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2巻

2-2

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 九月の後半に差しかかる今も、私の自立生活修業はまだまだ続いています。
 こちらの世界でも秋の味覚は豊かで、木の実や山菜、きのこはどれも絶品。セリアさんに教わりながら作る食事が、いろどりとともに味もレベルアップします。まさに至福のとき。このご褒美ほうびがあるからこそ、めげずにはげむことができると言っても、過言ではありません。
 ところで、今日は念願のいのししもどきのお肉が手に入りました。修業の成果を見せつつ、オランド亭でまかない料理として牡丹鍋ぼたんなべに挑戦することに。がぜん、やる気が出ますよ。
 やる気は……あったんです。でも、やる気のみでなんでもできたら、苦労はありません。

「カズハ、それで何をどうやったら、そんなに黒げになれるんだろうねぇ」
「うん、私も不思議です」

 厨房ちゅうぼうで一人奮闘する私の様子を見にきてくれたセリアさんが、救いの神に見えました。
 げついたように黒くなったのは、料理ではなく私です。
 この世界には電気やガス、灯油などがないから、調理や暖を取るために、まきか炭を使います。木炭が流通しているので、大量のまき割りを自分でしなくても済むのが、せめてもの救いでしょうか。まき割りは、ナタすら持ったことのない私にはさすがに無理です。
 ただし、炭は手軽ではありますが、触れば汚れること必至。今みたいに炭の中に転んでしまったときには、こうして真っ黒になるわけで……
 お借りしたオランド亭の厨房ちゅうぼうを散らかし、炭まみれになった私。セリアさんは苦笑いしながら、おしぼりを出してくれました。私は椅子に座って顔を拭きます。

「道のりは遠そうだけど、まあ気長におやりよ。……それはともかく、困ったね」
「どうかしたんですか?」
「さっき宿の外でレヴィナス隊長に会ってね。これからお客様が来るって聞いてさ……ああもう、炭はなかなか取れないねぇ。おしぼりを貸して」

 アルベリックさんに、お客さんを連れてくるから、用意して待つように言われたそうです。
 セリアさんは私からおしぼりを受け取ると、私の顔を拭いてくれます。

「お客様って、まさか私にですか?」
「そうなんだよ、実はねカズハ……」

 そのとき、食堂の扉が勢いよく開き、セリアさんの声がかき消されました。
 びっくりして振り向くと、そこには旅装の男性が立っています。
 背が高くて、線が細い体。黒髪に、彫りが深くて色白のお顔、しっかりと引き結んだ唇と切れ長な目で、精悍せいかんな顔つきです。そしてなんだか、誰かの面影おもかげがあるような……

「サミュエル様!」

 セリアさんが彼の名を呼んだと同時に、その面影おもかげが誰のものか気づきました。
 ノエリアの領事様であるコリーヌ婦人の亡き旦那様に、とてもよく似ているのです。
 ぼんやり彼の顔を見ていると、彼は口を開きました。

「私はサミュエル・ドゥ・ラクロだ。お前がカズハ・トオノか?」

 私を見下ろす彼の視線が痛いです。
 思いっきり、不憫ふびんな者を見る目ですよね、それ。
 それにしても、思っていた雰囲気とは、ずいぶん違いました。彼、サミュエルさんの姿は肖像画しょうぞうがとして、お屋敷にたくさん飾られています。その多くが、かわいらしい少年期のものばかりなのと、セリアさんが『坊っちゃん』と呼んでいたせいでしょうか。私は、コリーヌ婦人のご子息は優しい青年だと、勝手に想像していたのです。

「はじめまして。カズハ・トオノです」

 私が名乗ったところで、アルベリックさんが慌てた様子で食堂に入ってきました。

「サミュエル、待てと言っただろう」

 彼は来て早々、サミュエルさんをとがめます。

「アルベリック、まさかこんな、ちんちくりんの薄汚れた娘だと思わなかったぞ」
「ち……」

 ぎゃー、ちんちくりんって言われました!
 彼の物言いに固まる私。セリアさんとアルベリックさんは、私を凝視ぎょうししています。
 あ、うん。確かに今は少々炭にまみれていますけど、いつもこうではないと言わせてください。

「カズハ、いったい何をしていた?」

 アルベリックさんにされた質問は、炭まみれの身なのでもっともではありますが、非常に胸に刺さるものが……

「もちろん見たとおり、料理です」
「……セリア、すまないが、ラウールを呼んでおいてくれないか」

 ちゃんと答えたのに無視ですか、アルベリックさん!
 セリアさんは彼の指示どおり、警備隊宿舎で厨房ちゅうぼうの手伝いをしているラウールさんを呼びにいきました。残されたのは私とアルベリックさん、そして突然現れたご子息様。
 なんだか居心地の悪い空気です。
 だってアルベリックさんのご子息様を見る顔が、あからさまに不機嫌なんですよ。こんな彼は、はじめて見ます。
 サミュエルさんはアルベリックさんに向かって、ふふんと鼻で笑いました。

