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3ー2章 落ち人たちの罪と罰
九話 世界は美しく、危険に満ちていました。
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馬車二日目の旅路は、暗い空の下で始まりました。昨日までの快晴が嘘のように、朝から空には厚い雲が広がり、雨をしとしと降らせています。
夏は乾季に近く、カラッとした天気が多いそうなのですが、こうして時おり恵みを与えてくれることもあるそうです。
馬車は小雨の中、雨でぬかるむ道を進みます。時おり吹く冷えた風が心地よいなんて思っていると、どうやら雲の切れ間まで来たようです。雨が止み、朝日が差してきました。
薄いあさぎ色に染まる空に、うっすらとかかる虹。潤んだ大気は重たく、肌に吸い付くようで気持ちが良い。
まだまだ遠くだと思っていた山々が、近くに迫ってきたその裾野には、点々と見える影。恵みの雨が呼び込んだのか、動物たちが水場に集まってきているようです。
雲間から差し込む光の下には、緑に生い茂る大地。ノエリアから続いていた荒野を抜けて、辿り着いたのはそんな美しい場所でした。
「そんなことしていると……また馬車酔いしても知らないわよ」
無意識に取り出したスケッチブックへ、目を離せばあっという間に遠ざかる景色を描きとめていました。カーラはさんが呆れたように言っていたのには、当然気づきもせずに。
「ふあぁ、凄い景色でした」
一息ついて背もたれに頭を乗せると、後ろの席に座っていたソランさんと目が合いました。
「ノエリアの風物詩が、あっちではしばらく見られねぇんだな」
「えっと、風物詩? どういうことですか」
「そうやって、夢中になってどこででも描き始めるカズハのことだよ」
ソランさんによると、私のスケッチ姿が最近のノエリアの景色の一つだと言うのです。そんなにところ構わず描いては…………いましたね。苦笑いを浮かべる私に、ソランさんはいいんじゃないかと言ってくれます。
「あんたらが居てくれる街であることが、誇りなんだとさ。だから皆、そっとしとておくんだろう」
先程のように、夢中になりすぎると周りが見えなくなります。だけどそう言われてみれば、ノエリアでは邪魔が入ることなどほとんどありません。それはきっと、皆さんが気を使ってくれているからですね。それとは対照的だった昨夕のヒョロ柳さんのことを思い出し、そうだったのかと今さらながら、ノエリアの優しさに胸が温かくなります。
「しばらく休憩に入るよ、あんた達も外に出るかい?」
噂をすれば影。ヒョロ柳さんが皆に聞いて回っていました。どうやら次の休憩所まで長い距離があるようで、他のお客さんたちは、手足を伸ばしに外に出るようです。
カーラさんと申し合わせて、私たちも馬車を降りました。
街道沿いには小さな小屋のある休憩所があり、そこには井戸が作られていて、通りかかる旅人たちを潤します。途中に街や村がない代わりに、旅人の安全を守るために警備隊が管理しているのだそうです。
街と街を繋ぐ街道の途中には、小さな集落は滅多にありません。人々はなるべく街に集まり、身を寄せ合い、助け合いながら暮らしているのです。そんな街を警備隊が守り、国軍が国を守る。人、そして魔獣から。
私の生まれ育った世界とは、そこが大きな違いかもしれません。
頭では分かっていたつもりでした。でもまだまだ甘かったのかも。なぜ私の生まれた世界とこことではこんなにも文化文明の進み方が違うのか。何が、人の自由を阻んでいたのかを。
「あいつとは、知り合いなのかい?」
カーラさんたちと少し離れたちょうどその時、話しかけてきたのは御者のヒョロ柳さんでした。
「ソランさんのことですか?」
「ソラン? ああ、そんな名前か。まあいいや、さっきも絵を描いてたろう?」
「はい、とても良い景色でしたから」
すっかり晴れた空の下、彼が私に話しかける意図について考えていました。気を付けろとか答えるなとか言われてもですね、無視するのもいかがなものかと思うのですよ。まさか、私に詐欺でももちかけようとしてる訳でもなし。
