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第三十八話 大人
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「ねぇ、愛梨ちゃん」
奈々海さんが口を開いたことに、沈黙を苦に感じていた僕は感謝した。かけるべき言葉が見つからなくて、どうしようかと困っていた。ひとまず、この場は年上の奈々海さんに任せておこう。
僕は部外者だから、黙っていよう。
「愛梨ちゃんは、どうするの?」
問いかけに背を向けた愛梨さんは、無言を返事にする。
「愛梨ちゃん、看護師さんになりたいって言ってたよね? それは、どうするの?」
垂れていた弓がぐっと持ち上がったのは、愛梨さんが左手をぎゅっと握りしめたからだった。
「カケルくんのために――夢を諦めるの?」
奈々海さんの声が、やけにはっきりと聞こえた。
脳髄に直接、語りかけられたみたいに。
どきりとした。胸が。夢という単語が、心臓を貫いた。夢という単語が、脳を埋める。
心臓が奈々海さんの声に過剰に反応して飛び跳ねたようだった。肋骨という骨組みが無かったら、体外に飛び出してしまいそうなほどに。
いきなりの心臓の収縮のせいか、頭の血液が引っ張られた。パンクしていたタイヤが高圧の空気を吹き込まれて一瞬だけ膨張してしまうみたいに、心臓がパンと膨らんだように感じた。そのせいか頭がくらくらした。背中のあたりがひんやりする。変な汗が流れる。喉が渇く。
このままここにいたら――奈々海さんの声を聞いていたら駄目だと思った。だから僕は立ち上がろうとした。でも立てなかった。慣れない正座をしたせいで、足がビリビリと痺れていた。聞きたくない。耳を塞ぎたかった。「愛梨ちゃんは、どうしたいの?」という奈々海さんの声から、逃げられない。
奈々海さんの言葉が鎖となって僕に巻きついてくる。鎖が錆びているせいか、肌がピリッとした。
へし折れた人差し指と中指では抵抗ができなかった。
「ウチは、大学には行かない。就職する。カケルの学費、稼いであげたいから」
声を振り絞った愛梨さんは肩を震わせていた。僕にはその震えの意味がわかっていた。諦めという悔しさの前で、人は、どうしても力んでしまうものだから。
立ち止まるための力の強さに、進むための強さが抵抗してしまうから。進むための強さは、進むことしかできない。進む力よりも強い力で止めないといけない。それは突撃しようとする人を羽交い絞めにするようなものなのだ。だから体が震えるのだ。それを葛藤と呼ぶのだと、僕は理解したつもりだから。
「教えてよ愛梨ちゃん。病院で愛梨ちゃんと初めて出会ったとき、愛梨ちゃん言ってたよね? 自分に知識が、力があれば助けられたのに、なにもできなかった。悔しいって。もし、通りがかった人が心肺蘇生をしてくれなかったら、カケルくんは死んでたかもしれない。怖いって、言ってたよね。あのときに決めたんでしょ? 人を助ける仕事がしたいって。いいの? もしまた事故に遭ってカケルくんの心臓が止まったら、次は本当に死んじゃうよ? それでいいの?」
ひたすらに疑問形をぶつける奈々海さんは、愛梨さんに寄り添っているのではない。𠮟っているのだ。その意図は僕でもわかる。本音を引き出そうとしている。寄り添うために、正面から向き合うために必要なことは本音を知ることで、それこそが愛梨さんと愛梨さんの家族にはきっと必要で、そのために言葉で手を差し伸べる奈々海さんが、僕にはとにかく眩しかった。
日陰で立ち止まった僕には、陽の光は鋭すぎる。照らされれば、僕という存在は呆気なく消えてしまう。アスファルトに撒かれた打ち水が一瞬で蒸発するように。
「愛梨ちゃん、自分を犠牲にすることは、素晴らしいことだとはわたしは思えない。自分が全部我慢したらとりあえずの解決はするかもしれないけどね、それは先延ばしでしかないよ。だって、愛梨ちゃんが相手のことを考えてもね、相手はあなたのことを考えているとは限らないんだよ? だからまた問題は繰り返すの。例え相手が家族だったとしても、構造が似ているだけで思考も思想も全く別の人間なんだからさ、だからこそね、自分の気持ちをちゃんと伝えるべきときがあるの。毎回我儘言うんじゃなくてね、誠意を持ってね、向き合うべきときがあるの。家族とかいう肩書きを抜きにして、言葉を交わすべきときがあるの。本心を声にしてね、言葉にして伝えて初めて、寄り添えるようになるの」
それがいまだよ。そう締めくくった奈々海さんは、胸に手を当てて息切れした呼吸を整えることに努めていた。言いたいことは全て吐き出したらしく、それ以上はなにも語らなかった。
あとは自分で決めるんだよ。息を切らしながらも微笑む奈々海さんの視線には、そういう意味があるのだと思えた。そして愛梨さんは、ほんの少しだけ振り返り、奈々海さんの視線を受け止める充血した目を、死にかけの魚みたいに泳がせた。
人生の先輩として、奈々海さんには言いたいことがあったのだ。二年、僕や愛梨さんよりも長く生きているだけで、考え方に大人っぽさが現れるのだろうか。
僕もあと二年生きて二十歳になれば、そんな立派で綺麗なことを年下に語ることができるようになるのだろうか。
それとも、奈々海さんと同じように酸素ボンベを背負うような体にならないと、大人になれないのだろうか。
年を重ねただけで僕らは大人になる。思春期の終わりに直面している僕たちは、もうすぐ大人になる予感を抱いている。大人になる僕らは、もうじき大人として振舞わなければならないのだろう。
漠然とした疑問がある。大人って、なんなのだろう。年を重ねると大人になれるのか? それは成人であって、大人とはまた別のように思える。高校を卒業したら、大人になれるのだろうか。大人って、なんだ?
