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第六十九話 諦め
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「大丈夫?」
僕の顔を覗き込んだ奈々海さんが眉をひそめていた。僕は慌てて「大丈夫です」と言いながら顔を背けた。顔を横に向けたとき、目尻から一粒の雫が枕まで流れ落ちた。急に恥ずかしくなった。高校生にもなって、なにめそめそしているのだ。年上の先輩に醜態を晒してしまったことに、目頭だけではなく、顔全体が熱くなった。
でも、そんな恥で火照った顔も、「無理しちゃだめだよ」という一言を聞けば、瞬時に冷える。
こういうとき、相手が弱っているとき、みんな同じことを言う。
無理するな、と。
全員が同じことを言うのならば、つまりこの励ましは、いわばお決まりの台詞であるのだと思う。別に心で思っていなくても、とりあえず無理するなと言う。朝の挨拶みたいなものだ。相手が苦しんでいそうなら、とりあえず言っとけ。なにかの教科書に――たぶん道徳の教科書にそう書いてあったから、みんな同じことを言うのだ。僕の記憶には、そんな教科書は無かったけれど。
無理するなと言えば、なんとかなると思っているから言う。
実際に僕は無理なんかしていなくて、無理ができない現実が目の前にあるから悩んでいるというのに。
どいつもこいつも無理するなと言う。
もう、聞き飽きた。
あのときの僕はひねくれた時期でもあったから、「最近よく言われます」と自嘲気味に言った。「なら無理してるんだね」と言われたから、この先輩もなにもわかってないな、と僕はただただ失望して枕に顔を埋めた。少なくとも、気を遣ってくれる相手に対する態度ではなかったと思う。
「じゃあさ、諦めてもいいんじゃない?」
「……は?」
僕は思わず奈々海さんのことを見上げた。涙目だったことも忘れて。
「本当に辛いならさ、諦めてもいいと、わたしは思うんだ」
奈々海さんは微笑んでいた。自分の胸をさすりながら。
「どうにもならないことってあるよね。やっぱし。自分の力では変えられないもの。過去とか、他の人の気持ちとか、自然の流れとか。そういうことで悩んでもさ、変えられないものがある、っていう事実を認められなきゃさ、進めないときがあるよね?」
「……進めないなら、進まなくてもいい……じゃあ、止まれって?」
「ううん、進まなきゃいけないよ。別の道を。変えられるものがある道をね」
「人生って、止まらないからさ」そんな台詞が締め括りだった。不思議な感性を持つ人。それが奈々海さんの第一印象だった。哲学――だと思うのだけれど、そういうものを真顔で語る人なんて、学者か校長先生くらいだと思っていた。
きっと普通の精神状態であれば、僕は言われたことを右から左へ聞き流したはずだけれど、あのときの僕には、奈々海さんが語った言葉が、新鮮な意味を孕んでいるような気がしてならなかった。
まだ野球をしたい気持ちが残っていることに気づけたのは、奈々海さんのおかげで。
そしてできないことを諦める決心ができたのも、奈々海さんのおかげで。
奈々海さんが「例えばさ」と人差し指を立てる。僕は、彼女の声のために耳を澄ます。
「体育の授業を抜け出して保健室に来るのも、新しい道かもしれないね。大切なのは、とりあえず試してみることかな? それが新しい道かどうかは、歩いてみてからのお楽しみだからね」
「……サボるのも、正解ですか」
「エ、サボっちゃだめだよっ!」
驚いたように目を見開いた奈々海さんの迫真の顔が、なんだか面白くて、僕はつい、笑ってしまった。そんなツボに入るほど面白かったわけでもないのに、僕はなぜか笑い続けた。
最後に笑ったのは、去年の夏だったっけ。そんなことを思い出しながら笑った。
やっと僕が落ち着くと、奈々海さんが「笑いすぎ」と唇を尖らせた。頬を人差し指でなぞりながら。
「ま、いいけど。理由があるならね、保健室に来てもいいからさ。保健室ってそういう場所だしね。苦しいとき、辛いときにこっそり行く隠れ家的な場所だから。わたしもね、そうやって使ってる場所だから」
そう言う奈々海さんは、僕から目を逸らした。口元は微笑んでいたけれど、目は笑っていなかった。
――諦めたんだ。
寂しい目から読み取れたのは、そんなことだった。
諦めた人がいる保健室は、息がしやすかった。
だから僕も、諦めることにした。
好きだった野球から別れることができたのは、保健室に奈々海さんがいたから。
