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第八話 菅野先生
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今日も金属バットから甲高い音が鳴り響いていて、僕は昨日と同じ光景を横目に眺めていた。
課題の続きをしているらしい奈々海さんは、いつものように酸素ボンベが入ったリュックを足元に置き、そこから伸びる透明な管を、耳を経由してから鼻に挿していた。
シャーペンの芯が文字に変貌する音色と、グラウンドで叫んでいる運動部の声、あと背後の扇風機から羽音が聞こえてくる。僕は机の上に置いた『進路希望』のプリントには一切手を触れず、奈々海さんの横顔をこっそり覗いていた。
「今日も消しゴム忘れたの?」
奈々海さんはシャーペンを握った手を休めることなく、課題に目を向けたままいきなり声を発した。一瞬、誰に向けての声なのだろう、と思ったけど、教室にいるのが奈々海さんと僕だけだという事実を鑑みれば、言葉の宛て先は僕しかありえなかった。
へその向きは黒板なのに、どうして気づかれたのだろう。奈々海さんが集中しているときを狙ったのに。敗因を探ろうとしたけれど、「どうなの?」と奈々海さんが返答を急いてきたから、「シャー芯くれない?」と僕はひとまず返した。
「……何ミリ?」
手を止めた奈々海さんが横目で窺ってきたので、僕は三本指を立てて「三」と伝えた。
「うぇ、高いんだよ? 細いのは」
「助かる」
「まだあげるって言ってないけど……」
言いつつも奈々海さんはペンケースの中を漁り、シャーペンの予備の芯が入っているプラスチックの容器をいくつか取り出してから、張りつけられていたラベルを見比べた。残っている芯が一番少ない容器の蓋を開けると、一本のシャーペンの芯をつまみだし、それを僕に差し出してくれた。
「もってけ泥棒」
唇を尖らせつつも口角を緩める奈々海さんの表情は、しょうがないなぁと言いたげだった。クラスメイトなのに年上の包容力を解き放つ奈々海さんに思わずどきりとしてしまったけど、よく考えれば奈々海さんは二つも年上なのだから、学校の先輩と置き換えてみれば至極当然の雰囲気なのだ。だから別に、僕が変にどきまぎしているのも――。
「いらないの?」
首を傾げた奈々海さんに見惚れていた視線を無理やり剥がした僕は、「貰う」と答えてから左手をそろりと伸ばした。
僕と奈々海さんはシャーペンの芯の両端をお互いにつまんでいた。ちょっとでも力加減を間違えれば折れてしまう芯は、短いようでとても長くも感じる。脆いことだけは確信があるのに、長さだけは実体がわからないような、そんな感覚がまどろっこしく思えた。
これが、奈々海さんとの距離感なのだと思った。なにかのきっかけ一つで簡単にへし折られる関係。それは、どちらかが力加減を誤るだけで起きてしまう事象。たとえ距離が近いとしても、近づくためには相応の覚悟が必要なのだ。なのに、なるべく急がないと芯は摩耗して自然に折れてしまう。
そして、文字を記すという役目を終えれば芯は消えて無くなる。記した文字すらも、いつかは掻き消される。
奈々海さんの芯は、あとどのくらい残っていて、どのくらいの文字を残しているのだろう。
鼻に管を挿した奈々海さんの顔を直視できなくなった僕は、彼女の体に巻きついている管を目で追いかけた。
黒生地のリュックはチャックが閉められているから中身を見ることはできないけれど、奈々海さんがリュックを床に下ろすたび、ずっしりとした金属の重量感が、ごつんと鳴る音で伝わってくる。
不便だね、そう言うことは失礼に値するだろう。
奈々海さんは、背中に酸素ボンベを背負うから元気に学校に通えている。もし、酸素が無かったらどうなるのか。疑問には思うけれど聞くことはできない。
もし、死んじゃうよ、なんて言われたら、どんな顔をしたらいいのかがわからないし、そもそもそんな日は絶対に――
「ねぇ? 手、離してもいい?」
奈々海さんの問いかけに瞬いた僕は、「どうぞ」と言った。すぐに奈々海さんの手は離れて、僕は奈々海さんから受け取ったシャーペンの芯を無言で眺めた。
「そんなに見つめても、二本目はあげません」
「……ケチ」
「んなっ、人から貰っておいてなんだいその態度は?」
