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第五話 帰り道
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コインパーキングの入口横に設置された自販機の前で、僕は鞄の中に入れておいたはずの財布が無くなっていることに気がついた。
「あー、そうだ、机の中だ……」
奈々海さんといくつか会話したあと、僕はなんともいえない微妙な空気感に負け、十二時が過ぎたあたりで帰ることにした。昼食も用意していなかったし、帰る口実ができたからそそくさと逃げてきたのに、帰ることに夢中になったせいか忘れ物をしてしまったようだった。
熱気そのものが質量を帯びているかのように思えるほど重くなった頭で天を仰いだ僕は、財布を取りに戻るため来た道を引き返すか、このまま家に帰るかの二択を天秤にかけた。家の鍵も財布の中に放り込んだことを思い出せば、ぐらぐらと揺れていた脳内の天秤は瞬時に傾く。
歩くのも億劫になるほどの日差しを睨んだところで眩しさが百倍になって返ってくるだけだから、大人しく、照り返しを直角に飛ばしてくる地面を耐えることにした。
「暑すぎだろ……どうなってんだこの国……」
熱線から眼球を守りたがる瞼のせいで半目になる。狭まった視界でも僅かな日陰を見逃さない。青々と夏色に染まった街路樹の下を好んで歩いた。手のひら状に裂けたような葉っぱは、秋になれば黄昏の空よりも赤くなるけれど、いまは降り注ぐ太陽光を一心不乱に受け止めるためか、青い空よりも青が似合う緑色が輝いていた。
四車線道路をまばらに行き交う車は一様に窓を閉めきっていて、エンジン音よりも騒がしいコンプレッサーの音をかき鳴らしながら僕の横を通り過ぎていった。差し掛かったバス停でバスが止まると、自動で扉が開き、冷蔵庫の中みたいにまで冷やされた車内の空気が飛び出してきてくれた。歩く速度を緩めた僕のことをバスの運転手がじっと注視してきたけれど、僕がバスに乗るつもりがないと判断したのかとっとと自動ドアを閉めてしまい、次の瞬間にはバスのエンジンが吐く熱波に顔面を殴られた。
冷気に触れたぶん、余計に暑さが厳しくなったと感じた。蝉の鳴き声すら暑さに悶える悲鳴に聞こえてしまうほどの獄炎の中を、僕は歩き続けた。
横断歩道を渡ると川を跨ぐ橋に足を踏み入れることになった。金属製のように見える赤紫色の橋の欄干では頭上の太陽が分身となって輝いていて、迂闊に触れてしまえば火傷待ったなしだ。体育の授業で走らされた五十メートル走よりも長そうな橋に日陰なんてものは存在せず、少しでも暑さを紛らわせたくて、照り返しが幾分かマシな点字ブロックの上をひたすら歩いた。
「そういや消しゴム、返してないな……」
暑さでぼんやりする頭が考えていたのは、さきほどの奈々海さんとの会話だった。
奈々海さんは、たぶん予備で持っていた消しゴムを貸してくれたとは思うけど、もし借りた消しゴム一個しか持っていなかったらどうしようかと一抹の不安がお化けみたいにひっそりと湧いてきた。財布を取りに戻るついでに返そうか。でも、わざわざ返しに戻ってきたと思われるのは、なんだか恥ずかしいような……。
思考がぐるぐるしている間にも橋を渡り終えてしまう。直進していた進路を真横に曲げ、川沿いに伸びている細道に入る。
川沿いには電柱よりも高くのびのびと育った木が生えているから、一方通行になっている一車線道路のほどんどが日陰の中に入っていた。
消えかけの白線を踏みながら歩いていると、芝生を逆さまにしたような、長細く垂れ下がった葉が耳をくすぐってきた。ゆらゆらと揺蕩うだらしない葉を眺めれば、その向こう側で閑寂に流れている川の水面が真上から差してくる外光を曲げに捻じ曲げてきらきらと輝き、木の葉の陰に隠れていた僕の目は眩んだ。
網膜にこびりついた残光を鬱陶しく感じた。残光が視界を暗くするいまなら青空も見上げられるかと思って木漏れ日を見上げてみたけれど、余計に目が眩むだけだったから、すぐに視界がアスファルト一色になるように顔を伏せた。
「……ません、わからなくて」
顔を伏せたまま歩いていると知っている声が聞こえた。僕は、鼻頭から垂れ落ちそうだった汗の粒を左手の甲で拭ってから顔を上げた。
「そういうの、詳しくなくて」
奈々海さん?
