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3ー2章 落ち人たちの罪と罰
三十六話 ひとときの邂逅を果たしました。
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「どうして……」
溢れて広がる色彩は、鮮やかに透き通る青い空と雲の色。
足元に見下ろすように、地平線が広がります。
自分がどこに居るのか分からなくなる浮遊感。平衡感覚を錯覚させる景色に、結衣さんが尻餅をつきました。
「結衣さん! 大丈夫ですか……」
「おい、近づくな!」
結衣さんに手を貸そうとした私を制止したのは、ソランさんです。
私は彼に腕を引っ張られ、つんのめってしまいました。
「なにするんですか、結衣さんを……」
「そばに行ってまた共鳴でもしたらどうするんだ、俺が行く。カズハは離れてろ」
そう言うと突き飛ばされるようにして、私は部屋の奥へと押し込められてしまいました。
その間にも結衣さんは尻餅をついたまま、部屋の中央で加護の光に翻弄されています。そこへソランさんが駆けつけ助けるどころか、なんと彼女の持つ鞄を奪い取ろうとしたのです。
「だ、だめ! これは……」
「いいかげんにしろ、ここに何があるかなんて分かってるんだ!」
ソランさんが怒鳴りながら結衣さんから鞄を奪いました。男性で、しかも彼は見た目はアレでも屈強な警備隊員。なすすべもなくソランさんによって確保されたその鞄は、結衣さんからも離すつもりだったのでしょう。部屋の隅へ投げつけられました。
すると待っていたかのように鞄から飛び出したのは、折り畳まれた紙片。
床に落ちた紙から更に、強烈な光が漏れたと思えば、その光の中に現れたのは……
「アルベリックさん……!」
風を切る玉虫色の大きな羽根。手綱をしっかりと持ち、グリフォンで空を駆けるアルベリックさんでした。
長い旅を覚悟した旅装から見えるのは、目元のみです。だけどどんなに遠目でも、私には一目で分かるのです。
アルベリックさんがどこに向かっているのか、何のための旅装なのか……それが私を迎えに来るためだと、そう思ってもいいのでしょうか。
思わず彼へと差しのべていたのは、手だけではなかったのです。
「来るなカズハ!」
ソランさんの叫びでハッと気づきます。
そうです、万が一また彼の元へ転移してしまったら……
制止するためにこちらに手の平を向けているソランさんの足元。そこに広がる空と地平線に、身震いを覚えます。だけど……もしかしたら、アルベリックさんなら。
そんなバカな思いは、ソランさんにはお見通しだったようです。
「バカなこと考えるなよ、いくら隊長だって警備中ならまだしも、高速で移動中に拾える確率なんて、限りなくゼロだからな!」
「……わ、分かってますよ」
私は素直に後ずさります。
さすがに、もう二度と空中ダイブなんてしたくありませんから。
加護の原因となった絵が外に出たことで、より鮮明になった景色に、腰を抜かしたように立ち上がることもできない様子の結衣さん。無意識に助けを乞うその腕を、ソランさんがしっかり握っていました。
そんな結衣さんを、なかば抱えるようにして私とは反対側に連れていきます。
「お前があれを……カズハの絵を持ち出したのか?」
運ばれていく間にも、空を飛び続けるアルベリックさんの姿を目で追いつづける結衣さんに、ソランさんは問いただしました。
アルベリックさんの映像の真下に落ちて、広がった絵は、私がローウィンで見せた最初のスケッチブックに描かれていたものです。いつのまに抜き取っていたのでしょう。
「……わ、悪いとは思ったけれど、一枚だけならと思ったの。まさか和葉さんまで一緒に来ることになるとは思わなかったから、だから、写真の代わりにと思って……」
「それでこっそり盗んだのか?」
「盗んだなんて! ……そんなつもりじゃ」
「勝手に持っていけばそういうことだろうが」
唇と食いしばり、今にも感情がまぶたを越えて溢れそうな結衣さんを見て、私は慌てます。
「だ、大丈夫です! 絵の一枚や二枚、どうってことないです、やだなーあははは、そんな心狭くないです!」
「なに言ってるんだ急に……」
「なに言ってるのか分かってないのはソランさんです、バカー! 共鳴したらどうするんですか!」
「あ……そうか」
ようやく気づいたソランさん。
