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3ー2章 落ち人たちの罪と罰
三十七話 僅かな不安を見破られました。
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アルベリックさんからの手紙には、ローウィンからノエリアに戻り、同時に辺境警備隊本部へ隊長の代役をリュファスさんへと委譲する旨を申し立てたそうです。それから返事をうもらえるまで四日。無事に手続きが済んでからノエリアを出発すると書かれていました。
とても事務的に、短い言葉での説明。それがアルベリックさんらしくて……
他に届いたリュファスさんからのお叱りなのか励ましなのか分からない手紙、そして同封されていたセリアさんのものなど、嬉しいものばかりでした。
ほんの少し、それらの手紙が湿気ってくたびれたのは、誰にも内緒です。
みんなの優しさが心を温かくするのと同時に、これらをいつだって受けとるだけの自分に、情けなさを抱くのも、いつも通り。
でも、です。
これらがもし、本当なら私が受けとるはずのものでなかったら?
運命の歯車がもし、少しだけずれていたのなら?
もし、結衣さんへと先に注がれるべきものだったなら──
いえ、順番なんて彼らには関係ないのです。目の前で困っている人がいれば、アルベリックさんは誰にだって手を差しのべる人なのですから。それはノエリアの優しい街人だって同じです。
だからこそ、この恵まれた幸運に感謝しない日はありません。
私が自分だけの力で得たものではないからこそ、こんなに後ろめたく感じることになるのでしょうか……
そんな風に嬉しいはずの手紙だったにもかかわらず、少しばかり落ち込みはじめたところへ、扉を叩く音が。
「そろそろ時間なのですが……」
「あなたは」
先代様のところへ伺う時間だったのですが、迎えに来てくれたのは旅路の間、結衣さんのお世話をしていた女性兵士の方でした。
「私はクラリス・ルコントと申します。今日は私が案内をいたします」
「ありがとうございますクラリスさん……でも、結衣さんは?」
「彼女の護衛は交代でしておりますので、今日は別の者がついているはずです」
「そうなんですか。あ、ちょっと待ってくださいね、すぐに支度します」
手紙に夢中になっていたせいで、時間をすっかり忘れていました。何も支度をしていませんでしたので、大急ぎで道具を抱え、部屋を後にしました。
先代伯爵様のところに着けば、今日はちょうど注文していたキャンバスが届いたところでした。真っ白な布張りは、指で弾いてもたるみなくしっかりしたものです。それより前に届いていた絵の具とともに、準備は万端。これで本格的に製作に入れそうでした。
ですが、問題発生。
肝心のモデル……伯爵様の調子が悪そうです。
「しばらくお待ちくださいとのことです、申し訳ありませんがこちらへ」
クラリスさんが白衣の男性から指示を受け、私を部屋の外へと誘導してくださいました。
なんでも、今日はほんの少しだけ正気が戻ったようなのです。そうなると伯爵様、外へ出たいとおっしゃっるのですが、すっかり弱った体ではそうもいかず。そうなると暴れたり暴言を吐いたりと、絵を描くどころではない状態になるのだそう……
車イスとかあれば、日に当たるくらいはできそうなのに。そんな風に聞けば、それは許されていないのだとか。
「中の方はお一人のようですが、大丈夫なんですか?」
「彼はお世話に慣れておりますので、心配ありません」
「……クラリスさんも?」
すると彼女は少しだけ間をあけてから、苦笑いをしつつ頷きました。
「ここへはカロン様の指名した者以外は入ることすら許されません。光栄なことですから」
「……どうして」
聞こうとして、止めます。
カロンさんの父親を見下ろすあの冷たい表情が、すぐに甦っ
たから。
クラリスさんは、冷たい石の廊下にたたずむ私に、どこからか椅子とストールを用意してくれました。
「あまり清潔とは言えませんが、よろしければ」
「ありがとうございます」
快く受けとり、用意された木製の小さな椅子に腰を下ろし、膝にストールをかけます。やっぱり半地下だけあり、底冷えがするのですよね。きっと警備の方のものでしょう、ありがたいなあと思っていると。
驚いたような顔で、クラリスさんが私を見ています。
あれ、何かまた知らないうちに失態をしていたでしょうか……?
