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第七話 五

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 夕陽は沈み、空だけが赤く、地面はすっかり闇に包まれている。ずかずかと歩く九位の背中を追うように、百位は十五位の手を引き続けた。女帝九位は治安維持を仕事にしている。だから見回りをしていたのだと言った。あとは後頭部を掻きながら無言で歩いた。紅の着物の上で漆黒の羽織がゆらゆら風で揺蕩う。俯く十五位の銀髪もさらさらと風になびいていた。

「詳しく知らねえけどよ」

 無言の空気に耐えかねたのか九位が振り返った。つり上がった目が十五位を見据える。

「同じ手は、ねえからよ、気にすんなって」

 十五位は、紅桔梗色のかつらを抱えながら、充血した目で九位をじとりと見返した。

「……なんの話じゃ」
「この手、どう思う?」

 九位は、十五位に見せつけるように右手を開いた。豆がたくさんあって硬そうな手。肌色ではなく黄ばんだ手のひら。兵士の、いや、努力する人間の手。

 十五位は、首を傾げるだけ。

「でだ、こいつの手、どう思う?」
「わ、ちょっと」

 九位に右手を掴まれ無理やり開かされた。九位の右手と百位の右手が並ぶ。大人と子供くらい大きさに差がある。畑仕事とかでいつも茶色に汚れていた貧弱な手。なにもできない今は、一つも汚れていない。

「なあ、おめえのよ、大事な人はよ、どんな手だった?」

 びゅう、と向かい風に銀髪がざわついた。灰褐色の瞳は、じとりと二つの手に向き続ける。

「百位、おめえ、人、殺したことあるか?」

 突然の問いに喉が引きつる。

「ぅえっ、あ、あるわけないでしょ!」
「おれはな、五十一人だ」

 告白に言葉が狩られる。それから、九位を撫でた風から血のような匂いがするようになった。

「おれの手はもう汚れちまった。たくさんの血でな。こいつの手は、こんなに綺麗なのにな。手ってのはな、そいつの生き様だ。醜さも、嘘も、穢れも、手に残る。そいつの罪は、そいつの手に刻まれていく。罪を一つも犯さない人間はいねえよ。みーんな、なんか悪いことをしてる。でもな、だからこそ、同じ手はねえんだ。正真正銘潔白な手ってのはない。絶対にな。ないけどよ、綺麗な手はある。どんなに汚れたって、存在すべき、命を懸けてでも守りたくなるような、そんな綺麗な手がな」

 十五位はなにも答えなかった。ひとつも輝かない灰褐色の瞳に映っているのは誰の右手だろうか。

「百位さーんっ!」

 遠くから声が聞こえた。息を切らしながら走ってきたのは、まだ女装したままの四位だった。九位が「誰だあいつ」と眉をしかめる。四位は膝に手をつきながら汗を袖で拭うと、「十五位さんはっ!?」と枯れた声で叫んだ。

 ずっと握っていた手が離れる。

 四位からは九位が壁になって見えていなかったのだろう。突然現れた人影に、四位は息を呑んだ。

「え? きみは――」

 宵闇でも冷め切らないそよ風に銀髪は無抵抗だった。光源が無いのにはっきりと色合いを主張する銀は、九位の血のような赤髪でさえ存在感を上書きされ、四位も、百位も、ただただ目が銀に吸い寄せられていた。

「きみ、十五位、さん? きみも、かつらを――」

 四位はやがて言葉を失った。瞬きもせず、十五位に見入っていた。十五位は、ただじっと、四位から目を逸らさない。

 ようやく瞬いた四位は、右手を差し出す。わずかに首を傾げ、頬をほころばせる。

「帰ろう」

 十五位が一歩近づく。また一歩、さらに一歩。さっきまで、百位が握っていたはずの右手が伸びる。ゆっくり、ゆっくり。

 右手と右手は触れなかった。

 触れる直前で右手を引っ込めてしまった。

 いそいそと百位の背中に隠れた十五位は、「まだ駄目じゃ」とだけ。

 仕方ないから、彼女が空けてしまった手を握った。

 もう、震えてはいない。

 四位も、ほっと一息ついたようだった。



 ようやく十五位が暮らす屋敷に着いたときには満天の星空が広がっていた。四位が手に持つ松明のような光源は、呪符から生まれた篝火だ。一刻ほど火を起こせるという呪符らしい。便利なものだ。百位は、四位と九位についていきながら十五位に寄り添っていた。

