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第二十一話 特訓の成果
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浜中の意識が復活したのは、五分後くらいのことだった。ぼけっとした焦点をさまよわせた浜中は、菅野先生の「大丈夫か?」という声を無視して、プールの底を覗き込んでいた。
「宮部、ありがとう。それからごめん」
浜中がそんなことを言ったのは、さらに五分経ったくらいのときだった。プールサイドに座り込んだ浜中の右横に座っていた僕は、「なにがさ」とさりげなく聞き返してみた。
「わかったんだ。なんだったのか。しかも、解決した。宮部のおかげだよ」
「……ん? なんの話?」
「……個人的な話さ」
「そっか」
浜中がなにを納得したのかわからなかったけれど、満足気に微笑む浜中の横顔を眺めた僕は、まあいっか、と深掘りしないことにした。真上から降り注いでくる陽の光が僕と浜中を包んでくれることがどこか清々しく、浜中の背中にしがみついていた水滴たちをきらきらと輝かせる夏の太陽も、今だけは嫌いではないかな、と僕は一人で考えていた。
僕の背中もきらきらと輝いてくれているだろうか。
「満足か? 浜中」
菅野先生が浜中の左隣に腰を下ろす。菅野先生はずぶ濡れのジャージ姿のままで、着替えにいく素振りも見せていない。自分のことよりも、生徒のことに集中しているようだった。
菅野先生をちらりと見やった浜中は、「菅野先生、すみませんでした」と言うと腰を折るようにして顔を伏せた。
そんな浜中のことを、菅野先生は横目に見つめていた。
「ああ? なにも謝ることないだろ」
「いえ。そういうわけにもいきません。これだけ迷惑をかけましたから」
「仕事しただけだよ。これで、生徒が目標を達成できるなら、俺は教師の鏡ってことで、胸張れるだろ」
ふふん、とドヤ顔をした菅野先生は、浜中の頭をわしゃわしゃと撫でる。どんなに撫でられても、浜中はじっと動かなかった。やがて大人らしい大きな手が離れても、浜中はまだ頭を下げたままだった。
「やっぱり、力、及びませんでした」
ぼそりと呟いた浜中の声に、菅野先生はなにも言わなかった。浜中は、「勝てなかった」と続けた。
「恐怖が、目で見てわかるハードルだったらいいのに。ずっと、そう考えていました。挑戦する前に、壁の高さがわかればいいのにと、考えていました。でも実際は、飛んでみるまでハードルの高さはわからなくて。呆気なく飛び越えることもあれば、絶対に飛べないほど高いことだってある。それは、助走をつけて踏み切るまでわからないものだった。さっき、はっきりと理解しました。自分は、泳げません。いえ、泳いだらいけないのです」
浜中はきっぱりと言い切った。もう確信があるかのような力強い声音だった。なにを言ったところで浜中の考えを変えることは不可能だと悟らせるような、そんな響きがあった。
泳げないのではなく、泳いではいけない。
一体、どういう意味なのだろう。
理解できなかった僕は、なにかヒントになるものがないかと周囲を見渡した。僕の右横に座っていた奈々海さんも、考え込むように黙り込んでいた。
奈々海さんが唇を噛んでいることも、僕には意味がわからなかった。
この中で僕だけが置いていかれているような、そんな感覚になる。
「右目がなくても」
菅野先生がぼやくように言うと、浜中はビクッと肩を震わせた。腕を組んだ菅野先生は瞼を下ろしていたのだけれど、僕は菅野先生の右目が気になった。
瞼のあたりに古い傷痕があった。
まさか、と僕が勘繰ると、菅野先生が「左目がある」と言い放った。
「宮部、ありがとう。それからごめん」
浜中がそんなことを言ったのは、さらに五分経ったくらいのときだった。プールサイドに座り込んだ浜中の右横に座っていた僕は、「なにがさ」とさりげなく聞き返してみた。
「わかったんだ。なんだったのか。しかも、解決した。宮部のおかげだよ」
「……ん? なんの話?」
「……個人的な話さ」
「そっか」
浜中がなにを納得したのかわからなかったけれど、満足気に微笑む浜中の横顔を眺めた僕は、まあいっか、と深掘りしないことにした。真上から降り注いでくる陽の光が僕と浜中を包んでくれることがどこか清々しく、浜中の背中にしがみついていた水滴たちをきらきらと輝かせる夏の太陽も、今だけは嫌いではないかな、と僕は一人で考えていた。
僕の背中もきらきらと輝いてくれているだろうか。
「満足か? 浜中」
菅野先生が浜中の左隣に腰を下ろす。菅野先生はずぶ濡れのジャージ姿のままで、着替えにいく素振りも見せていない。自分のことよりも、生徒のことに集中しているようだった。
菅野先生をちらりと見やった浜中は、「菅野先生、すみませんでした」と言うと腰を折るようにして顔を伏せた。
そんな浜中のことを、菅野先生は横目に見つめていた。
「ああ? なにも謝ることないだろ」
「いえ。そういうわけにもいきません。これだけ迷惑をかけましたから」
「仕事しただけだよ。これで、生徒が目標を達成できるなら、俺は教師の鏡ってことで、胸張れるだろ」
ふふん、とドヤ顔をした菅野先生は、浜中の頭をわしゃわしゃと撫でる。どんなに撫でられても、浜中はじっと動かなかった。やがて大人らしい大きな手が離れても、浜中はまだ頭を下げたままだった。
「やっぱり、力、及びませんでした」
ぼそりと呟いた浜中の声に、菅野先生はなにも言わなかった。浜中は、「勝てなかった」と続けた。
「恐怖が、目で見てわかるハードルだったらいいのに。ずっと、そう考えていました。挑戦する前に、壁の高さがわかればいいのにと、考えていました。でも実際は、飛んでみるまでハードルの高さはわからなくて。呆気なく飛び越えることもあれば、絶対に飛べないほど高いことだってある。それは、助走をつけて踏み切るまでわからないものだった。さっき、はっきりと理解しました。自分は、泳げません。いえ、泳いだらいけないのです」
浜中はきっぱりと言い切った。もう確信があるかのような力強い声音だった。なにを言ったところで浜中の考えを変えることは不可能だと悟らせるような、そんな響きがあった。
泳げないのではなく、泳いではいけない。
一体、どういう意味なのだろう。
理解できなかった僕は、なにかヒントになるものがないかと周囲を見渡した。僕の右横に座っていた奈々海さんも、考え込むように黙り込んでいた。
奈々海さんが唇を噛んでいることも、僕には意味がわからなかった。
この中で僕だけが置いていかれているような、そんな感覚になる。
「右目がなくても」
菅野先生がぼやくように言うと、浜中はビクッと肩を震わせた。腕を組んだ菅野先生は瞼を下ろしていたのだけれど、僕は菅野先生の右目が気になった。
瞼のあたりに古い傷痕があった。
まさか、と僕が勘繰ると、菅野先生が「左目がある」と言い放った。
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