以来僕は、スポーツ――特に球技からはなるべく距離を置くようにした。できないものはできないと決めていれば迷うことがなかったから、いくつか気が楽になった。できない種目が授業のときは、保健室で時間を潰した。いつも奈々海さんが出迎えてくれた。
いつからか僕は、体育の授業が楽しみになっていた。保健室に行く理由ができるから。だらだらと奈々海さんと雑談ができる時間が好きだった。同じ諦めた者同士だから気を遣わないし遣われない。それが本当に楽だった。
奈々海さんと会えなくなったのは、夏が来る直前くらいの頃だった。ある日を境に、いつ保健室に行っても奈々海さんとは会えなくなった。保健室の先生にさり気なく尋ねてみれば、「ちょっとね」とはぐらかされた。
僕は悟った。諦めた代償は、いつか払う日が来るのだと。
後悔したことがある。僕はあのとき、奈々海さんに会いに行っていたのにも関わらず、彼女の名前を知らなかった。僕も名乗っていなかったから、彼女も僕の名前は知らなかっただろう。
名を知らぬ先輩の声が、言葉が、ずっと耳に残っていた。
その年の卒業式のとき、奈々海さんの姿を探したけど見つけることはできなかった。一言お礼が言いたかった。ずっと野球で勝負をしてきたからこそ、諦めるという選択肢は自分では見つけられなかったと思う。諦めという選択を教えてくれた感謝を伝えたかった。
そんな願いが叶うことはなくて。
僕は保健室で過ごした先輩との記憶を、思い出として仕舞うことにした。奈々海さんがいない保健室に行く意味は見出せず、体育の授業は隅の方で目立たないようにして過ごした。
そうやって諦めることを前提に高校生活を過ごしてきた僕は、今では将来のことすら諦める人間になってしまった。ある意味では、奈々海さんの言葉は呪いのようなものだったのだろう。人を堕落させる甘い囁きだったのだ。結局、進むべき道を見つけることができなかった僕は、堕落するしか選択肢がなかった。
そうして徐々に未来への不安が溜まっていたときの三年生の春――初めて保健室で微笑んでいた先輩の名を知ったのだ。
原井奈々海と名乗った彼女は、酸素ボンベを背負っていて、そして透明な管を鼻に挿して微笑んでいた。
保健室で見た微笑みは、桜が満開の季節でも変わっていなくて。
そして台風に荒らされる今日も変わっていなくて。
「新しい道、見つからなかったみたいだね」
そう言った奈々海さんの目は、期待外れだと語っているようだった。
僕の顔を覗き込んだ奈々海さんが眉をひそめていた。僕は慌てて「大丈夫です」と言いながら顔を背けた。顔を横に向けたとき、目尻から一粒の雫が枕まで流れ落ちた。急に恥ずかしくなった。高校生にもなって、なにめそめそしているのだ。年上の先輩に醜態を晒してしまったことに、目頭だけではなく、顔全体が熱くなった。
でも、そんな恥で火照った顔も、「無理しちゃだめだよ」という一言を聞けば、瞬時に冷える。
こういうとき、相手が弱っているとき、みんな同じことを言う。
無理するな、と。
全員が同じことを言うのならば、つまりこの励ましは、いわばお決まりの台詞であるのだと思う。別に心で思っていなくても、とりあえず無理するなと言う。朝の挨拶みたいなものだ。相手が苦しんでいそうなら、とりあえず言っとけ。なにかの教科書に――たぶん道徳の教科書にそう書いてあったから、みんな同じことを言うのだ。僕の記憶には、そんな教科書は無かったけれど。
無理するなと言えば、なんとかなると思っているから言う。
実際に僕は無理なんかしていなくて、無理ができない現実が目の前にあるから悩んでいるというのに。
どいつもこいつも無理するなと言う。
もう、聞き飽きた。
あのときの僕はひねくれた時期でもあったから、「最近よく言われます」と自嘲気味に言った。「なら無理してるんだね」と言われたから、この先輩もなにもわかってないな、と僕はただただ失望して枕に顔を埋めた。少なくとも、気を遣ってくれる相手に対する態度ではなかったと思う。
「じゃあさ、諦めてもいいんじゃない?」
「……は?」
僕は思わず奈々海さんのことを見上げた。涙目だったことも忘れて。
「本当に辛いならさ、諦めてもいいと、わたしは思うんだ」
奈々海さんは微笑んでいた。自分の胸をさすりながら。
「どうにもならないことってあるよね。やっぱし。自分の力では変えられないもの。過去とか、他の人の気持ちとか、自然の流れとか。そういうことで悩んでもさ、変えられないものがある、っていう事実を認められなきゃさ、進めないときがあるよね?」
「……進めないなら、進まなくてもいい……じゃあ、止まれって?」
「ううん、進まなきゃいけないよ。別の道を。変えられるものがある道をね」