奈々海さんの声が聞こえる。けれど、僕の目に映っているのは中肉中背の男性の背中だけで、奈々海さんの姿はどこにも見えなかった。どこだろう。周りを見渡しながら歩いていると、立ち止まっていた男性のサングラスとマスクをした横顔が見えた。そのとき、男性を見上げる女性がいることに気がついた。
耳にかけた透明な管を鼻に挿しているポニーテールの女性は、黒生地のリュックを背負っていた。
奈々海さんだ。
「他に詳しい人はいないかな?」
男性に問いかけられた奈々海さんは、眉をハの字みたいにひそめていた。
「えっと……」
返答に困った様子の奈々海さんが目を泳がせたとき、僕と奈々海さんの視線が絡んだ。
助けて、そう言われているような気がしてしまえば、顔が火照るような熱気に包まれた。
明らか救いを求めている伏せがちな目線を無視するわけにもいかず、僕は脇汗が倍になったような感触を堪えながら奈々海さんと男性の間に立った。
「すみません、連れになにか?」
胃がきゅっと引き締まる緊張感に支配されていたものの、せり上がった両肩から気合いで吐き出した声は、なんとか震えることを我慢してくれていた。
そのおかげか、サングラスとマスクをした男性はたじろぐ仕草を見せ、「いや……」と一歩だけ後ずさりをした。
「別にたいしたことではないから……。すまないね、なんでもない」
そう言い切る前に男性は背中を向けて歩き始めていた。白髪がぽつぽつと目立つ後頭部が離れていく。四十、いや五十代くらいの人だろうか。こんな暑さでよくマスクを着けていられるものだ。なんにせよ、なにも起きなくて良かったと、ほっと一息を吐けた。
見知らぬ男性の背中が見えなくなると、「ふぃ~」と気の抜けた声が聞こえた。
「助かったよ。ありがと、宮部くん」
奈々海さんは、緊張から解放されたように両肩を落としていて、口角を緩めたまま僕の顔を見上げてきていた。透明な管の下で汗ばんでいる頬が、少しだけ紅潮していた。
「なに話してたの?」
問うと、奈々海さんは「わかんない」と首を傾げた。
「その制服、近くの生徒さんだよねって話しかけられてさ」
そう奈々海さんが言うものだから、僕の視線は自然と下がっていった。奈々海さんは、白の半袖シャツに赤の紐リボン、それとチェック柄のスカートが膝頭を隠す、どこにでもいる女子高校生という服装だった。それより目立つのが、奈々海さんの鼻まで伸びている管が背負っているリュックに繋がっていることだった。
「宮部くんは」
名を呼ばれたとき、いきなりぶわっと吹き付けてきた風が、垂れ下がった木の葉をざわっと揺らした。
「幽霊って、信じる?」
「あー、そうだ、机の中だ……」
奈々海さんといくつか会話したあと、僕はなんともいえない微妙な空気感に負け、十二時が過ぎたあたりで帰ることにした。昼食も用意していなかったし、帰る口実ができたからそそくさと逃げてきたのに、帰ることに夢中になったせいか忘れ物をしてしまったようだった。
熱気そのものが質量を帯びているかのように思えるほど重くなった頭で天を仰いだ僕は、財布を取りに戻るため来た道を引き返すか、このまま家に帰るかの二択を天秤にかけた。家の鍵も財布の中に放り込んだことを思い出せば、ぐらぐらと揺れていた脳内の天秤は瞬時に傾く。
歩くのも億劫になるほどの日差しを睨んだところで眩しさが百倍になって返ってくるだけだから、大人しく、照り返しを直角に飛ばしてくる地面を耐えることにした。
「暑すぎだろ……どうなってんだこの国……」
熱線から眼球を守りたがる瞼のせいで半目になる。狭まった視界でも僅かな日陰を見逃さない。青々と夏色に染まった街路樹の下を好んで歩いた。手のひら状に裂けたような葉っぱは、秋になれば黄昏の空よりも赤くなるけれど、いまは降り注ぐ太陽光を一心不乱に受け止めるためか、青い空よりも青が似合う緑色が輝いていた。
四車線道路をまばらに行き交う車は一様に窓を閉めきっていて、エンジン音よりも騒がしいコンプレッサーの音をかき鳴らしながら僕の横を通り過ぎていった。差し掛かったバス停でバスが止まると、自動で扉が開き、冷蔵庫の中みたいにまで冷やされた車内の空気が飛び出してきてくれた。歩く速度を緩めた僕のことをバスの運転手がじっと注視してきたけれど、僕がバスに乗るつもりがないと判断したのかとっとと自動ドアを閉めてしまい、次の瞬間にはバスのエンジンが吐く熱波に顔面を殴られた。
冷気に触れたぶん、余計に暑さが厳しくなったと感じた。蝉の鳴き声すら暑さに悶える悲鳴に聞こえてしまうほどの獄炎の中を、僕は歩き続けた。
