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第十話 二
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どうしたらいいのかわからなかった。
だって、ずっと教えてくれたから。
いま、すべきことを。
道を示してくれる人は、もう居ない。
帝都中心は、雪山が噴火したような白煙と白飛沫で満ちていた。白煙の切れ目を稲妻が駆け回る。稲妻が周囲を照らすたび、争う二つの巨大な影だけが浮かぶ。龍と、熊。あそこまで、来いと言うのか。こんな、痩せ細った子供みたいな体で、一体何が出来ると言うのだ。膝の上に落とした鍵は、錆びたままだった。
信じると言ってくれた。なにを? この体のなにを? この心のどこを? どうして。
「おじょう、さま」
「っ! 凛!」
這いつくばっていたのは下女だった。額や鼻から血を垂らし、裂けた担ぎ棒にしがみついていた。肩で大きく呼気を繰り返す下女が、擦り傷だらけの手を伸ばす。その手を掴みたくて右手を伸ばした。届かない。どんなに伸ばしても届かない。下半身が凍ったように動いてくれない。どうして、どうして。
「おじょうさま」
「りん」
いつも無気力だった瞳には光が宿っていた。頬をなぞる雫が担ぎ棒に斑点を与える。助けないと。主人だから。そう頭ではわかっているのに、視界が滲んでぼやけるだけ。出すばかりでなにも吸えない。そうだ、そうだった。失うばかりで、なにも手に入れられない。空になるまで、撒き散らすだけ。いつも、そうだった。
誰も救えない。
誰にも救われない。
ああ、空になっていく。
過去すら色が残っていない。匂いは褪せた。温もりは冷めた。呼んでくれる声が、なにも聞こえない、思い出せない。わかるのは、赤色、カビの臭い、消える体温、そして、息ができないくらい痛めつけてきた雨の雑音だけ。
名を呼んでくれる人は、もう――、
「こころさま」
まだ、呼んでくれる人が居る。
「あなたのお母様に救われたこの命で、ようやく、恩返しできましたか?」
――なにを、言っているの?
「心を奪われそうになったとき、あなたのお母様がいてくれたから、私は私でいられました。十年前、あやかしに憑かれた私を救ってくれたのは、陰陽師であった心様のお母様です」
お父さんに聞いたことがあった。お母さんはいつも帰って来ないけど、どこ? と。教えてくれたのは、お母さんはお化けに困った人たちを助けに行っているよ、それと、お父さんがお母さんと出会ったきっかけでもあるよ、ということ。憧れるだけで力になれない自分の不甲斐なさが情けないなあ。膝の上で、そう聞いたのだ。
あのとき、お母さんは泣いていた。なんで気づいてあげられなかったの。一番、一番守りたいあなたの苦しみを。わたしは、なんのために、いままで戦ってきたの――。
――なんのため、戦う?
「噂で聞きました。農民の娘が下女を探していると。噂で聞きました。裏切り者の陰陽師の娘だと。だから私は、心様に会いに行った。あのとき、気高く、気丈に、胸を張っていたあの姿に、憧れて、私は、頂いた明日を、お返し、したくて」
――お母さんは、なにと戦って、なにを守るため、生きていたの。
「私が生かされたのは、この瞬間のためだったのだと、心様のお命を、この身で守るためだったと。それこそが、恩返しであると」
――お父さんは、なにに憧れて、なにに蝕まれて、なにに寄り添っていたの。
「だからこころ様。挫けないでください。振り返らないでください。苦しいこと、辛かったこと、全部、全部、今日のために必要なことだった。生きてください。立ち上がってください。あなたの、お母様が守ろうとしたもの、守ろうとした明日、守ろうとした未来、私に、見届けさせてください」
――お母さんとお父さんは、なにを守ろうとしたの。
「心様が守りたいもの、守って、ください」
――わたしが、守りたいもの。
――こころ? お母さんはね、あなたのことが大事なの。お父さんもそうよ? お母さんとお父さんは、なにがあっても守ってみせるから。あなたの、心を。
気づけば錆びた鍵が鼻先に浮かんでいた。あの人が残してくれた鍵だ。いまにも千切れそうな、ほつれた糸みたいな尾が鍵を揺らしている。錆びた鍵を握ったとき、糸はぷつりと千切れた。すぐそばで白い固形物がどろりと溶ける。うっすらピンク色に染まれば、弾力を失っていった。
別れを告げられたような気がした。
待って。
ねえ、それは、違うよね。
このまま逝くの?
