異世界工房通り訳ありアンティーク店

小津カヲル

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   第一章 不思議の国のアンティークたち


「いやああーー!」

 暗い海に投げ出された私の体は、しがみついていた木箱と共に、ザプンと波に呑みこまれた。
 おぼれないように必死でもがき、水面から顔を出す。

「ぷはっ!」

 つかんでいる木箱は、大半が水にかりつつも、しっかりと浮いている状態。
 上半身を乗り上げれば、どうにか沈まずに助けを待てそうだ。
 どうしてこんなことになってしまったのだろう。
 私、斎藤さいとう蒼衣あおいは現在、ドーバー海峡かいきょうおぼれかけている。
 日本で暮らす平凡な高校三年生の私は、夏休みを利用した一人旅の最中だった。昨日までイギリスにいる祖母の家に滞在し、今は骨董商アンティークディーラーである父がいるフランスに、フェリーで向かっているところだったのだけれど……
 船のデッキで眺めを堪能たんのうしていたら、あやしい二人組が大きな古い木箱を運ぶところを見かけたのだ。その木箱は、緩衝材かんしょうざいで何重にも包んで保護した品物を、木の枠に入れたもの。木枠梱包こんぽうと呼ばれ、日本では美術品や機械など、造りが繊細せんさいなものを運ぶときによく使われる梱包こんぽう方法だ。
 木枠の中の品は、つぼのようなシルエットに見える。
 そんなものを、航海中の船のデッキでどうするのかと気になって、ついあとをつけた。すると彼らは、人気ひとけが少ないところからそれを海に投げ落とそうとしたのだ。
 私は慌てて声をかけた。それはもしかして、骨董品アンティークなのではないかと。
 すると彼らは手を止めてこちらを振り返り――なぜか私の後ろの方を見て悲鳴を上げた。
 ――え!? 何かあったの!?
 つられて後ろを振り返ると、なんとつい今しがたまで晴れていた空が真っ黒に変わっていた。
 その上、海水を巻き上げるかのような風が急に襲ってきたかと思うと、巨大なフェリーがいきなり傾いたのだ。
 私がバランスを崩して倒れそうになったところ……二人組の手から放り出された木箱が床をすべり、私に襲いかかってきた。
 ければよかったのに、私はとっさに手を出してしまった。
 そして木箱と共に海へ落ちてしまい、今に至る。
 今回、元々私はフェリーに乗る予定じゃなかった。父が飛行機のチケットを取ってくれていたのだけど、とある理由により電話で口論になり、反抗したくなった私は強引にフェリーに乗りかえたのだ。
 ――そんな勝手をしたから、バチが当たったのかもしれない。

「た、助けて……誰か……助けて!」

 大声を出そうとしても、波にあおられて海水が口に入るばかり。
 荒ぶる波に揺さぶられ、古い木箱にしがみつくだけで精一杯だ。

「助けて――きゃあっ!?」

 再び口を開いたそのとき、手をかけていた木箱の枠が一本、外れてしまった。
 体勢を崩してどっぷりと頭まで沈んだあと、死に物狂いで木箱にしがみつき直す。
 だけどこれまで以上に不安定な体勢になった。

「おーい、大丈夫か!? これにつかまれ!」

 フェリーの船員が私に気がついて浮き輪を投げてくれる。しかし私のただよう位置からは遠く、全然届かない。木箱を捨てて、浮き輪を取りに行かなければ命はないだろう。
 だけど……私はしがみついている木箱を、改めて見下ろす。

「こんなに……綺麗なのに」

 箱の隙間すきまから見えるのは、色鮮いろあざやかな木――たちばなえがかれたつぼ。日本の磁器じきの中でも価値が高い、古伊万里こいまりと呼ばれるものだろう。
 こんな状況でも目を奪われるほど、極上の品だ。骨董商の娘として、見捨てられるわけない。