「迷惑かけたのじゃ」

 小声で十五位が言う。前を歩く四位と九位には聞こえていない。

「ううん、わたしも、その、ごめんなさい」
「なぜ謝るのじゃ」
「思い出したくないこと、思い出させちゃった」

 ぱちくりとまばたいた十五位は、ぬへっと吹き出す。

「出会って間もないのに、それほど感情移入されておるとは、やはり、そちはわっちに興味があるのじゃな?」
「な、そんなんじゃないわよ!」
「照れるでない。ん? 今晩泊まっていくか?」
「絶対嫌」

 そっぽを向きながらも手は繋いでおく。そうしておけば、「忘れたことなどないから安心せえ」と聞こえ、またいたたまれない気分になる。

 こつん、十五位の頭が左肩に乗せられた。

「感謝するのじゃ」

 それでようやく、胸のもやもやがいくつか晴れてくれた。

 十一から二十位までの屋敷前は混んでいるなと思った。というのも、屋敷正門前の道に十ほどの馬車が放置されていたからだ。引馬と衛兵は居らず、荷物を載せた荷車だけが残っている。歩く速度を緩めた四位と九位は、怪訝そうにそれらを観察した。

「これ……、おれが手配した輸送隊だな。数が少なかったのは、ここで立ち往生してたのか」

 九位の呟きに、四位が振り返る。

「軍ですか?」
「ああ、門広間の防衛強化だよ。火は正義だっつうから、ちょいとばかし備蓄をな」
「それで火薬をこんなに」

 荷車に載せられた大きな樽は、十五位が泣いていたあの小屋にあったものと同じだ。

「こんな他所から貰った物騒なやつ、危なっかしくて使いたくねえんだけどな。けど、あやかしには剣よりも火が有効らしいしな。頼むから、その火、近づけないでくれよ」

 火薬を火で炙ればけたたましい音と、木が一瞬で炭になる火と、建物が吹き飛ぶような衝撃が発生するとか。いつか、九十九位が新しい商売になりそうだから目をつけていると自慢気に語っていた。

 そんなもの、なぜ女帝の屋敷前に。

 瓦屋根付きの正門前には緑色の甲冑を着て槍を握る見張りが一人だけ立っている。やけに大柄な衛兵だな、と百位はまじまじと観察した。背は倍近くありそうで、力士みたいな体格。十五位が発狂しそうだが、緑色の甲冑だから羅切した衛兵だ。それなら問題ないはず。

「それじゃあ、十五位様。わたしはこれで」
「また明日じゃな」
「うん、また明日」

 十五位の手を離す。素直に離れてくれた手を振り合う。それから十五位は屋敷の正門へ向かった。四位は興味深そうに放置された荷車を調べていて、九位は見張りと会話している。

「おう、輸送隊はどこ行った?」
「は。なんでも、日暮れに間に合いそうもないと言い、再度明日、輸送すると」
「ああ? 確かによ、一般兵は日暮れまでに中心部を出る決まりだけどよ。こんなもんここに置いていくなよなあ」
「ごもっともです。詰所から手を呼び、我々で輸送しますか?」
「あー、ありだな……。にしても、おめえ」

 ふと気になったのは、最後尾の荷車だった。荷台は布で囲まれていて荷物がわからない。四位がかざす篝火が、荷車の影を伸ばす。

 近づいてみたのはなんとなく。荷台の中を覗いたのもなんとなく。暗くて、よくわからない。

「百位さん?」

 四位がやってきたとき篝火に荷台は照らされた。それを認識したとき、五臓六腑が戦慄して呼吸と鼓動が止まったように感じた。それは、九位の声だけが明確に聞こえて、言葉の意味が目の前の光景に結び付いたから。

「おめえ、甲冑、小さくねえか? それ、おめえの甲冑か?」

 最初は、洗濯物が積まれているのかと思った。
 ただ、誰もかもが着物を脱いでいなかった。

 荷台で折り重なっているのは、泡を吹きながらびくついている衛兵の塊で、ほとんどが青甲冑を装備しているのに、一人だけ緑甲冑で、もう一人だけは褌しか穿いていなかった。

 この事実の答えを求め、飛び出そうなほど力んだ目を動かした。

 九位の背後でうねったその影に、叫ぶしかなかった。

「後ろっ!!!」
「ッ!?」

 咄嗟に振り返った九位の左腕に噛みついたのは、土壌色の、蛇。
 蛇の首を掴んで地面に叩きつけて踏み潰した九位は、ふらふらとふらつくと、卒倒した。

 いま騒ぎに気づいた十五位も、振り返った。

 すでに瓦屋根付きの正門をくぐっていた十五位は、衛兵を見上げると、一杯に目を見開き、一杯に頬を強張らせた。


「お お き く な っ た ぁ」


 つんざくような絶叫は、正門が閉じられてから一切聞こえなくなった。


 十五位とあの大柄な衛兵が、門の向こうに消えた。
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