そんなことを考えていて、適当に返事をしていたのがいけなかったようです。彼の話が思わぬ方向へ向いていたのに気づくのが遅れました。
「だからさ、昨日も言ったけど、うちの商売にあんたの絵を売るの、任せないか?」
「え? あの、いやそれはちょっと……」
「どうしてだよ、任せりゃ描くだけに時間を取れるんだろ?」
ヒョロ柳さんは、家業である商いの合間に御者のアルバイトをしているのだそうです。今はノエリアへの路線は繁盛期なので、沢山日銭が稼げるのだそうです。家業であった商店が父親の借金のために人手に渡り、場所を変えたために上手くいかないのだそうです。以前は一等地に店を持っていて、商売も順調だった。何か特色をもたせれば、また商売を上向きにすることなどわけないはず……そのようなことを繰り返し訴えられました。
突然、辛い身の上話をされたかと思えば、なかなか商魂たくましいものです。まあ、それ自体は悪くないのですが、問題は私の絵の方にあってですね。だけどそれをわざわざ説明するのも、面倒といいますか……
「私の絵は少々事情がありまして、他人に預ける訳にはいかないんです、今はまだ」
「預けられないってどういう事だよ、売る気がないってことか?」
「いえ、そうではないのですが……安全の確証がまだないので、人任せはちょっと……」
「言ってる意味が分からねぇんだけど?」
前のめりに詰め寄られ、どう言ってお断りしていいのやらと悩んでいると、急に視界が陰りました。
また雨がくるのかしらと見上げて目にしたもの。見えたのは雲よりももっと低い位置に飛来した、黒い大きな影。あまりの驚きに、身体が固まって動けませんでした。
くわえて耳をふさぎたくなるような羽音。柳さんも遅れて頭上の異変に気づき、黒い影を視界に入れて叫び声をあげました。
同時に私を呼ぶ、下っぱさんの声。
「カズハ!」
這うようにして逃げ出したヒョロ柳さん。その拍子にぶつかり、私は尻餅をつく形で草むらに倒れ込んでしまいました。そしたらもう、腰が抜けたようになって動けません。
影は太陽を遮り、激しく音をたてて羽ばたきます。大きな頭には二本の触覚。見覚えのあるき黄と茶色の縞。大きく膨らんだ二つの胴体。その末端にある針は、刺されるというサイズではなくて……。
目の前に迫る、蜂型の大きな生物。
私の後ろで様々な悲鳴が上がるのが、鮮明に聞こえます。
「伏せろ、カズハ!」
その声に反応できたのは、奇跡としか言いようがありませんでした。
長い剣が真上をかすめ、迫った昆虫の頭に当たり数メートル押し戻しました。驚いている暇もなく腕を引かれ、なんとか立ち上がれました。
「馬車に乗れ、カズハ」
「ソラン、さん」
「早くしろ、今は一匹だがあいつらは仲間を呼ぶ。早くここから離れるんだ!」
「ソランさんは?」
「仲間を呼ばれる前にあいつを仕留める。早く行け!」
落ちた剣を拾って、私をせかします。ぐずぐずしていたら、彼に迷惑をかけてしまうのは必然です。心配ではありますが、がくがく笑う膝を鞭打って、言うとおりに馬車へ向かいます。
休憩所のそばの馬車には、お客さんたちが集まって乗り始めていました。年配の御者のかたが、小さな小屋のそばで狼煙のようなものを焚きつつ、ウマさんの用意を柳さんに急かしています。
「こっち、早くカズハ!」
「カーラさん」
「ああよかった無事? 急にあの人が荷台から剣を取り出して走っていったから、もうびっくりしたわ」
「大丈夫です、怪我はありません」
カーラさん親子が心配そうに迎えてくれました。私の無事を確認すると、馬車へ乗り込みます。私も乗ろうと足をかけた所で、御者のおじさんに呼び止められます。
「あんたはあの人の知り合いか?」
「はい、ソランさんはノエリアの警備隊員です。でも彼一人じゃ……もし他にも集まってきたら」
「ああ今、狼煙を上げた。気づいてくれれば巡回中の警備隊がやって来る。それまで逃げきるしか方法はない」