「お前の珍しい行動のせいで、どんな娘なのか興味が湧いていたが、このような珍獣ちんじゅうだったとは。お前の趣味は理解しがたいな」

 な、なんなんですか。ちんちくりんに続いて珍獣ちんじゅうって!
 サミュエルさんの話の意味はよくわからないけど、これだけは確信できます。
 なんか、馬鹿にされてますよね、私!
 あのコリーヌ婦人のご子息が、こんな毒舌大魔王だったなんて、ガッカリです。見た目は仕事のできる紳士風なのに、本当に残念。
 私が鼻息を荒くしていると、目の前に立ちふさがるようにアルベリックさんがサミュエルさんに対峙たいじします。

「サミュエル、余計なことを口にする癖はそろそろ直せ」

 アルベリックさんの珍しい乱暴な言い方に、ふと疑問が湧きます。

「……もしかして、お友だちなんですか?」
「士官学校の同期だ」
「それだけではないだろう、正確に説明しろ。今はお前の父であるウィリアム・レヴィナス宰相閣下の直属の部下だとな」

 アルベリックさんの説明に不服そうにして、サミュエルさんがつけ足しました。
 そうですか、アルベリックさんの……お父さん。世間は狭いですね。そんな身近に宰相閣下が……

「へ……ぇえええっ?」

 私の叫び声には反応せず、アルベリックさんはサミュエルさんをにらみつけています。ものすごい迫力のアルベリックさんの視線をものともせず、サミュエルさんは私に言い放ちました。


「そういうことで、カズハ・トオノ。宰相閣下のご命令だ。王都まで早急にせ参じるように」
「王都へ……って、私が?」

 びっくりして、嘘でしょうと聞き返すのですが……

「拒否は認められない」

 サミュエルさんのその言葉に、アルベリックさんが肩を落とします。それが私にとって、何より明確な答えに感じられました。
 つい二週間ほど前、ディディエ団長に、ノエリアに根を張るだなんて格好つけたばかりでしたのに。早くも再会の目処めどが立ったみたいですよ、エトワールの皆さん。
 冬の到来の前に、嵐がやって来ました。冷たく、そして毒舌というとげを含んで。
 その嵐の目であるサミュエルさんが、私の意識を引き戻すかのようにくり返します。

「もう一度言う、王都へ行け。拒否は認められない。これは宰相閣下からのご命令である」

 高圧的に感じられるのは、伝えてくるのがこの方だから?
 それとも命令などという、私には経験したことのない状況のせいでしょうか。私は困惑して椅子に座ったまま唖然あぜんとします。
 すると、苛立いらだたしげにサミュエルさんが声を荒らげました。

「おい、アルベリック。さっきは話ができていたと思ったが、コレには言葉が通じないのか?」
「サミュエル!」

 アルベリックさんが、毒舌ご子息様を制止するように呼びます。
 私も我に返って口を開きました。

「話はちゃんと理解してます。それと、私の名はカズハ・トオノです。コレではありません」
「なんだ、通じているではないか。では伝えたぞ」

 それだけ言うと、ご子息様はさっさと立ち去ろうとします。
 ちょっと、待ってください。まだ聞きたいことが……
 私が戸惑いのあまり声を出せないでいると、アルベリックさんがご子息様を呼び止めます。

「待て、なぜわざわざカズハを王都へ呼びつける? サミュエル」

 そうです、それを私も聞きたかったんですよ。
 するとサミュエルさんは、アルベリックさんに聞き返しました。

「まさか心あたりがないとは言わせないぞ、アルベリック」
「……私がカズハについて上への報告をおこたったからか」

 報告を、おこたる?
 二人のやりとりが何を意味するのかわかりません。そんな私に聞かせるためか、サミュエルさんがはっきり言ったのです。

「落ち人カズハ・トオノの加護は未だ不明であると、王都に報告されている」
「……え?」

 それは私にとって予想外の言葉でした。
 私の反応を見て、サミュエルさんは眉間にしわを寄せたまま、深くため息をつきます。

「……アルベリックの報告に疑問を抱いたのは、ガスティネル司祭による事件の報告書がきっかけだ。ニコラという少年が養父の罪を告発したらしいな。そこにカズハ・トオノがいたという記載もあった。この街に来たばかりの、言うなれば部外者を立ち会わせたことに、私は少々不自然さを感じたのだ。お前らしくないとな、アルベリック。そう考えてみると、それ以前に提出されたラウールが魔獣まじゅうおそわれた件の報告書も、つじつまが合わない。盗賊の討伐とうばつ編成と警護に残った配置を見ても、ラウール捜索にく人員はないはずだ。どうやって的確にラウールと隊員の位置を把握できたのだ? 考えているうちに、ラウールの宿にカズハ・トオノが滞在していたことがわかった」

