
 動揺する上級生を尻目に、数仁達5人は席を立って講義に向かおうとした。
 数仁は去り際に彼女に振り向くと、笑顔で言った。
 皇族らしい気品のある笑顔だった。
 
【藤沢先輩、あなたは何もおっしゃいませんでしたし、僕は何も聞きませんでした。そもそも、外交官の令嬢が皇族を罵倒するなどありえません。いいですね?】

 完璧な発音の英語だった。

 今のは聞かなかったことにしておく。

 そう鷹揚おうようかつ優雅に言われた上級生は、ただ呆然としていた。
 
 数仁は、世間から未来の天皇という立場にふさわしくない扱いを受けていた。さっきの上級生の様に平然と彼を侮る者も多かった。
 週刊誌では数仁の高校での「成績不振」が度々報じられ、インターネット上では「落ちこぼれで英語力は皆無、大学も裏口入学」などと噂されていた。
 その上、彼の学友もお世辞だけが取柄のボンクラばかり、君主が君主なら臣下も臣下、そんな風説が溢れていた。
 
 時は「礼和」7年4月上旬。
 数仁はつい最近、都内のこの正化大学に入学したばかりだった。

(あの先輩、外交官志望だと言っていたが、あれで大丈夫かな?)

 数仁は面と向かって侮辱されたというのに、不快に感じるより、相手の軽率さが心配になっていた。

 しかし、彼の上品と言える顔にはほとんど感情が表れていない。皇族には感情を抑制する習慣が染み付いている。
 
 数仁の顔は細い眉とやや下がり気味の目尻が特徴的だった。顔は卵方であごはほっそりしている。
 決して不細工ではないが、かと言って美男子と言うほどでもない。
 普段は眼鏡をかけている。「知的」と思われることもあれば、時には「ガリ勉」と見られることもあった。
 身長は平均より、やや高めだが細身の体格と相まって世間には「ひ弱」、「頼りない」との印象を与えていた。
 
 数仁は自分の境遇を嘆いてはいなかった。歴史上、即位するまで、あるいは即位してからも軽んじられた天皇は珍しくないからだ。
 
 彼の先祖は5代前に今の天皇家から枝分かれしている。傍系の宮家、つまり分家の生まれである。共通の祖先は当代の天皇の4代前、明治天皇まで遡らなければならない。現天皇との血縁は、9親等離れている。
 これが数仁が軽んじられる一因となっていた。
 
「見たかよ、あの顔。ありゃあ、ウンコしたら紙がなかった時の顔だよな」
  
 雅人の精悍な顔には意地悪な笑みが浮かんでいる。
 彼は太い眉、意思の強そうな目鼻立ちの顔を綻ばせ、逞しい体格を楽しそうに揺らしながら歩いていた。
 
「うひひひ、絶望の表情だったよね」
 
 久美も、濃い目のメイクを施した、彫りの深い顔にニヤニヤとした笑みを浮かべている。笑うたびに、明るい茶色に染めた長めのポニーテールが揺れている。
 
「あれでエリート気取りとは将来が思いやられる」
 
 啓は面長で凹凸の少ない顔をしかめていた。元から険しめの目付きがさらに険しくなる。
 
 一方、千華子はまだ怒りが収まっていなかった。
  
 彼女の丸形に近い顔には一重まぶたのクリッとした目、太めの眉、高くはないが形のよい鼻、そして小さめの口が配されている。
 全体として優しげではあるが、二つ結びにした黒髪と相まって、年齢より幼く見えた。

 千華子は今、綺麗というよりは可愛らしいという表現が似合うその顔を悔しそうに歪めている。
 普段、浮かべているニコニコとした笑顔は消え失せていた。
 
「数仁君のこと何も知らないくせに! 一体何様のつもりなのよ……!」
 
「千華子ちゃん、心配かけてごめんね」
 
 数仁は千華子に声をかけた。目尻が優しげに下がる。
 
「数仁君は謝らないで。何も悪くないんだから」
 
「それから、ありがとう。僕のために怒ってくれて」
 
 本当は怒る価値もない相手だと思っていた。それでも千華子が自分のために怒ることに、ほのかな喜びを感じていた。
 
 千華子、雅人、啓、久美の4人は高校時代からの数仁の親しい友人グループ、いわゆる「御学友」である。5人共、この大学の文学部史学科に在籍していた。
 
 ◇
  
 その日の夜。
 ここは春日宮邸――数仁の家である。
 数仁は妹から話しかけられていた。妹の声は沈んでいた。
 
「変な人に絡まれたそうね、カズ」
 
「ああ。ネットの噂を真に受けた残念な先輩だったよ、カオ」

 数仁はリビングのソファに腰かけて本を読みながら答える。 
 彼の口調は怒るのではなく憐れむかの様だった。
 妹の名は香子女王かおるこじょおう。数仁とは双子の関係である。2人とも同じ大学に通っている。「カズ」、「カオ」とは幼いころからの互いの呼び名だった。
 