休憩所から離れた、林の入り口あたりでソランさんが剣で応戦しています。蜂は片羽をやられたのか、不安定に飛びながらもソランさんに襲いかかっていました。ハラハラしながらも、無事を祈るしかありません。彼はイケてないオジサンでも、立派な辺境警備隊員です。魔獣相手ならば彼を頼らざるを得ません。
私は御者のおじさんに急かされ、馬車へ乗り込みます。
「しばらく街道で、魔獣に襲われたなんて話は聞いてなかったのに……」
「どうしてまだ出さないの、早くしないと」
「警備隊はまだなのか」
馬車の中はプチパニック状態です。私より皆さんの方が慣れているかと思えば、そうでもないようで。皆一様に恐怖に震えています。
私はじっと大人しくソランさんの無事を祈り、彼が戻ってくるのを待っていたのですが。
「え……動いてる?」
馬車が動き始めたのです。
私は慌てて座席を立ち、御者席がのぞける先頭へ走ります。
「どうして、動いてるの! ソランさんを置いてくのですか?!」
「ダメだ、危ないから顔を出すな、お嬢さん」
「だって、ソランさんが」
窓から見た光景に、心臓が止まるかと思いました。
先ほどの一匹を仕留めたソランさん。人間の大人ほどもある巨体を横たえて、蜂は青い血のような体液を吹き出しています。ですが、そのソランさんの頭上に、新たな個体が飛来したのです。
「行け! 急いで馬車を出せ!」
「ダメです、ソランさん! 一緒に逃げましょう!」
「カズハ、馬鹿、引っ込んでろ! 俺一人なら立て籠もれる、早く馬車を出せ!」
ダメだと言うのに、御者のおじさんが手綱をしならせます。
ウマさんたちも危険を察知しているのでしょうか。おじさんに応えるかのように加速しました。
「やだ、ソランさん!」
遠のく彼のシルエットは、激しく立ち回っています。大きな影が羽音を鳴らして飛び回り、仲間を更に呼んでいるのだと私でも分かる。
嫌です、こんなの。
一緒にローウィンに向かうって、そう思っていたのに。
馬車は今までなかった速度で、休憩所を遠ざかります。おじさんの横で香をたく柳さん。馬車の中で震えながら身を寄せ合うお客さんたち。そしてカーラさん親子。誰一人、傷ついて欲しくなどありません。だけどそれはソランさんも同じなんです。
激しい風が、魔獣よけの香りと私の涙を運んで消えていくのを、ただ眺めるしか私にはできませんでした。
夏は乾季に近く、カラッとした天気が多いそうなのですが、こうして時おり恵みを与えてくれることもあるそうです。
馬車は小雨の中、雨でぬかるむ道を進みます。時おり吹く冷えた風が心地よいなんて思っていると、どうやら雲の切れ間まで来たようです。雨が止み、朝日が差してきました。
薄いあさぎ色に染まる空に、うっすらとかかる虹。潤んだ大気は重たく、肌に吸い付くようで気持ちが良い。
まだまだ遠くだと思っていた山々が、近くに迫ってきたその裾野には、点々と見える影。恵みの雨が呼び込んだのか、動物たちが水場に集まってきているようです。
雲間から差し込む光の下には、緑に生い茂る大地。ノエリアから続いていた荒野を抜けて、辿り着いたのはそんな美しい場所でした。
「そんなことしていると……また馬車酔いしても知らないわよ」
無意識に取り出したスケッチブックへ、目を離せばあっという間に遠ざかる景色を描きとめていました。カーラはさんが呆れたように言っていたのには、当然気づきもせずに。
「ふあぁ、凄い景色でした」
一息ついて背もたれに頭を乗せると、後ろの席に座っていたソランさんと目が合いました。
「ノエリアの風物詩が、あっちではしばらく見られねぇんだな」
「えっと、風物詩? どういうことですか」
「そうやって、夢中になってどこででも描き始めるカズハのことだよ」
ソランさんによると、私のスケッチ姿が最近のノエリアの景色の一つだと言うのです。そんなにところ構わず描いては…………いましたね。苦笑いを浮かべる私に、ソランさんはいいんじゃないかと言ってくれます。
「あんたらが居てくれる街であることが、誇りなんだとさ。だから皆、そっとしとておくんだろう」