「あなたは……いえ、あなた方はずいぶん印象が違いますね」
「え? ……印象ですか?」
「はい、ユイ様には以前、同じことをしても喜ばれませんでしたので。……不潔だからと」
「…………ああ」
そこでピンときました。それは日本人ならではのアレです、潔癖性?
でもこのストールはそこまで臭くもなければ、汚れてもいませんよ? 試しに鼻に寄せてクンクン臭いを嗅いでいると。
「お、お止めになった方が……それは兵士のものですし、汗の臭いが」
「そんなに臭いませんよ、それに警備隊宿舎の方がスゴいですから!」
そうです、真夏の訓練後なんて、酷いものです。
ですが、そんなのは当たり前のことじゃないですか。そうして鍛えてくれているからこそ、街の安全は守られているのです。そんなのはこの世界だけじゃなくて、お爺ちゃんの道場だって似たようなものでしたし。
でも、確かに全ての人がそんな経験をしているわけではないのです。結衣さんだって、知らなかっただけで。
「きっと結衣さんは悪気があったわけではないと思うんです、すみませんでした」
「あなたが謝る必要はありません……こちらこそ変な事を申し上げ、失礼いたしました」
美しい敬礼をしながら、クラリスさんに反対に謝られてしまいました。でもなぜかその後の彼女は、前よりもリラックスした笑顔で接してくれるようになりました。
待っている間に、お話をしました。城下で一番どこのお菓子が美味しいとか、流行りの洋品店のことから、セレスイアの特産品とか。お土産はなにがいいのかなとか、女性ならではの話題ばかり。
彼女とは仲良くなれそうですよ。
そうしてようやく案内された伯爵様の前、真新しいキャンバスに向かって道具を準備をはじめました。私の後方では、クラリスさんが待機してくれています。
完成までの時間を考慮すれば、躊躇している暇はありません。キャンバスに黒鉛であたりをつけ、早速描き始めることに。そうして絵の具を使い始めてから、三十分ほどした頃でしょうか。
「おまえは……誰ぞ」
小さな呟きに顔を上げてみれば、焦点が虚ろに泳いでいたはずの伯爵様と、初えめて目が合いました。
私は驚きつつも、咄嗟に立ち上がる気配のしたクラリスさんに、後ろ手で待ってと合図を送ります。そして伯爵に、小さく頭を下げます。
「絵描き、でございます。伯爵様」
しわがれた声。でもまっすぐ私を見る眼光は、鋭くて。まるで蛇に睨まれた蛙のような心境です。
その間にも、廊下で控えているもう一人の護衛に、クラリスさんが何かを指示しています。
「絵描きか……その黒髪、覚えがある。地毛か?」
「はい」
奥まった目を細め、考えているような伯爵様。
すると、何かを思い出されたのでしょうか。私に手を差し出し、まるで手招きをしているかのようです。
どうしましょう、そう思いながら後ろを見れば、クラリスさんは無言で首を横に振りました。
「警戒しておるのか……まるで、そう、カナデのようだ」
「……かなで?」
思わず聞き直してしまいました。どんなに正気に見えても、もう伯爵様は治らない。だから私から話しかけてはいけないと、言われていたのに……。
伯爵様は、口許に笑みを浮かべます。
「カナデだ、知らぬか? 異なる世界から落ちてきた、憐れな女……おまえと同じように美しい黒髪で」
滑らかな口調で、伯爵は続けます。
「美しい音楽を奏でる、だから名をカナデというのだと言っていた。我が領地に落ち、この私に逆らった……愚かで小賢しく……慈悲を貰いながら、逆らったのだ。憎らしい女よ」
伯爵の言葉は、私の胸に刺さります。
別の世界から落ちた女性、かなで。その女性に、目の前の老人は何をしたというのでしょう。これ以上、聞きたくない。そう思った瞬間……私のそばに立ったクラリスさんが叫んでいました。
「伯爵、おやめください」
「下女の分際で許可も得ず、口を開くでない愚か者!」
張りのある声でそう告げると、伯爵はそばに置かれたままだった、薬を飲むための容器を投げつけたのです。
私は咄嗟に身構えたのですが、高い音をたてて床に落ち、容器は粉々に。
だけどクラリスさんにかすめたようで、彼女のこめかみからは血が一筋。
「クラリスさん、大丈夫ですか?」
