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1巻
1-3
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すると盾になっていたエドウィン王子が、私の肩を叩いてため息をつく。
「落ち着けと言っているだろう。お前が見ているのはおそらく、ここに収められている骨董品に宿る精霊たちだ」
「精霊って、これがですか?」
『これだなんて、ずいぶん失礼な子ね』
「ちょっと黙ってて」
話に口を挟んでくる西洋貴婦人に文句を言うと、周囲からブーイングが起こる。彼らが本当に精霊だというのなら……ちょっと俗っぽすぎやしないだろうか?
それはさておき、私はエドウィン王子を捕まえて問い詰める。
「精霊だなんて、うそですよね? あんなにはっきり見えて、喋っているのに?」
「お前以外には見えていないし、声も聞こえていない」
「見えてないって、そんな馬鹿なこと……」
私は後ろを振り返る。
エドウィン王子が連れてきた男性たちは、私の周囲を見回して困惑していた。彼らにも子鬼たちが見えていて、そのせいで動揺しているのかと思っていたのだけれど、言われてみれば様子がおかしい。
子鬼や蛇、貴婦人たちが、衛兵たちにちょっかいを出しているにもかかわらず、衛兵の視線はキョロキョロと泳いだままだ。
エドウィン王子も私をまっすぐ見るのみで、子鬼やうわばみたちに視線を向けもしない。
「わかったか?」
「な、なんとなく」
「この棟には、アオイと同じ世界から流れ着いたものを収めている。それらはすべて長い年月を経て精霊を宿した、特別な品だ」
「やっぱり、本物の骨董品だったんですね」
ここまでの道すがら見てきた品々を思い起こす。
『ねえ、あんた。この色男の話している言葉がわかるのかい?』
花魁のお姉さんが、驚いた様子で私に聞いてくる。
すると他の精霊たちも、触発されたように私に近づいてきた。
「わ、ちょっと、押し寄せないでよ」
驚いた拍子に後ずさると、エドウィン王子にぶつかる。彼も少々驚いた表情で、周囲を警戒しはじめた。
――あれ? もしかして、王子も見えているの? それとも私の反応から身構えてるだけ?
『ねえ、私らはこっちの世界の言葉がわからないのさ。話が通じるなら、その人に伝えておくれよ』
「え、あ、うん」
押し切られるように返事をしたら、花魁がにんまりと微笑んだ。
『この御仁の封印を解いておくれ』
花魁が指さしたのは、橘の柄の壺。
「……え?」
『この御仁から溢れる神通力の影響で、私たちはこうして姿を現すことができた』
「神通力?」
『こうして自由に意思を伝え、お嬢ちゃんを呼ぶことができたのは、そこの橘の御仁がここに来たから。まさに神に通じる力と呼ぶにふさわしかろう』
とぐろを巻いたうわばみが、花魁のあとを続ける。
『しかし困ったことに、誰が語りかけても、橘の御仁は返事をしない。きっとそこの男が、何か怪しげな道具を使って御仁を封印したに違いない。だからその男に封印を解くよう伝えてくれ』
怪しげって……どっちもどっちのような気がするけれど。
振り向くと、エドウィン王子が苛立った表情で私を見下ろし、口を開いた。
「アオイ、精霊たちはお前と同じ世界から来た。彼らの言葉の意味がわかるのだろう?」
「え、あ、はい」
「なら俺の言葉を伝えろ。精霊といえども、急に目覚めて城中をうろうろされては困る。精霊の姿が見えない者たちが、精霊たちのいたずらや気配に怯え、まったくもって仕事にならない。言いたいことがあれば今言え、と」
なるほど、事情はだいたいわかった。橘の壺の力によって活発になった精霊たちに、城の人々は困っている。その一方で精霊たちは王子が壺に何かを施したと疑い、訴えがある。
そしてどうやら双方、私に通訳を望んでいるようだ。
私はハッとしてうわばみに尋ねる。
「もしかして、そのために私をここに呼んだの?」
『もちろん、お前はこの御仁の連れだろう? それだけでなくあちらとも話が通じるとは、これ僥倖。ほれ、早う伝えよ』
伝えよって、偉そうに!
なんだかモヤモヤした気持ちで口をつぐんでいると、エドウィン王子も急かしてくる。
「おい、ちゃんと話をしているのか?」
王子と精霊に挟まれ、私はムカつきを抑えられない。
溺れて訳のわからない場所に流れ着いたと思ったら、帰れないって言われたのよ。助けが欲しいのは私の方だってば!
「アオイ?」
『早う、伝えてくれ』
王子とうわばみに同時に迫られ、私はプツンとキレた。
「ああ、もう、うるさーい! 両側で一度に喋らないで!」
思わずそう叫び――青ざめる。
相手は衛兵を引き連れた王子様で、命の恩人だ。彼の衛兵たちも、突然の私のキレっぷりに驚いた顔で、主の反応をうかがっている。
当の王子様はと言うと、かすかに頬を引きつらせながら、黙って私を見下ろした。
「あ、いえその、ええと」
勢いだけの強気が、一気にしぼんでいく。
王子はため息をつき、なぜか衛兵に部屋を退室するよう指示する。衛兵たちは王子に言われた通り退室していく。
宝物庫に残ったのは、私とエドウィン王子、それから王子の側近らしき金髪の男性だ。
精霊たちは、相変わらず宝物庫に溢れんばかりに漂う。
なんだろう、いきなり人払い? 少し怖い。
王子から逃れるように目線を落とすと、床に落ちている光る何かが目に入った。それは、宿り木を模したシルバーのブレスレット。そういえば手首についていなかった。木箱に引っかかったまま、こちらに運びこまれたのだろう。
「こんなところにあったのね。よかった」
私がブレスレットを拾い、左手首にはめようとしたとき――
「アオイ!」
低い声でエドウィン王子に名前を呼ばれ、すくみ上がる。え、盗もうとしていると思われた!?