「おーい、早く浮き輪につかまれ!」

 そんな声が聞こえてフェリーの方を見ると、船員が救命ボートを下ろしているところだった。
 よかった、これで救助してもらえると、ホッとしたそのとき――

「おい、そんなものからは手を離せ!」

 今度は荒っぽい声が聞こえてきた。そちらを見ると、フェリーの船員ではない男性が二人いた。彼らの顔には見覚えがある。私がつかまっている木箱を、捨てようとしていた人たちだ。

「だめよ、これがどれほど素晴らしいものか……あなたたちだって知ってるんでしょう?」

 波にあおられながらも必死で主張する。

「違うんだ、それはのろわれてるんだ、だから捨てろ! 手を離せ!」

 のろわれている? 何を言っているの?

「それは、廃棄するために持ちこんだものだ!」
「馬鹿を言わないで、これ古伊万里じゃないの」

 こんな素晴らしいものが捨てられようとしていたなんて、信じられない。木箱をつかむ手に力を入れたそのとき、フェリーの上から怒声が聞こえてきた。

「危ない、後ろを見ろ!」

 その声にうながされて後ろを振り返ると、今までにないほど高い波が迫っている。

「ちょっ、マジ?」

 津波のような黒い水の壁に、唖然あぜんとする。
 あやしい男が、切羽詰せっぱつまった声で再び叫んだ。

「だから、そのつぼを離せ! 頼むから……そいつが不幸の原因なんだって!」
「い、嫌よ、できない!」

 だって私は……骨董商の娘で、骨董品が大好きなのだ。
 そしてついに、ひときわ高い波に呑まれた。
 そのせいで緩衝材かんしょうざい隙間すきまを通り、つぼの中に水が入りこんでしまったのだろう。木箱が沈みはじめる。
 一緒に海に沈んだ私は、慌ててもがいて海面から顔を出そうとする。
 けれど荒れ狂う潮流が、私と木箱を海の底に引きずりこんだ。
 あっというに光が遠ざかっていく。
 ──死ぬのかな、私。
 父さんに逆らって、フェリーに乗った罰なの?
 恐怖に襲われ思わず悲鳴を上げてしまったせいで、肺の中にわずかに残っていた空気が口から出ていく。
 かすみがかった視界の中で私の左手首が光った。お祖母ばあちゃんがお守りとしてくれた、宿やどり木をモチーフにした銀のブレスレットだ。
 ――お祖母ばあちゃん、ごめんね。
 次第に薄れていく意識の中で、男性の声が聞こえてきた。

『必ず助ける。大丈夫、眠れ……』

 優しいその声を聞きながら、私はまぶたを閉じる。
 死が、こんなにも孤独で、静かにやってくるものだとは。
 それが海に呑まれた私の、最後の記憶だった。


 夢、なのかな──ゆらり、ゆらりと揺られながら、なつかしい景色を見た。
 小さな頃に訪れた神社だ。幼い私は、やしろを見上げる。
 右側には私と手をつなぐ父、左側には兄の赤城あかぎと、赤ん坊の妹萌黄もえぎを抱いた母がいる。
 私は初めて身につけた着物と口紅に、心がおどっていた――
 これはきっと、七五三のときの記憶。すごく嬉しかったから、今でもたまに思い出す。
 幼い私は、社殿の中をもっとよく見たいと父にせがんで抱き上げてもらい、目をこらした。そこには、今まで知らなかった特別な世界があった。
 奥にはにしきの布が飾られ、美しいりの太鼓たいこや和楽器が並んでいる。中央の祭壇脇に置かれているのは美しい花がえがかれた二つのつぼ
 おごそかで、張りつめたような空気を感じ、そこが神聖な場所なのだとさとったのを覚えている。
 あれは、どこの神社だったのだろう。そして、あのつぼは……?
 思い出そうとすればするほど夢は遠ざかり、思考が少しずつはっきりしてくる。
 けれども体は動かない。私はいったいどうしたのだろう。
 意識が浮上すると同時に耳に入ってきたのは、ゆったりと繰り返される波の音。
 ――そうだ、私は海でおぼれたんだ。
 まぶたを開けるとまぶしい光が差しこんできて――私は耐えられずにまたぎゅっと目をつぶる。