さっきまで的確で冷静だったのに、結衣さんのことになると頭に血が上りやすいのはどうにかして欲しいのです。彼女のことが心配なのも分かりますけれど、今はまだ何がきっかけで加護が起きるか確証がないのですから、結衣さんを怒らせても泣かせてもいけません。
そうこうしている間にも、アルベリックさんはひたすら前を向いてグリフォン──おそらくハデュロイでしょう──を操縦しています。それはつまり、まだアルベリックさん側からは繋がってはいないということ。
今回の加護の、発現のきっかけは私の涙です。
結衣さんと共にいるアルベリックさんを夢で見て、不安にさいなまれた私を、まるで安心させるために起きた見たい。大丈夫、アルベリックさんは裏切らないよ……そう私に伝えてくれているかのように。
「なにごとですか、これは……」
そこに警護兵を連れて入ってきたのは、オーベールさん。そしてその後ろ、守られるようにしていたカロンさんですが、中の様子を見て驚いているようです。
「危険です、カロン様はどうか近づかないよう……」
「かまわん、加護なのだろう」
制止するオーベールさんを無視して部屋の中へ入ってきました。そして中に浮いているかのような景色に、一瞬怯んだものの、すぐにただの映像だということを悟ったようでした。
確かに、半透明のアルベリックさんと景色は透けていて、よく見ればもとの部屋の家具や敷物、床でさえも見えているのですが、それをすぐに判断できるのはすごいです。
「これが、原因か……」
部屋に入ってすぐ、アルベリックさんの飛ぶ姿の下にあった紙に、カロンさんが気づきました。
「カロン様!」
悲鳴のような声で制止するオーベールさんの前で、その絵を拾い上げたのです。
すると加護が急速に光を失い、アルベリックさんが薄くなっていきます。
しかしその瞬間、アルベリックさんが急に手綱を引き締め、旋回をしたような動きをしたのです。それはまるで、咄嗟になにかを避けるような行動で……。
「アルベリックさん?!」
「カズハ、まだ近づくな!」
上空でそのような動きは、なにか異変があった以外に考えられません。
止めようとするソランさんの声を無視してアルベリックさんに駆け寄ろうとしたのに、どんどん薄れていって間に合いそうにもなくて……。
光が霧散するその向こうで、アルベリックさんが手綱を持ち替え、剣を抜いたように見えたところで、私の手は空しく宙を切ります。
そして残照のような光が、きらきらとカロンさんの手の内に吸収され、加護はすっかり失われてしまいました。
消える直前の映像が頭にこびりつき、私は呆然としてしゃがみこみ込んでしまいます。
そんな私の横でカロンさんは、手元のスケッチを見つめて言いました。
「これらを勝手に持ち込ませるつもりはなかったのだが……ユイか?」
名を呼ばれ、ビクリと身を震わせた結衣さん。
「なるほど、お前は油断がならない女のようだ。なにを企んでいた?」
「企むなんて……! 私はせめて写真の代わりにしようとしただけよ」
カロンさんの冷静な表情がかえって、結衣さんにプレッシャーを与えているようでした。
口ごもる結衣さんの、次の言葉を待っているカロンさん。それにたまらなくなったのは、結衣さんではなく、ソランさんでした。
「加護のことまでは考えてなかったんだろう、本人にも悪気はなかったようだし、許してやってくれ」
「……まあいい、面白いものが見れた。これは持ち主に返すが、それでいいなユイ?」
「はい……」
カロンさんは放心する私に、スケッチの紙片を返してくれました。
それは、王都で描いたアルベリックさんの横顔です。
もうすぐ離ればなれになる前、不安な気持ちを圧し殺していたときの絵。まるで今の私と同じ状況ですね……
「おそらく、あの景色はノエリアからさほど離れてはいまい。荒野が後方に微かに見えていた、前方には光の反射……おそらく南回りを選択したのだろうな」
「南回り……湖の方?」
あの一瞬でアルベリックさんの位置を確認していたとは、驚きです。
だけど湖と聞いて、私の心はひどくざわめくのです。
「じゃあ、さっきのあれは……もしかして」
魔獣に、襲われたのでは……
とっさにソランさんを見れば、とても渋い表情です。
夏の季節の湖は、氷が融けて魔獣のひしめく季節なのです。肥沃な大地は豊かな実りを授けてくれますが、そのぶん魔獣との遭遇も多くなるのです。ましてやアルベリックさんは一人旅……もし魔獣の群れにでも襲われたら、逃げ切れるのでしょうか。
「隊長なら大丈夫だ、だから、心配するな」
「……でも」
私の不安を和らげようと、ソランさんがそう言ってくれるのですが、分からないからこそ募る不安。
