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第四十五話 輝き

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 大学から出ると、すでに太陽は建物の陰に隠れていた。それでも綿のように薄い雲は斜陽を下から受け止めている。西に漂う薄雲は幼子が照れたときのほっぺたみたいに赤らんでいた。まだ東の空は青い。まだ明るい青空に密接した白雲が、どこか砂浜のようにも見えて、間もなく闇に染まる東の空が青畳の海のようだった。

 街灯が輝き始めた歩道は薄暗い。残った熱気がむわっとしている。僕は、奈々海さんと愛梨さんが並んで歩いている後ろを、河内と並んで歩いていた。女子二人はもう気兼ねなく接していて、いつもみたいに結論の無い会話を永遠と続けている。僕と河内は、男らしくひたすらに無言だった。

 河内は、なぜか男の子の絵が描かれたスケッチブックを脇に挟んでいた。外でも絵を描くのだろうか。なにも喋らないのも失礼だろうか。でもなにを話そう。共通の話題なんて愛梨さんのことだけだし、どうしよう。

そんなことを考えていると、河内が「またお願いしてもいいかい?」といきなり言った。

「はい? なにを?」

「デッサンモデル。たまにでいいから」

 なぜかウインクをされる。ぶっちゃけやりたくない。小一時間ほど丸椅子に拘束されるのは苦痛なのだ。しかし、年上からの頼み、なかなか断りにくい。「まあ、暇なら」と了承も否定もしなかった返答で誤魔化すことにした。

「なかなかモデルになってくれる人がいなくてね。特に男は。助かるよ」

「はぁ……」

 確かに、河内はイケメンの部類に入るから、女の子ならいくらでも引っかけられそうだ。逆に男はなかなか引き受けてくれないだろう。飯を奢ってくれるとか、そういう取引がないなら難しそうだ。

 そういえば、スケッチブックの男の子は誰なのだろう。なんとなくだけど――

「……スケッチブックの男の子って、弟さんですか?」

 特になにも考えずに質問したこと、少しだけ後悔した。河内がすっと細めた目で見下ろしてきたからだ。どこか警戒するような様子は、見られたくないものを見られたときのような雰囲気だった。

「どうしてそう思うんだい?」

「……目元が似ている気がして」

「そうか」

「あと、なんと言うか、生き生きとしているというか、輝いているというか、こう、大切な存在なのかなって」

「……俺は、輝いていないかい?」

「え、まあ、顔は」

「そう、か」

 正直に答えると、河内がくくっと笑った。下手に嘘を吐くのもどうかと思って包み隠さず答えたけれど、口元を緩めた河内の横顔を眺めれば、それで正解だったように感じた。

 僕はずっと、河内はどこか覇気が足りないと感じていた。無気力、と言えばいいだろうか。顔の造形は良いのに魅力を感じないのだ。それは、奈々海さんや浜中のことを眩しいと感じたこととは真逆の現象だった。スケッチブックに描かれていた男の子は眩しかった。でも、描いた河内本人は眩しくともなんともない。魅力的な絵を描くからこそ、不思議だった。

「俺ね、弟がいたんだ。死んだけど」

 突然の不幸話に、僕は反応できなかった。

「弟は生まれたときから体が弱くてね。医者だった両親は悟ってたよ。俺はさ、だんだん衰弱していく弟をずっと見てたんだ。もちろん看取るまでね。鮮明に覚えているんだ。弟が精一杯生きようと頑張っていた姿を。親は写真すら残さなかった。だから俺は絵で残そうとしたんだ。弟が輝いている姿をね。忘れたくなくてね」

 そこまで聞けば、スケッチブックの男の子が河内の弟であることは明白であった。そして、男の子が鼻に管を挿している理由も理解した。あのスケッチブックは、最期の瞬間を切り取ったものであることも。

「元々さ、俺は絵を描くほうが好きなんだ。親には言わないけど。親は俺が医者になることを期待しているし、そのための育て方をしてる。それは悪いことではないし、別に反抗したいとか、そういうわけでもない。親には感謝してるよ。惜しみなく金も使ってくれるしね。それに、俺に人を救う能力があるなら、それを世のため使いたいっていう思いもあるにはある。でも――」

 そこで河内は一度だけ黄昏を見上げた。赤空の奥に居るはずの会いたい存在を探すように。いつの間にか、前を歩いていた奈々海さんと愛梨さんも、ちらちらと振り返って河内の声を聞こうとしていた。

「医療は進化しているけどね、救えない者は絶対にいる。我が子すら見捨てる医者だっているんだ。いざというとき、命の選別はしなければならない。俺は医者を目指してはいるけどね、時々息苦しくなる。弟のことは救えなかった。それは、まだ俺に知識も技術も無かったから。だから諦められる。でも、知識と技術を手に入れたあと、あの無垢な輝きを、もし、守れなかったら。たまに考えちゃって、夜、寝れなくなる。金のために医者になりたかったら、どれほど気が楽なことか。俺は、医者なんかより、絵で生きていきたい。好きなことで生きていきたい。でも、親には内緒にしてる。家では絵なんか描かない。美術室か、外でだけ。俺が絵を好きなんて、親は知らないし――言うつもりもないからさ」

 情けないね、と締めくくった河内は口を閉ざした。無言になった僕たちの横を、クール宅急便のトラックが忙しなく通り抜けていく。冷凍庫付きの荷台には、きっと凍るまで冷やされた荷物が積まれている。人肌の温もりすら凍るほど、寒いだろう。トラックが残していった排気ガスの臭いが無くなったとき、「消えそうなものほど輝く」という言葉が聞こえた。
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