わたしはまだ、ここにいるよ。
わたしはまだ、生きているよ。
わたしの心は、ここにあるよ。
だって、守ってくれたから。
ほんとうに、それで終わるの? 守られるだけで、終わるの? 与えられた生を、傲慢に、凛々しく、証明してこその命でしょ? どんなに無様でも、どんなに愚かでも、這いつくばって、生きてきたのに。
それが、お母さんとお父さんが残した、たった一つの贈り物だったから。
「あなたたちは、わたしを選ぶ?」
ただ溶け広がるだけだった固形物の動きがピタリと止まった。
手の中に、殻が割れるような感触があった。
「あなたたちは、わたしを担ぐ?」
糸よりも細い、繊維のような一本が、固形物から生える。
右手に通い始めた血の巡りがさらに罅を深く刻む。
「連れて行ってほしいの。あいつのところに」
線が右手首に巻きつく。別のところから、左手首にも、右足首にも、左足首にも巻きつく。
パキッと音がした。
「ふざけんじゃないわよ」
きゅっと線が問答無用できつく締めあげてくる。手首と足首が反り返る。線が皮膚を裂く。
「わたし初めてだったの」
ぎちぎちと血が巡らなくなった手から感覚が消える。いや、感覚が溶けだすように吸収される。
「やり逃げなんか許さない」
どんなに感覚が消え失せようが、どんなに千切れるほど痛かろうが、右手の力だけは抜かない。絶対に。
「わたしだって、信じてる」
四つの鼓動に手足が呼応する。手首から、ぶしゅっと鮮血が吹き出す。
「わたしに、守らせなさいよ」
こぽっと白い固形物たちが膨らむ。手足それぞれに、爆発してしまいそうなほど力強い心臓がある。
「好きな人の心くらい、守るわよ」
握りしめた右手が眩しかった。指と指の間から光の線が漏れた。それは、雲の間から太陽の日差しがいくつも漏れたような、尾を引く光芒は――、
胸の奥で、心が、弾ける。
「わたしの心でっ! あなたの心をっ、担いでやるからああああああああああああああっ!」
地から逆流した雷のような閃光は、曇天を散らし、幾光年も離れた星の煌めきを露わにする。
――お母さんとお父さんが繋いでくれた未来、絶対に肯定するから。
その神輿の金ピカの壁と金の鳥が生える屋根は無かった。
その神輿の紅布を被せた椅子は背もたれが折れていた。
その神輿の大黒柱のような担ぎ棒は裂けたように亀裂が刻まれていた。
そんなぼろぼろの神輿を担ぐのは、白くて、のっぺらで、ふにゃってそうな、四体のエイのようなあやかし。
その神輿の上で胸を張っているのは、張った薄っぺらい胸に、白銀に輝く鍵を抱く、十四歳の少女――、
女帝〝百位〟だった。
立ち上がった百位が睨むのは、厄災と厄災の衝突だった。
白熊と龍の咆哮がせめぎ合い、帝都が振動する。花粉が舞うように火の粉が散る。ずっと住んでいた屋敷は半壊し、ごうごうと燃えている。たくさんの怒号が聞こえた。女帝も下女も位も関係なく、救助活動が行われている。水を運び、瓦礫を掻き分け、手と手が繋がる。助けに行くべきだ。だが、それよりも優先すべきことがある。
救えても、守れなければ意味がない。救うことは任せる。だから、絶対に守るから、みんな、死なないで――。
「百位様!」
駆け寄ってきたのは黄子、青子、赤子の三人だった。着物が煤で汚れ、袖や裾が千切れている。倒れていた下女を赤子が抱きかかえ、黄子が神輿の上で佇んでいた百位を見上げた。
「無事で良かった。わたしの下女のこと、お願いするわよ」
「ひゃ、ひゃくいさま、その鍵」
白銀の鍵に見入った黄子は、信じられないと言いたげに細目を見開いている。
「わたしはわたし。最底辺の百位。それはいまも変わらない。やることがあるの。みんなを助けてあげて」