横断歩道を渡ると川を跨ぐ橋に足を踏み入れることになった。金属製のように見える赤紫色の橋の欄干では頭上の太陽が分身となって輝いていて、迂闊に触れてしまえば火傷待ったなしだ。体育の授業で走らされた五十メートル走よりも長そうな橋に日陰なんてものは存在せず、少しでも暑さを紛らわせたくて、照り返しが幾分かマシな点字ブロックの上をひたすら歩いた。
「そういや消しゴム、返してないな……」
暑さでぼんやりする頭が考えていたのは、さきほどの奈々海さんとの会話だった。
奈々海さんは、たぶん予備で持っていた消しゴムを貸してくれたとは思うけど、もし借りた消しゴム一個しか持っていなかったらどうしようかと一抹の不安がお化けみたいにひっそりと湧いてきた。財布を取りに戻るついでに返そうか。でも、わざわざ返しに戻ってきたと思われるのは、なんだか恥ずかしいような……。
思考がぐるぐるしている間にも橋を渡り終えてしまう。直進していた進路を真横に曲げ、川沿いに伸びている細道に入る。
川沿いには電柱よりも高くのびのびと育った木が生えているから、一方通行になっている一車線道路のほどんどが日陰の中に入っていた。
消えかけの白線を踏みながら歩いていると、芝生を逆さまにしたような、長細く垂れ下がった葉が耳をくすぐってきた。ゆらゆらと揺蕩うだらしない葉を眺めれば、その向こう側で閑寂に流れている川の水面が真上から差してくる外光を曲げに捻じ曲げてきらきらと輝き、木の葉の陰に隠れていた僕の目は眩んだ。
網膜にこびりついた残光を鬱陶しく感じた。残光が視界を暗くするいまなら青空も見上げられるかと思って木漏れ日を見上げてみたけれど、余計に目が眩むだけだったから、すぐに視界がアスファルト一色になるように顔を伏せた。
「……ません、わからなくて」
顔を伏せたまま歩いていると知っている声が聞こえた。僕は、鼻頭から垂れ落ちそうだった汗の粒を左手の甲で拭ってから顔を上げた。
「そういうの、詳しくなくて」
奈々海さん?
奈々海さんの声が聞こえる。けれど、僕の目に映っているのは中肉中背の男性の背中だけで、奈々海さんの姿はどこにも見えなかった。どこだろう。周りを見渡しながら歩いていると、立ち止まっていた男性のサングラスとマスクをした横顔が見えた。そのとき、男性を見上げる女性がいることに気がついた。
耳にかけた透明な管を鼻に挿しているポニーテールの女性は、黒生地のリュックを背負っていた。
奈々海さんだ。
「他に詳しい人はいないかな?」
男性に問いかけられた奈々海さんは、眉をハの字みたいにひそめていた。
「えっと……」
返答に困った様子の奈々海さんが目を泳がせたとき、僕と奈々海さんの視線が絡んだ。
助けて、そう言われているような気がしてしまえば、顔が火照るような熱気に包まれた。
明らか救いを求めている伏せがちな目線を無視するわけにもいかず、僕は脇汗が倍になったような感触を堪えながら奈々海さんと男性の間に立った。
「すみません、連れになにか?」
胃がきゅっと引き締まる緊張感に支配されていたものの、せり上がった両肩から気合いで吐き出した声は、なんとか震えることを我慢してくれていた。
そのおかげか、サングラスとマスクをした男性はたじろぐ仕草を見せ、「いや……」と一歩だけ後ずさりをした。
「別にたいしたことではないから……。すまないね、なんでもない」
そう言い切る前に男性は背中を向けて歩き始めていた。白髪がぽつぽつと目立つ後頭部が離れていく。四十、いや五十代くらいの人だろうか。こんな暑さでよくマスクを着けていられるものだ。なんにせよ、なにも起きなくて良かったと、ほっと一息を吐けた。
見知らぬ男性の背中が見えなくなると、「ふぃ~」と気の抜けた声が聞こえた。
「助かったよ。ありがと、宮部くん」
奈々海さんは、緊張から解放されたように両肩を落としていて、口角を緩めたまま僕の顔を見上げてきていた。透明な管の下で汗ばんでいる頬が、少しだけ紅潮していた。
「なに話してたの?」
問うと、奈々海さんは「わかんない」と首を傾げた。
「その制服、近くの生徒さんだよねって話しかけられてさ」
そう奈々海さんが言うものだから、僕の視線は自然と下がっていった。奈々海さんは、白の半袖シャツに赤の紐リボン、それとチェック柄のスカートが膝頭を隠す、どこにでもいる女子高校生という服装だった。それより目立つのが、奈々海さんの鼻まで伸びている管が背負っているリュックに繋がっていることだった。
「宮部くんは」
名を呼ばれたとき、いきなりぶわっと吹き付けてきた風が、垂れ下がった木の葉をざわっと揺らした。
「幽霊って、信じる?」
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