「ごめんなさい、でもこれは私のもので――」
「そうじゃない、後ろだ!」
振り返る間もなく、白く透き通った手と、浅葱色の袖が目の前をよぎる。
『うるさい、いい気分で寝ておったのに』
その声と共に、大きな何かが私の隣にやってきた。
エドウィン王子と私の間に浮かんでいるのは、私よりも背が高く、長い黒髪の男性。
平安装束姿の彼は、長い髪を揺らしながら、周囲を見回した。
『この娘を困らせるな、精霊ども』
賑やかだった精霊たちが、その一言で、黙って後ずさる。その様子から、装束姿の彼は相当力が強いのだろうとわかった。多分、先ほど他の精霊たちが話題にしていた御仁――橘の壺の精霊。
『お前もだ』
彼はエドウィン王子を見下ろして、ぴしゃりと言った。
「アオイ、精霊たちが活気づいた元凶は、この精霊だな?」
エドウィン王子が視線を投げかけた先には、平安装束の精霊。彼をしっかりと見据える王子の仕草に、私はやっぱりと確信した。
「あなたにも見えているの……見えているんですね」
言葉の途中で、相手は王子だったと気づいて丁寧に話す。
エドウィン王子は眉を寄せてから、観念したように頷いた。
「エド、ちょっと迂闊じゃないか?」
咎めるように王子に声をかけたのは、人払いのあとも残っていた、金髪で褐色肌の男性。王子を愛称で呼ぶ上に、びっくりするほど気安い話し方だ。
「クレメンス。これほどの『愛し子』相手に、隠しても無駄だろう」
金髪の彼をクレメンスと呼び、ぶっきらぼうに返事をするエドウィン王子。
再び私を見た王子は、すっかり元の硬い表情に戻っていた。知らない単語――『愛し子』という言葉が気になったが、聞ける雰囲気ではない。
「アオイ、たしかにお前の言う通り、俺には精霊たちの姿が見えている。それを知るのは、家族以外はこいつ――側近のクレメンスとシャイアくらい。他の者には他言無用だ。拒否は受け入れない」
「わ、わかりました……けど、どうして?」
「理由は追々説明する」
王子の厳しい表情と声に加えて、目元の濃いクマが凄みを強めている。
王子の威圧感に押されて、私は頷いた。
「それで、なんて伝えるんでしたっけ?」
「俺は姿を見ることができて声も聞こえるが、言葉の意味がわからない。精霊たちが話しているのは、お前の世界の言葉だろう。何を言っているのか理解できないし、こちらの意志を伝えることも不可能。だからアオイは俺の言葉を翻訳してくれ――騒ぎを収めろと」
それでようやく、私は本題を思い出した。
「彼に、少し話を聞きながらでもいいですか?」
「ああ」
エドウィン王子は頷くと、二歩ほど下がる。
私は改めて、浅葱色の装束姿の男性に向き合った。
「あなたが、橘の壺の精霊?」
『ああそうだ、蒼衣』
「私の名前を知っているの?」
『もちろん、氏子の名は忘れぬ』
氏子とは、土地の守り神である氏神を祀る地に生まれた人々のことだ。
「氏子? あなたは神様なの?」
『いいや、私はあくまでも大壺の精霊。氏神に預けられた願いに関わり、長らく社に祀られたせいで、他のものよりも多くの神力を得ている』
なるほど。私の名を知っていることについては疑問が残るけれど、とりあえず王子に頼まれた件を先に進める。
「話は変わるけど、他の骨董品たちはあなた、ええと……」
『橘と呼べ』
「わかった。橘がいるせいで他の骨董品たちが活性化したって聞いたけど、それは本当?」
橘は少しだけ考えたあと、頷いた。
『そうかもしれない。だが世界を渡った影響で、私はしばらく眠りについていた。私の与り知らぬ間の出来事だ』
「寝てただけなの? でも他の精霊たちは、あなたが封印されているんじゃないかって言っていたよ?」
それを聞いて、橘が声を上げて笑う。
『それはない。私を封じられる者がいるのなら、会ってみたいものだ。ただ……この部屋には、精霊たちが外に出られぬようにするための仕掛けが、いくつか施されているようだがな』
「エドウィン王子が言うには、私たちがこちらに来て以来、精霊たちが外に出てみんなを驚かせてしまっているんですって。それでパニックになっているみたい」
そこで、エドウィン王子が痺れをきらしたかのように、話に割って入ってきた。橘の言葉はわからないものの、私の話を聞いて会話の断片を理解したようだ。
「原因がそいつならば、鎮めるよう言ってくれ、アオイ」
ふわふわと浮いている橘に、王子からの言葉を告げる。
すると周囲の精霊たちがざわついたが、橘が軽く手をひらりと振るだけでそれを収める。
『たしかに、私が眠っていた間に溢れた神気が影響を及ぼしたかもしれない。だがせっかく得た力を活かさぬ者はいまい? 言うなれば、立ち上がった赤子に歩くなと言うようなもの』
なるほどたしかにと頷き、私は王子に橘の言葉を伝える。
「……って、言ってますけど」
「個々の望みがあれば極力叶えると約束する。その代わり、城内での不用意な徘徊は控えるよう伝えてくれ」
私がエドウィン王子の言葉を繰り返すと、精霊たちは一転して晴れやかな表情になった。
みんなそんなに望みがあるのだろうかと私が首をかしげると、うわばみが説明してくれる。