「は、はい、承知しました。が、一体、どうすれば……、ど、どこに逃げれば……、あ」
黄子が彷徨わせた視線がある一点を見定めた。それを追いかければ、ふらつく足取りで近づいてくる白髪の男性が居た。
「正門」
「二位様」
半月が浮かぶ白銀の着物は擦り切れ、髪や肩に青葉が引っ付いていた。額から流れる血に左目を塞がれているのは、帝位二位、侍を従える男だった。
「帝都の正門、を、奪われれば、援軍が入れない。病の隔離を終えた、兵が、近くまで戻っている、はず。無事な衛兵を集め、正門を守れ」
神輿の担ぎ棒に体重を預けながら二位が言う。黄子が頭を下げながら頷く。
「で、では、百位様と二位様は、どうなさるおつもりですか」
「責務を果たす」
言い切った二位は、神輿に乗って胡坐をかいた。そして、袖から取り出したキセルの先端に、髪の毛ほどの細さに刻まれた煙草の葉を詰めると吸い口を咥える。直後、火源が無いにも関わらず、煙草の葉から煙が漂い始めた。
キセルを通じて大きく息を吸った二位は、音を鳴らすほど深く息を吐く。煙草の煙に覆われた金の瞳に見上げられる。
「時間が無い、ぞ」
「わかってるわよ。あとは任せるわ。あなたたち、自分がやったこと反省するなら、やれることやりなさい。じゃないと、お仕置きするから」
ビシッと指差せば、黄子ら三人は頬を引きつらせて肩をせり上げた。頭を下げた三人を見下ろし、見送りの微笑みをくれた下女に笑いかけた百位は、担ぎ手のあやかしに進む意思を通した。
のだが、一歩目で馬の速度が出たせいで、構えていなかった百位は神輿の上でこけた。
「あの熊ってなんなの!?」
馬の速度で駆ける神輿にしがみついた百位は、頬を強張らせながら大声で二位に問うた。
「古の大戦争で、封印されたあやかし、北神と恐れられたあやかし、だ」
「北神?」
古の大戦争とは、あやかしの門が存在していなかった時代に起きた、人とあやかしの全面戦争のことだ。それは記録が残らないほど大昔の話で、ほとんどおとぎ話であった。二位は涼しい顔でキセルを吹かしている。
「十年前、突如、北神の封印が解かれ、た。皇帝が北神を討伐しようとした、が、倒せなかった、のだ。ゆえ、再封印、した。五位の体に、な」
「なんで、五位様に?」
「某が見繕った器だから、だ」
「器?」
「某は、人が秘める霊力を、視れる。いま持つ霊力、と、空いた霊力、を」
「霊力を……視る?」
二位は、袖で額から垂れ続けていた血を拭うと、横目に見下ろしてきた。
「霊力を継ぐのは基本、女。稀に、男も継ぐ。男が霊力を継ぐ、と、よく、未知の力に目覚めることが、ある。例えば、四位。血に宿る霊力を、操れる。某は、他者の霊力を、視れた」
「……五位様は?」
「奴は、計り知れないほど、大量の霊力を持ち、視てわかるほどに霊力を大量に消費し続ける、そんな力、だ。初めて会ったとき、ほぼ、空になって、いた」
「大量に持ち、大量に消費する……?」
「本来であれば、十年前、五位は窒息死、するはず、だった」
喉の圧迫感に息が絞まる。一瞬想像した五位の死に様に口角が力む。
「賭けで、あった。北神の霊力量は、量れず、五位の空いた霊力量も、量れず。だが、どの道、五位は死ぬ定め。ならば、賭ける価値、あり。本人も了承、した。みなの役に立てるなら、と」
明日死ぬなら今日を賭けてみないか。そう言われて、最後の今日を賭けられる勇気が自分にはあるだろうか。
「封印は成功、した。だが、北神の霊力量が、僅かに五位を上回った、のだ。結果、八十四人の子が犠牲に、なる。それを奴は己のせいだと、悔やむ。それ以上に、人を救ったのに、な」