「……そのように下女をかくまうところも、そっくりだ。黒髪の女、おまえはカナデの何だ? 血縁か? まさか、私には告げず二人目を身ごもったとでもいうのか?」
何を言っているのでしょうか。いいえ、伯爵様の言葉に耳を傾けても、それが真実だとは限りません。
だけど、この老人は、落ち人の女性に……。
まさか……
「私は、かなでさんとは関係ありません……あなたは」
かなでさんに何をしたのですか。そう聞きたいけれど、口にすることは出来なくて。
蛇のように執拗な目が、ずっと私を捉えていて。それがなんだが、恐ろしく感じてしまったのです。
「関係ないというには、不安に揺れているではないか。そうか……おまえも落ち人か」
「ち、違いま……」
「違わぬ。カナデの他にも……セレスフィアに!」
……どうして。
正気を失ったはずの伯爵が、笑うのです。たったそれだけのことなのに、私の全身に走る悪寒は何を意味しているのでしょう。
「もうそのくらいでお止めください、伯爵様」
そこに入ってきたのは、オーベールさんでした。
「おお、オーベール。どこに行っていたのだ。勝手に私のそばを離れてはならぬ。カロンの奴がいつ私の首を括りにくるか分からぬからな。よいか、そばにおれ」
「……ご心配に及びません、そのようなことは私が阻止いたします」
「そうか、それなら安心だ。それよりオーベールよ、見よ。あの女、カナデと同じ落ち人だ、珍しかろう」
「そうですね」
オーベールさんは伯爵様の言葉に全く動じる様子もなく、後から入ってきた白衣の男性から薬を受けとりました。そして伯爵の背に手をかけ、そっとベッドに横になるように促します。
オーベールさんの指示に、すんなりと従う伯爵様の様子から、どんな事情があるのかはわかりませんが、彼のことを信頼しているのでしょう。
「伯爵様、お体が軽くなるお薬です。どうぞお飲みください」
「おお、腕も足も重くてかなわん」
そう言うと、すんなりと薬を口に含み、オーベールさんの手ずから水で飲み干したのです。
横たわりながら、伯爵様はなお私を見つつ、オーベールさんへ告げます。
「落ち人は逃してはならない、よいなオーベール。生きてさえいれば善きことを運ぶ、あれはお前に管理させよう……それがいい」
「分かっております、伯爵様。どうかお任せを」
事態をうまくのみこめませんが、どうやら私のことをどう扱うか……伯爵様は勝手に決められているようです。それに応じて話を合わせるオーベールさん。……合わせてるだけと分かっていますが、なんとも胃のあたりが冷えるのです。
伯爵は一つ頷くと、とろりとした目線を外し、瞼をゆっくり閉じていきました。
しばらく沈黙が続き、次第に規則的な寝息が訪れたころ。伯爵様に跪き寄り添っていたオーベールさんが、静かに立ち上がりました。
「いったん、中断しましょう」
寝てしまわれた伯爵のそばでは、描く必要もありません。私は手早く画材をけ、オーベールさんとともに部屋を出ることにしました。
オーベールさんを先頭に、私とクラリスさんが無言で後を追う。そんな風にして連れて来られたのは、いつか通った中庭でした。今日は誰も先客はいません。
夏の日差しを避けるようにして、木々を潜り抜け、東屋へ。
「先ほどの先代様の言葉、カズハ様にはご不快にさせて申し訳ありませんでした。どうかお許しいただけましたら、口外はお控えいただければ幸いです」
そう言うと、オーベールさんは頭を深々と下げました。
「だ、大丈夫ですよ、オーベールさんが謝る必要はありません。伯爵様は混乱なさってるんですよね、認知症……あ、いえ。ご病気ですから」
「…………あなたは」
オーベールさんは何か言いたげですが、言葉を切って考え込んでいました。
それを私がいつものようにふざけてその場を濁してはいけないような気がして……彼の言葉を待ちます。すると。
「カナデ……という落ち人は、実在しました」
「そう、なんですか」
「カナデ・ササガワ……あなたと同じ日本人で、落ち人。そして……私の母にあたる人です」
オーベールさんの、お母さん……
じゃあ、もしかして。あの伯爵様の話は……彼のオーベールさんへの信頼は。
オーベールさんとカロンさんは、兄弟?