『我らはみな、それぞれ望みを持つ。望みと精霊の力、そしてそのとき本体があった場所の力が合わさって、ここに流れてきた。望みは様々で、知らない世界を見たいという好奇心だったり、自分の持ち主に対する不満から解放されたいというものだったり、気の合う持ち主に出会いたかったり――とまあ、十人十色だ』
宝物庫に収められた骨董品たちは、何かしらの希望を持って世界を越えてきたのだという。
『あんたも同じだろう、橘の御仁?』
うわばみは目を細めて、笑っているような表情で橘を覗きこむ。
橘は険しい表情で頷いた。
『私も目的があってこちらへ来た』
「そう、なんだ?」
じゃあやっぱりここは、本当に異世界なのか……
浮島を見せられてなお信じたくなかった現実を、思い知らされる。
私は橘を見上げて、問いかけた。
「こちらに渡ってきたいと願った橘の巻き添えになって、私はここへ来たの?」
『そうだな。しかし、あのときは仕方がなかった。放置したら蒼衣は海の底に沈んでいただろう』
「それは、そうだけど……」
もやもやとしたものが、胸に渦巻く。
うわばみはそんな私などおかまいなしに、話を続ける。
『我らが新たな持ち主を得る手助けを、この世界の者が請け負ってくれるなら、言う通りにしよう。聞けば、以前は仲介者がいて、新たな持ち主のもとへ旅立てたというではないか。ここで世話になりながら、同胞を見送ることはみなの喜びだったと。それがいつのまにか旅立つ者はいなくなり、新たに加わる者ばかり。閉じこめられているため、みな退屈しておる。以前のように面倒を見てもらえれば、こちらとしては言うことはない。すぐさま旅立つことはできずとも、外の空気を吸いたい』
うわばみの言葉を伝えると、王子は頷いた。
「わかった。なるべく早急に対処しよう」
以前は、ここアンレジッド王国に流れてきた品物たちは、新たな持ち主を得て、この世界の各地に散らばっていったのだという。最近はそれがおこなわれていないが、かつてのように新たな持ち主に出会い、外の世界に出ていくことが彼らの望みらしい。それを求めて、この世界に自らやってきたと――
つまり私だけが、望まないのに流れてきたのだ。
望んでこちらへ来たものたちと、連れてこられた私。
とたんに、孤独と不安に襲われる。
賑やかな骨董品の精霊たちに囲まれているのに、すっと心が冷えた。
『ところで今度の仲介者は、この娘か?』
『それはちょうどいい、なにせ私たちの言葉がわかる上に、こちらの者とも言葉が通じる。この世界でそういう人間は貴重だからな』
私を指さし、頷き合う精霊たち。
訳のわからない話に、私を巻きこまないでほしい。
そう文句を言おうとしたところで、エドウィン王子まで勝手なことを言い出した。
「アオイ、ちょうどいい。今、店主がいない骨董品店があるんだ。そこの店主をやりながら、お前が精霊たちと我々を取り持ってくれ」
「私が?」
唐突な無茶ぶりに、心が凍てついた。――みんな好き勝手言って、私の気持ちはおかまいなしだ。
「そうだ。精霊の姿が見え、声が聞こえる。それに言葉が通じて、通訳ができるんだ。これ以上の適任者はいまい……おい、アオイ? 何をやっている、やめろ!」
私はエドウィン王子の制止を無視し、強引につけられたピアスに手をかける。
このピアスが異世界の言葉と地球の言葉を翻訳している。ならばこれを、私以外の人が使えばいい。
「じゃあ、翻訳機はお返しします。王子がこれをつけて彼らの話を聞けばいいじゃないですか。私はいつまでもここに滞在するつもりありません。――元の世界に帰りたいんです!」
「待て、傷が広がる!」
「大丈夫です、外した方が早く塞がります!」
「アオイ、落ち着け。言葉がわからなくなって困るのはお前自身だ」
「もう充分困ってます! 私は望んでここへ来たんじゃないんですもの」
「アオイ! 待て……○△☆!」
ピアスを外したとたん、再び彼の言葉が理解できなくなる。
外したピアスを、エドウィン王子に投げるように押しつけた。
そして王子の声を無視し、宝物庫を飛び出す。
外で待っていたシャイアさんが、私の勢いに目を丸くした。そして私の腕を掴んできたけれど、私はかまわずに歩き出す。
「安心して。部屋に戻るだけだから」
「☆○○」
あとをついてくるシャイアさんを振り返らずに来た道を戻り、元の部屋に入るとベッドにもぐりこむ。だってそれしか、私にできることはなかったから。
布団の中で膝を抱え、嗚咽を漏らす自分が情けなく、消えてなくなりたいくらいだった。
八つ当たりだってわかってる。それでも寂しくて悲しくて、孤独な現実がのしかかり、とても怖かった。
泣きながら、少し眠ってしまったらしい。
目を覚ますと、部屋はカーテン越しの朝日によりほんのり明るかった。
あたりを見回すと、ベッド脇の椅子にシャイアさんが座っている。彼女はこくりこくりと船をこいでいた。
「……シャイアさん」
まさかあれからずっと、そばについていてくれたのかしら。
シャイアさんがこくりと揺れた拍子に、ひざ掛けが落ちそうになる。手を伸ばしてそれを受け止めると、気配を察したのか彼女が起きてしまった。
シャイアさんは私を見て、何かを話しだす。
「○☆! ◇×☆?」
「言葉はわからないけど……私は大丈夫だよ、シャイアさん」