もし、北神を封印できなければ犠牲も二桁どころでは済まなかっただろう。命を懸けて北神を封じたのに。いや、命を懸けたからこそ、悔やんだのだろうか。必要な犠牲に納得できなかった。もしかすれば、こう考えたのかもしれない。
自分が生き残ったのに、八十四人の子が死んでしまった、と。
「奴は北神の霊力で寿命を延ばし、た。しかし、北神は奴の中で暴れ、た。他者に害が及ぶほど、に。そこで、神輿に己を閉じ込め、神輿に北神の力を封じる道を、選ぶ。いつか、北神もろとも己を滅する道を探す、ため」
彼の願いは、門の向こうに封じられることだった。そうすれば、北神を倒さずに済む。そうすれば、誰も傷つかずに済む。
それはそれで正しいと思う。
でも、それで彼が幸せに逝けるだろうか。
生き残ったのなら、生きるべきだ。
犠牲の上に生かされているのならば、生きるべきだ。
犠牲になった未来を抱えて、生きるべきだ。
自分も犠牲になりかけた。
でも、生きている。
犠牲になった大切な家族のおかげで。
恨んでなんかいない。
いま、生きている意味、それを彼に伝えるのが、自分の役目だ。
敵。そう通じてきたのは十六夜の意思だ。正面を見やれば道が塞がれている。それは、木製の人形が道一杯に広がって行進しているからだ。どの人形も槍を握っている。
「まあ、敵も隠れていただろう、な」
二位は余裕そうにキセルを吹かす。人形たちは戦列を組み、槍を並べる。対騎兵防御の構えだ。神輿は怯まずに突き進み続ける。
「止まる気なんか、ないから」
突き破れ。その意思に応えたのは一夜と十六夜だ。神輿を担いだまま、胴体から斧のような三日月形の巨大な刀身を生やせば、それがぐるん、ぐるんと回転を始めた。
刀身の残像が完璧な円になったとき、神輿は爆発の衝撃波に煽られたかのごとく加速する。
百位は、砕け散った木片を被りながら、白煙に包まれている帝都中心を睨み続けた。
彼は、すぐそこだ。
だって、ずっと教えてくれたから。
いま、すべきことを。
道を示してくれる人は、もう居ない。
帝都中心は、雪山が噴火したような白煙と白飛沫で満ちていた。白煙の切れ目を稲妻が駆け回る。稲妻が周囲を照らすたび、争う二つの巨大な影だけが浮かぶ。龍と、熊。あそこまで、来いと言うのか。こんな、痩せ細った子供みたいな体で、一体何が出来ると言うのだ。膝の上に落とした鍵は、錆びたままだった。
信じると言ってくれた。なにを? この体のなにを? この心のどこを? どうして。
「おじょう、さま」
「っ! 凛!」
這いつくばっていたのは下女だった。額や鼻から血を垂らし、裂けた担ぎ棒にしがみついていた。肩で大きく呼気を繰り返す下女が、擦り傷だらけの手を伸ばす。その手を掴みたくて右手を伸ばした。届かない。どんなに伸ばしても届かない。下半身が凍ったように動いてくれない。どうして、どうして。
「おじょうさま」
「りん」
いつも無気力だった瞳には光が宿っていた。頬をなぞる雫が担ぎ棒に斑点を与える。助けないと。主人だから。そう頭ではわかっているのに、視界が滲んでぼやけるだけ。出すばかりでなにも吸えない。そうだ、そうだった。失うばかりで、なにも手に入れられない。空になるまで、撒き散らすだけ。いつも、そうだった。
誰も救えない。
誰にも救われない。
ああ、空になっていく。
過去すら色が残っていない。匂いは褪せた。温もりは冷めた。呼んでくれる声が、なにも聞こえない、思い出せない。わかるのは、赤色、カビの臭い、消える体温、そして、息ができないくらい痛めつけてきた雨の雑音だけ。
名を呼んでくれる人は、もう――、
「こころさま」
まだ、呼んでくれる人が居る。
「あなたのお母様に救われたこの命で、ようやく、恩返しできましたか?」
――なにを、言っているの?
