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第四話 四
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九十三位は下女らを連れずに屋敷の裏へと向かった。百位は九十三位を遠くに見ながら追いかけた。屋敷裏には厨房の部分が出っ張っているだけで、他にはなにも無い。厨房天井から突き出た煙突がもくもく白煙を吐き、雑草がぽつぽつ生える地面が広がり、囲むように白い塀があるだけ。恐る恐る様子を窺えば、九十三位は塀のそばで膝を曲げていた。塀が伸ばす日陰の下で菊の簪を挿した黒髪が揺蕩う。
警戒しまくっていた百位だったが、近づくにつれて警戒心を緩めた。右手に饅頭、左手で黒猫とじゃれる九十三位は、無害だと思えた。
「その子、名前は?」
「よ? 名など無い。ここは帝都よ。余はこの生き物と婚を結ぶつもりはないのよ」
塀の底は一ヶ所だけ地面が掘れていた。小動物ならくぐれそうな穴がある。饅頭を頬張りながら黒猫とじゃれる九十三位の隣で、百位も膝を曲げた。下駄を履く九十三位のほうが草履の自分より目線が高かった。餡子の甘みが鼻腔まで漂ってくる。
「あやつめ。甘味を隠しておったか。やから肥えるのよ」
「……それ、お父様からの秘密の差し入れだって。主人にって」
「……そうか」
九十三位は饅頭を全て口に頬張った。饅頭を飲み込み、人差し指と親指をぺろりと舐める。
「なんじゃ、毒も無しか。美味なだけではないか」
「どこに慕ってる主人に毒を仕込む奴がいるのよ」
「元気そうのよ。あの三人。変わりなく。信じられんほど、変わりなく」
九十三位に撫でられる黒猫がゴロゴロと鳴く。
愛らしい、自然と頬が緩んでしまう。
「あいつらって、なんであんたに、あそこまで忠誠心があるのよ」
「さての。気まぐれで村を一つ助けたら勝手に懐いてきただけよ。使えそうだったから拾った。あのときは、試し斬りがしたくての。目の前に、都合よく火の手が上がっていたから飛び込んだだけよ。まだ幼い家族を守るために、両親やあやつらが盾になろうとしていた。あやつらも、いまのお主くらいだったかの。そこを余が通っただけよ」
逆に問うが、と九十三位は黒猫を塀の外に追いやった。
「なぜお主はあやつらに慈悲をかけた。あやつらの首を刎ねるのは、お主の仕事よ。なぜ、お主は黙っておるのよ。やられればやり返す。そうせねば、やった者が得をするだけではないか?」
言いたいことはわかる。九十三位も、自分の下女も、似たようなことをぶつけてくる。これまで散々やられた。帰り道ではいつもうなだれた。でも、殺したいほど憎んでいたわけではない。ちょっとだけ、痛い目に遭わせられれば、それで満足だった。
「ふん、ウンコ投げたくらいで殺される世の中じゃ、婚活なんてできないわよ。別に許してないわ。これまでやってきたぶん、しっかり償ってもらうわ。奴隷みたいに働かせてやるわ。死んで終わり、なんてのは認めない。絶対に」
「……それもそうのよ」
九十三位はすっと立ち上がった。それを見上げる。昼下がりの青空は薄雲で靄がかっていた。うららかな太陽は塀に遮られている。
「余にあやかしは憑いておらんぞ」
白みがかる青空を見上げた九十三位の言葉に、ぎくりとした。
「な、なんの話かしら」
「よ。とぼけるな。狙っておったろうに。余は菊一族よ。霊のあやかしなぞ、余には触れられん。千切って投げ捨ててやるのよ。次、ちょっかいをかけてくれば、お主も縦に千切って投げ捨ててやるのよ。覚悟せい」
ひらり、目の前に呪符が舞い降りてきた。
踵を返した九十三位の威圧感に、百位は顔を逸らしたまま冷や汗を垂らすだけだった。もう下手に動くのはやめよう、そう決心したとき、数歩歩いた九十三位が、ぽつり、呟く。
「思い出せん」
「……え?」
「十一位の、顔」
「なにそれ」
九十三位は、ゆったりと歩んでいた。行く当てが無くて彷徨うようにふらふらと。それを見送りながら、彼女の独白を一言一句聞き逃さないように耳を澄ました。
「余は、十一位の元へ行った。行ったはずよ。そこで、あやつらが嘘を吐いたと確信した。なぜよ。思い出せん。記憶に霧がかかっておる。そこにあったのよ。赤いなにか。なにが赤かったのか、わからん。十一位は、幼馴染なのに、顔を思い出せん。あやつもそうじゃ。余が刎ねろと命じたのに、躊躇っておった。裏切り者を裁くのは、もう数え切れんのに。ここは帝都であれど、余が主人、余が絶対。なのに、あやつは。確信が、時が過ぎれば、確信が、溶けていく。余は、余は、余、は」
九十三位はぶつぶつとぼやきながら立ち去った。その背中の菊花は、威厳も、信念も、己が感情でさえ、すべてが散り落ちたような風情だった。
「あんたの代わりに、わたしが拾っておくから」
百位が吐露した心情は、九十三位の耳には届かない。
