上 下
61 / 68

第六十一話 潰れた缶

しおりを挟む
 あのときの試合、指を骨折したときの出来事は、なるべく考えないように過ごしてきた。でも、渡来が絡んできたせいで、嫌でも思い出してしまう。あのときホームベースを目指した両足は、泥水の中に沈んだかのように重くて、我が家までの道のりが本当に長く感じた。

 空の雲は分厚くも、アスファルトは熱を溜め込んでいる。潰れた缶を握る左手は、水気が飛んだべたつきが不快にねとねとして気持ち悪かった。ジュースで濡れたズボンも乾いてはいるけれど、べたつく肌とズボンがくっついて煩わしかった。

「なんなんだよあいつ……」

 鬱憤を溜め込む胸はすでに一杯で、勝手に不満が声になって溢れてくる。ぶつぶつと独り言を呟く僕は、さぞネガティブをばら撒く陰湿な存在になっているだろう。構うものか。みんな、嫌な気分になってしまえばいい。そうすれば、僕の憂鬱だって隠すことができるだろう。

「……ああ、くそっ」

 他人に八つ当たりしたって指は治らない。野球はできない。終わってる。なにが地方大会だよ。意味がわからない。人差し指と中指がうまく曲げられないのに、どうしろって言うんだ。もう投手なんかできるわけがないだろうが。

「――ッ、くそがっ」

 あれだけ渡来に挑発されて、黙っていられるわけがなかった。潰れた缶を右手で無理やり握りしめ、そして見えていた自販機横のゴミ箱目掛け、全力で投げてやった。

 ガチャン。

 缶はゴミ箱ではなく自販機にぶつかった。そのまま地面に落ち、無残にも転がる。僅かに残っていたジュースがアスファルトに斑点を散らし、そして道路に液溜まりを作った。

 道路に現れたジュースの染みがホームベースみたいだった。転がる缶が、折れた指みたいな潰れ方をしていた。なんて滑稽なのだろう。風に吹かれて揺れる缶は、痛みに悶えて苦しんだあのときの僕だ。痛い、痛い。そう泣きながらバッターボックスにうずくまっていた僕だ。

 空き缶は、ゴミ箱に入れればリサイクルされる。またなにかの役に立つはずなのに、地面に転がる僕は、何にもなれずに今日までを過ごしてきた。役立たず。そして無能。なにもできない。こんな僕に、なにを期待したんだ。あの渡来という男は。あいつは勝ったじゃないか。僕は負けたじゃないか。意味がわからない。

 なにが勝ち逃げだ。

 僕の人生は、もう負けてんだよ。

 びゅう、木の葉が舞い上がりそうな突風が吹く。地面の空き缶がコロコロと転がる。潰れて変形しているから、まっすぐには転がらず、ジグザグな方向に進路を変えながら転がっていった。

 カン。缶はぶつかって止まった。ぶつかったのは、ブラウンのローファーの先端だった。

「ちょっと」

 むすっとした声が、ローファーを履いた人物から飛んできた。缶から視線を持ち上げれば、透明な管を鼻に挿した女性が頬を膨らませていた。

 やべ、と思ったときには遅く、つかつかと迫ってきたのは、奈々海さんだった。

「ポイ捨てすんな!」

 わりと本気で怒鳴ってきたらしい奈々海さんに、僕は指を差されていた。犯人はおまえだと確信があるのか、奈々海さんは突っつくように人差し指を何度も前後に揺らしてくる。これは現行犯――、「手元が狂った」と苦しい言い訳をしてみたものの、「投げちゃだめでしょ!」と追撃される。

「あとから拾う人の気持ちも考えなきゃだめ!」

「……いや、その」

「だめなものはだめ!」

「……はい、すんません」

 罪を認め、大人しく投げた缶をゴミ箱に捨てた。「よろしい」と上から目線の奈々海さんが頷いていたので、ひとまずは許されたようだ。

 なんてタイミングの悪い偶然なのだろう。僕は帰り道で奈々海さんを見かけたことがなかったし、そもそも今日は奈々海さんと会えないものだと考えていたのに。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

妻がエロくて死にそうです

菅野鵜野
大衆娯楽
うだつの上がらないサラリーマンの士郎。だが、一つだけ自慢がある。 美しい妻、美佐子だ。同じ会社の上司にして、できる女で、日本人離れしたプロポーションを持つ。 こんな素敵な人が自分のようなフツーの男を選んだのには訳がある。 それは…… 限度を知らない性欲モンスターを妻に持つ男の日常

【全話挿絵】発情✕転生 〜何あれ……誘ってるのかしら?〜【毎日更新】

墨笑
ファンタジー
『エロ×ギャグ×バトル+雑学』をテーマにした異世界ファンタジー小説です。 主人公はごく普通(?)の『むっつりすけべ』な女の子。 異世界転生に伴って召喚士としての才能を強化されたまでは良かったのですが、なぜか発情体質まで付与されていて……? 召喚士として様々な依頼をこなしながら、無駄にドキドキムラムラハァハァしてしまう日々を描きます。 明るく、楽しく読んでいただけることを目指して書きました。

転職してOLになった僕。

大衆娯楽
転職した会社で無理矢理女装させられてる男の子の話しです。 強制女装、恥辱、女性からの責めが好きな方にオススメです!

勇者一行から追放された二刀流使い~仲間から捜索願いを出されるが、もう遅い!~新たな仲間と共に魔王を討伐ス

R666
ファンタジー
アマチュアニートの【二龍隆史】こと36歳のおっさんは、ある日を境に実の両親達の手によって包丁で腹部を何度も刺されて地獄のような痛みを味わい死亡。 そして彼の魂はそのまま天界へ向かう筈であったが女神を自称する危ない女に呼び止められると、ギフトと呼ばれる最強の特典を一つだけ選んで、異世界で勇者達が魔王を討伐できるように手助けをして欲しいと頼み込まれた。 最初こそ余り乗り気ではない隆史ではあったが第二の人生を始めるのも悪くないとして、ギフトを一つ選び女神に言われた通りに勇者一行の手助けをするべく異世界へと乗り込む。 そして異世界にて真面目に勇者達の手助けをしていたらチキン野郎の役立たずという烙印を押されてしまい隆史は勇者一行から追放されてしまう。 ※これは勇者一行から追放された最凶の二刀流使いの隆史が新たな仲間を自ら探して、自分達が新たな勇者一行となり魔王を討伐するまでの物語である※

男子中学生から女子校生になった僕

大衆娯楽
僕はある日突然、母と姉に強制的に女の子として育てられる事になった。 普通に男の子として過ごしていた主人公がJKで過ごした高校3年間のお話し。 強制女装、女性と性行為、男性と性行為、羞恥、屈辱などが好きな方は是非読んでみてください!

バッサリ〜由紀子の決意

S.H.L
青春
バレー部に入部した由紀子が自慢のロングヘアをバッサリ刈り上げる物語

体育教師に目を付けられ、理不尽な体罰を受ける女の子

恩知らずなわんこ
現代文学
入学したばかりの女の子が体育の先生から理不尽な体罰をされてしまうお話です。

♡ちょっとエッチなアンソロジー〜おぽこち編〜♡

x頭金x
現代文学
♡ちょっとHなショートショートの詰め合わせ♡

処理中です...