お世話になっているにもかかわらず、彼女が仕える主に暴言を吐いて、逃げてきてしまった。
不興を買ってもおかしくないのに、シャイアさんの表情は穏やかで、今までと何も変わらない。しかも私の手を握り、もう片方の手で背中を撫でてくれる。
心配いらないと、安心させようとしてくれているみたいだった。
「ごめんなさい、我儘でした」
シャイアさんは微笑んだまま、そっと首を横に振る。
言葉は通じなくとも、私が謝っていることは察してくれているようだ。
心配を、かけてしまった。
エドウィン王子も彼女も、どこの誰ともわからない私を、保護してくれただけなのに。
しっかりしなくちゃ。私は自分の頬を両手で叩き、ベッドから出たのだった。
シャイアさんをはじめとする侍女さんたちに世話を焼いてもらいながら、仕立てのいいワンピースに着替えて、朝食をいただく。
ずっしりと重いカトラリーは、細工が見事な銀製だ。
食事はというと、柔らかく焼き上げたパンと甘いジャム。それからハムのような肉の加工品を焼いたものを少しと、野菜のスープ。どれも美味しく、食べ慣れたものとさほど違いがないのが、嬉しかった。
ぺろりと平らげたあとに出してくれたのは、温かい紅茶。
ホッとした時間が流れはじめたとき、エドウィン王子の側近が部屋を訪ねてきた。
彼は確かクレメンスと呼ばれていたはず。
彼はにこやかに微笑み、通じない言葉を紡ぎながら、周囲をキョロキョロと見渡す。
どうしたのだろうかと見守っていると、彼の背後から、小さな人影がふわりと現れた。
よく見れば平安装束の美形――橘だ。手のひらに乗るほどのサイズに縮んでしまっている。
「橘? どうしたの、その姿は」
『体の大きさは自由自在に変えられるのだ。動き回るのに、小さい方が便利だし気づかれにくいからな。それより蒼衣。お前の誤解を解いておこうと思って、この者についてやってきた』
橘は日本語を話しているので、言葉が通じる。私はホッとしつつ、気になる単語を繰り返した。
「誤解?」
すると、橘が私の口に指を立てた。
『ここの者たちには、聞かれぬ方がよかろう。お前の今後のことだから』
今後のこと――? 私は不安に駆られながら、宙に浮く橘を見上げる。
「今は言葉は通じてないわ。翻訳機のピアスを外してしまったから」
『そうか、ならば都合がいいな』
私は頷き、彼に続きを促す。すると橘は浅葱色の袖をひるがえし、私のそばに来た。そしてクレメンスさんの目を気にしながらも、真剣な面持ちで言った。
『蒼衣、元の世界に帰りたいか?』
もちろん、私は何度も頷く。
『帰る方法はある』
「本当?」
思わず身を乗り出して聞き返すと、橘は微笑みながら頷いた。
でもどうやって?
『私が帰す。だが、すぐにとはいかぬ』
「何をすればいい? どれくらい、待てばいい?」
私は逸る気持ちを抑え、彼の返答を待つ。
『今すぐではない。私一人ではまだ力が足りない。だが先にこの世界に来ているはずの、私の半身を見つければ、蒼衣を帰すくらいはできるだろう』
半身って、もしかして……
『私は半身を求めてこの世界に渡った。蒼衣を守るために巻きこむことになったが、無事に来られたのは奇跡だろう。もしかして、蒼衣もこの世界と縁があるのかもしれない』
私とこの見知らぬ世界に、縁が?
「そんなの、あるわけないよ」
『本当に?』
橘のその言葉に、なぜか胸が騒ぐ。
『まあ、私は――半身の「さくら」さえ見つかれば、それでいい。共に作られた大壺で、大事な片割れ……妹なのだ』
「さくら……やっぱり!」
左近の桜・右近の橘。対で作られた大壺だったんだ。
『さくらは元々、私と共に社殿で祀られていた。仲のいい兄妹で、妹は私がいないと何もできない――かわいい妹なのだ。しかし十年ほど前、盗難にあってな。離れてしまったが気配を感じるから、ずっと探していた。様々な人の手に渡るために、騒いだり力を使ったりと励んだものだ』
その言葉にハッとして、私は橘を睨む。
「そんなことをしていたから、呪いの壺だなんて言われて、捨てられたのね」
『そう睨むな。――必死だったのだ。三年ほど前、さくらの気配がふと消えてしまった。それでも諦めずに探しているうちに、あの海のあたりで異なる世界とさくらの気配を察して、世界を渡ったという訳だ』
事情を聞いた私は、驚きながらも納得して頷く。
すると橘はあらたまった様子で口を開いた。
『ここでもかすかにさくらの気配を感じるが、はるか遠い。この世界の人間と交渉し、さくらを呼び寄せるためには人間の協力が必要となる。さくらが見つかれば、蒼衣を元の世界に戻すこともできる。蒼衣、互いのために協力し合おう』
「王子に言われた通り骨董品と人間の間を取り持てってこと?」
『ああ、そうだ』
まさか橘にまでそう言われるとは思わず、私は困惑する。
「落ち着けと言っているだろう。お前が見ているのはおそらく、ここに収められている骨董品に宿る精霊たちだ」
「精霊って、これがですか?」
『これだなんて、ずいぶん失礼な子ね』
「ちょっと黙ってて」
話に口を挟んでくる西洋貴婦人に文句を言うと、周囲からブーイングが起こる。彼らが本当に精霊だというのなら……ちょっと俗っぽすぎやしないだろうか?