九十三位は惑わされたのだろうか。だが、あやかしが憑いていたわけではない。
霊のあやかしは、宿主を惑わせる。九十三位はなにを見たのか。
女帝十一位、財務大臣の娘。早急に会う必要がある。
空の薄雲は、まだらに青空を遮っていた。
警戒しまくっていた百位だったが、近づくにつれて警戒心を緩めた。右手に饅頭、左手で黒猫とじゃれる九十三位は、無害だと思えた。
「その子、名前は?」
「よ? 名など無い。ここは帝都よ。余はこの生き物と婚を結ぶつもりはないのよ」
塀の底は一ヶ所だけ地面が掘れていた。小動物ならくぐれそうな穴がある。饅頭を頬張りながら黒猫とじゃれる九十三位の隣で、百位も膝を曲げた。下駄を履く九十三位のほうが草履の自分より目線が高かった。餡子の甘みが鼻腔まで漂ってくる。
「あやつめ。甘味を隠しておったか。やから肥えるのよ」
「……それ、お父様からの秘密の差し入れだって。主人にって」
「……そうか」
九十三位は饅頭を全て口に頬張った。饅頭を飲み込み、人差し指と親指をぺろりと舐める。
「なんじゃ、毒も無しか。美味なだけではないか」
「どこに慕ってる主人に毒を仕込む奴がいるのよ」
「元気そうのよ。あの三人。変わりなく。信じられんほど、変わりなく」
九十三位に撫でられる黒猫がゴロゴロと鳴く。
愛らしい、自然と頬が緩んでしまう。
「あいつらって、なんであんたに、あそこまで忠誠心があるのよ」
「さての。気まぐれで村を一つ助けたら勝手に懐いてきただけよ。使えそうだったから拾った。あのときは、試し斬りがしたくての。目の前に、都合よく火の手が上がっていたから飛び込んだだけよ。まだ幼い家族を守るために、両親やあやつらが盾になろうとしていた。あやつらも、いまのお主くらいだったかの。そこを余が通っただけよ」
逆に問うが、と九十三位は黒猫を塀の外に追いやった。
「なぜお主はあやつらに慈悲をかけた。あやつらの首を刎ねるのは、お主の仕事よ。なぜ、お主は黙っておるのよ。やられればやり返す。そうせねば、やった者が得をするだけではないか?」
言いたいことはわかる。九十三位も、自分の下女も、似たようなことをぶつけてくる。これまで散々やられた。帰り道ではいつもうなだれた。でも、殺したいほど憎んでいたわけではない。ちょっとだけ、痛い目に遭わせられれば、それで満足だった。
「ふん、ウンコ投げたくらいで殺される世の中じゃ、婚活なんてできないわよ。別に許してないわ。これまでやってきたぶん、しっかり償ってもらうわ。奴隷みたいに働かせてやるわ。死んで終わり、なんてのは認めない。絶対に」
「……それもそうのよ」
九十三位はすっと立ち上がった。それを見上げる。昼下がりの青空は薄雲で靄がかっていた。うららかな太陽は塀に遮られている。
「余にあやかしは憑いておらんぞ」
白みがかる青空を見上げた九十三位の言葉に、ぎくりとした。
「な、なんの話かしら」
「よ。とぼけるな。狙っておったろうに。余は菊一族よ。霊のあやかしなぞ、余には触れられん。千切って投げ捨ててやるのよ。次、ちょっかいをかけてくれば、お主も縦に千切って投げ捨ててやるのよ。覚悟せい」
ひらり、目の前に呪符が舞い降りてきた。
踵を返した九十三位の威圧感に、百位は顔を逸らしたまま冷や汗を垂らすだけだった。もう下手に動くのはやめよう、そう決心したとき、数歩歩いた九十三位が、ぽつり、呟く。
「思い出せん」
「……え?」
「十一位の、顔」
「なにそれ」
九十三位は、ゆったりと歩んでいた。行く当てが無くて彷徨うようにふらふらと。それを見送りながら、彼女の独白を一言一句聞き逃さないように耳を澄ました。
「余は、十一位の元へ行った。行ったはずよ。そこで、あやつらが嘘を吐いたと確信した。なぜよ。思い出せん。記憶に霧がかかっておる。そこにあったのよ。赤いなにか。なにが赤かったのか、わからん。十一位は、幼馴染なのに、顔を思い出せん。あやつもそうじゃ。余が刎ねろと命じたのに、躊躇っておった。裏切り者を裁くのは、もう数え切れんのに。ここは帝都であれど、余が主人、余が絶対。なのに、あやつは。確信が、時が過ぎれば、確信が、溶けていく。余は、余は、余、は」
九十三位はぶつぶつとぼやきながら立ち去った。その背中の菊花は、威厳も、信念も、己が感情でさえ、すべてが散り落ちたような風情だった。
「あんたの代わりに、わたしが拾っておくから」
百位が吐露した心情は、九十三位の耳には届かない。
九十三位は惑わされたのだろうか。だが、あやかしが憑いていたわけではない。
霊のあやかしは、宿主を惑わせる。九十三位はなにを見たのか。
女帝十一位、財務大臣の娘。早急に会う必要がある。
空の薄雲は、まだらに青空を遮っていた。
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