「……私の名は、ロジェール・レイ・オーベール。レイは、母がつけてくれた日本語の名前なのだそうです」
「レイ……どんな字を?」
「詳しくは分かりませんが、何も無い、そんな意味だと聞いています。母にとっては、望まぬ子であったでしょう」
何も無い……もしかして。
私はスケッチブックを広げて感じを書き出します。
「これは、零。何も無いんじゃないんです、数字のゼロのことです、つまり、始まりの数なんです」
「始まりの数……そんなこじつけは必要ありません」
「こじつけなんかじゃありません、確かに取りようによっては無とも言えます。だけどこの名は、日本人なら誰でも知ってます、この零という名は、日本でもちゃんと存在しているんです。親から子へ、未来の希望をこめて名前はつけられるものです。すでにあるということは、そういうことなんです」
私の必死な言葉に押され、オーベールさんがたじろぎます。だけどきっと頭が良くて言葉に長けたオーベールさんのこと、すぐに反論されてしまうでしょう。だから私は、スケッチブックのその字を破り、彼の手に押し付けます。
「零、素敵な名前です。かならずいつかあなたにも分かります、だから持っていてください」
こんなもの……そう呟きながらも、手のなかに握りしめたものを離すことはなかったオーベールさん。
「私からの話はこれだけです、もう、お帰りなさい」
背を向けたままのオーベールさんを置いて、私とクラリスさんは東屋を後にします。
部屋まで送り届けてくれたクラリスさんにお礼を言って、部屋に入ろうとしたところで、彼女に呼び止められました。
「あの、ありがとうございましたカズハ様」
「……え、なにがですか?」
意を決した様子のクラリスさん。彼女にお礼を言うのは私の方なのに。カロンさんからの命令とはいえ、楽しい気分で過ごさせてくれたのは、彼女自身のおかげですから。
「オーベール様の出自は、私たちカロン様に近くお仕えする者にとっては、公然の秘密のようなものでした。ですが一部の者の間では、オーベール様の忠信を疑う者も少なくありません……ただ彼は、幼い頃に母親を亡くし、先代様に引き取られました。息子としてではなく、臣下として。だから肉親からの信愛の情を、理解する方法を知らないだけなのです。だから先ほどのお話は、きっとオーベール様の心をいつか癒してくれるのではないかと……それで」
「クラリスさん」
「あ、いえ、私ごときがこのようなことを言うべきではないのですが、とても嬉しくなってしまって」
「オーベールさんは、とても慕われているんですね」
「はい、もちろんです」
オーベールさんは、おそらく辛い幼少期を過ごしたのではないでしょうか。
でも、今。こうして慕うものに支えられ、異母兄弟のカロンさんに取り立てられている。彼のカロンさんへの敬意は、見ているだけでどんなに大きなものか伺えるものです。
かなでさん……もう一人の落ち人。
彼女の人生に思いを馳せ、私は願わずにはいられません。
どうか、彼女の生きていた証し、オーベールさんが幸せでいてくれますようにと。
そうしたら、落ち人となった彼女の数奇な人生に、せめてもの救いを見いだせる気がするから。
とても事務的に、短い言葉での説明。それがアルベリックさんらしくて……
他に届いたリュファスさんからのお叱りなのか励ましなのか分からない手紙、そして同封されていたセリアさんのものなど、嬉しいものばかりでした。
ほんの少し、それらの手紙が湿気ってくたびれたのは、誰にも内緒です。
みんなの優しさが心を温かくするのと同時に、これらをいつだって受けとるだけの自分に、情けなさを抱くのも、いつも通り。
でも、です。
これらがもし、本当なら私が受けとるはずのものでなかったら?
