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第四十三話 母

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 アンナさんが弓を引く姿は、あまりにも綺麗に整っていた。ぶれず、揺れず、力強く。それは奈々海さんが「きれい」と感嘆の声を漏らしてしまうほどで、僕もアンナさんの弓に見惚れていた。

 白む青空を背景にしているアンナさんの弓は、大海原を疾走する船の帆のようだった。水平線から滑空してきた風を受け止めて一杯に膨らむ帆は、より速く、より遠くまで進むための力を与えてくれる。無限に吹く風が帆を膨らませる。まだ見ぬ大陸へと連れて行ってくれる。そんな大航海の夢をおぼろげにも連想してしまうアンナさんの弓とは、武道を極めし者の証なのだ。息をすることも忘れてしまった僕は、水平線という、的が待っている果てに飛び込みたくなっていた。

 アンナさんの弓に見惚れているのは僕だけではなくて、愛梨さんもそうだった。遅れて弓を引いた愛梨さんも母の弓に見入っている。そのせいで愛梨さんの体の軸がずれ、腰も引けたみたいに情けない姿になっていた。矢を放つ前から、勝敗は決まっている。

 パンッ! と甲高い弦音が空まで滑空する。

 スパンッ! ど真ん中を貫いた矢の音が、ぼすっとしか鳴らなかった愛梨さんの弦音を跳ね返した。

「久々ね」

 矢を放った態勢のまま満足気な声を出したアンナさんは、余裕がある一礼をした。隣の愛梨さんは口を半開きにさせたまま、的に届かず地面に突き刺さった矢を呆然と眺めていた。

「愛梨」

 母の声に娘がようやく瞬いた。

「夕飯は、なに食べたい?」

「……焼肉」

「ふふ、久々に食べにいこっか。翔が帰ってきたら行くわよ」

「……うん」

 こくこくと頷いた愛梨さんには、もう迷いや反抗のような表情を浮かべていなかった。腑抜けた頬が顎をだらしなく落としていて、半ば夢の中に迷い込んでいるような、そんな顔だった。

 たぶん僕も、愛梨さんと同じ顔をしていた。

 本物の武道を見た驚きに声も出なくて、隣の奈々海さんと顔を見合わせて、瞬き合うことしかできなかった。

「それじゃ、先に帰ってるから、遅くなっちゃダメよ?」

 アンナさんの足取りは歌うように軽やかだった。顔色は優れないけれど、口元には緩みもあった。たった一射放っただけで、母娘の気持ちは通じ合ったらしい。一体どんな理屈でお互いに納得したのだろう。弓を引く直前、愛梨さんとアンナさんがいくつか言葉を交わしていたけれど、はっきりと内容を聞き取ることができなかった。

 また一礼をしたアンナさんが弓道場を出た。ぽつんと置いてけぼりにされた愛梨さんは、まだ棒立ちのまま。すっと立ち上がった奈々海さんが、「大丈夫?」と声をかける。

 愛梨さんが「うん」と小さく頷く。子供が親の言うことに納得したときみたいな頷き方だった。

 奈々海さんがそばに寄り添ったのに、愛梨さんはふらりとした足取りで歩き始めた。なぜか僕のほうに歩いてきた。なにか文句でも言われるか? と身構えはしたけれど、愛梨さんは僕の横を通り過ぎた。

 床に落ちていた羽の無い矢を拾った愛梨さんが「宮部ってさ」と言った。

「わりとさ、勝負が好きだよね」

「え?」

 愛梨さんが続けた言葉を上手く呑み込めなかった。「前から思ってたけど」とも言われ、さらに理解が苦しくなる。

 僕は、そんなに勝負を挑んだりしたことはなかったはずだ。そもそも、右手の指が使い物にならないから、勝負すること自体、できなかったし……。

「ま、これで良かったよね。ママも久しぶりに弓道できて、楽しそうだったし。最近、息抜きなんて、する暇なかったもんね。ママも、ウチも」

 愛梨さんはぶつぶつ呟きながら、羽の無い矢を巻藁に突き刺す。巻藁に矢がめり込む感触を確かめるように手を使って。僕と奈々海さんは、その後ろ姿を黙って見つめていた。

 どうやら、愛梨さんは水を被って頭が冷え切ったみたいに冷静になっているようだった。ぶすぶすと巻藁に矢を突き刺しているのも、自問自答に集中するためだろうか。なんにせよ、あとは自分の中で決着をつけるだけだろうから、あとはそっとしておくのが無難なはずだ。

 的に届かなかった矢が、日照りの中で輝いている。

 学べたのは、弓道が難しい競技であることと、母親は偉大であるということだった。
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