「心を奪われそうになったとき、あなたのお母様がいてくれたから、私は私でいられました。十年前、あやかしに憑かれた私を救ってくれたのは、陰陽師であった心様のお母様です」
お父さんに聞いたことがあった。お母さんはいつも帰って来ないけど、どこ? と。教えてくれたのは、お母さんはお化けに困った人たちを助けに行っているよ、それと、お父さんがお母さんと出会ったきっかけでもあるよ、ということ。憧れるだけで力になれない自分の不甲斐なさが情けないなあ。膝の上で、そう聞いたのだ。
あのとき、お母さんは泣いていた。なんで気づいてあげられなかったの。一番、一番守りたいあなたの苦しみを。わたしは、なんのために、いままで戦ってきたの――。
――なんのため、戦う?
「噂で聞きました。農民の娘が下女を探していると。噂で聞きました。裏切り者の陰陽師の娘だと。だから私は、心様に会いに行った。あのとき、気高く、気丈に、胸を張っていたあの姿に、憧れて、私は、頂いた明日を、お返し、したくて」
――お母さんは、なにと戦って、なにを守るため、生きていたの。
「私が生かされたのは、この瞬間のためだったのだと、心様のお命を、この身で守るためだったと。それこそが、恩返しであると」
――お父さんは、なにに憧れて、なにに蝕まれて、なにに寄り添っていたの。
「だからこころ様。挫けないでください。振り返らないでください。苦しいこと、辛かったこと、全部、全部、今日のために必要なことだった。生きてください。立ち上がってください。あなたの、お母様が守ろうとしたもの、守ろうとした明日、守ろうとした未来、私に、見届けさせてください」
――お母さんとお父さんは、なにを守ろうとしたの。
「心様が守りたいもの、守って、ください」
――わたしが、守りたいもの。
――こころ? お母さんはね、あなたのことが大事なの。お父さんもそうよ? お母さんとお父さんは、なにがあっても守ってみせるから。あなたの、心を。
気づけば錆びた鍵が鼻先に浮かんでいた。あの人が残してくれた鍵だ。いまにも千切れそうな、ほつれた糸みたいな尾が鍵を揺らしている。錆びた鍵を握ったとき、糸はぷつりと千切れた。すぐそばで白い固形物がどろりと溶ける。うっすらピンク色に染まれば、弾力を失っていった。
別れを告げられたような気がした。
待って。
ねえ、それは、違うよね。
このまま逝くの?