運命の歯車がもし、少しだけずれていたのなら?
もし、結衣さんへと先に注がれるべきものだったなら──
いえ、順番なんて彼らには関係ないのです。目の前で困っている人がいれば、アルベリックさんは誰にだって手を差しのべる人なのですから。それはノエリアの優しい街人だって同じです。
だからこそ、この恵まれた幸運に感謝しない日はありません。
私が自分だけの力で得たものではないからこそ、こんなに後ろめたく感じることになるのでしょうか……
そんな風に嬉しいはずの手紙だったにもかかわらず、少しばかり落ち込みはじめたところへ、扉を叩く音が。
「そろそろ時間なのですが……」
「あなたは」
先代様のところへ伺う時間だったのですが、迎えに来てくれたのは旅路の間、結衣さんのお世話をしていた女性兵士の方でした。
「私はクラリス・ルコントと申します。今日は私が案内をいたします」
「ありがとうございますクラリスさん……でも、結衣さんは?」
「彼女の護衛は交代でしておりますので、今日は別の者がついているはずです」
「そうなんですか。あ、ちょっと待ってくださいね、すぐに支度します」
手紙に夢中になっていたせいで、時間をすっかり忘れていました。何も支度をしていませんでしたので、大急ぎで道具を抱え、部屋を後にしました。
先代伯爵様のところに着けば、今日はちょうど注文していたキャンバスが届いたところでした。真っ白な布張りは、指で弾いてもたるみなくしっかりしたものです。それより前に届いていた絵の具とともに、準備は万端。これで本格的に製作に入れそうでした。
ですが、問題発生。
肝心のモデル……伯爵様の調子が悪そうです。
「しばらくお待ちくださいとのことです、申し訳ありませんがこちらへ」
クラリスさんが白衣の男性から指示を受け、私を部屋の外へと誘導してくださいました。
なんでも、今日はほんの少しだけ正気が戻ったようなのです。そうなると伯爵様、外へ出たいとおっしゃっるのですが、すっかり弱った体ではそうもいかず。そうなると暴れたり暴言を吐いたりと、絵を描くどころではない状態になるのだそう……
車イスとかあれば、日に当たるくらいはできそうなのに。そんな風に聞けば、それは許されていないのだとか。
「中の方はお一人のようですが、大丈夫なんですか?」
「彼はお世話に慣れておりますので、心配ありません」
「……クラリスさんも?」
すると彼女は少しだけ間をあけてから、苦笑いをしつつ頷きました。
「ここへはカロン様の指名した者以外は入ることすら許されません。光栄なことですから」
「……どうして」
聞こうとして、止めます。
カロンさんの父親を見下ろすあの冷たい表情が、すぐに甦っ
たから。
クラリスさんは、冷たい石の廊下にたたずむ私に、どこからか椅子とストールを用意してくれました。
「あまり清潔とは言えませんが、よろしければ」
「ありがとうございます」
快く受けとり、用意された木製の小さな椅子に腰を下ろし、膝にストールをかけます。やっぱり半地下だけあり、底冷えがするのですよね。きっと警備の方のものでしょう、ありがたいなあと思っていると。
驚いたような顔で、クラリスさんが私を見ています。
あれ、何かまた知らないうちに失態をしていたでしょうか……?
「あなたは……いえ、あなた方はずいぶん印象が違いますね」
「え? ……印象ですか?」
「はい、ユイ様には以前、同じことをしても喜ばれませんでしたので。……不潔だからと」
「…………ああ」
そこでピンときました。それは日本人ならではのアレです、潔癖性?