「湖周辺にはまだ部隊が常駐してるはずだ、少し時間を稼げれば応援は呼べる。いいかカズハ、隊長は大丈夫だ。準備をせずに無謀な航路を選ぶことはない、隊長を信じろ」
「……はい」
ソランさんの言うことは尤もです。
アルベリックさんはたくさんの事を考えて行動できる人です。そう、もしアルベリックさんが落ち人になったら、どうするのかと聞いたことがありました。彼は、自分を大事にできる人です。
「大丈夫……なんとかする」
アルベリックさんがいつも言ってくれる台詞を呟き、私は祈ります。
どうか何事もなく、再会できますようにと。
思いがけない加護騒動はそれで終わり、私たちはそれぞれの部屋に戻されることになりました。
不安が晴れることはなかったけれど、私は私にできることをしよう。それだけが、いつだって道を開いてくれたから。そう考えて、私はアルベリックさんを信じて待つことに決めました。
それから三日、絵を描いて街の様子を見て回る日々を過ごしました。
相変わらず結衣さんとソランさんは会えば険悪です。
そして先代伯爵は夢心地のまま、私の存在など気づいているのかも分からない状態です。だけど受けたからにはしっかりと仕上げたい。にがお絵屋としての私こそが、この世界での自分で掴んだものなのです。きっと、アルベリックさんもきっと私を応援してくれる。そんなことを考えながら……
その日、私はオーベールさんに呼び出されました。
てっきり、手配してもらっていた絵の具でも届いたのかと思ったのです。ですがそうではなかったようです、お城の応接室へと案内される途中のことです。
ふと足を止めるオーベールさんが見る方向へ、私も視線を移したのです。
「あれは……もしかして」
私たちの部屋から見下ろす中庭とは違う、小さな庭園がありました。お城は複雑な造りになっているので、中庭や空中庭園のようなものが、いくつも存在しています。その一つなのでしょうが……
そこに見えたのは、とても美しい女性と、小さな子供の姿。
背の高いすらりとした女性は、とても細くて頼りなげな印象でしたが、子供はとても元気そう。お日様のように輝く笑顔を、女性に向けてなにかを一所懸命話しかけています。
「カロン様の奥方様と、息子さんですか?」
「…………ええ」
あれ?
オーベールさんは短くそう答えると、さっさと先へと歩き始めました。私は遅れまいとその後を追うのですが、視線は気になる女性へ。
あれだけカロンさんを崇拝するオーベールさんは、日頃いかにカロンさんが優秀な施政者であるかを、言葉の端々に乗せてくる人なのです。だからきっとあれほど美しい奥方様の自慢もされるものと思っていたのですが……。
そんな探るような視線があからさまだったのでしょうか、チラリと私を振り返ったオーベールさん。
「決して関わってはいけません。彼女の話題も私の前では遠慮してください、いいですね?」
「……え?」
「いいですね、詮索はしないように」
「……はい」
なにか事情があるのでしょうか。
いつも以上に不機嫌そうなオーベールさんには、それ以上聞くことはもちろんできず、結局それきりに。ですがこのお城にいるかぎり、いつかちゃんと出会うかもしれませんね。
そんな風に考えているうちに、お城の一階にある客間へ。そこで私を待っていたのは、見知らぬ男性でした。
上品な身なりの中年の男性は、笑顔で私に深々と頭を下げてから名のりました。
「私はロレンス家からの使いです、遅くなり申し訳ありませんでした、お手紙を預かっておりますカズハ様」
差し出された手紙と、使いの男性を見比べていると。
「アルベリック様と、ノエリアの警備隊副隊長からです」
「……本当ですか?」
「もちろんです」
私は慌てて二つの手紙を受けとりました。
どこにも装飾のない白く薄い封筒と、薄い新緑色の透かしの入った綺麗な厚い封筒。きっと白いのがアルベリックさんで、分厚い方がリュファスさんに違いありません。
それを思っただけで、嬉しくて、涙が出そうです。
「ありがとうございます、届けてくださって」
「いえ、これくらいしかお役に立てず……」
事情を知らされているこの男性は、セレスフィアで商売を任されている番頭さんなのだそうです。
アンジェさんがカロンさんに約束させてくれた通り、オーベールさんたちに検閲はされず、届いた手紙。私は心から番頭さんにお礼を言い、すぐに手紙を読むために、大急ぎで部屋に帰ることにしました。
溢れて広がる色彩は、鮮やかに透き通る青い空と雲の色。