菅野先生は大人だ。間違いなく。先生だ。生徒のために働いている。立派な大人だ。
奈々海さんは大人という印象がある。でもそれは、単純に年上だからというだけではない。雰囲気というか、話す内容というか、なにかが僕とは決定的に違う部分がある。言語化はできないけど、そう思う。
浜中はどうだろう? まだ大人になる途中だと思う。挑戦して、挫折して。苦手は克服できなかったけど、得るものはあった。カナヅチを踏み台にして、浜中はこれから大人になるはずだ。きっと菅野先生みたいな、立派な大人になると思っている。
じゃあ愛梨さんは?
……愛梨さんはどうだろう。
愛梨さんは、年下の弟のために我慢する道を選ぼうとしている。やりたいことを我慢して、家族のために、弟のために働く選択をしようとしている。
すごく、立派な考えだ。
でもこれは、大人とは違う気がする。
『自分が全部我慢したらとりあえずの解決はするかもしれないけどね、それは先延ばしでしかないよ』
奈々海さんが長々と語ったなかで印象に残っている台詞が、頭の片隅にずっと佇んでいる。看板に文字として刻まれた奈々海さんの言葉が、脳味噌に突き刺さっている。たぶん、ここに奈々海さんが大人だと感じるなにかが隠れている。そのなにか、それがわからない僕は、まだ子供なのだろう。
右手が丸いものを握ろうとしている。そろそろ我慢の限界だと主張するように、右手がポケットの中で疼いている。
我慢はよくないと誰かが言っていた。
我慢するのも大人の対応と誰かが言っていた。
どっちが、正しいのだろう?
「愛梨、ここにいたの」
ぼんやりしていた僕は、背中に聞いた声に釣られて振り返った。
奈々海さんが口を開いたことに、沈黙を苦に感じていた僕は感謝した。かけるべき言葉が見つからなくて、どうしようかと困っていた。ひとまず、この場は年上の奈々海さんに任せておこう。
僕は部外者だから、黙っていよう。
「愛梨ちゃんは、どうするの?」
問いかけに背を向けた愛梨さんは、無言を返事にする。
「愛梨ちゃん、看護師さんになりたいって言ってたよね? それは、どうするの?」
垂れていた弓がぐっと持ち上がったのは、愛梨さんが左手をぎゅっと握りしめたからだった。
「カケルくんのために――夢を諦めるの?」
奈々海さんの声が、やけにはっきりと聞こえた。
脳髄に直接、語りかけられたみたいに。
どきりとした。胸が。夢という単語が、心臓を貫いた。夢という単語が、脳を埋める。
心臓が奈々海さんの声に過剰に反応して飛び跳ねたようだった。肋骨という骨組みが無かったら、体外に飛び出してしまいそうなほどに。
いきなりの心臓の収縮のせいか、頭の血液が引っ張られた。パンクしていたタイヤが高圧の空気を吹き込まれて一瞬だけ膨張してしまうみたいに、心臓がパンと膨らんだように感じた。そのせいか頭がくらくらした。背中のあたりがひんやりする。変な汗が流れる。喉が渇く。
このままここにいたら――奈々海さんの声を聞いていたら駄目だと思った。だから僕は立ち上がろうとした。でも立てなかった。慣れない正座をしたせいで、足がビリビリと痺れていた。聞きたくない。耳を塞ぎたかった。「愛梨ちゃんは、どうしたいの?」という奈々海さんの声から、逃げられない。
奈々海さんの言葉が鎖となって僕に巻きついてくる。鎖が錆びているせいか、肌がピリッとした。
へし折れた人差し指と中指では抵抗ができなかった。
「ウチは、大学には行かない。就職する。カケルの学費、稼いであげたいから」
声を振り絞った愛梨さんは肩を震わせていた。僕にはその震えの意味がわかっていた。諦めという悔しさの前で、人は、どうしても力んでしまうものだから。
立ち止まるための力の強さに、進むための強さが抵抗してしまうから。進むための強さは、進むことしかできない。進む力よりも強い力で止めないといけない。それは突撃しようとする人を羽交い絞めにするようなものなのだ。だから体が震えるのだ。それを葛藤と呼ぶのだと、僕は理解したつもりだから。
「教えてよ愛梨ちゃん。病院で愛梨ちゃんと初めて出会ったとき、愛梨ちゃん言ってたよね? 自分に知識が、力があれば助けられたのに、なにもできなかった。悔しいって。もし、通りがかった人が心肺蘇生をしてくれなかったら、カケルくんは死んでたかもしれない。怖いって、言ってたよね。あのときに決めたんでしょ? 人を助ける仕事がしたいって。いいの? もしまた事故に遭ってカケルくんの心臓が止まったら、次は本当に死んじゃうよ? それでいいの?」