先程のように、夢中になりすぎると周りが見えなくなります。だけどそう言われてみれば、ノエリアでは邪魔が入ることなどほとんどありません。それはきっと、皆さんが気を使ってくれているからですね。それとは対照的だった昨夕のヒョロ柳さんのことを思い出し、そうだったのかと今さらながら、ノエリアの優しさに胸が温かくなります。
「しばらく休憩に入るよ、あんた達も外に出るかい?」
噂をすれば影。ヒョロ柳さんが皆に聞いて回っていました。どうやら次の休憩所まで長い距離があるようで、他のお客さんたちは、手足を伸ばしに外に出るようです。
カーラさんと申し合わせて、私たちも馬車を降りました。
街道沿いには小さな小屋のある休憩所があり、そこには井戸が作られていて、通りかかる旅人たちを潤します。途中に街や村がない代わりに、旅人の安全を守るために警備隊が管理しているのだそうです。
街と街を繋ぐ街道の途中には、小さな集落は滅多にありません。人々はなるべく街に集まり、身を寄せ合い、助け合いながら暮らしているのです。そんな街を警備隊が守り、国軍が国を守る。人、そして魔獣から。
私の生まれ育った世界とは、そこが大きな違いかもしれません。
頭では分かっていたつもりでした。でもまだまだ甘かったのかも。なぜ私の生まれた世界とこことではこんなにも文化文明の進み方が違うのか。何が、人の自由を阻んでいたのかを。
「あいつとは、知り合いなのかい?」
カーラさんたちと少し離れたちょうどその時、話しかけてきたのは御者のヒョロ柳さんでした。
「ソランさんのことですか?」
「ソラン? ああ、そんな名前か。まあいいや、さっきも絵を描いてたろう?」
「はい、とても良い景色でしたから」
すっかり晴れた空の下、彼が私に話しかける意図について考えていました。気を付けろとか答えるなとか言われてもですね、無視するのもいかがなものかと思うのですよ。まさか、私に詐欺でももちかけようとしてる訳でもなし。
そんなことを考えていて、適当に返事をしていたのがいけなかったようです。彼の話が思わぬ方向へ向いていたのに気づくのが遅れました。
「だからさ、昨日も言ったけど、うちの商売にあんたの絵を売るの、任せないか?」
「え? あの、いやそれはちょっと……」
「どうしてだよ、任せりゃ描くだけに時間を取れるんだろ?」
ヒョロ柳さんは、家業である商いの合間に御者のアルバイトをしているのだそうです。今はノエリアへの路線は繁盛期なので、沢山日銭が稼げるのだそうです。家業であった商店が父親の借金のために人手に渡り、場所を変えたために上手くいかないのだそうです。以前は一等地に店を持っていて、商売も順調だった。何か特色をもたせれば、また商売を上向きにすることなどわけないはず……そのようなことを繰り返し訴えられました。
突然、辛い身の上話をされたかと思えば、なかなか商魂たくましいものです。まあ、それ自体は悪くないのですが、問題は私の絵の方にあってですね。だけどそれをわざわざ説明するのも、面倒といいますか……
「私の絵は少々事情がありまして、他人に預ける訳にはいかないんです、今はまだ」
「預けられないってどういう事だよ、売る気がないってことか?」
「いえ、そうではないのですが……安全の確証がまだないので、人任せはちょっと……」
「言ってる意味が分からねぇんだけど?」
前のめりに詰め寄られ、どう言ってお断りしていいのやらと悩んでいると、急に視界が陰りました。
また雨がくるのかしらと見上げて目にしたもの。見えたのは雲よりももっと低い位置に飛来した、黒い大きな影。あまりの驚きに、身体が固まって動けませんでした。
くわえて耳をふさぎたくなるような羽音。柳さんも遅れて頭上の異変に気づき、黒い影を視界に入れて叫び声をあげました。
同時に私を呼ぶ、下っぱさんの声。
「カズハ!」
這うようにして逃げ出したヒョロ柳さん。その拍子にぶつかり、私は尻餅をつく形で草むらに倒れ込んでしまいました。そしたらもう、腰が抜けたようになって動けません。
影は太陽を遮り、激しく音をたてて羽ばたきます。大きな頭には二本の触覚。見覚えのあるき黄と茶色の縞。大きく膨らんだ二つの胴体。その末端にある針は、刺されるというサイズではなくて……。
目の前に迫る、蜂型の大きな生物。