でもこのストールはそこまで臭くもなければ、汚れてもいませんよ? 試しに鼻に寄せてクンクン臭いを嗅いでいると。
「お、お止めになった方が……それは兵士のものですし、汗の臭いが」
「そんなに臭いませんよ、それに警備隊宿舎の方がスゴいですから!」
そうです、真夏の訓練後なんて、酷いものです。
ですが、そんなのは当たり前のことじゃないですか。そうして鍛えてくれているからこそ、街の安全は守られているのです。そんなのはこの世界だけじゃなくて、お爺ちゃんの道場だって似たようなものでしたし。
でも、確かに全ての人がそんな経験をしているわけではないのです。結衣さんだって、知らなかっただけで。
「きっと結衣さんは悪気があったわけではないと思うんです、すみませんでした」
「あなたが謝る必要はありません……こちらこそ変な事を申し上げ、失礼いたしました」
美しい敬礼をしながら、クラリスさんに反対に謝られてしまいました。でもなぜかその後の彼女は、前よりもリラックスした笑顔で接してくれるようになりました。
待っている間に、お話をしました。城下で一番どこのお菓子が美味しいとか、流行りの洋品店のことから、セレスイアの特産品とか。お土産はなにがいいのかなとか、女性ならではの話題ばかり。
彼女とは仲良くなれそうですよ。
そうしてようやく案内された伯爵様の前、真新しいキャンバスに向かって道具を準備をはじめました。私の後方では、クラリスさんが待機してくれています。
完成までの時間を考慮すれば、躊躇している暇はありません。キャンバスに黒鉛であたりをつけ、早速描き始めることに。そうして絵の具を使い始めてから、三十分ほどした頃でしょうか。
「おまえは……誰ぞ」
小さな呟きに顔を上げてみれば、焦点が虚ろに泳いでいたはずの伯爵様と、初えめて目が合いました。
私は驚きつつも、咄嗟に立ち上がる気配のしたクラリスさんに、後ろ手で待ってと合図を送ります。そして伯爵に、小さく頭を下げます。
「絵描き、でございます。伯爵様」
しわがれた声。でもまっすぐ私を見る眼光は、鋭くて。まるで蛇に睨まれた蛙のような心境です。
その間にも、廊下で控えているもう一人の護衛に、クラリスさんが何かを指示しています。
「絵描きか……その黒髪、覚えがある。地毛か?」
「はい」
奥まった目を細め、考えているような伯爵様。
すると、何かを思い出されたのでしょうか。私に手を差し出し、まるで手招きをしているかのようです。
どうしましょう、そう思いながら後ろを見れば、クラリスさんは無言で首を横に振りました。
「警戒しておるのか……まるで、そう、カナデのようだ」
「……かなで?」
思わず聞き直してしまいました。どんなに正気に見えても、もう伯爵様は治らない。だから私から話しかけてはいけないと、言われていたのに……。
伯爵様は、口許に笑みを浮かべます。
「カナデだ、知らぬか? 異なる世界から落ちてきた、憐れな女……おまえと同じように美しい黒髪で」
滑らかな口調で、伯爵は続けます。
「美しい音楽を奏でる、だから名をカナデというのだと言っていた。我が領地に落ち、この私に逆らった……愚かで小賢しく……慈悲を貰いながら、逆らったのだ。憎らしい女よ」
伯爵の言葉は、私の胸に刺さります。
別の世界から落ちた女性、かなで。その女性に、目の前の老人は何をしたというのでしょう。これ以上、聞きたくない。そう思った瞬間……私のそばに立ったクラリスさんが叫んでいました。
「伯爵、おやめください」
「下女の分際で許可も得ず、口を開くでない愚か者!」
張りのある声でそう告げると、伯爵はそばに置かれたままだった、薬を飲むための容器を投げつけたのです。
私は咄嗟に身構えたのですが、高い音をたてて床に落ち、容器は粉々に。
だけどクラリスさんにかすめたようで、彼女のこめかみからは血が一筋。
「クラリスさん、大丈夫ですか?」
「……そのように下女をかくまうところも、そっくりだ。黒髪の女、おまえはカナデの何だ? 血縁か? まさか、私には告げず二人目を身ごもったとでもいうのか?」