それはさておき、私はエドウィン王子を捕まえて問い詰める。
「精霊だなんて、うそですよね? あんなにはっきり見えて、喋っているのに?」
「お前以外には見えていないし、声も聞こえていない」
「見えてないって、そんな馬鹿なこと……」
私は後ろを振り返る。
エドウィン王子が連れてきた男性たちは、私の周囲を見回して困惑していた。彼らにも子鬼たちが見えていて、そのせいで動揺しているのかと思っていたのだけれど、言われてみれば様子がおかしい。
子鬼や蛇、貴婦人たちが、衛兵たちにちょっかいを出しているにもかかわらず、衛兵の視線はキョロキョロと泳いだままだ。
エドウィン王子も私をまっすぐ見るのみで、子鬼やうわばみたちに視線を向けもしない。
「わかったか?」
「な、なんとなく」
「この棟には、アオイと同じ世界から流れ着いたものを収めている。それらはすべて長い年月を経て精霊を宿した、特別な品だ」
「やっぱり、本物の骨董品だったんですね」
ここまでの道すがら見てきた品々を思い起こす。
『ねえ、あんた。この色男の話している言葉がわかるのかい?』
花魁のお姉さんが、驚いた様子で私に聞いてくる。
すると他の精霊たちも、触発されたように私に近づいてきた。
「わ、ちょっと、押し寄せないでよ」
驚いた拍子に後ずさると、エドウィン王子にぶつかる。彼も少々驚いた表情で、周囲を警戒しはじめた。
――あれ? もしかして、王子も見えているの? それとも私の反応から身構えてるだけ?
『ねえ、私らはこっちの世界の言葉がわからないのさ。話が通じるなら、その人に伝えておくれよ』
「え、あ、うん」
押し切られるように返事をしたら、花魁がにんまりと微笑んだ。
『この御仁の封印を解いておくれ』
花魁が指さしたのは、橘の柄の壺。
「……え?」
『この御仁から溢れる神通力の影響で、私たちはこうして姿を現すことができた』
「神通力?」
『こうして自由に意思を伝え、お嬢ちゃんを呼ぶことができたのは、そこの橘の御仁がここに来たから。まさに神に通じる力と呼ぶにふさわしかろう』
とぐろを巻いたうわばみが、花魁のあとを続ける。
『しかし困ったことに、誰が語りかけても、橘の御仁は返事をしない。きっとそこの男が、何か怪しげな道具を使って御仁を封印したに違いない。だからその男に封印を解くよう伝えてくれ』
怪しげって……どっちもどっちのような気がするけれど。
振り向くと、エドウィン王子が苛立った表情で私を見下ろし、口を開いた。
「アオイ、精霊たちはお前と同じ世界から来た。彼らの言葉の意味がわかるのだろう?」
「え、あ、はい」
「なら俺の言葉を伝えろ。精霊といえども、急に目覚めて城中をうろうろされては困る。精霊の姿が見えない者たちが、精霊たちのいたずらや気配に怯え、まったくもって仕事にならない。言いたいことがあれば今言え、と」
なるほど、事情はだいたいわかった。橘の壺の力によって活発になった精霊たちに、城の人々は困っている。その一方で精霊たちは王子が壺に何かを施したと疑い、訴えがある。
そしてどうやら双方、私に通訳を望んでいるようだ。
私はハッとしてうわばみに尋ねる。
「もしかして、そのために私をここに呼んだの?」
『もちろん、お前はこの御仁の連れだろう? それだけでなくあちらとも話が通じるとは、これ僥倖。ほれ、早う伝えよ』
伝えよって、偉そうに!
なんだかモヤモヤした気持ちで口をつぐんでいると、エドウィン王子も急かしてくる。
「おい、ちゃんと話をしているのか?」
王子と精霊に挟まれ、私はムカつきを抑えられない。
溺れて訳のわからない場所に流れ着いたと思ったら、帰れないって言われたのよ。助けが欲しいのは私の方だってば!
「アオイ?」
『早う、伝えてくれ』
王子とうわばみに同時に迫られ、私はプツンとキレた。
「ああ、もう、うるさーい! 両側で一度に喋らないで!」
思わずそう叫び――青ざめる。
相手は衛兵を引き連れた王子様で、命の恩人だ。彼の衛兵たちも、突然の私のキレっぷりに驚いた顔で、主の反応をうかがっている。
当の王子様はと言うと、かすかに頬を引きつらせながら、黙って私を見下ろした。
「あ、いえその、ええと」
勢いだけの強気が、一気にしぼんでいく。
王子はため息をつき、なぜか衛兵に部屋を退室するよう指示する。衛兵たちは王子に言われた通り退室していく。
宝物庫に残ったのは、私とエドウィン王子、それから王子の側近らしき金髪の男性だ。
精霊たちは、相変わらず宝物庫に溢れんばかりに漂う。
なんだろう、いきなり人払い? 少し怖い。
王子から逃れるように目線を落とすと、床に落ちている光る何かが目に入った。それは、宿り木を模したシルバーのブレスレット。そういえば手首についていなかった。木箱に引っかかったまま、こちらに運びこまれたのだろう。
「こんなところにあったのね。よかった」
私がブレスレットを拾い、左手首にはめようとしたとき――
「アオイ!」
低い声でエドウィン王子に名前を呼ばれ、すくみ上がる。え、盗もうとしていると思われた!?