唇をへの字にした奈々海さんは、腕組みをしてから首を伸ばすみたいに顔を寄せてきた。濃褐色の瞳がじとりと見つめてきて、また胸がどきりと鳴る。僕は高鳴った胸を隠すべく、「冗談冗談、ありがたき幸せ」とだけ口走り、「ま、いいけど」とにこりと微笑んだ奈々海さんの顔だけは見ないように心掛けた。
それからは特に会話をすることもなく、奈々海さんがシャーペンの芯を削る音を聞き続けた。今日も僕は、進路希望と書かれているプリントに手をつけることはなかった。
十二時に差し掛かるときだった。
ガラッと教室の扉が開いた。僕も奈々海さんも、突然の訪問者に身動きを止め、教室の入口に顔を向けた。
「お、今日もおまえらだけか」
教室に入ってきたのは、ジャージ姿で首にホイッスルをかけた男性だった。頭を屈めないと教室入口の上縁に頭をぶつけてしまうほど背が高い男の顔を見たとき、僕は瞬時に帰るタイミングを逃したと内心で悔やんだ。やっちまったか、と唸る僕の横で、奈々海さんが「菅野先生、こんにちは」と男性に挨拶をした。
「おう、元気そうだな、原井。宮部はぁ? ははん、愛想悪いぞぉ?」
友達に話しかけるみたいな口調でにやにやしているこの男性は、菅野恭治という名前の体育教師であり、僕と奈々海さんの担任を務める先生だ。モヒカン風の頭髪にバレー部のエースですら見上げる高身長も相まって威圧感があるものの、砕けた雰囲気で接してくれるから、教師陣のなかでも生徒からの人気はわりとある。今年で三十路を迎える菅野先生だが、はきはき動ける身軽さは二十代のままだ。
菅野先生は顧問をしているバレーボール部につきっきりで、奈々海さんのように補習を受けている生徒がいても、朝と昼過ぎに顔を見せてあとは自習という形にすることが多いので、いつも僕は、昼過ぎに菅野先生が覗きに来る前に退散していた。
だがしかし、どうやら今日は、菅野先生に先回りされたようだった。
ずかずかと迫ってきた菅野先生は、ちらり、空欄が目立つ進路希望のプリントを見下ろした。
なにか言われるだろうか。そう身構えた僕だったけれど、菅野先生の興味は別に逸れていて、なにか悩むように眉をひそめた菅野先生に僕は拍子抜けした。
「おまえら、このあと、ちょっと時間あるか? 頼みがある」
生真面目な顔で意味深なことを言われた僕と奈々海さんは、知らずのうちにも顔を見合わせていた。
課題の続きをしているらしい奈々海さんは、いつものように酸素ボンベが入ったリュックを足元に置き、そこから伸びる透明な管を、耳を経由してから鼻に挿していた。
シャーペンの芯が文字に変貌する音色と、グラウンドで叫んでいる運動部の声、あと背後の扇風機から羽音が聞こえてくる。僕は机の上に置いた『進路希望』のプリントには一切手を触れず、奈々海さんの横顔をこっそり覗いていた。
「今日も消しゴム忘れたの?」
奈々海さんはシャーペンを握った手を休めることなく、課題に目を向けたままいきなり声を発した。一瞬、誰に向けての声なのだろう、と思ったけど、教室にいるのが奈々海さんと僕だけだという事実を鑑みれば、言葉の宛て先は僕しかありえなかった。
へその向きは黒板なのに、どうして気づかれたのだろう。奈々海さんが集中しているときを狙ったのに。敗因を探ろうとしたけれど、「どうなの?」と奈々海さんが返答を急いてきたから、「シャー芯くれない?」と僕はひとまず返した。
「……何ミリ?」
手を止めた奈々海さんが横目で窺ってきたので、僕は三本指を立てて「三」と伝えた。
「うぇ、高いんだよ? 細いのは」
「助かる」
「まだあげるって言ってないけど……」
言いつつも奈々海さんはペンケースの中を漁り、シャーペンの予備の芯が入っているプラスチックの容器をいくつか取り出してから、張りつけられていたラベルを見比べた。残っている芯が一番少ない容器の蓋を開けると、一本のシャーペンの芯をつまみだし、それを僕に差し出してくれた。
「もってけ泥棒」
唇を尖らせつつも口角を緩める奈々海さんの表情は、しょうがないなぁと言いたげだった。クラスメイトなのに年上の包容力を解き放つ奈々海さんに思わずどきりとしてしまったけど、よく考えれば奈々海さんは二つも年上なのだから、学校の先輩と置き換えてみれば至極当然の雰囲気なのだ。だから別に、僕が変にどきまぎしているのも――。
「いらないの?」
首を傾げた奈々海さんに見惚れていた視線を無理やり剥がした僕は、「貰う」と答えてから左手をそろりと伸ばした。