何を言っているのでしょうか。いいえ、伯爵様の言葉に耳を傾けても、それが真実だとは限りません。
だけど、この老人は、落ち人の女性に……。
まさか……
「私は、かなでさんとは関係ありません……あなたは」
かなでさんに何をしたのですか。そう聞きたいけれど、口にすることは出来なくて。
蛇のように執拗な目が、ずっと私を捉えていて。それがなんだが、恐ろしく感じてしまったのです。
「関係ないというには、不安に揺れているではないか。そうか……おまえも落ち人か」
「ち、違いま……」
「違わぬ。カナデの他にも……セレスフィアに!」
……どうして。
正気を失ったはずの伯爵が、笑うのです。たったそれだけのことなのに、私の全身に走る悪寒は何を意味しているのでしょう。
「もうそのくらいでお止めください、伯爵様」
そこに入ってきたのは、オーベールさんでした。
「おお、オーベール。どこに行っていたのだ。勝手に私のそばを離れてはならぬ。カロンの奴がいつ私の首を括りにくるか分からぬからな。よいか、そばにおれ」
「……ご心配に及びません、そのようなことは私が阻止いたします」
「そうか、それなら安心だ。それよりオーベールよ、見よ。あの女、カナデと同じ落ち人だ、珍しかろう」
「そうですね」
オーベールさんは伯爵様の言葉に全く動じる様子もなく、後から入ってきた白衣の男性から薬を受けとりました。そして伯爵の背に手をかけ、そっとベッドに横になるように促します。
オーベールさんの指示に、すんなりと従う伯爵様の様子から、どんな事情があるのかはわかりませんが、彼のことを信頼しているのでしょう。
「伯爵様、お体が軽くなるお薬です。どうぞお飲みください」
「おお、腕も足も重くてかなわん」
そう言うと、すんなりと薬を口に含み、オーベールさんの手ずから水で飲み干したのです。
横たわりながら、伯爵様はなお私を見つつ、オーベールさんへ告げます。
「落ち人は逃してはならない、よいなオーベール。生きてさえいれば善きことを運ぶ、あれはお前に管理させよう……それがいい」
「分かっております、伯爵様。どうかお任せを」
事態をうまくのみこめませんが、どうやら私のことをどう扱うか……伯爵様は勝手に決められているようです。それに応じて話を合わせるオーベールさん。……合わせてるだけと分かっていますが、なんとも胃のあたりが冷えるのです。
伯爵は一つ頷くと、とろりとした目線を外し、瞼をゆっくり閉じていきました。
しばらく沈黙が続き、次第に規則的な寝息が訪れたころ。伯爵様に跪き寄り添っていたオーベールさんが、静かに立ち上がりました。
「いったん、中断しましょう」
寝てしまわれた伯爵のそばでは、描く必要もありません。私は手早く画材をけ、オーベールさんとともに部屋を出ることにしました。
オーベールさんを先頭に、私とクラリスさんが無言で後を追う。そんな風にして連れて来られたのは、いつか通った中庭でした。今日は誰も先客はいません。
夏の日差しを避けるようにして、木々を潜り抜け、東屋へ。
「先ほどの先代様の言葉、カズハ様にはご不快にさせて申し訳ありませんでした。どうかお許しいただけましたら、口外はお控えいただければ幸いです」
そう言うと、オーベールさんは頭を深々と下げました。
「だ、大丈夫ですよ、オーベールさんが謝る必要はありません。伯爵様は混乱なさってるんですよね、認知症……あ、いえ。ご病気ですから」
「…………あなたは」
オーベールさんは何か言いたげですが、言葉を切って考え込んでいました。
それを私がいつものようにふざけてその場を濁してはいけないような気がして……彼の言葉を待ちます。すると。
「カナデ……という落ち人は、実在しました」
「そう、なんですか」
「カナデ・ササガワ……あなたと同じ日本人で、落ち人。そして……私の母にあたる人です」
オーベールさんの、お母さん……
じゃあ、もしかして。あの伯爵様の話は……彼のオーベールさんへの信頼は。
オーベールさんとカロンさんは、兄弟?
