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第七話 六

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 倒れた九位は痙攣しながら涎を口角から垂らしている。

「ちょっと! どうしたのよ!」

 百位の大声に九位は顔をしかめる。途切れ途切れの呼吸に結ばれない焦点、まさか――。

「く……そ、どく……、こ、れ……しょくじ、かい、の……」

 食事会? 口の中に味覚が麻痺するほどの苦みが甦る。四位がそばで息絶えた土壌色の蛇を篝火で照らす。黒と茶色の市松模様に、黄色い猫目、上顎に六本の鋭利な牙。山に生息する蛇や田んぼで見かけたことがある蛇と似ている。九位が無理やり立ち上がろうとしたが、小刻みに振動する脚を滑らせてまた倒れこむ。

「駄目っ! 動かないで! 毒が回る! しっかり息吸って!」

 このままではまずい。全身の筋肉が麻痺している。おそらく、次は呼吸が止まる。そうなる前に、解毒、いや、十五位が、待って、どうしたら――。

「百位さん」

 篝火の呪符を放り投げた四位が屋敷を睨んでいた。

「屋敷、結界に囲まれています。結界そのものを破るには時間がかかりますが、一瞬穴を開けるだけならすぐにできます。毒ですが、五位を呼んできてください。僕は、十五位さんを助けにいきます」

 四位の背中が燃え上がった。

 そう見えたのは、四位の背中から這い出てきた狐が青白く燃えていたからだ。

 黄金に煌めく毛並み、九本の長い尾、首に巻かれた数珠、ピンと張る大きな耳、狼のような牙。狐の背中は、森林火災のように青白く燃え続けている。だが、焦げ臭いことはなく、むしろ線香のような香りが切羽詰まった胸中をいくらか沈めてくれた。

「ここは任せました、百位さん」
「ひ、一人で行くの?」
「十五位さんも一人です」

 四位は燃える九尾の背に跨った。九尾が屋敷を囲む塀の上へ飛び込むと、四位と九尾の後ろ姿がぐにゃっと歪んで消える。九位の呻き声だけが聞こえ、線香の残り香だけが匂う。

「い、五位様を呼ばなきゃ」

 九位をこのまま放置するのは気が引けるが、早くしないと助からない。上着と袴を脱ぎ捨て、裾の短い着物一枚姿になった百位は駆けだした。

 屋敷の囲む塀の端まで走れば十字路に差し掛かる。北へ行き、門をくぐれば帝位の屋敷はすぐそこ――、

 視界が三回転した。

 前歯が折れた気がして歯を撫でたが、じんじんと感覚を失くした歯はちゃんと生えている。走っていたはずなのに尻餅をついている。湯を浴びたかのように発熱する顔面、ポタタッと鼻から滴る液体がぬるぬるして、暗闇でもなんとなく血だと悟った。

 ズキッと鈍重な圧迫感に鼻からこめかみを殴られる。立とうとしても、大波に揺れる船に乗ったかのように足元がぐらぐらして、胃から酸味が這い上がってくる感覚にうずくまってしまう。それでもじんじんする歯を食いしばり、なんとか地面を這いつくばって進もうとした。

 ごつん、と額に硬い感触があって前進していたはずの体が止まる。手で撫でれば、硝子のように滑る感触がした。回る目で何度見ても何もない。なのに壁がある。

 一歩も進めない。

「な、に、よ、これ」

 叩けば、骨が軋むくらいに硬かった。結界が張られている。そのことを認めたとき、明かりが近づいてきた。提灯を掲げる衛兵が夜空を見上げながら通り過ぎていく。

「ね、ねえ! ちょっと、待ってよ!」

 衛兵は夜空を見上げたままだった。どんなに大声を出しても、どんなに壁を叩いてみても、気づかない。まるで音が遮断されているように。提灯の明かりで自分の手が血まみれなことを知った。それだけを教えた衛兵は去る。

「こ、これじゃあ……」

 塀に体重を預けながら来た道を戻る。反対側も、きっと結界が張られている。屋敷の正門前まで辿り着くが、ズキズキする顔面に後頭部まで圧し潰されそうになる。九位の呼吸がいまにも途切れそう。どうしたら、外に知らせられる。懸命に激痛の合間で思考を回す。このままでは、九位も、十五位も、四位も――。

