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第九話 五

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 雨が止めば、女帝二位が馬車を貸してくれた。落ち着かない思考を抱えながら、百位は屋敷へと戻った。まだ足元に雨が残る正門前で、色褪せた茶髪を団子にした下女が立っている。

「お嬢様、心配しました」
「雨がすごくて」
「お食事の準備を黄子らがしてくれております」
「そ、わかった」
「……食欲のほうは」
「……今日は食べれそう」

 ひとまず涙は枯れたようだ。あんなに泣いたのは、あやかしに襲われたとき以来かなと思い返せば、瞼からまた染み出る気配がした。ぎゅっときつく瞼を閉じて気配を追い返す。そうすれば、瞼の裏に祖父母の顔があって、鼻の奥がじわっと熱を放つ。強く鼻をすすって熱を呑みこむ。堪えていると、すぐに自室に着く。

「百位様、お帰りなさいませ」

 引き戸を開けてくれたのは黄子だった。

「百位様、菊の主すら眠らせる一曲を披露いたしましょうか?」

 そばかすの青子が自信満々に胸を張る。

「百位様、雨に紛れて甘味を仕入れてきましたぁ」

 裾を濡らしたままの赤子がまんまるの頬を緩める。

「……なによ、急に」
「お嬢様、我々が、支えます。なにがあっても、必ず」

 下女の包んでくれるような声音は、薄まっていた両親の声を連想させてくれた。そのせいで、さっき呑みこんだ熱が逆流してきてしまって、それは両目から溢れてしまう。目頭をしわしわにしたばっかりなのに、これ以上は、もう、瞼が裂けてしまいそうで。

 せめて一滴でも体の奥に仕舞いこもうとした百位は、天井にある顔みたいな染みを見やって大きく深呼吸した。

「お腹空いたっ!」
「では、お食事にしましょう、お嬢様」
「毒が無いことはこの赤子が保証しますぅ」
「それでは一曲、満月の夜に」
「月、見えないや?」
「あなた、黄色いし月におなりなさい」
「無茶や」

 いろんなことがあった。一つずつ、解決していかなければならない。まだ、なにから手をつけるべきか、はっきりとは決まっていない。

 ただ、やりたくないことは、はっきりしている。
 帝都から、離れたくない。

 祖母は文にこう書いていた。相変わらず鋭利な文字で、圧のある声を聞いたような気がした。

 ――爺さんは、逝ったよ。婆はね、元気にしてる。だから気にしないでくれ。爺さんの最期の言葉、書いとくよ。爺さんの願い、叶えるまで帰ってくんな。

『おまえも、儂みたいに格好いい男と結婚して、婆みたいな素敵な老いぼれになってくれ』

 気が強い祖母と、自信過剰な祖父、二人は、お似合いだったと心から思う。自信と、気丈さ、いまの自分に必要なものは、それだ。

 冷めてしまった野菜たっぷりの味噌汁に感じた料理長の愛情に、不思議と体の芯が温まる。
 泣き腫らした目でも、百位は米粒をつけた頬をニカッと上げられた。



 食事を終えれば満腹感に瞼が重くなる。黄子らが片づけに部屋を出る。下女が用意してくれた白寝巻に着替えた百位は、寝具に寝転がろうとした。
 そのとき、さっき部屋を出た黄子が戻ってきた。

「百位様、お客様が……」
「え? こんな時間に? だれ?」
「帝位五位様です」
「え」

 とくんと胸がだらしなく高鳴った。



 藍色の羽織は羽織ったが、もう夜は肌寒い。白寝巻の帯が緩んでいないことと、襟元がきっちりしていることを確認してから、屋敷の正門へ向かう。まだ水溜まりは残っているが、寝巻の裾は長くないのでさほど気にならない。提灯を掲げ、水溜まりを避ける下女の背中を百位は追いかけた。

 金ピカの神輿が提灯の明かりで這い上がるように浮かび上がった。神輿は地に下ろされている。担ぎ棒が水溜まりを干上がらせていく。ぷるんと震えた一夜と、ぶるんと揺れた十六夜が、担ぎ棒の上で佇んでいた。