 数仁の肉親は妹だけだった。両親は既になく、彼は宮家の当主である。世間からは「春日宮」と宮号で呼ばれている。個人名で呼ぶのは親しい人々だけである。彼と妹の2人だけで春日宮家を構成していた。春日宮家は数仁で5代目だった。
 数仁は明治天皇の五世孫なので、身位は「王」である。現行の皇室典範では天皇の孫までを「親王」、「内親王」、曾孫以降を「王」、「女王」と定めている。
 彼は現皇室における唯一の「王」でもあった。

 香子は、卵方の顔に、ぱっちりとした目、二重まぶた、整った鼻、上品な横一文字の口、と可憐で気品のある顔立ちをしていた。髪は艷やかな黒でセミロングのストレートだった。
 そして、細身でやや小柄な体格。
 まさに万人が抱くプリンセスのイメージを体現していた。
 
 しかし、今、その端正な顔は曇っていた。
 
「面と向かって暴言を吐く人がいたとはね……」  

 SNSや動画投稿サイトでは数仁への誹謗中傷が飛び交っていた。
 
 遂に、恐れていたことが起きた。
 ネットに影響されて、リアルでも非礼を働く人間が出てしまった。
 
 香子の表情はそう言っていた。

 数仁は自分への悪口に既に何も感じなくなっていた。しかし香子は兄の評判を常に気にかけていた。

 ◇

 数仁が自分の部屋に入り、椅子に座った時、電話がかかってきた。最近よく話しをする相手からだった。

『週刊誌がまた酷いことを書いていたみたいだけど……』
 
 相手の声には数仁を気遣うような響きがあった。
 
「ええ、ええ、大丈夫です。またいつものコタツ記事ですよ」
 
 数仁は笑って答える。机の上には数冊の週刊誌が広げられていた。
 
『春日宮様、さっそく留年危機か!?』
『春日宮様、ハニトラ対策は大丈夫!?』
 
 どれもセンセーショナルな見出しが踊っていた。
 
 「お気遣いありがとうございます。倫子としこ姉様」
 
 電話の相手は幸宮倫子内親王さちのみやとしこないしんのう。世間では、「倫子様」と呼ばれることが多い。
 数仁より5歳年上で、天皇の唯一の子女である。昼休みに上級生が言っていた「本物」とは彼女のことだった。
 近年彼女は、その気品ある笑顔や所作から国民の好感度が上がっていた。
 
 (お優しい方だ。週刊誌に与太記事が載るぐらいで僕を心配してくださるなんて)
 
「安心してください。打たれ強さなら自信があります」
 
『さすが生まれながらの皇位継承者は覚悟が違うわね』
 
 倫子内親王は安心した様子だった。

 数仁は世間的には――週刊誌やSNSを世間とすれば――全く不人気なプリンスだった。少なくとも不人気だという「空気」が出来上がっていた。倫子内親王とは全く対照的だった。
 彼女と数仁は何かに付けて比較され、倫子内親王の方が天皇にふさわしいという「世論」が、いつの間にかできあがっていた。
 それでも、数仁は自分が背負わされた重責を投げ出す気はなかった。
 
(これくらいで逃げる訳にはいかない)

 もとより、皇族に生まれた以上、無理ゲー人生は覚悟の上だ。 
 
 倫子内親王との電話を終えると数仁は意を強くした。
 
 彼が逃げ出さないのはある「矜持きょうじ」を持っているからだった。

 
 不意にスマホに着信履歴があることに気付く。
 
「千華子ちゃんからだ」
 
 数仁は直ぐにコールバックする。
 
「ごめん。電話中だったんだ」
 
『実は今探してる本があるんだけど』
 
「何? 探すの手伝うよ?」
 
『花山天皇の伝記なんだけど、ネットでも売ってなくて』
 
「神田の古本屋街ならあるかも。今度一緒に行く?」
 
『いいね。行こうよ』
 
「僕は古本屋街には詳しいんだ」
 
『楽しみだね』
 
「うん」
 
『それと……』
 
「どうしたの?」
 
『今日の昼休みのことだけど、変な人のことは忘れた方がいいよ』
 
「大丈夫だよ。気にしてないよ」
 
『それならよかった』
 
「ありがとう、心配してくれて。寝る前に千華子ちゃんの声を聞くと安心するよ」
 
『そう言われると嬉しくなっちゃう』
 
 彼女との通話はいつまでも、途切れなかった。
  
 (千華子ちゃんはずっと僕を応援してくれている。彼女に情けない姿は見せられない)

 皇位継承者というハードモードの無理ゲーでも、降りるつもりはない。
 
 数仁が重責から逃げないのは、もう一つの理由があった。それには千華子が深く関わっていた。

 
 


 
 
  
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