足元に見下ろすように、地平線が広がります。
自分がどこに居るのか分からなくなる浮遊感。平衡感覚を錯覚させる景色に、結衣さんが尻餅をつきました。
「結衣さん! 大丈夫ですか……」
「おい、近づくな!」
結衣さんに手を貸そうとした私を制止したのは、ソランさんです。
私は彼に腕を引っ張られ、つんのめってしまいました。
「なにするんですか、結衣さんを……」
「そばに行ってまた共鳴でもしたらどうするんだ、俺が行く。カズハは離れてろ」
そう言うと突き飛ばされるようにして、私は部屋の奥へと押し込められてしまいました。
その間にも結衣さんは尻餅をついたまま、部屋の中央で加護の光に翻弄されています。そこへソランさんが駆けつけ助けるどころか、なんと彼女の持つ鞄を奪い取ろうとしたのです。
「だ、だめ! これは……」
「いいかげんにしろ、ここに何があるかなんて分かってるんだ!」
ソランさんが怒鳴りながら結衣さんから鞄を奪いました。男性で、しかも彼は見た目はアレでも屈強な警備隊員。なすすべもなくソランさんによって確保されたその鞄は、結衣さんからも離すつもりだったのでしょう。部屋の隅へ投げつけられました。
すると待っていたかのように鞄から飛び出したのは、折り畳まれた紙片。
床に落ちた紙から更に、強烈な光が漏れたと思えば、その光の中に現れたのは……
「アルベリックさん……!」
風を切る玉虫色の大きな羽根。手綱をしっかりと持ち、グリフォンで空を駆けるアルベリックさんでした。
長い旅を覚悟した旅装から見えるのは、目元のみです。だけどどんなに遠目でも、私には一目で分かるのです。
アルベリックさんがどこに向かっているのか、何のための旅装なのか……それが私を迎えに来るためだと、そう思ってもいいのでしょうか。
思わず彼へと差しのべていたのは、手だけではなかったのです。
「来るなカズハ!」
ソランさんの叫びでハッと気づきます。
そうです、万が一また彼の元へ転移してしまったら……
制止するためにこちらに手の平を向けているソランさんの足元。そこに広がる空と地平線に、身震いを覚えます。だけど……もしかしたら、アルベリックさんなら。
そんなバカな思いは、ソランさんにはお見通しだったようです。
「バカなこと考えるなよ、いくら隊長だって警備中ならまだしも、高速で移動中に拾える確率なんて、限りなくゼロだからな!」
「……わ、分かってますよ」
私は素直に後ずさります。
さすがに、もう二度と空中ダイブなんてしたくありませんから。
加護の原因となった絵が外に出たことで、より鮮明になった景色に、腰を抜かしたように立ち上がることもできない様子の結衣さん。無意識に助けを乞うその腕を、ソランさんがしっかり握っていました。
そんな結衣さんを、なかば抱えるようにして私とは反対側に連れていきます。
「お前があれを……カズハの絵を持ち出したのか?」
運ばれていく間にも、空を飛び続けるアルベリックさんの姿を目で追いつづける結衣さんに、ソランさんは問いただしました。
アルベリックさんの映像の真下に落ちて、広がった絵は、私がローウィンで見せた最初のスケッチブックに描かれていたものです。いつのまに抜き取っていたのでしょう。
「……わ、悪いとは思ったけれど、一枚だけならと思ったの。まさか和葉さんまで一緒に来ることになるとは思わなかったから、だから、写真の代わりにと思って……」
「それでこっそり盗んだのか?」
「盗んだなんて! ……そんなつもりじゃ」
「勝手に持っていけばそういうことだろうが」
唇と食いしばり、今にも感情がまぶたを越えて溢れそうな結衣さんを見て、私は慌てます。
「だ、大丈夫です! 絵の一枚や二枚、どうってことないです、やだなーあははは、そんな心狭くないです!」
「なに言ってるんだ急に……」
「なに言ってるのか分かってないのはソランさんです、バカー! 共鳴したらどうするんですか!」
「あ……そうか」
ようやく気づいたソランさん。
さっきまで的確で冷静だったのに、結衣さんのことになると頭に血が上りやすいのはどうにかして欲しいのです。彼女のことが心配なのも分かりますけれど、今はまだ何がきっかけで加護が起きるか確証がないのですから、結衣さんを怒らせても泣かせてもいけません。
そうこうしている間にも、アルベリックさんはひたすら前を向いてグリフォン──おそらくハデュロイでしょう──を操縦しています。それはつまり、まだアルベリックさん側からは繋がってはいないということ。
今回の加護の、発現のきっかけは私の涙です。