「……私の名は、ロジェール・レイ・オーベール。レイは、母がつけてくれた日本語の名前なのだそうです」
「レイ……どんな字を?」
「詳しくは分かりませんが、何も無い、そんな意味だと聞いています。母にとっては、望まぬ子であったでしょう」
何も無い……もしかして。
私はスケッチブックを広げて感じを書き出します。
「これは、零。何も無いんじゃないんです、数字のゼロのことです、つまり、始まりの数なんです」
「始まりの数……そんなこじつけは必要ありません」
「こじつけなんかじゃありません、確かに取りようによっては無とも言えます。だけどこの名は、日本人なら誰でも知ってます、この零という名は、日本でもちゃんと存在しているんです。親から子へ、未来の希望をこめて名前はつけられるものです。すでにあるということは、そういうことなんです」
私の必死な言葉に押され、オーベールさんがたじろぎます。だけどきっと頭が良くて言葉に長けたオーベールさんのこと、すぐに反論されてしまうでしょう。だから私は、スケッチブックのその字を破り、彼の手に押し付けます。
「零、素敵な名前です。かならずいつかあなたにも分かります、だから持っていてください」
こんなもの……そう呟きながらも、手のなかに握りしめたものを離すことはなかったオーベールさん。
「私からの話はこれだけです、もう、お帰りなさい」
背を向けたままのオーベールさんを置いて、私とクラリスさんは東屋を後にします。
部屋まで送り届けてくれたクラリスさんにお礼を言って、部屋に入ろうとしたところで、彼女に呼び止められました。
「あの、ありがとうございましたカズハ様」
「……え、なにがですか?」
意を決した様子のクラリスさん。彼女にお礼を言うのは私の方なのに。カロンさんからの命令とはいえ、楽しい気分で過ごさせてくれたのは、彼女自身のおかげですから。
「オーベール様の出自は、私たちカロン様に近くお仕えする者にとっては、公然の秘密のようなものでした。ですが一部の者の間では、オーベール様の忠信を疑う者も少なくありません……ただ彼は、幼い頃に母親を亡くし、先代様に引き取られました。息子としてではなく、臣下として。だから肉親からの信愛の情を、理解する方法を知らないだけなのです。だから先ほどのお話は、きっとオーベール様の心をいつか癒してくれるのではないかと……それで」
「クラリスさん」
「あ、いえ、私ごときがこのようなことを言うべきではないのですが、とても嬉しくなってしまって」
「オーベールさんは、とても慕われているんですね」
「はい、もちろんです」
オーベールさんは、おそらく辛い幼少期を過ごしたのではないでしょうか。
でも、今。こうして慕うものに支えられ、異母兄弟のカロンさんに取り立てられている。彼のカロンさんへの敬意は、見ているだけでどんなに大きなものか伺えるものです。
かなでさん……もう一人の落ち人。
彼女の人生に思いを馳せ、私は願わずにはいられません。
どうか、彼女の生きていた証し、オーベールさんが幸せでいてくれますようにと。
そうしたら、落ち人となった彼女の数奇な人生に、せめてもの救いを見いだせる気がするから。
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裏切りに近い行為は彼女の心を確かに傷付け、癒えてもいない内に廃妃にすると宣言したのだ。
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だが、彼を止める事は誰にも出来ず。
廃妃となった事実を知らされたクリスティーナは、涙で瞳を潤ませながら「分かりました」とだけ答えた。
王妃として教育を受けて、側妃にされ
廃妃となった彼女。
その半生をランドルフのために捧げ、彼のために献身した事実さえも軽んじられる。
実の両親さえ……彼女を慰めてくれずに『捨てられた女性に価値はない』と非難した。
それらの行為に……彼女の心が吹っ切れた。
屋敷を飛び出し、一人で生きていく事を選択した。
ただコソコソと身を隠すつまりはない。
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