私の後ろで様々な悲鳴が上がるのが、鮮明に聞こえます。
「伏せろ、カズハ!」
その声に反応できたのは、奇跡としか言いようがありませんでした。
長い剣が真上をかすめ、迫った昆虫の頭に当たり数メートル押し戻しました。驚いている暇もなく腕を引かれ、なんとか立ち上がれました。
「馬車に乗れ、カズハ」
「ソラン、さん」
「早くしろ、今は一匹だがあいつらは仲間を呼ぶ。早くここから離れるんだ!」
「ソランさんは?」
「仲間を呼ばれる前にあいつを仕留める。早く行け!」
落ちた剣を拾って、私をせかします。ぐずぐずしていたら、彼に迷惑をかけてしまうのは必然です。心配ではありますが、がくがく笑う膝を鞭打って、言うとおりに馬車へ向かいます。
休憩所のそばの馬車には、お客さんたちが集まって乗り始めていました。年配の御者のかたが、小さな小屋のそばで狼煙のようなものを焚きつつ、ウマさんの用意を柳さんに急かしています。
「こっち、早くカズハ!」
「カーラさん」
「ああよかった無事? 急にあの人が荷台から剣を取り出して走っていったから、もうびっくりしたわ」
「大丈夫です、怪我はありません」
カーラさん親子が心配そうに迎えてくれました。私の無事を確認すると、馬車へ乗り込みます。私も乗ろうと足をかけた所で、御者のおじさんに呼び止められます。
「あんたはあの人の知り合いか?」
「はい、ソランさんはノエリアの警備隊員です。でも彼一人じゃ……もし他にも集まってきたら」
「ああ今、狼煙を上げた。気づいてくれれば巡回中の警備隊がやって来る。それまで逃げきるしか方法はない」
休憩所から離れた、林の入り口あたりでソランさんが剣で応戦しています。蜂は片羽をやられたのか、不安定に飛びながらもソランさんに襲いかかっていました。ハラハラしながらも、無事を祈るしかありません。彼はイケてないオジサンでも、立派な辺境警備隊員です。魔獣相手ならば彼を頼らざるを得ません。
私は御者のおじさんに急かされ、馬車へ乗り込みます。
「しばらく街道で、魔獣に襲われたなんて話は聞いてなかったのに……」
「どうしてまだ出さないの、早くしないと」
「警備隊はまだなのか」
馬車の中はプチパニック状態です。私より皆さんの方が慣れているかと思えば、そうでもないようで。皆一様に恐怖に震えています。
私はじっと大人しくソランさんの無事を祈り、彼が戻ってくるのを待っていたのですが。
「え……動いてる?」
馬車が動き始めたのです。
私は慌てて座席を立ち、御者席がのぞける先頭へ走ります。
「どうして、動いてるの! ソランさんを置いてくのですか?!」
「ダメだ、危ないから顔を出すな、お嬢さん」
「だって、ソランさんが」
窓から見た光景に、心臓が止まるかと思いました。
先ほどの一匹を仕留めたソランさん。人間の大人ほどもある巨体を横たえて、蜂は青い血のような体液を吹き出しています。ですが、そのソランさんの頭上に、新たな個体が飛来したのです。
「行け! 急いで馬車を出せ!」
「ダメです、ソランさん! 一緒に逃げましょう!」
「カズハ、馬鹿、引っ込んでろ! 俺一人なら立て籠もれる、早く馬車を出せ!」
ダメだと言うのに、御者のおじさんが手綱をしならせます。
ウマさんたちも危険を察知しているのでしょうか。おじさんに応えるかのように加速しました。
「やだ、ソランさん!」
遠のく彼のシルエットは、激しく立ち回っています。大きな影が羽音を鳴らして飛び回り、仲間を更に呼んでいるのだと私でも分かる。
嫌です、こんなの。
一緒にローウィンに向かうって、そう思っていたのに。
馬車は今までなかった速度で、休憩所を遠ざかります。おじさんの横で香をたく柳さん。馬車の中で震えながら身を寄せ合うお客さんたち。そしてカーラさん親子。誰一人、傷ついて欲しくなどありません。だけどそれはソランさんも同じなんです。
激しい風が、魔獣よけの香りと私の涙を運んで消えていくのを、ただ眺めるしか私にはできませんでした。
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