「ごめんなさい、でもこれは私のもので――」
「そうじゃない、後ろだ!」
振り返る間もなく、白く透き通った手と、浅葱色の袖が目の前をよぎる。
『うるさい、いい気分で寝ておったのに』
その声と共に、大きな何かが私の隣にやってきた。
エドウィン王子と私の間に浮かんでいるのは、私よりも背が高く、長い黒髪の男性。
平安装束姿の彼は、長い髪を揺らしながら、周囲を見回した。
『この娘を困らせるな、精霊ども』
賑やかだった精霊たちが、その一言で、黙って後ずさる。その様子から、装束姿の彼は相当力が強いのだろうとわかった。多分、先ほど他の精霊たちが話題にしていた御仁――橘の壺の精霊。
『お前もだ』
彼はエドウィン王子を見下ろして、ぴしゃりと言った。
「アオイ、精霊たちが活気づいた元凶は、この精霊だな?」
エドウィン王子が視線を投げかけた先には、平安装束の精霊。彼をしっかりと見据える王子の仕草に、私はやっぱりと確信した。
「あなたにも見えているの……見えているんですね」
言葉の途中で、相手は王子だったと気づいて丁寧に話す。
エドウィン王子は眉を寄せてから、観念したように頷いた。
「エド、ちょっと迂闊じゃないか?」
咎めるように王子に声をかけたのは、人払いのあとも残っていた、金髪で褐色肌の男性。王子を愛称で呼ぶ上に、びっくりするほど気安い話し方だ。
「クレメンス。これほどの『愛し子』相手に、隠しても無駄だろう」
金髪の彼をクレメンスと呼び、ぶっきらぼうに返事をするエドウィン王子。
再び私を見た王子は、すっかり元の硬い表情に戻っていた。知らない単語――『愛し子』という言葉が気になったが、聞ける雰囲気ではない。
「アオイ、たしかにお前の言う通り、俺には精霊たちの姿が見えている。それを知るのは、家族以外はこいつ――側近のクレメンスとシャイアくらい。他の者には他言無用だ。拒否は受け入れない」
「わ、わかりました……けど、どうして?」
「理由は追々説明する」
王子の厳しい表情と声に加えて、目元の濃いクマが凄みを強めている。
王子の威圧感に押されて、私は頷いた。
「それで、なんて伝えるんでしたっけ?」
「俺は姿を見ることができて声も聞こえるが、言葉の意味がわからない。精霊たちが話しているのは、お前の世界の言葉だろう。何を言っているのか理解できないし、こちらの意志を伝えることも不可能。だからアオイは俺の言葉を翻訳してくれ――騒ぎを収めろと」
それでようやく、私は本題を思い出した。
「彼に、少し話を聞きながらでもいいですか?」
「ああ」
エドウィン王子は頷くと、二歩ほど下がる。
私は改めて、浅葱色の装束姿の男性に向き合った。
「あなたが、橘の壺の精霊?」
『ああそうだ、蒼衣』
「私の名前を知っているの?」
『もちろん、氏子の名は忘れぬ』
氏子とは、土地の守り神である氏神を祀る地に生まれた人々のことだ。
「氏子? あなたは神様なの?」
『いいや、私はあくまでも大壺の精霊。氏神に預けられた願いに関わり、長らく社に祀られたせいで、他のものよりも多くの神力を得ている』
なるほど。私の名を知っていることについては疑問が残るけれど、とりあえず王子に頼まれた件を先に進める。
「話は変わるけど、他の骨董品たちはあなた、ええと……」
『橘と呼べ』
「わかった。橘がいるせいで他の骨董品たちが活性化したって聞いたけど、それは本当?」
橘は少しだけ考えたあと、頷いた。
『そうかもしれない。だが世界を渡った影響で、私はしばらく眠りについていた。私の与り知らぬ間の出来事だ』
「寝てただけなの? でも他の精霊たちは、あなたが封印されているんじゃないかって言っていたよ?」
それを聞いて、橘が声を上げて笑う。
『それはない。私を封じられる者がいるのなら、会ってみたいものだ。ただ……この部屋には、精霊たちが外に出られぬようにするための仕掛けが、いくつか施されているようだがな』
「エドウィン王子が言うには、私たちがこちらに来て以来、精霊たちが外に出てみんなを驚かせてしまっているんですって。それでパニックになっているみたい」
そこで、エドウィン王子が痺れをきらしたかのように、話に割って入ってきた。橘の言葉はわからないものの、私の話を聞いて会話の断片を理解したようだ。
「原因がそいつならば、鎮めるよう言ってくれ、アオイ」
ふわふわと浮いている橘に、王子からの言葉を告げる。
すると周囲の精霊たちがざわついたが、橘が軽く手をひらりと振るだけでそれを収める。
『たしかに、私が眠っていた間に溢れた神気が影響を及ぼしたかもしれない。だがせっかく得た力を活かさぬ者はいまい? 言うなれば、立ち上がった赤子に歩くなと言うようなもの』
なるほどたしかにと頷き、私は王子に橘の言葉を伝える。
「……って、言ってますけど」
「個々の望みがあれば極力叶えると約束する。その代わり、城内での不用意な徘徊は控えるよう伝えてくれ」
私がエドウィン王子の言葉を繰り返すと、精霊たちは一転して晴れやかな表情になった。
みんなそんなに望みがあるのだろうかと私が首をかしげると、うわばみが説明してくれる。
