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第一話 三
しおりを挟む女帝百位は藻掻きながら深みにはまったことだけは理解した。ただ、上下左右を見失ってしまい冷静さが吹っ飛んだ。水面を探すのに必死すぎて装束を捨てるという発想は出てこなかった。目が沁み、耳が詰まり、空気を求める鼻と口が水を飲み込む。
東雲の装束は底に沈む錨のようで、細い百位の体は抵抗するだけ無駄だった。
――やだ。いやだ。こんな、まだ、だれ、か――。
水中で泣きそうになったとき、なにかに体を引っ張られた。
むせたときには地面の上だった。げぇげぇと水を吐いた。ズキズキと鼻腔と舌根が暴れる。そうして空気を吸えたとき、目の前に神輿があることに気がついた。
あの世に来た、と一瞬思ったが、神輿の中でふんぞり返っている見覚えのある男に、百位は地獄から帰ってきたような顔で瞬いた。
「ひっどい顔だな。この帝都で、こんな酷い姿を見るとは思わなかった」
うるさいと叫びたかった。空気が足りない肺がひりつく。せめて見返してやらんと睨みつけてやったのに、夕陽に見入ってしまった。
男の瞳は、暮れる夕陽のような赤みがかる橙色だった。それが、二つ。
「寝不足そうだな。隈が濃いぞ」
毎晩、頭の中を考え事がぐるぐるするから寝つけないだけだ。
「栄養不足だな。頬がこけているぞ」
毎日、握り一つでも食えればマシなほうだ。昨日から、なにも食べていないのに。
「ずぶ濡れなのに、肌も唇もカサカサしていそうだ。水分不足か」
飲み水だって、汚水を混ぜられたりする。下手に飲めば腹を下して余計に体調が悪くなる。
「地は良さげだが、もう化粧でもごまかせんだろう。そんなに痩せ細って、骨と皮だけだな」
めくれていた袖から、文字通り骨のような腕が晒されていた。元々薄かった肉は、ここに来てから削ぎ落ちた。
腹が減ったと思う。
そう思えるのなら、まだ気合いは出せる。
「惜しいな」
「なに、よ、惜しいって」
まだ胸がバクバクとうるさかったが、反抗心が口から飛び出た。
「俺は世辞を言わん。百位とは最底辺の女帝ではあるが、それでも女帝。その辺の下女とは違う。健やかであれば、誠に綺麗だったろうに、と思うだけだ」
急になにを言い出すのかと思えば。
「ふん、馬糞まみれの女は美しくなんか」
「違う。汚れなど、川で洗えば落ちる。洗っても、化粧で繕っても変わらないそなた自身のことを言っているのだ」
「うる、さいわね。そんなことを、いう、ために、ここまできたの」
地面を引っ掻くように拳を握った百位は、ふらつきながらも自分の足で立ち上がった。と、神輿でふんぞり返る五位と視線の高さが合う。落ち着いて見渡せば、神輿は地面に降ろされ、自分は担ぎ棒の間に立っている。振り返ると担ぎのあやかしがうねうねしていて、正面に顔を戻せば五位の澄ました顔があった。
「降りてきてやったぞ。いまから見合いでもするか?」
五位はいたずら気に片方の口角を上げた。いくら美形でも不快な笑みだった。
「ふん、笑うのが下手ね。そんな笑顔じゃ、女は寄らないわよ」
キッと睨んでやった。
「酷い言われようだ。せっかく来てやったのに」
五位は動じなかった。
「来てなんて言ってないわ」
「そうだ。俺の意思でここに来た」
「なによ。哀れみ? いらないわそんなの」
「俺なりの礼儀だ。見合い相手くらいには気を使うさ」
五位がやれやれと言いたげに肩をすくめた。見下されている気がして、あの長い蒼髪を引っ張ってやりたかった。
ぐっと堪える。罪悪感や恥や恐怖や、ごちゃ混ぜになったなにかが、ひたすらに胃を蹴り上げてきてもう限界だった。
「……助けていただいたこと、感謝しております。しかし、五位様がわたしのような女と関われば、大なり小なりご迷惑をおかけします。ですので、今後、なにがあっても、わたしと関わることがないよう、お願い申し上げます」
全身は冷え切って震えが止まらないのに、目頭だけがカッカッと熱い。振動する奥歯を、割れんばかりに噛みしめて堪えるしかなかった。
「では、わたしはこれで。ごきげんよう、五位様」
顔を伏せた百位は足早に立ち去ろうとした。しかし、足が動かなかった。
あれ? と足元を見れば、装束ごと足を縛られていることに気づく。これは、あやかしの尾。
「待て。礼はもらう。俺のあやかしが腹を空かせてな。一夜は、排泄物が好物でな。時に百位、まだ糞で汚れているぞ」
「え? え?」
確かに、装束にしろ、肌にしろ、まだべとりと糞が――。
視界の隅からなにかが這い上がってきた。それは、糸を引く長い長い舌で。
――え?
「少し、我慢してくれ」
「ちょ、まっ、やっ、やああああああああああああ!」
五位が視線を逸らした途端、百位は長い舌に襲われた。全身をべろべろと舐められ、
「やっ、どこ舐め、ちょっと、着物の中はあああああああああああ!」
羞恥の叫びが小川の水面に波紋を作った。
――最悪最低ほんとに意味わかんないなんなのこの男っ!
「なにすんのよ馬鹿っ変態っすけべっ最っっっ低っっっ! し――――っ! うううううううううう! くたばれっ!」
あやかしの長い舌に全身を舐め回されたあとにやってきたのは虚無感と耐えがたい羞恥。おかげで涙など引っ込んだ。顔を真っ赤にのぼした百位は思いつく限りの罵倒を五位に浴びせた。
「しかしだな、これで――」
「うっさい喋んな! あやかしで女の体を弄ぶなんて外道にもほどがあるわっ! 恥を知りなさい! 二度とわたしに近づかないでっ!」
もう一度、川に飛び込んでしまいたい。それよりも、早くこの男から逃げないと。
「もうううう! このっ、馬鹿ぁ!」
あまりの恥ずかしさに五位の顔も直視できなくなった百位は、最後の力を振り絞って神輿から走って逃げた。五位がなにか喋っていたようだったが、耳を塞いで聞かないようにした。
こうして、女帝百位と帝位五位の見合いは破談という結果で終了したのであった。
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