わたしはまだ、ここにいるよ。
わたしはまだ、生きているよ。
わたしの心は、ここにあるよ。
だって、守ってくれたから。
ほんとうに、それで終わるの? 守られるだけで、終わるの? 与えられた生を、傲慢に、凛々しく、証明してこその命でしょ? どんなに無様でも、どんなに愚かでも、這いつくばって、生きてきたのに。
それが、お母さんとお父さんが残した、たった一つの贈り物だったから。
「あなたたちは、わたしを選ぶ?」
ただ溶け広がるだけだった固形物の動きがピタリと止まった。
手の中に、殻が割れるような感触があった。
「あなたたちは、わたしを担ぐ?」
糸よりも細い、繊維のような一本が、固形物から生える。
右手に通い始めた血の巡りがさらに罅を深く刻む。
「連れて行ってほしいの。あいつのところに」
線が右手首に巻きつく。別のところから、左手首にも、右足首にも、左足首にも巻きつく。
パキッと音がした。
「ふざけんじゃないわよ」
きゅっと線が問答無用できつく締めあげてくる。手首と足首が反り返る。線が皮膚を裂く。
「わたし初めてだったの」
ぎちぎちと血が巡らなくなった手から感覚が消える。いや、感覚が溶けだすように吸収される。
「やり逃げなんか許さない」
どんなに感覚が消え失せようが、どんなに千切れるほど痛かろうが、右手の力だけは抜かない。絶対に。
「わたしだって、信じてる」
四つの鼓動に手足が呼応する。手首から、ぶしゅっと鮮血が吹き出す。
「わたしに、守らせなさいよ」
こぽっと白い固形物たちが膨らむ。手足それぞれに、爆発してしまいそうなほど力強い心臓がある。
「好きな人の心くらい、守るわよ」
握りしめた右手が眩しかった。指と指の間から光の線が漏れた。それは、雲の間から太陽の日差しがいくつも漏れたような、尾を引く光芒は――、
胸の奥で、心が、弾ける。
「わたしの心でっ! あなたの心をっ、担いでやるからああああああああああああああっ!」
地から逆流した雷のような閃光は、曇天を散らし、幾光年も離れた星の煌めきを露わにする。
――お母さんとお父さんが繋いでくれた未来、絶対に肯定するから。
その神輿の金ピカの壁と金の鳥が生える屋根は無かった。
その神輿の紅布を被せた椅子は背もたれが折れていた。
その神輿の大黒柱のような担ぎ棒は裂けたように亀裂が刻まれていた。
そんなぼろぼろの神輿を担ぐのは、白くて、のっぺらで、ふにゃってそうな、四体のエイのようなあやかし。
その神輿の上で胸を張っているのは、張った薄っぺらい胸に、白銀に輝く鍵を抱く、十四歳の少女――、
女帝〝百位〟だった。
立ち上がった百位が睨むのは、厄災と厄災の衝突だった。
白熊と龍の咆哮がせめぎ合い、帝都が振動する。花粉が舞うように火の粉が散る。ずっと住んでいた屋敷は半壊し、ごうごうと燃えている。たくさんの怒号が聞こえた。女帝も下女も位も関係なく、救助活動が行われている。水を運び、瓦礫を掻き分け、手と手が繋がる。助けに行くべきだ。だが、それよりも優先すべきことがある。
救えても、守れなければ意味がない。救うことは任せる。だから、絶対に守るから、みんな、死なないで――。
「百位様!」
駆け寄ってきたのは黄子、青子、赤子の三人だった。着物が煤で汚れ、袖や裾が千切れている。倒れていた下女を赤子が抱きかかえ、黄子が神輿の上で佇んでいた百位を見上げた。
「無事で良かった。わたしの下女のこと、お願いするわよ」
「ひゃ、ひゃくいさま、その鍵」
白銀の鍵に見入った黄子は、信じられないと言いたげに細目を見開いている。
「わたしはわたし。最底辺の百位。それはいまも変わらない。やることがあるの。みんなを助けてあげて」
「は、はい、承知しました。が、一体、どうすれば……、ど、どこに逃げれば……、あ」
黄子が彷徨わせた視線がある一点を見定めた。それを追いかければ、ふらつく足取りで近づいてくる白髪の男性が居た。