『我らはみな、それぞれ望みを持つ。望みと精霊の力、そしてそのとき本体があった場所の力が合わさって、ここに流れてきた。望みは様々で、知らない世界を見たいという好奇心だったり、自分の持ち主に対する不満から解放されたいというものだったり、気の合う持ち主に出会いたかったり――とまあ、十人十色だ』
宝物庫に収められた骨董品たちは、何かしらの希望を持って世界を越えてきたのだという。
『あんたも同じだろう、橘の御仁?』
うわばみは目を細めて、笑っているような表情で橘を覗きこむ。
橘は険しい表情で頷いた。
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「そう、なんだ?」
じゃあやっぱりここは、本当に異世界なのか……
浮島を見せられてなお信じたくなかった現実を、思い知らされる。
私は橘を見上げて、問いかけた。
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『そうだな。しかし、あのときは仕方がなかった。放置したら蒼衣は海の底に沈んでいただろう』
「それは、そうだけど……」
もやもやとしたものが、胸に渦巻く。
うわばみはそんな私などおかまいなしに、話を続ける。
『我らが新たな持ち主を得る手助けを、この世界の者が請け負ってくれるなら、言う通りにしよう。聞けば、以前は仲介者がいて、新たな持ち主のもとへ旅立てたというではないか。ここで世話になりながら、同胞を見送ることはみなの喜びだったと。それがいつのまにか旅立つ者はいなくなり、新たに加わる者ばかり。閉じこめられているため、みな退屈しておる。以前のように面倒を見てもらえれば、こちらとしては言うことはない。すぐさま旅立つことはできずとも、外の空気を吸いたい』
うわばみの言葉を伝えると、王子は頷いた。
「わかった。なるべく早急に対処しよう」
以前は、ここアンレジッド王国に流れてきた品物たちは、新たな持ち主を得て、この世界の各地に散らばっていったのだという。最近はそれがおこなわれていないが、かつてのように新たな持ち主に出会い、外の世界に出ていくことが彼らの望みらしい。それを求めて、この世界に自らやってきたと――
つまり私だけが、望まないのに流れてきたのだ。
望んでこちらへ来たものたちと、連れてこられた私。
とたんに、孤独と不安に襲われる。
賑やかな骨董品の精霊たちに囲まれているのに、すっと心が冷えた。
『ところで今度の仲介者は、この娘か?』
『それはちょうどいい、なにせ私たちの言葉がわかる上に、こちらの者とも言葉が通じる。この世界でそういう人間は貴重だからな』
私を指さし、頷き合う精霊たち。
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そう文句を言おうとしたところで、エドウィン王子まで勝手なことを言い出した。
「アオイ、ちょうどいい。今、店主がいない骨董品店があるんだ。そこの店主をやりながら、お前が精霊たちと我々を取り持ってくれ」
「私が?」
唐突な無茶ぶりに、心が凍てついた。――みんな好き勝手言って、私の気持ちはおかまいなしだ。
「そうだ。精霊の姿が見え、声が聞こえる。それに言葉が通じて、通訳ができるんだ。これ以上の適任者はいまい……おい、アオイ? 何をやっている、やめろ!」
私はエドウィン王子の制止を無視し、強引につけられたピアスに手をかける。
このピアスが異世界の言葉と地球の言葉を翻訳している。ならばこれを、私以外の人が使えばいい。
「じゃあ、翻訳機はお返しします。王子がこれをつけて彼らの話を聞けばいいじゃないですか。私はいつまでもここに滞在するつもりありません。――元の世界に帰りたいんです!」
「待て、傷が広がる!」
「大丈夫です、外した方が早く塞がります!」
「アオイ、落ち着け。言葉がわからなくなって困るのはお前自身だ」
「もう充分困ってます! 私は望んでここへ来たんじゃないんですもの」
「アオイ! 待て……○△☆!」
ピアスを外したとたん、再び彼の言葉が理解できなくなる。
外したピアスを、エドウィン王子に投げるように押しつけた。
そして王子の声を無視し、宝物庫を飛び出す。
外で待っていたシャイアさんが、私の勢いに目を丸くした。そして私の腕を掴んできたけれど、私はかまわずに歩き出す。
「安心して。部屋に戻るだけだから」
「☆○○」
あとをついてくるシャイアさんを振り返らずに来た道を戻り、元の部屋に入るとベッドにもぐりこむ。だってそれしか、私にできることはなかったから。
布団の中で膝を抱え、嗚咽を漏らす自分が情けなく、消えてなくなりたいくらいだった。
八つ当たりだってわかってる。それでも寂しくて悲しくて、孤独な現実がのしかかり、とても怖かった。
泣きながら、少し眠ってしまったらしい。
目を覚ますと、部屋はカーテン越しの朝日によりほんのり明るかった。
あたりを見回すと、ベッド脇の椅子にシャイアさんが座っている。彼女はこくりこくりと船をこいでいた。
「……シャイアさん」
まさかあれからずっと、そばについていてくれたのかしら。