「……うう」

 そのとき、波の音に混ざって、足音が聞こえてきた。
 助けて──
 そう言いたくても声は出ず、目も開けられない。
 足音が徐々に近づいてきて、やがて頭上から男性の声が聞こえてきた。
 必死になってその声に耳を傾けるものの、何を話しているのかさっぱりわからない。
 私が理解できるのは日本語と英語、そして簡単なフランス語。イギリスとフランスの間にあるドーバー海峡かいきょうおぼれたのだから、言葉の通じる地に流れ着いたものと思ったのだけど……
 言葉が通じないなんて、どこまで流されてしまったのだろう。
 不安に思ったそのとき、光をさえぎるように影が落ちた。

「……○×?」
「え、何?」

 話しかけられたと気づき、私は必死に目を開けた。
 不思議と声を出せたけれど、その拍子に口の中に砂が入ってくる。
 激しくきこみながら見た人物は、それはそれは美しい男性だった。

「☆×◎、○△?」

 片膝をつき私を見下ろす彼は、りの深い顔立ちで、つややかな黒髪を片側でまとめている。

「○◇、☆×?」

 私が見とれていると、彼は大きな手で私の腕をつかんだ。その瞬間、見とれている場合じゃない、と我に返る。

「た、助けて、ヘルプ……」

 その男性に、私はかすれた声で助けをう。彼は黒髪黒目だけれど、顔立ちは日本人離れしている。私は英語とフランス語でも、同じことを繰り返した。

「助けて、船から投げ出されて……海に落ちたの。ここはどこ?」

 何度問いかけても、目の前の男性は漆黒しっこくの瞳をこちらに向けるだけで何も答えない。

「どうして……通じてないの?」

 もしかして私は、死んでしまったのかもしれない。大好きな骨董品に目がくらみ、欲にとらわれて――それならばここは地獄じごくに違いない。

「はは……っ」

 私が失笑すると、男性はそれに反応するように、顔を上げた。

「○●☆!」

 他にも誰かいるようで、彼は遠くに向けて声を張り上げる。
 すると再び聞いたこともない言葉が返ってくる。黒髪の男性はそれに答えながら、そちらへ向かって歩いていった。
 離れていく男性に、待って、置いていかないでとすがろうとしたところで、左腕が動かないことに気づいた。左腕を見ると、宿やどり木を模したブレスレットが、割れた木箱の枠に引っかかっている。
 砂に半分埋もれている木箱。その内側で、白い磁器じきが輝いている。

「……はは、なんだ。あなたも一緒にあの世まで来ちゃったの?」

 一人きりでないことに少しだけ安堵あんどした。
 そこが、私の限界だったようだ。
 黒髪の男性が心配そうな顔で呼びかけてくる声を聞きながら、私は再び意識を手放したのだった。


 次に目が覚めたとき、私はベッドの中にいた。
 たしか海でおぼれて、どこかの浜辺に流れ着いたはず――いや、あれはあの世だったんだっけ……?
 そう思いながら、上体を起こして周りを見回した瞬間、視界に入るものすべてに目を奪われた。私を取り囲んでいるのは、まったく見覚えのない高級家具の数々。
 ベッドは天蓋てんがい付きで、ゆったりとしたドレープのあるカーテンが垂れ下がっている。そして濃いマホガニー色――赤茶色の格調高い家具の数々が並んでいた。
 天井は、普通の家では見かけないほど高い。