結衣さんと共にいるアルベリックさんを夢で見て、不安にさいなまれた私を、まるで安心させるために起きた見たい。大丈夫、アルベリックさんは裏切らないよ……そう私に伝えてくれているかのように。
「なにごとですか、これは……」
そこに警護兵を連れて入ってきたのは、オーベールさん。そしてその後ろ、守られるようにしていたカロンさんですが、中の様子を見て驚いているようです。
「危険です、カロン様はどうか近づかないよう……」
「かまわん、加護なのだろう」
制止するオーベールさんを無視して部屋の中へ入ってきました。そして中に浮いているかのような景色に、一瞬怯んだものの、すぐにただの映像だということを悟ったようでした。
確かに、半透明のアルベリックさんと景色は透けていて、よく見ればもとの部屋の家具や敷物、床でさえも見えているのですが、それをすぐに判断できるのはすごいです。
「これが、原因か……」
部屋に入ってすぐ、アルベリックさんの飛ぶ姿の下にあった紙に、カロンさんが気づきました。
「カロン様!」
悲鳴のような声で制止するオーベールさんの前で、その絵を拾い上げたのです。
すると加護が急速に光を失い、アルベリックさんが薄くなっていきます。
しかしその瞬間、アルベリックさんが急に手綱を引き締め、旋回をしたような動きをしたのです。それはまるで、咄嗟になにかを避けるような行動で……。
「アルベリックさん?!」
「カズハ、まだ近づくな!」
上空でそのような動きは、なにか異変があった以外に考えられません。
止めようとするソランさんの声を無視してアルベリックさんに駆け寄ろうとしたのに、どんどん薄れていって間に合いそうにもなくて……。
光が霧散するその向こうで、アルベリックさんが手綱を持ち替え、剣を抜いたように見えたところで、私の手は空しく宙を切ります。
そして残照のような光が、きらきらとカロンさんの手の内に吸収され、加護はすっかり失われてしまいました。
消える直前の映像が頭にこびりつき、私は呆然としてしゃがみこみ込んでしまいます。
そんな私の横でカロンさんは、手元のスケッチを見つめて言いました。
「これらを勝手に持ち込ませるつもりはなかったのだが……ユイか?」
名を呼ばれ、ビクリと身を震わせた結衣さん。
「なるほど、お前は油断がならない女のようだ。なにを企んでいた?」
「企むなんて……! 私はせめて写真の代わりにしようとしただけよ」
カロンさんの冷静な表情がかえって、結衣さんにプレッシャーを与えているようでした。
口ごもる結衣さんの、次の言葉を待っているカロンさん。それにたまらなくなったのは、結衣さんではなく、ソランさんでした。
「加護のことまでは考えてなかったんだろう、本人にも悪気はなかったようだし、許してやってくれ」
「……まあいい、面白いものが見れた。これは持ち主に返すが、それでいいなユイ?」
「はい……」
カロンさんは放心する私に、スケッチの紙片を返してくれました。
それは、王都で描いたアルベリックさんの横顔です。
もうすぐ離ればなれになる前、不安な気持ちを圧し殺していたときの絵。まるで今の私と同じ状況ですね……
「おそらく、あの景色はノエリアからさほど離れてはいまい。荒野が後方に微かに見えていた、前方には光の反射……おそらく南回りを選択したのだろうな」
「南回り……湖の方?」
あの一瞬でアルベリックさんの位置を確認していたとは、驚きです。
だけど湖と聞いて、私の心はひどくざわめくのです。
「じゃあ、さっきのあれは……もしかして」
魔獣に、襲われたのでは……
とっさにソランさんを見れば、とても渋い表情です。
夏の季節の湖は、氷が融けて魔獣のひしめく季節なのです。肥沃な大地は豊かな実りを授けてくれますが、そのぶん魔獣との遭遇も多くなるのです。ましてやアルベリックさんは一人旅……もし魔獣の群れにでも襲われたら、逃げ切れるのでしょうか。
「隊長なら大丈夫だ、だから、心配するな」
「……でも」
私の不安を和らげようと、ソランさんがそう言ってくれるのですが、分からないからこそ募る不安。
「湖周辺にはまだ部隊が常駐してるはずだ、少し時間を稼げれば応援は呼べる。いいかカズハ、隊長は大丈夫だ。準備をせずに無謀な航路を選ぶことはない、隊長を信じろ」
「……はい」
ソランさんの言うことは尤もです。
アルベリックさんはたくさんの事を考えて行動できる人です。そう、もしアルベリックさんが落ち人になったら、どうするのかと聞いたことがありました。彼は、自分を大事にできる人です。