僕と奈々海さんはシャーペンの芯の両端をお互いにつまんでいた。ちょっとでも力加減を間違えれば折れてしまう芯は、短いようでとても長くも感じる。脆いことだけは確信があるのに、長さだけは実体がわからないような、そんな感覚がまどろっこしく思えた。
これが、奈々海さんとの距離感なのだと思った。なにかのきっかけ一つで簡単にへし折られる関係。それは、どちらかが力加減を誤るだけで起きてしまう事象。たとえ距離が近いとしても、近づくためには相応の覚悟が必要なのだ。なのに、なるべく急がないと芯は摩耗して自然に折れてしまう。
そして、文字を記すという役目を終えれば芯は消えて無くなる。記した文字すらも、いつかは掻き消される。
奈々海さんの芯は、あとどのくらい残っていて、どのくらいの文字を残しているのだろう。
鼻に管を挿した奈々海さんの顔を直視できなくなった僕は、彼女の体に巻きついている管を目で追いかけた。
黒生地のリュックはチャックが閉められているから中身を見ることはできないけれど、奈々海さんがリュックを床に下ろすたび、ずっしりとした金属の重量感が、ごつんと鳴る音で伝わってくる。
不便だね、そう言うことは失礼に値するだろう。
奈々海さんは、背中に酸素ボンベを背負うから元気に学校に通えている。もし、酸素が無かったらどうなるのか。疑問には思うけれど聞くことはできない。
もし、死んじゃうよ、なんて言われたら、どんな顔をしたらいいのかがわからないし、そもそもそんな日は絶対に――
「ねぇ? 手、離してもいい?」
奈々海さんの問いかけに瞬いた僕は、「どうぞ」と言った。すぐに奈々海さんの手は離れて、僕は奈々海さんから受け取ったシャーペンの芯を無言で眺めた。
「そんなに見つめても、二本目はあげません」
「……ケチ」
「んなっ、人から貰っておいてなんだいその態度は?」
唇をへの字にした奈々海さんは、腕組みをしてから首を伸ばすみたいに顔を寄せてきた。濃褐色の瞳がじとりと見つめてきて、また胸がどきりと鳴る。僕は高鳴った胸を隠すべく、「冗談冗談、ありがたき幸せ」とだけ口走り、「ま、いいけど」とにこりと微笑んだ奈々海さんの顔だけは見ないように心掛けた。
それからは特に会話をすることもなく、奈々海さんがシャーペンの芯を削る音を聞き続けた。今日も僕は、進路希望と書かれているプリントに手をつけることはなかった。
十二時に差し掛かるときだった。
ガラッと教室の扉が開いた。僕も奈々海さんも、突然の訪問者に身動きを止め、教室の入口に顔を向けた。
「お、今日もおまえらだけか」
教室に入ってきたのは、ジャージ姿で首にホイッスルをかけた男性だった。頭を屈めないと教室入口の上縁に頭をぶつけてしまうほど背が高い男の顔を見たとき、僕は瞬時に帰るタイミングを逃したと内心で悔やんだ。やっちまったか、と唸る僕の横で、奈々海さんが「菅野先生、こんにちは」と男性に挨拶をした。
「おう、元気そうだな、原井。宮部はぁ? ははん、愛想悪いぞぉ?」
友達に話しかけるみたいな口調でにやにやしているこの男性は、菅野恭治という名前の体育教師であり、僕と奈々海さんの担任を務める先生だ。モヒカン風の頭髪にバレー部のエースですら見上げる高身長も相まって威圧感があるものの、砕けた雰囲気で接してくれるから、教師陣のなかでも生徒からの人気はわりとある。今年で三十路を迎える菅野先生だが、はきはき動ける身軽さは二十代のままだ。
菅野先生は顧問をしているバレーボール部につきっきりで、奈々海さんのように補習を受けている生徒がいても、朝と昼過ぎに顔を見せてあとは自習という形にすることが多いので、いつも僕は、昼過ぎに菅野先生が覗きに来る前に退散していた。
だがしかし、どうやら今日は、菅野先生に先回りされたようだった。
ずかずかと迫ってきた菅野先生は、ちらり、空欄が目立つ進路希望のプリントを見下ろした。
なにか言われるだろうか。そう身構えた僕だったけれど、菅野先生の興味は別に逸れていて、なにか悩むように眉をひそめた菅野先生に僕は拍子抜けした。
「おまえら、このあと、ちょっと時間あるか? 頼みがある」
生真面目な顔で意味深なことを言われた僕と奈々海さんは、知らずのうちにも顔を見合わせていた。
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