「ここ、どこ?」

 つぶやきはまだかすれていた。
 再び部屋を見回すと、ベッド脇のチェストの上に、水差しがある。のどかわいていることに気がついて手を伸ばしたところで、おのれの体を支えられずにベッドからすべり落ちてしまった。

「い……いたた」

 顔から着地したけれど、ふかふかの絨毯じゅうたんのおかげで衝撃は少ない。
 その直後――私は目の前の光景に釘付くぎづけになった。

「な……なに、なにこれ、すごい!」

 私はつんいで、チェストの脚ににじり寄った。
 なめらかな曲線をえがいた、優美でつややかな仕上がり。緻密ちみつな彫刻がほどこされたいわゆる猫脚の中でも逸品いっぴんだ。

「ほ、本物の骨董品……だよね? イギリスのアンティーク家具に見える」

 他にも広い室内にあるダイニングテーブルとチェア、ソファ、絨毯じゅうたんまですべて英国式だ。

「まるでどこかのお城みたい。趣味で集めたにしても、すごすぎるよ」

 背の高いキャビネットの中は、ベネチアングラスとおぼしき花器や、ヨーロッパで人気がある野花をモチーフにした陶器の茶器が並んでいた。美術品として価値がありそうなものばかりだ。
 私がよだれを垂らす勢いで調度品を眺めていると、部屋の扉が大きな音を立てて開いた。

「え……?」

 いで、数人の男女が室内に入ってくる。彼らの服装を見て、私はギョッとした。
 女性はクラシックなメイド服を着用し、男性は刺繍ししゅうが入ったロング丈のジャケットに、革製のロングブーツを合わせている。
 とても仰々ぎょうぎょうしくて、映画にでも出てきそうな衣装だ。

「な、なんなの?」
「……○◇」

 最後に入ってきたのは、砂浜で見た黒髪の男性だった。彼が周囲に声をかけると、メイド服の女性たちが私の腕をつかむ。

「え!? 何!? あ、勝手に家具をジロジロ見てごめんなさい。でもあやしいことをしてたわけじゃ……ちょっと待ってよ」

 海でおぼれたダメージが残っているのか、思うように力が出ない。私はあっというに椅子に座らされてしまった。
 その椅子も、背もたれ部分が花瓶の形になっている、これまた英国式アンティーク家具。本物ならばすごく貴重な品だ。
 そうしているうちに、メイド服の女性が私の肩に大きなストールをかけてくれた。
 そこでようやく自分が、ネグリジェのような薄手のワンピースに裸足はだしというあられもない格好であることに気づく。慌てて足を閉じ、ストールをかき寄せた。
 そういえば体もさっぱりしている。きっとこの人たちが拭いてくれたのだろう。

「あ、ありがとうございました、いろいろしていただいたみたいで」

 おずおずと礼を言うと、黒髪の青年が言葉を返してきたけれど、やっぱり意味がわからない。
 私は言葉が伝わらないのを承知の上で、まくしたてる。

「私は日本人で、斎藤蒼衣といいます。ドーバー海峡かいきょうを渡るフェリーから落ちて、遭難してしまったんです。どうか、家族……いえ、日本大使館に連絡してください。きっとみんな探しているはずです!」

 必死にうったえるが、彼らは互いの顔を見合わせて、首を横に振る。

「ここはどこですか? ヨーロッパですよね?」

 同じことを、英語とフランス語でも繰り返す。
 しかし彼らは首をかしげるばかり。
 胸の奥に不安が湧き上がった。

「お願い、私を帰して。私が悪いのはわかってるわ、父さんに反抗したから」

 思わず涙がこぼれた。
 そばにいた銀髪のメイドさんが、なぐさめるように私の肩をでてくれる。その手は温かくて優しい。
 私は通じないことがわかっていても、うったえるのをやめられなかった。