 よぎったのは、銀髪の女の子が大きな樽の間で泣きじゃくる姿。

 ――火気厳禁。

 吠えるように叫んで体を突き動かす。四位が放り捨てた呪符の火はいまにも消えそうだった。脱ぎ捨てた袴を掴み、呪符の火に被せる。すぐに焦げ臭さが血で詰まった鼻でもわかり、火の手が上がった。

 激しく燃焼を始めた長い袴を引きずった。こんなに重かったっけ、などと考えつつ、放置された荷車の先頭にまで向かう。先頭の荷車には大きな樽が二つ、その後ろの荷車には甲冑や槍などの武具が積まれている。

 燃える袴を投げればすぐに火が点く。
 振り返らずに駆けた。
 脱ぎ捨てた着物を被って九位に覆いかぶさる。

 どうしたら良いのかわからず、耳を塞いで目をぎゅっと閉じた。

 すぐだった。

 吹き飛ばされそうになるくらいの衝撃波に、百位の意識は飛んだ。



 ***

 助けを呼んでも誰も反応しなかった。いや、誰もかもがすでに助けを求めていた。

 十五位が目の当たりにしたのは、庭や廊下に倒れこんだ女帝や下女らが藻掻き苦しむ姿だった。みな、泡を吹き、痙攣し、途切れそうな呼吸で必死に空気を吸おうとしている。

「こわぁくなぁいよ」

 ねっとした声音に後ずさりするしかなかった。緑色の甲冑を脱ぎ捨てた巨漢の顔は、いつまで経っても忘れられない油でてかてかしたにやけ顔で、興奮したように鼻を膨らませている。

 もう絶対に会うことはなかったはずなのに。

「な、なんで、あ、あの、とき、処刑に」

 男はぐふぐふと嫌悪感を与えてくる笑いをする。

「親ってのはぁ、息子を見捨てられない生き物だぁ。吾もほんとならぁ帝位だぁ。遠くには行かされたぁ。でもなぁ、忘れらなれかったぁ。君のかわいい顔も、きれいなぁ髪も」

 鮮明に思い出せる粘膜の感触が鳥肌を立たせ、腹の奥底をぎゅっと締めさせる。気持ち悪い気色悪い嫌だもうあの長細いぶつぶつした舌もギットギトの肌も蒸した汗の臭いもなにもかもちかづかないでいやだ。

 ――たすけて。

 喉が干からびて声は出なかった。腰が抜けて逃げることもできなかった。あのときの映像が脳裏でひたすらに繰り返された。

 でも、この世で一番嫌いな男の姿だけは青白い炎が遮ってくれた。

 線香の香り。

 その人は、まだかつらを被ってくれていた。若葉色の髪がなびいていた。

 その人の隣には、黄金の毛並みを燃やす九尾が寄り添う。青白い炎は星空の姿を隠すほどに明るく周辺を照らしてくれた。暗くないだけで息がしやすくなる。

「邪魔だぁ」

 奴の声が聞こえた。

「貴様、十五位様になんの用だ」

 普段からは想像できない威圧した声音が奴の声を遠くしてくれる。

「吾はぁ、その子の婿になりにきたぁ。もぉう、契りは交わしたぁ。あのときはうまくできなかったぁ。でも。その子も大人ぁ。もぉう、心配なぁいさ」

 そういうことか、と吐き捨てたその人は、顔だけで振り返ると、言った。

「十五位さん。僕も男です。でも僕は、あなたを傷つけません。あなたを傷つけるものから守ってみせます。僕は――男ですから」

 撫でてくれるような声音に籠められた男らしさは、間違いなく帝位四位の慈愛の心なのだと思えた。

 四位は左手を天に向けた。手のひらには呪符。そこに重ねた右手が握ったのは、呪符から鋭利に伸びた翠の光線で、光の剣は霊力が具現化したものということはすぐにわかった。

 翠の剣を構えた四位は告げる。

「悔い改めろ豚野郎。羅切してやる」

 走り出した四位の後ろ姿を、十五位は固唾を呑んで見送ることしかできなかった。
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