「正門」
「二位様」
半月が浮かぶ白銀の着物は擦り切れ、髪や肩に青葉が引っ付いていた。額から流れる血に左目を塞がれているのは、帝位二位、侍を従える男だった。
「帝都の正門、を、奪われれば、援軍が入れない。病の隔離を終えた、兵が、近くまで戻っている、はず。無事な衛兵を集め、正門を守れ」
神輿の担ぎ棒に体重を預けながら二位が言う。黄子が頭を下げながら頷く。
「で、では、百位様と二位様は、どうなさるおつもりですか」
「責務を果たす」
言い切った二位は、神輿に乗って胡坐をかいた。そして、袖から取り出したキセルの先端に、髪の毛ほどの細さに刻まれた煙草の葉を詰めると吸い口を咥える。直後、火源が無いにも関わらず、煙草の葉から煙が漂い始めた。
キセルを通じて大きく息を吸った二位は、音を鳴らすほど深く息を吐く。煙草の煙に覆われた金の瞳に見上げられる。
「時間が無い、ぞ」
「わかってるわよ。あとは任せるわ。あなたたち、自分がやったこと反省するなら、やれることやりなさい。じゃないと、お仕置きするから」
ビシッと指差せば、黄子ら三人は頬を引きつらせて肩をせり上げた。頭を下げた三人を見下ろし、見送りの微笑みをくれた下女に笑いかけた百位は、担ぎ手のあやかしに進む意思を通した。
のだが、一歩目で馬の速度が出たせいで、構えていなかった百位は神輿の上でこけた。
「あの熊ってなんなの!?」
馬の速度で駆ける神輿にしがみついた百位は、頬を強張らせながら大声で二位に問うた。
「古の大戦争で、封印されたあやかし、北神と恐れられたあやかし、だ」
「北神?」
古の大戦争とは、あやかしの門が存在していなかった時代に起きた、人とあやかしの全面戦争のことだ。それは記録が残らないほど大昔の話で、ほとんどおとぎ話であった。二位は涼しい顔でキセルを吹かしている。
「十年前、突如、北神の封印が解かれ、た。皇帝が北神を討伐しようとした、が、倒せなかった、のだ。ゆえ、再封印、した。五位の体に、な」
「なんで、五位様に?」
「某が見繕った器だから、だ」
「器?」
「某は、人が秘める霊力を、視れる。いま持つ霊力、と、空いた霊力、を」
「霊力を……視る?」
二位は、袖で額から垂れ続けていた血を拭うと、横目に見下ろしてきた。
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「……五位様は?」
「奴は、計り知れないほど、大量の霊力を持ち、視てわかるほどに霊力を大量に消費し続ける、そんな力、だ。初めて会ったとき、ほぼ、空になって、いた」
「大量に持ち、大量に消費する……?」
「本来であれば、十年前、五位は窒息死、するはず、だった」
喉の圧迫感に息が絞まる。一瞬想像した五位の死に様に口角が力む。
「賭けで、あった。北神の霊力量は、量れず、五位の空いた霊力量も、量れず。だが、どの道、五位は死ぬ定め。ならば、賭ける価値、あり。本人も了承、した。みなの役に立てるなら、と」
明日死ぬなら今日を賭けてみないか。そう言われて、最後の今日を賭けられる勇気が自分にはあるだろうか。
「封印は成功、した。だが、北神の霊力量が、僅かに五位を上回った、のだ。結果、八十四人の子が犠牲に、なる。それを奴は己のせいだと、悔やむ。それ以上に、人を救ったのに、な」
もし、北神を封印できなければ犠牲も二桁どころでは済まなかっただろう。命を懸けて北神を封じたのに。いや、命を懸けたからこそ、悔やんだのだろうか。必要な犠牲に納得できなかった。もしかすれば、こう考えたのかもしれない。
自分が生き残ったのに、八十四人の子が死んでしまった、と。
「奴は北神の霊力で寿命を延ばし、た。しかし、北神は奴の中で暴れ、た。他者に害が及ぶほど、に。そこで、神輿に己を閉じ込め、神輿に北神の力を封じる道を、選ぶ。いつか、北神もろとも己を滅する道を探す、ため」