「もっと近寄れ」

 神輿の中から声が聞こえた。なんだか、弱弱しい。声に言われるがまま、担ぎ棒の間を歩む。

「なんだ、まだ泣いていたのか」
「ふん、いまは泣いてませーん」

 五位の輪郭は、ヒノキの香りが匂ってくるまではっきりしなかった。提灯を掲げる下女は、担ぎ棒から一歩引いた位置で見守っているようだ。蒼い長髪が黒色に見えてしまうほどの薄暗さでも、二つの夕陽だけは、はっきりと輝いていた。

 どことなく、雰囲気が変だと思った。

 澄ました顔ではあるが、夕陽の瞳が行ったり来たり。目を合わせようとすればするほど、逃げられる。

「なぜそんな薄着なのだ」
「え? だって寝ようとしてたから」
「そうか、明日のほうがよいか?」
「え? せっかく来たんだから、用があるならはやく言ってよ」

 なにをしにきたの、と考えれば、今日のやり取りを思い出す。胸が詰まりそうになったが、祖母の気丈さを身に宿せば、薄っぺらい胸を祖父のように自身満々に張れた。

「なによ?」
「……そなた、その、だな……」
「え? なに?」
「そなた、見合いのとき、結婚する気は無いと言っておったな」

 ――見合いのとき?

 一夜に全身を弄ばれたあの日、神輿でふんぞり返る五位に向かって確かに――。

「うん、言ったかもね」
「いまも変わりはないのか?」
「……なにが?」
「結婚する気はないのか?」
「え、えっと、それは……」

 五位が目を逸らしているから目線は絡まない。しかし、どこか高鳴りが加速する胸のせいで、思わず顔を逸らしてしまう。

「…………わかんない」
「…………仮にだが」
「…………うん」
「…………もし」
「…………うん」
「…………婚約相手が」
「…………うん」
「…………神輿に引き籠るような」
「…………う、ん」
「…………変人だったら」
「…………」
「…………そなたは、嫌か?」
「……………………ぃゃじゃないけど」
「…………よく聞こえなかった」
「…………い、嫌じゃないけど」

 熱帯夜のように暑い。熱を放っているのは自分の体だ。ドクドクと暴走する心臓が、張った胸を引かせてしまう。

 ヒノキの香りに包まれたい。

「で、でもね、一つだけ、知りたい」
「……なにを?」
「その人が、神輿に、引き籠る、理由」
「知って、どうする」
「一緒に、支えて、うん、担いであげたい」
「…………」

 やっと五位の顔を見る勇気が用意できた。ぎゅっと握った右手を胸にあて、鼓動から勇気が零れないように胸を押す。五位は、唇を引っ込めたまま、じっと見つめてきていた。

 夕陽が、迷っている。

「えっとね、なんでも、ない。そんな、無理に――」
「長話になるからこっちに来い。冷えるぞ」

 差し出された右手は、一歩進まないと手が届かなかった。

 勝手に、右足が前に動く。勝手に、右手が伸びる。頭で考えているわけではない。体が、あの大きな右手に触れたがっている。

 指先が触れた。
 のに、握れなかった。

 体が勝手に動きを止めたから。

 それは、視界に飛び込んできた刺すような光に、意識が吸い寄せられたから。

 あれは、たぶん、馬小屋の近く。

 夜空で輝いたのは太陽みたいな光の玉。
 帝都が昼間よりも明るくなって、五位も、神輿の輪郭も、眩しさに霞んだ。
 刺さるような光から目を守りたくて顔を覆った。

 そのとき、なにかに背中を押された。

 突き飛ばされた。

 反転する視界に映ったのは、光に輪郭を溶かす下女と、光に立ち向かうように飛び上がった一夜と十六夜、そして羽織が灰になった。

 意識が飛ぶ瞬間に理解できたことは、火の海に飛び込んだような熱波と、神輿の天井に叩きつけられたことだけだった。
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