 アルベリックさんは言葉にきゅうしています。

「決定打は、母からの手紙だ。カズハ・トオノに絵を依頼したことがきっかけで、父ののこした書き置きを見つけられたと言ってきた。加護について触れてはいなかったが、これらすべてに落ち人である彼女が関わっている。そこで私はアルベリックが何かを隠しているのではないかと考えた。しかし部下を送って調べさせるのも、遠く離れた王都からでは限界がある。それで落ち人カズハが授かった加護の調査と保護のために、彼女を王都預かりとするよう、宰相閣下に進言したのだ」

 サミュエルさんは一度言葉を切ると、アルベリックさんに向かって言います。

「クソ真面目なお前が隠すくらいだ。その加護が特殊で、周囲に対して多大な影響を及ぼすたぐいのものだと推察し、宰相閣下も危惧きぐされている。さぁ、白状しろ。カズハ・トオノの加護とはいったいなんなのだ?」
「……カズハの加護は、彼女が描いた絵が動くことで、一時いっときではあるが遠く離れていても描かれたものの様子をつぶさに見られるというものだ」

 サミュエルさんに問われ、アルベリックさんは観念したように答えました。

「絵が動いて、遠くで起こっていることが見られる? それは本当か?」
「はい。描いた対象を中心にですから、範囲は限られていますけれど」

 驚くサミュエルさんに、私はうなずいて補足します。すると彼はひどく困った顔をして考えこみました。
 改めて口にすると、確かに突拍子もない現象です。でも、それがどれほど特殊なのか、私にはわかりません。私のほかにこの街には落ち人はいないので、誰かと比べることもできませんしね。

「加護の中でも、私のものはそこまで特殊なんですか?」

 そんなことも知らされていないのかと、サミュエルさんがあきれ顔で説明してくれます。

「本来加護と言われているものは、ほんの少し幸運だと思える程度の現象にすぎない。報告されている例を出せば……」

 偶然手に入れたものが商売に役立ち、それを元に財を築いた者。適当に掘った地面から水が湧く、なんてことが続いて人の役に立った者。また、特定の動物に好かれ、それをうまく利用して、畜産業を生業なりわいにした者など……
 確かにその人を助けた出来事だけれど、現象そのものは必ずしも派手なものではない。あくまで、あとから考えれば非常に幸運だったという程度のものが、ほとんどなのだそうです。
 もちろん、落ち人自身が加護を操ることはできません。

「それに比べれば、お前の加護は発現した時点で、誰が見てもその特異さがわかるだろうな」

 サミュエルさんの言うことは、私も認めざるを得ません。

「落ち人は存在そのものがまれだ。それゆえに、加護の実態ではなく、結果ばかりが伝えられ、過大評価されている。落ち人は実用的で特別な力を操れる、と思っている者も少なくない。実際にお前の加護を見せられれば……目の色を変えて落ち人を囲いたがるやからが出ても、おかしくない」

 もし加護がコントロール可能であったならば、使い方次第では悪用できるのかも……などと考えたことはありました。ですが、私は加護を操れたことなどないのです。だからこそアルベリックさんの『描けばいい』という言葉を、疑う必要なんてなかった。
 だけど、本当に私が加護を自在に操れないのだと証明することは、不可能で……
 ようやく認識した己の立場に、茫然ぼうぜんです。
 そこでアルベリックさんが重たい口調で話しだしました。

「加護はいずれ、消えてなくなる。そんな不確かなものに人々が群がり、何も知らないまま落ち人が利用されるのはおかしい。加護が消える頃にはこの国にも慣れ、カズハも自分で道を選択できるようになるだろう。それまではここで守るつもりだった」
「それが報告義務をおこたった理由か」