「高校最後の夏休みを利用して、日本から一人で遊びにきたの。イギリスの祖母の家で一週間過ごしたあと、父の仕事場があるパリまで行く途中だったのよ。父のもとで、大好きな骨董品の勉強をするために。でも父の仕事のやり方が、どうしても納得できなくて、電話で喧嘩になって……反抗するように、手配してくれていた飛行機を勝手にキャンセルして、フェリーにしたの。まさかこんなことになるなんて思わなかった。……帰りたい。見送ってくれた祖母もきっと心配しているわ」

 黙って私の言葉を聞いている黒髪の男性に、もう一度強くうったえる。

「警察でもなんでもいいわ、とにかく外部と連絡を取らせて、お願い!」

 すると男性は、小さなため息をついた。その表情はけわしく、同情も共感も感じられない。
 やはり言葉が通じていないのだとさとる。

「××」

 彼が何かを言うと、メイドさんに代わって二人の男性が私の両脇をつかみ、椅子の背もたれに押さえつけてきた。

「えっ!? 何するの?」

 私は問いかけながら少し抵抗するが、黒髪の男性はただ私を見るだけ。
 そうこうしているうちに、ワゴンがそばに寄せられる。黒髪の彼はワゴンに置かれた針のようなものを手に取り、私に近づいた。
 そして、メイドさんが私の髪を片側に寄せ、頭を押さえてくる。

「や、やめて、離して!」

 頭をがっちりつかまれ、涙目になってしまう。しかし黒髪の彼は私のことを気遣うそぶりもない。なんだか恐怖よりもいかりがこみ上げてきた。

「何するのよ、この暴漢ぼうかん! ちょっと強引すぎるんじゃないの? すぐにでも大使館に駆けこんでやるんだからっ――ちょっ、痛い!」

 耳たぶを引っ張られ、痛みが走る。
 何をされているのかと必死に目をこらす。視界の端に、彼が持つ針が私に向けられているのが見えた。

「やめてよ、本当にやめてってば!」

 私が叫ぶと、彼は今までになく大きな声を出す。

「※◎☆∇!」

 意味がわからないながらも気圧けおされて、私は息を呑んだ。
 次の瞬間痛みが走り、耳たぶにあの針を通されたのだとさとった。メイドさんが白い布で私の耳をぬぐう。布に、赤く大きな染みがついた。
 思ってもみなかった展開に、急に怖くなる。体がカタカタと震えだした。
 次の瞬間、針が抜かれた感覚がして、止血のためかぎゅっと耳たぶを圧迫された。かと思ったら、再び針のようなもので耳たぶをつらぬかれる。

「……い――っ」

 痛みのあまり言葉にならない。
 ぎゅうっと目をつぶり再び開くと、針を持った手が目の前を通って反対側の耳に移動していく。

「や、やだっ、痛いってば!」
「☆◎△」

 黒髪の彼がさとすような口調で語りかけてくるけれど、何を言っているのかわからない。
 抵抗できないまま、もう片方の耳たぶにも針を刺され、何かをつけられてしまった。
 それで用は済んだのか、私を押さえていた男性たちが離れる。そして申し訳なさそうな顔をしたメイドさんが出血した傷口をぬぐってくれた。
 次に彼女は、清潔な布で黒髪の男性の手をことさら丁寧に拭く。彼は当然のようにそれを受け入れている。どうやら世話を焼かれることに慣れているようだ。
 そんな男性を、私は無言でにらみつける。
 耳がじんじんと脈打っていた。
 そっと手で触れると、耳たぶに金具のようなものがついている。どうやらピアスをつけられたらしい。

「サイテー。日本の校則はめちゃくちゃ厳しいのよ? ピアスだけは卒業までつけるつもりなかったのに」

 私はイギリス人である母と日本人の父のハーフだ。母からゆずり受けた明るい茶色の髪は、黒髪の人が多い日本の学校では異色。そのせいでからかわれたり悪口を言われたりと、ずっと苦労の連続だった。だから目立つことを避けてきたのに、ピアスなんて冗談じゃない。
 ああ、休み明けまでにふさがないと――
 いや、待って。そもそも私、日本に帰れるのかな?
 痛みと悔しさと心細さに襲われ、再び涙がこみ上げてくる。しずくなど落とすものかと手の甲でぬぐうと、悪びれるそぶりすらない黒髪の男性に、腕をつかまれた。

