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第二十八話 弓道場

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 もしかしたらプールにシュノーケルが置かれている可能性も考慮して、合宿から帰ってきたらしい部員がまばらに泳いでいるプールを覗いてみた。名前だけ知っている後輩がいたので、なにか忘れ物がないかと聞いてはみたけど、特になにもないです、と周囲を確認することもなく答えられたので、僕は軽い礼を伝えてプールから離れた。

 今の時刻は午前十時前。歩くだけで汗が流れ始める気温になってきた。浜中に電話をかけようとはしたものの、もしかしたらまだ寝ているかもしれないな、と思い、昼過ぎにかけることにした。休日の安眠を妨害されるのは僕も嫌である。あとは、昼までの時間をどう過ごすか、という問題を考えるだけになった。

 瞼の裏に『進路希望』と印字されたプリントがこびりついているが、教室に向かう気は微塵も湧かなかった。なぜなら、教室には誰もいないからだ。エアコンすら動いていない教室で、それも一人でなにかをするなど、ただの拷問のように思う。

「体育館の地下倉庫……か」

 ふと脳裏にちらついた単語を口の中で噛みしめてみる。ただの言葉だから、味があるとか歯ごたえがあるとかそういう話ではないけれど、噛めば噛むほど味に深みがましてくるみたいに、どうにも体育館の地下倉庫の存在への興味が強くなってきた。

 菅野先生が職員室にいたなら、バレーボール部は休みだろうか? あとはバスケ部がいるかもしれない。さすがに制服姿で体育館に入るのは目立ちそうだ。でも直接見に行くのなら、日中しかチャンスはなさそうだし……。

 スパンッ。

「……ん?」

 耳当たりの良い軽快な音が聞こえた。なにか細いものがどこかに刺さったような、そんな音だった。

 自然と足を止めた僕は音が聞こえた方向を見やった。そこには戦国時代の城壁みたいな白壁に囲まれた建物があった。

「弓道……」

 ここ数年、部員が過疎り気味だという弓道部は、少人数しかいないながらも個人戦で結果を残していると聞いた。そもそも弓道場を敷地内に置いている学校も珍しいものだから、僕も新入生のときに見学だけはした。もっとも、曲がった指では矢を引けそうになかったから、体験入部は早々に断念したものだ。

 弓道場の入口は古民家の玄関みたいな風貌をしていて、木製らしい引き戸は全開になっていた。だから、中の様子がちらりと視界に映った。

 別に弓道に興味があるわけではない。

 でも、黒髪をポニーテールにまとめて弓を構える姿を見つけたとき、僕の足は弓道場に吸い込まれていた。

 白の胴着に黒の袴、そして胸当てをして左手に弓を握った女性は、背中から耳、そして鼻にまで透明な管を這わせていた。その特徴的な格好だけでその人が奈々海さんであることはすぐにわかったけれど、何人も近づくことが許されないような集中力がオーラのように溢れていて、息を潜めた僕は奈々海さんの姿を遠目に眺めることしかできなかった。

 奈々海さんの視線は奥の的にだけに注がれている。白い的には黒の円が三つ書かれていて、的の右下にはすでに一本の矢が刺さっていた。奈々海さんは的を見つめたまま微動だにしない。すごい集中力だ、と感心していた僕は、全く別の視線が飛んできたことに気がついた。

 奈々海さんにばっかり気を取られていたけれど、奈々海さんの隣で正座をしている女性がいた。なんとなく見たことがあるなと思い、よく目を凝らしていると、うなじのあたりでまとめた茶髪を左肩にのせている胴着姿の女性は、僕に対して邪魔をするなと言いたげに人差し指を唇に当てていた。

 無論、邪魔をする勇気なぞ持ち合わせていなかったので、そのまま黙って奈々海さんのことを見守った。

 矢をつがえた奈々海さんは、本当にゆっくりと弓を引き絞った。弓を限界まで引く腕が小刻みに震えている。それでも奈々海さんは弓を引く姿勢を保ったまま、呼気を封じるほどの集中を永遠とも感じるほど続けていた。

 パンッと音が響いたとき、目で追えない速度で矢が放たれた。

 スパンッ!

 矢は、的の中心よりも少しだけ左にずれて刺さった。

 思わず拍手をしそうになった。でも、一言も喋らず、喜びすら見せない奈々海さんがお辞儀をする姿を見てしまえば、称賛すらも場違いな空間であることを思い知らされる。声をかけるタイミングも、ここから離れるタイミングも見失ってしまい、どうしようかと立ち尽くしていると、頭を上げた奈々海さんが僕のことに気がついた。

「ありゃ。宮部くん。どうしたの?」

 人格が入れ替わったのかと思えるほど、張り詰めていた奈々海さんの雰囲気は朗らかになっていた。
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