 アルベリックさんがうなずきます。

「カズハの加護は狙われる可能性があるものだ。しかしここノエリアでなら、カズハ周辺くらいは目が行き届く」

 辺境にあるこの小さな街は、お互いが顔見知り。その分、時に排他的になることもありました。でもだからこそ、私にとって安全だと、アルベリックさんは考えてくれていたのですね。
 最初の加護が起こったときはすでに、なるべく秘密にするように忠告してくれました。その頃からアルベリックさんは、私を守るつもりでいてくれたんですか?
 空から落ちてきた私を、偶然受け止めただけなのに。
 だけど彼の行動は間違いだと、サミュエルさんは言うのです。

「守りたければ筋を通せ。その用意が王都にはある。王都行きの件は宰相閣下だけでなく陛下も承知しておられるのだぞ、アルベリック」

 アルベリックさんは、唇をキッと結びました。

「よく引き延ばせたと思え。すでに宰相閣下を政敵と見なす者たちが、カズハ・トオノの確保に動き出しているという噂もある。お前が故意にカズハ・トオノの加護の実態を誤魔化してきたことは、ジルベルドの平和に寄与する宰相閣下の足元をすくう行為。まさに愚行ぐこうだ」
「……わかっている。罰を受ける覚悟はある」
「そう考えるのなら、お前が責任を持ってカズハ・トオノを王都まで送り届けろ。その任務中、お前は無給休暇扱いで減給。始末書は宰相閣下に提出だ。そして言い訳は、すべて陛下の御前でするがいい」

 コリーヌ婦人は以前、サミュエルさんは休暇の際に帰郷するのだと言っていました。今さらですが、この様子では単なるお休みではないようです。
 宰相閣下とか果ては陛下という名称が飛び交い、不安をかきたてられます。しかも私のことで……

「それに……私が閣下の政敵ならばこう考える。宰相の息子が大事に保護しているとなれば、ひいてはあのしたたかな宰相閣下の弱みとなるかもしれん。ならば詳しく探って、場合によってはこちらに……と」

 弱み……
 私に絵を描いてもいいと自信を与えてくれたアルベリックさんには、感謝してもしきれない。それなのに、私は彼の負担になるのですか?
 そばにいるだけで?

「サミュエル。今ここで仮定の話を持ち出し、カズハを不安にさせる必要はない」
「現実になってからでは遅い。いつまでも辺境に隠し続けられると思うな、人の口に戸は立てられん」

 二人は対立するようににらみ合います。
 いつになく気を荒立てた様子のアルベリックさんに驚いていると、そこに助け舟が現れました。

「おい、お前たちはいったい何をしている?」

 二人の緊張を裂いたのは、この宿のご主人であるラウールさん。彼と一緒に戻ってきたセリアさんが、心配そうな顔で私に寄り添ってくれます。

「大丈夫、カズハ?」
「……はい、私はなんとも」

 ラウールさんはじっと私を見て、乱暴に頭をでてくれました。そんなに不安げに見えてしまったのでしょうか。

「さあ、俺にもわかるよう、状況を説明してもらおうか」

 二人を見据みすえるラウールさんは迫力満点です。
 さすが歴戦の猛者もさ。彼はただの宿屋の主人ではなく、かつて辺境警備隊ノエリア支部の隊長を務めたこともある人物なのです。
 サミュエルさんは私たちに見せた態度とは違い、信じられないほど丁寧かつ事務的な口調で、宰相閣下の命令をラウールさんに伝えました。
 その姿に驚いていると、セリアさんが理由をこっそり耳打ちしてくれます。
 なんでもラウールさんは、ノエリア支部の隊長を務めるよりもずっと前、領事邸に滞在していたことがあったのだとか。そのとき、ラウールさんは幼いサミュエルさんにわれて武術の稽古けいこをつけてあげたのだそうです。
 そんなわけで、サミュエルさんにとってラウールさんは尊敬する師匠であり、逆らえない相手。
 それを知っているから、アルベリックさんは仕事中のラウールさんを呼び戻したんですね。
 話を聞くうちに、今度はラウールさんの眉間のしわが次第に深くなっていきます。

「それでお前がわざわざ迎えにきたのか、サミュエル?」

 迎えにきた?
 ああ、そうですよね、ここは日本ではありません。自動車も、電車や汽車も当然ないわけで……
 コリーヌ夫人のお屋敷に行くときに乗った馬車の、快適とは言えない乗り心地を思い出します。
 ……遠いのかな。王都までは馬車で何日かかるのでしょう。
 あれ? でもサミュエルさんはさっき、私を連れて王都に行くようにとアルベリックさんに言ってませんでしたか?

