上 下
21 / 69

第二十一話 特訓の成果

しおりを挟む
 浜中の意識が復活したのは、五分後くらいのことだった。ぼけっとした焦点をさまよわせた浜中は、菅野先生の「大丈夫か?」という声を無視して、プールの底を覗き込んでいた。

「宮部、ありがとう。それからごめん」

 浜中がそんなことを言ったのは、さらに五分経ったくらいのときだった。プールサイドに座り込んだ浜中の右横に座っていた僕は、「なにがさ」とさりげなく聞き返してみた。

「わかったんだ。なんだったのか。しかも、解決した。宮部のおかげだよ」

「……ん? なんの話?」

「……個人的な話さ」

「そっか」

 浜中がなにを納得したのかわからなかったけれど、満足気に微笑む浜中の横顔を眺めた僕は、まあいっか、と深掘りしないことにした。真上から降り注いでくる陽の光が僕と浜中を包んでくれることがどこか清々しく、浜中の背中にしがみついていた水滴たちをきらきらと輝かせる夏の太陽も、今だけは嫌いではないかな、と僕は一人で考えていた。

 僕の背中もきらきらと輝いてくれているだろうか。

「満足か? 浜中」

 菅野先生が浜中の左隣に腰を下ろす。菅野先生はずぶ濡れのジャージ姿のままで、着替えにいく素振りも見せていない。自分のことよりも、生徒のことに集中しているようだった。

 菅野先生をちらりと見やった浜中は、「菅野先生、すみませんでした」と言うと腰を折るようにして顔を伏せた。

 そんな浜中のことを、菅野先生は横目に見つめていた。

「ああ? なにも謝ることないだろ」

「いえ。そういうわけにもいきません。これだけ迷惑をかけましたから」

「仕事しただけだよ。これで、生徒が目標を達成できるなら、俺は教師の鏡ってことで、胸張れるだろ」

 ふふん、とドヤ顔をした菅野先生は、浜中の頭をわしゃわしゃと撫でる。どんなに撫でられても、浜中はじっと動かなかった。やがて大人らしい大きな手が離れても、浜中はまだ頭を下げたままだった。

「やっぱり、力、及びませんでした」

 ぼそりと呟いた浜中の声に、菅野先生はなにも言わなかった。浜中は、「勝てなかった」と続けた。

「恐怖が、目で見てわかるハードルだったらいいのに。ずっと、そう考えていました。挑戦する前に、壁の高さがわかればいいのにと、考えていました。でも実際は、飛んでみるまでハードルの高さはわからなくて。呆気なく飛び越えることもあれば、絶対に飛べないほど高いことだってある。それは、助走をつけて踏み切るまでわからないものだった。さっき、はっきりと理解しました。自分は、泳げません。いえ、泳いだらいけないのです」

 浜中はきっぱりと言い切った。もう確信があるかのような力強い声音だった。なにを言ったところで浜中の考えを変えることは不可能だと悟らせるような、そんな響きがあった。

 泳げないのではなく、泳いではいけない。

 一体、どういう意味なのだろう。

 理解できなかった僕は、なにかヒントになるものがないかと周囲を見渡した。僕の右横に座っていた奈々海さんも、考え込むように黙り込んでいた。

 奈々海さんが唇を噛んでいることも、僕には意味がわからなかった。

 この中で僕だけが置いていかれているような、そんな感覚になる。

「右目がなくても」

 菅野先生がぼやくように言うと、浜中はビクッと肩を震わせた。腕を組んだ菅野先生は瞼を下ろしていたのだけれど、僕は菅野先生の右目が気になった。

 瞼のあたりに古い傷痕があった。

 まさか、と僕が勘繰ると、菅野先生が「左目がある」と言い放った。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

切り札の男

古野ジョン
青春
野球への未練から、毎日のようにバッティングセンターに通う高校一年生の久保雄大。 ある日、野球部のマネージャーだという滝川まなに野球部に入るよう頼まれる。 理由を聞くと、「三年の兄をプロ野球選手にするため、少しでも大会で勝ち上がりたい」のだという。 そんな簡単にプロ野球に入れるわけがない。そう思った久保は、つい彼女と口論してしまう。 その結果、「兄の球を打ってみろ」とけしかけられてしまった。 彼はその挑発に乗ってしまうが…… 小説家になろう・カクヨム・ハーメルンにも掲載しています。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

亡き少女のためのベルガマスク

二階堂シア
青春
春若 杏梨(はるわか あんり)は聖ヴェリーヌ高等学校音楽科ピアノ専攻の1年生。 彼女はある日を境に、人前でピアノが弾けなくなってしまった。 風紀の厳しい高校で、髪を金色に染めて校則を破る杏梨は、クラスでも浮いている存在だ。 何度注意しても全く聞き入れる様子のない杏梨に業を煮やした教師は、彼女に『一ヶ月礼拝堂で祈りを捧げる』よう反省を促す。 仕方なく訪れた礼拝堂の告解室には、謎の男がいて……? 互いに顔は見ずに会話を交わすだけの、一ヶ月限定の不思議な関係が始まる。 これは、彼女の『再生』と彼の『贖罪』の物語。

小学生をもう一度

廣瀬純一
青春
大学生の松岡翔太が小学生の女の子の松岡翔子になって二度目の人生を始める話

秘密のキス

廣瀬純一
青春
キスで体が入れ替わる高校生の男女の話

プレッシャァー 〜農高校球児の成り上がり〜

三日月コウヤ
青春
父親の異常な教育によって一人野球同然でマウンドに登り続けた主人公赤坂輝明(あかさかてるあき)。 父の他界後母親と暮らすようになり一年。母親の母校である農業高校で個性の強いチームメイトと生活を共にしながらありきたりでありながらかけがえのないモノを取り戻しながら一緒に苦難を乗り越えて甲子園目指す。そんなお話です *進行速度遅めですがご了承ください *この作品はカクヨムでも投稿しております

僕が美少女になったせいで幼馴染が百合に目覚めた

楠富 つかさ
恋愛
ある朝、目覚めたら女の子になっていた主人公と主人公に恋をしていたが、女の子になって主人公を見て百合に目覚めたヒロインのドタバタした日常。 この作品はハーメルン様でも掲載しています。

処理中です...