ひたすらに疑問形をぶつける奈々海さんは、愛梨さんに寄り添っているのではない。𠮟っているのだ。その意図は僕でもわかる。本音を引き出そうとしている。寄り添うために、正面から向き合うために必要なことは本音を知ることで、それこそが愛梨さんと愛梨さんの家族にはきっと必要で、そのために言葉で手を差し伸べる奈々海さんが、僕にはとにかく眩しかった。
日陰で立ち止まった僕には、陽の光は鋭すぎる。照らされれば、僕という存在は呆気なく消えてしまう。アスファルトに撒かれた打ち水が一瞬で蒸発するように。
「愛梨ちゃん、自分を犠牲にすることは、素晴らしいことだとはわたしは思えない。自分が全部我慢したらとりあえずの解決はするかもしれないけどね、それは先延ばしでしかないよ。だって、愛梨ちゃんが相手のことを考えてもね、相手はあなたのことを考えているとは限らないんだよ? だからまた問題は繰り返すの。例え相手が家族だったとしても、構造が似ているだけで思考も思想も全く別の人間なんだからさ、だからこそね、自分の気持ちをちゃんと伝えるべきときがあるの。毎回我儘言うんじゃなくてね、誠意を持ってね、向き合うべきときがあるの。家族とかいう肩書きを抜きにして、言葉を交わすべきときがあるの。本心を声にしてね、言葉にして伝えて初めて、寄り添えるようになるの」
それがいまだよ。そう締めくくった奈々海さんは、胸に手を当てて息切れした呼吸を整えることに努めていた。言いたいことは全て吐き出したらしく、それ以上はなにも語らなかった。
あとは自分で決めるんだよ。息を切らしながらも微笑む奈々海さんの視線には、そういう意味があるのだと思えた。そして愛梨さんは、ほんの少しだけ振り返り、奈々海さんの視線を受け止める充血した目を、死にかけの魚みたいに泳がせた。
人生の先輩として、奈々海さんには言いたいことがあったのだ。二年、僕や愛梨さんよりも長く生きているだけで、考え方に大人っぽさが現れるのだろうか。
僕もあと二年生きて二十歳になれば、そんな立派で綺麗なことを年下に語ることができるようになるのだろうか。
それとも、奈々海さんと同じように酸素ボンベを背負うような体にならないと、大人になれないのだろうか。
年を重ねただけで僕らは大人になる。思春期の終わりに直面している僕たちは、もうすぐ大人になる予感を抱いている。大人になる僕らは、もうじき大人として振舞わなければならないのだろう。
漠然とした疑問がある。大人って、なんなのだろう。年を重ねると大人になれるのか? それは成人であって、大人とはまた別のように思える。高校を卒業したら、大人になれるのだろうか。大人って、なんだ?
菅野先生は大人だ。間違いなく。先生だ。生徒のために働いている。立派な大人だ。
奈々海さんは大人という印象がある。でもそれは、単純に年上だからというだけではない。雰囲気というか、話す内容というか、なにかが僕とは決定的に違う部分がある。言語化はできないけど、そう思う。
浜中はどうだろう? まだ大人になる途中だと思う。挑戦して、挫折して。苦手は克服できなかったけど、得るものはあった。カナヅチを踏み台にして、浜中はこれから大人になるはずだ。きっと菅野先生みたいな、立派な大人になると思っている。
じゃあ愛梨さんは?
……愛梨さんはどうだろう。
愛梨さんは、年下の弟のために我慢する道を選ぼうとしている。やりたいことを我慢して、家族のために、弟のために働く選択をしようとしている。
すごく、立派な考えだ。
でもこれは、大人とは違う気がする。
『自分が全部我慢したらとりあえずの解決はするかもしれないけどね、それは先延ばしでしかないよ』
奈々海さんが長々と語ったなかで印象に残っている台詞が、頭の片隅にずっと佇んでいる。看板に文字として刻まれた奈々海さんの言葉が、脳味噌に突き刺さっている。たぶん、ここに奈々海さんが大人だと感じるなにかが隠れている。そのなにか、それがわからない僕は、まだ子供なのだろう。
右手が丸いものを握ろうとしている。そろそろ我慢の限界だと主張するように、右手がポケットの中で疼いている。
我慢はよくないと誰かが言っていた。
我慢するのも大人の対応と誰かが言っていた。
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「愛梨、ここにいたの」
ぼんやりしていた僕は、背中に聞いた声に釣られて振り返った。
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