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第五十七話 揺れ始めた気持ち

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 奈々海さんにタエさんのことを聞いてみると、「あ、タエさん? 良い人だよ」と笑った。

「わたしが入院したときぐらいにね、タエさんも通院するようになったらしくて。一回ね、相部屋になったことがあってさ。そのときに仲良くなったの。いろいろ昔話を聞かせてくれてさ、そのときのわたしね、喋ることができなかったの。でもさ、タエさんは筆談でもたくさんお話してくれて。嬉しかったなぁ、話し相手がいて」

 語尾を丸める奈々海さんは、頬上の透明な管を指先でなぞりながら、心底嬉しそうに朗らかな表情をしていた。僕は「へえ」と相槌を打つだけだった。僕の悩みを複雑にしてきたタエさんの素性を知りたくて尋ねてみたのだけれど、とりあえず、奈々海さんの様子を見れば、悪い人でないことは明らかだった。

「なんか帰って来ないと思ってたら、宮部、タエの婆ちゃんに捕まってたんだ。納得。話、長いよねあの人」

 片眉を持ち上げる愛梨さんが、少々嫌そうな口ぶりで語る。話が長いのには同意してしまう。ゆっくり喋るから余計に長い。でも、長くてゆったりとした語りは、暇な入院生活にはちょうど良いのかもしれない。ベッドの上で微笑んでいる奈々海さんを見れば、そう思えた。

「宮部くん、ごめんだけど、そろそろ検査だからさ、今日はここまで」

「……そっか。なら、帰るよ」

「ん。来てくれてありがと」

 タエさんに捕まったあと、トイレで物思いにふけった時間が長すぎた。向き合いたかった。自分の右手と。罪、の文字が見え隠れする手の甲と、向き合いたかった。

 でも結局、考えたところでなにも得られなかった。時間は無駄になったし、こうして笑いかけてくれる奈々海さんともお別れしないといけなくなった。いまの自分は、ここ最近でも特に無愛想な顔をしている自覚もあったから、とっとと帰るのが正解かもしれない。嫌々来ていると誤解されたくもない。嫌なことなんて、なにもないのだから。

 そう、奈々海さんのことで、嫌なことなんてなにも――。

「どったの? 宮部くん」

「……いや、なんでも」

 奈々海さんが首を傾げていた。そのくらい、僕は奈々海さんのことを凝視していた。急いで顔を背けはしたものの、網膜には奈々海さんの輪郭がくっきりと残っていた。なんだろう。急に奈々海さんの存在感が近く感じた。黒髪をポニーテールにしていないせいか、普段より幼く見える。年上の奈々海さん、という肩書きが崩れて、女の子の奈々海さんという感覚が生まれて――。

 この病室、やけに暑い。頬に火照りを感じる。さっきタエさんに抉られた胸を、奈々海さんに慰めてほしくて――。

「か、帰るよ」

 すぐさまここから退散する必要があった。窓の外に広がる市街地に向かって声を捻りだすのが精一杯だった。「ばいばい」と奈々海さんが微笑む声が聞こえはしたけれど、ベッドに目を向けることなく、病室を足早に飛び出した。

 脇汗でシャツがべとべとだった。なんでこんなに息苦しいのかと口元をまさぐってみれば、もう着けることがなくなったマスクの存在に気がついた。マスクを顎まで引き下げ、大きく息を吸う。ちゃんと冷房で冷やされた廊下の空気は、薬品の臭いがつんとしたけれど、火照った胸のあたりを換気してくれた。

「どったの宮部。急に」

 遅れて病室から出てきた愛梨さんが声をかけてきた。「なんでも」と平静を装ったけれど、愛梨さんは「ふぅ~ん」と探るような目線を僕に向けていた。

「ま、いいけど。ウチは寄るとこあるから、ここで」

 マスクを外した愛梨さんは、なぜか勝ち誇ったような顔をしていた。なんだこいつ、と思ったときには、「ばいび~」と愛梨さんは立ち去ってしまった。

 本当に、愛梨さんはなんだったのだろうか。なんで僕を病院に連れてきたのだろう。この間の家出騒動でなにか恨みでも買ったのだろうか。わからない。

 また置いてきぼりにされた。すぐ背後に、奈々海さんがいる病室があるにはあるけれど、どうにも振り返る勇気が僕には無かった。なんとなく、いま奈々海さんと二人っきりになるのは、駄目だと直感した。

 それがどういう意味で、なにを回避するためのものかはわからない。わからないからこそ、僕は奈々海さんと会わないほうが良い。そう、思った。
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