「人生って、止まらないからさ」そんな台詞が締め括りだった。不思議な感性を持つ人。それが奈々海さんの第一印象だった。哲学――だと思うのだけれど、そういうものを真顔で語る人なんて、学者か校長先生くらいだと思っていた。
きっと普通の精神状態であれば、僕は言われたことを右から左へ聞き流したはずだけれど、あのときの僕には、奈々海さんが語った言葉が、新鮮な意味を孕んでいるような気がしてならなかった。
まだ野球をしたい気持ちが残っていることに気づけたのは、奈々海さんのおかげで。
そしてできないことを諦める決心ができたのも、奈々海さんのおかげで。
奈々海さんが「例えばさ」と人差し指を立てる。僕は、彼女の声のために耳を澄ます。
「体育の授業を抜け出して保健室に来るのも、新しい道かもしれないね。大切なのは、とりあえず試してみることかな? それが新しい道かどうかは、歩いてみてからのお楽しみだからね」
「……サボるのも、正解ですか」
「エ、サボっちゃだめだよっ!」
驚いたように目を見開いた奈々海さんの迫真の顔が、なんだか面白くて、僕はつい、笑ってしまった。そんなツボに入るほど面白かったわけでもないのに、僕はなぜか笑い続けた。
最後に笑ったのは、去年の夏だったっけ。そんなことを思い出しながら笑った。
やっと僕が落ち着くと、奈々海さんが「笑いすぎ」と唇を尖らせた。頬を人差し指でなぞりながら。
「ま、いいけど。理由があるならね、保健室に来てもいいからさ。保健室ってそういう場所だしね。苦しいとき、辛いときにこっそり行く隠れ家的な場所だから。わたしもね、そうやって使ってる場所だから」
そう言う奈々海さんは、僕から目を逸らした。口元は微笑んでいたけれど、目は笑っていなかった。
――諦めたんだ。
寂しい目から読み取れたのは、そんなことだった。
諦めた人がいる保健室は、息がしやすかった。
だから僕も、諦めることにした。
好きだった野球から別れることができたのは、保健室に奈々海さんがいたから。
以来僕は、スポーツ――特に球技からはなるべく距離を置くようにした。できないものはできないと決めていれば迷うことがなかったから、いくつか気が楽になった。できない種目が授業のときは、保健室で時間を潰した。いつも奈々海さんが出迎えてくれた。
いつからか僕は、体育の授業が楽しみになっていた。保健室に行く理由ができるから。だらだらと奈々海さんと雑談ができる時間が好きだった。同じ諦めた者同士だから気を遣わないし遣われない。それが本当に楽だった。
奈々海さんと会えなくなったのは、夏が来る直前くらいの頃だった。ある日を境に、いつ保健室に行っても奈々海さんとは会えなくなった。保健室の先生にさり気なく尋ねてみれば、「ちょっとね」とはぐらかされた。
僕は悟った。諦めた代償は、いつか払う日が来るのだと。
後悔したことがある。僕はあのとき、奈々海さんに会いに行っていたのにも関わらず、彼女の名前を知らなかった。僕も名乗っていなかったから、彼女も僕の名前は知らなかっただろう。
名を知らぬ先輩の声が、言葉が、ずっと耳に残っていた。
その年の卒業式のとき、奈々海さんの姿を探したけど見つけることはできなかった。一言お礼が言いたかった。ずっと野球で勝負をしてきたからこそ、諦めるという選択肢は自分では見つけられなかったと思う。諦めという選択を教えてくれた感謝を伝えたかった。
そんな願いが叶うことはなくて。
僕は保健室で過ごした先輩との記憶を、思い出として仕舞うことにした。奈々海さんがいない保健室に行く意味は見出せず、体育の授業は隅の方で目立たないようにして過ごした。
そうやって諦めることを前提に高校生活を過ごしてきた僕は、今では将来のことすら諦める人間になってしまった。ある意味では、奈々海さんの言葉は呪いのようなものだったのだろう。人を堕落させる甘い囁きだったのだ。結局、進むべき道を見つけることができなかった僕は、堕落するしか選択肢がなかった。
そうして徐々に未来への不安が溜まっていたときの三年生の春――初めて保健室で微笑んでいた先輩の名を知ったのだ。
原井奈々海と名乗った彼女は、酸素ボンベを背負っていて、そして透明な管を鼻に挿して微笑んでいた。
保健室で見た微笑みは、桜が満開の季節でも変わっていなくて。
そして台風に荒らされる今日も変わっていなくて。
「新しい道、見つからなかったみたいだね」
そう言った奈々海さんの目は、期待外れだと語っているようだった。
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