シャイアさんがこくりと揺れた拍子に、ひざ掛けが落ちそうになる。手を伸ばしてそれを受け止めると、気配を察したのか彼女が起きてしまった。
シャイアさんは私を見て、何かを話しだす。
「○☆! ◇×☆?」
「言葉はわからないけど……私は大丈夫だよ、シャイアさん」
お世話になっているにもかかわらず、彼女が仕える主に暴言を吐いて、逃げてきてしまった。
不興を買ってもおかしくないのに、シャイアさんの表情は穏やかで、今までと何も変わらない。しかも私の手を握り、もう片方の手で背中を撫でてくれる。
心配いらないと、安心させようとしてくれているみたいだった。
「ごめんなさい、我儘でした」
シャイアさんは微笑んだまま、そっと首を横に振る。
言葉は通じなくとも、私が謝っていることは察してくれているようだ。
心配を、かけてしまった。
エドウィン王子も彼女も、どこの誰ともわからない私を、保護してくれただけなのに。
しっかりしなくちゃ。私は自分の頬を両手で叩き、ベッドから出たのだった。
シャイアさんをはじめとする侍女さんたちに世話を焼いてもらいながら、仕立てのいいワンピースに着替えて、朝食をいただく。
ずっしりと重いカトラリーは、細工が見事な銀製だ。
食事はというと、柔らかく焼き上げたパンと甘いジャム。それからハムのような肉の加工品を焼いたものを少しと、野菜のスープ。どれも美味しく、食べ慣れたものとさほど違いがないのが、嬉しかった。
ぺろりと平らげたあとに出してくれたのは、温かい紅茶。
ホッとした時間が流れはじめたとき、エドウィン王子の側近が部屋を訪ねてきた。
彼は確かクレメンスと呼ばれていたはず。
彼はにこやかに微笑み、通じない言葉を紡ぎながら、周囲をキョロキョロと見渡す。
どうしたのだろうかと見守っていると、彼の背後から、小さな人影がふわりと現れた。
よく見れば平安装束の美形――橘だ。手のひらに乗るほどのサイズに縮んでしまっている。
「橘? どうしたの、その姿は」
『体の大きさは自由自在に変えられるのだ。動き回るのに、小さい方が便利だし気づかれにくいからな。それより蒼衣。お前の誤解を解いておこうと思って、この者についてやってきた』
橘は日本語を話しているので、言葉が通じる。私はホッとしつつ、気になる単語を繰り返した。
「誤解?」
すると、橘が私の口に指を立てた。
『ここの者たちには、聞かれぬ方がよかろう。お前の今後のことだから』
今後のこと――? 私は不安に駆られながら、宙に浮く橘を見上げる。
「今は言葉は通じてないわ。翻訳機のピアスを外してしまったから」
『そうか、ならば都合がいいな』
私は頷き、彼に続きを促す。すると橘は浅葱色の袖をひるがえし、私のそばに来た。そしてクレメンスさんの目を気にしながらも、真剣な面持ちで言った。
『蒼衣、元の世界に帰りたいか?』
もちろん、私は何度も頷く。
『帰る方法はある』
「本当?」
思わず身を乗り出して聞き返すと、橘は微笑みながら頷いた。
でもどうやって?
『私が帰す。だが、すぐにとはいかぬ』
「何をすればいい? どれくらい、待てばいい?」
私は逸る気持ちを抑え、彼の返答を待つ。
『今すぐではない。私一人ではまだ力が足りない。だが先にこの世界に来ているはずの、私の半身を見つければ、蒼衣を帰すくらいはできるだろう』
半身って、もしかして……
『私は半身を求めてこの世界に渡った。蒼衣を守るために巻きこむことになったが、無事に来られたのは奇跡だろう。もしかして、蒼衣もこの世界と縁があるのかもしれない』
私とこの見知らぬ世界に、縁が?
「そんなの、あるわけないよ」
『本当に?』
橘のその言葉に、なぜか胸が騒ぐ。
『まあ、私は――半身の「さくら」さえ見つかれば、それでいい。共に作られた大壺で、大事な片割れ……妹なのだ』
「さくら……やっぱり!」
左近の桜・右近の橘。対で作られた大壺だったんだ。
『さくらは元々、私と共に社殿で祀られていた。仲のいい兄妹で、妹は私がいないと何もできない――かわいい妹なのだ。しかし十年ほど前、盗難にあってな。離れてしまったが気配を感じるから、ずっと探していた。様々な人の手に渡るために、騒いだり力を使ったりと励んだものだ』
その言葉にハッとして、私は橘を睨む。
「そんなことをしていたから、呪いの壺だなんて言われて、捨てられたのね」
『そう睨むな。――必死だったのだ。三年ほど前、さくらの気配がふと消えてしまった。それでも諦めずに探しているうちに、あの海のあたりで異なる世界とさくらの気配を察して、世界を渡ったという訳だ』
事情を聞いた私は、驚きながらも納得して頷く。
すると橘はあらたまった様子で口を開いた。
『ここでもかすかにさくらの気配を感じるが、はるか遠い。この世界の人間と交渉し、さくらを呼び寄せるためには人間の協力が必要となる。さくらが見つかれば、蒼衣を元の世界に戻すこともできる。蒼衣、互いのために協力し合おう』
「王子に言われた通り骨董品と人間の間を取り持てってこと?」
『ああ、そうだ』
まさか橘にまでそう言われるとは思わず、私は困惑する。
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