彼の願いは、門の向こうに封じられることだった。そうすれば、北神を倒さずに済む。そうすれば、誰も傷つかずに済む。
それはそれで正しいと思う。
でも、それで彼が幸せに逝けるだろうか。
生き残ったのなら、生きるべきだ。
犠牲の上に生かされているのならば、生きるべきだ。
犠牲になった未来を抱えて、生きるべきだ。
自分も犠牲になりかけた。
でも、生きている。
犠牲になった大切な家族のおかげで。
恨んでなんかいない。
いま、生きている意味、それを彼に伝えるのが、自分の役目だ。
敵。そう通じてきたのは十六夜の意思だ。正面を見やれば道が塞がれている。それは、木製の人形が道一杯に広がって行進しているからだ。どの人形も槍を握っている。
「まあ、敵も隠れていただろう、な」
二位は余裕そうにキセルを吹かす。人形たちは戦列を組み、槍を並べる。対騎兵防御の構えだ。神輿は怯まずに突き進み続ける。
「止まる気なんか、ないから」
突き破れ。その意思に応えたのは一夜と十六夜だ。神輿を担いだまま、胴体から斧のような三日月形の巨大な刀身を生やせば、それがぐるん、ぐるんと回転を始めた。
刀身の残像が完璧な円になったとき、神輿は爆発の衝撃波に煽られたかのごとく加速する。
百位は、砕け散った木片を被りながら、白煙に包まれている帝都中心を睨み続けた。
彼は、すぐそこだ。
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神様と作る二十四節気ごはんを召し上がれ!
椿の国の後宮のはなし
犬噛 クロ
キャラ文芸
※毎日18時更新予定です。
架空の国の後宮物語。
若き皇帝と、彼に囚われた娘の話です。
有力政治家の娘・羽村 雪樹(はねむら せつじゅ)は「男子」だと性別を間違われたまま、自国の皇帝・蓮と固い絆で結ばれていた。
しかしとうとう少女であることを気づかれてしまった雪樹は、蓮に乱暴された挙句、後宮に幽閉されてしまう。
幼なじみとして慕っていた青年からの裏切りに、雪樹は混乱し、蓮に憎しみを抱き、そして……?
あまり暗くなり過ぎない後宮物語。
雪樹と蓮、ふたりの関係がどう変化していくのか見守っていただければ嬉しいです。
※2017年完結作品をタイトルとカテゴリを変更+全面改稿しております。
【完結】生贄娘と呪われ神の契約婚
乙原ゆん
キャラ文芸
生け贄として崖に身を投じた少女は、呪われし神の伴侶となる――。
二年前から不作が続く村のため、自ら志願し生け贄となった香世。
しかし、守り神の姿は言い伝えられているものとは違い、黒い子犬の姿だった。
生け贄など不要という子犬――白麗は、香世に、残念ながら今の自分に村を救う力はないと告げる。
それでも諦められない香世に、白麗は契約結婚を提案するが――。
これは、契約で神の妻となった香世が、亡き父に教わった薬草茶で夫となった神を救い、本当の意味で夫婦となる物語。

おっ☆パラ
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こんなハーレム展開あり? これがおっさんパラダイスか!?
新米サラリーマンの佐藤一真がなぜかおじさんたちにモテまくる。大学教授やガテン系現場監督、エリートコンサル、老舗料理長、はたまた流浪のバーテンダーまで、個性派ぞろい。どこがそんなに“おじさん心”をくすぐるのか? その天賦の“モテ力”をご覧あれ!
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アークと夏子とMKの恋の行方をお時間のある人はゆるーく一緒に見守ってあげてください!
では、よろひこー (⋈◍>◡<◍)。✧♡!
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