こするな、目をいためる」
「うるさい、私に触らないで。誰のせいだと思って…………え?」

 目の前の男性をまじまじと見つめて、私は問いかける。

「今、なんて?」
こするなと言った。理解、できるな?」

 言葉の意味が、わかる。
 私はコクコクとうなずく。するとずっと硬い表情だった彼が、少し安堵あんどしたように見えた。

「そのピアスが翻訳ほんやくしている。お前、名は?」
「蒼衣……斎藤蒼衣。斎藤が姓で、蒼衣が名です」
「アオイ、か。聞き慣れない響きだな」

 彼が話しているのは今まで通り知らない言語だ。しかしなぜか意味は理解できてしまう。
 どういうこと?
 不思議すぎる現実に怖くなり、私の腕をつかむ彼の手を振り払う。

「触らないで」
「危害を加えるつもりはない……と言っても、信用できないだろうが」

 私は説明を求めて、周囲にひかえる女性たちに視線を向ける。しかし彼女たちはにこにこと微笑むだけだ。私は少し気味が悪くなり、用心しながら口を開く。

「……保護してくださってありがとうございます。でも、こんなものを勝手につけなくても、通訳を呼ぶとか通報するとか、他にもやり方があったはずでしょう? 警察か大使館に連絡をさせてください」
「ケイサツ? タイシカン?」

 黒髪の男性は、なぜか首をかしげる。私は苛立いらだちまじりに続ける。

「イギリスからフェリーでドーバー海峡かいきょうを渡っている途中、海に投げ出されたの。捜索だってされているはずよ。ここがヨーロッパならニュースになってないはずがないわ」
「嵐? お前は嵐に巻きこまれてのか?」

 そこに反応した黒髪の男性は、詳しく聞かせろと言う。
 私は答えようとして、はたと気がついた。

「そ、その前にあの……私と一緒に、かばんが落ちてませんでした?」

 海に落ちたとき、パスポートや財布、スマホが入ったかばんを肩からかけていた。一緒に流れ着いていないかと思ったが、男性は首を横に振る。
 身分を示すものがないなら、自分の言葉ですべて説明しなければならない。驚きの連続でうまく働かない頭を必死に使い、私は事情を説明する。
 名前に国籍、住所、まだ十八歳で未成年であること。高三の夏休みを利用して、祖母の住むイギリスに遊びに行き、フェリーに乗ることになった経緯まで。
 父が骨董商をしていて、私も骨董品の勉強中。骨董品の扱い方が喧嘩の原因だと告げたところで、黒髪の男性の表情が変わった。

「……何か?」
「いや、いい。続けてくれ」

 彼の言葉を受けて、気になりつつも話を続ける。
 フェリーに乗っていたら嵐に襲われ、デッキから海に落ちてしまったことを話して、私はハタと気づいた。

「そうだ、木箱! 私と共に流れてきた木箱はどこに?」
「ああ、あれか。もちろん回収してある」
「本当? よかった」

 ホッとした私に、黒髪の男性が尋ねる。

「あれの中身が何か知っているのか、アオイ?」
「箱の隙間すきまから見えただけだから詳しくはわからないけど、古伊万里だと思う。きっと貴重なものよ。だからお願い、捨てたりしないで」

 私は自分の身に危険が迫っても、あの木箱を見捨てることができなかった。あんな状態でよく死ななかったものだと、改めてゾッとする。
 そんな私に気づいたのか、黒髪の彼が声をかけてくる。

「アオイ、大丈夫か?」

 私は頭を振って、大丈夫と返す。


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