「大丈夫……なんとかする」
アルベリックさんがいつも言ってくれる台詞を呟き、私は祈ります。
どうか何事もなく、再会できますようにと。
思いがけない加護騒動はそれで終わり、私たちはそれぞれの部屋に戻されることになりました。
不安が晴れることはなかったけれど、私は私にできることをしよう。それだけが、いつだって道を開いてくれたから。そう考えて、私はアルベリックさんを信じて待つことに決めました。
それから三日、絵を描いて街の様子を見て回る日々を過ごしました。
相変わらず結衣さんとソランさんは会えば険悪です。
そして先代伯爵は夢心地のまま、私の存在など気づいているのかも分からない状態です。だけど受けたからにはしっかりと仕上げたい。にがお絵屋としての私こそが、この世界での自分で掴んだものなのです。きっと、アルベリックさんもきっと私を応援してくれる。そんなことを考えながら……
その日、私はオーベールさんに呼び出されました。
てっきり、手配してもらっていた絵の具でも届いたのかと思ったのです。ですがそうではなかったようです、お城の応接室へと案内される途中のことです。
ふと足を止めるオーベールさんが見る方向へ、私も視線を移したのです。
「あれは……もしかして」
私たちの部屋から見下ろす中庭とは違う、小さな庭園がありました。お城は複雑な造りになっているので、中庭や空中庭園のようなものが、いくつも存在しています。その一つなのでしょうが……
そこに見えたのは、とても美しい女性と、小さな子供の姿。
背の高いすらりとした女性は、とても細くて頼りなげな印象でしたが、子供はとても元気そう。お日様のように輝く笑顔を、女性に向けてなにかを一所懸命話しかけています。
「カロン様の奥方様と、息子さんですか?」
「…………ええ」
あれ?
オーベールさんは短くそう答えると、さっさと先へと歩き始めました。私は遅れまいとその後を追うのですが、視線は気になる女性へ。
あれだけカロンさんを崇拝するオーベールさんは、日頃いかにカロンさんが優秀な施政者であるかを、言葉の端々に乗せてくる人なのです。だからきっとあれほど美しい奥方様の自慢もされるものと思っていたのですが……。
そんな探るような視線があからさまだったのでしょうか、チラリと私を振り返ったオーベールさん。
「決して関わってはいけません。彼女の話題も私の前では遠慮してください、いいですね?」
「……え?」
「いいですね、詮索はしないように」
「……はい」
なにか事情があるのでしょうか。
いつも以上に不機嫌そうなオーベールさんには、それ以上聞くことはもちろんできず、結局それきりに。ですがこのお城にいるかぎり、いつかちゃんと出会うかもしれませんね。
そんな風に考えているうちに、お城の一階にある客間へ。そこで私を待っていたのは、見知らぬ男性でした。
上品な身なりの中年の男性は、笑顔で私に深々と頭を下げてから名のりました。
「私はロレンス家からの使いです、遅くなり申し訳ありませんでした、お手紙を預かっておりますカズハ様」
差し出された手紙と、使いの男性を見比べていると。
「アルベリック様と、ノエリアの警備隊副隊長からです」
「……本当ですか?」
「もちろんです」
私は慌てて二つの手紙を受けとりました。
どこにも装飾のない白く薄い封筒と、薄い新緑色の透かしの入った綺麗な厚い封筒。きっと白いのがアルベリックさんで、分厚い方がリュファスさんに違いありません。
それを思っただけで、嬉しくて、涙が出そうです。
「ありがとうございます、届けてくださって」
「いえ、これくらいしかお役に立てず……」
事情を知らされているこの男性は、セレスフィアで商売を任されている番頭さんなのだそうです。
アンジェさんがカロンさんに約束させてくれた通り、オーベールさんたちに検閲はされず、届いた手紙。私は心から番頭さんにお礼を言い、すぐに手紙を読むために、大急ぎで部屋に帰ることにしました。
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2021年9月26日:小説部門、HOTランキング部門1位になりました。ありがとうございます
*「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
※2023年8月 書籍化
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