「彼女を連れ、グリフォンにて王都に向かうのは、アルベリックだ」

 ほら、やっぱり。……というか、グリフォンで? 
 不思議に思っていると、アルベリックさんが声を上げました。

「待て、私は隊長職にある。隊を長期間不在にするには代理を立てる必要が」
「だから私が来たのだ」

 事もなげに、そう言ったサミュエルさんを見て、驚くラウールさん。一方、アルベリックさんは冷静に応じます。

「王国軍ならまだしも、お前にとって辺境警備隊はまったくの管轄外だろう」
「私がくのは顧問で、アルベリックの留守を預かるのではない。お前が甘い顔しているから、がいつまでも腹をくくらぬのだ」
「そうか、リュファスか!」

 ラウールさんはサミュエルさんの思惑をさとったように声を上げると、なかなかに悪い顔でニヤリとしました。リュファスさんとは、辺境警備隊ノエリア支部の隊員で、アルベリックさん付きの副官です。

「その通りだ、ラウール。王国軍司令部と警備隊本部から辞令を預かってきた。あいつにいつまでも副官でいてもらっては困る。正式に王国軍から警備隊へ籍を移し、そのままノエリアの副隊長の地位にいてもらう」

 なんだかわからないことばかりですよ。私は混乱して、質問します。

「あの、それはどういうことですか? リュファスさんはアルベリックさんが見回りなんかで留守にすると、代理をしているじゃないですか」
「隊長付き副官と副隊長では、権限が違う。知らなかったか?」

 私がうなずくと、ラウールさんは教えてくれました。
 要するに、副官は秘書のようなもの。指示を受けて事務業務を代行できても、隊長のかわりに作戦行動を命令できる立場にはないそうです。副隊長には、その権限があるとか。
 そして今、ノエリア支部に副隊長は空席。
 誰もがリュファスさんが副隊長にふさわしいと思っているけれど、彼はその地位にくことを渋っていたらしいのです。今まで副隊長がいないことをうやむやにしてこれたのは、前任のノエリア支部隊長が捕まった横領事件から、ゴタゴタが続いていたため。人手不足の辺境警備隊ノエリア支部は、日々の業務を優先せざるを得なかったのです。

「だが、そろそろ潮時しおどきだ。これも女神のおぼし召しかもな」

 ラウールさんは賛成なのでしょう、どこか楽しげです。

「ええ、それもこれもこの男が原因。アルベリック、お前が中途半端なままだから、部下もそうなるのだ。王都に行ったついでに、ここらで正式に身の振り方を決めてこい」

 私は話のところどころがわからず、三人の顔を交互に見ました。
 アルベリックさんは黙り、苦々しそうに言葉を呑みこんでいるように見えます。
 すると、ラウールさんが突然、豪快に笑い出しました。

「珍しくお前の負けだな、アルベリック。観念して行ってこい、カズハとともに王都へ」
「……簡単に言ってくれるな、ラウール」

 諦めたのか、アルベリックさんはそう言いつつもうなずいたのですが……
 ええと、私に選択権はないのですか?
 こうして私は、アルベリックさんと二人で王都に向かうことになりました。
 ノエリアは隣国との国境にほど近い、ジルベルド王国の西の辺境に位置しています。王都はノエリアの南東にあるそうです。
 しかし、東にも南にも高く険しい山があるため、直線で向かうことは不可能。王都へは、ノエリアの北側にある山岳地帯を、北西から迂回うかいして東へ進んだのち、南下していくのだとか。
 そして今回はグリフォンに乗って、空の旅です。
 この世界では一般的に、旅と言えば馬車。ノエリアから馬車で王都に向かうと、片道二十日はかかるという話です。でも、グリフォンならば五日と、かなり時間短縮になります。貴重なグリフォンは、要人やお金持ちしか使えないらしいのですが。
 へえ、すごいですね。そう感心していた私は、このあとに猛特訓が待っているとは夢にも思いませんでした。


 コリーヌ婦人のご子息サミュエルさんがノエリアに到着してから、今日で十日。毎日が目まぐるしく過ぎていきました。
 街に木枯らしが吹きはじめた今、私はセリアさんの指導のもと冬支度――ではなく、旅の支度をしています。
 木炭の備蓄、保存用の根菜、塩漬け肉やベーコンもどきの買い出しをする予定だったのに、何が悲しくて旅支度。革の防風コートをオーダーし、同じく革製の手袋やブーツも明日には届きます。軽量だけどとても丈夫な袋には、必要最低限の着替えを入れました。それから、万が一野宿となったときのための薄手の毛布。
 あとは、自家製スケッチブックや画材道具一式をまとめる、袋と革ひもを買いにいくつもり。これで旅支度完了です。
 そして仕事にも切りをつけなくちゃいけません。まずコリーヌ婦人への絵を仕上げて、依頼を無事に終わらせました。旦那様の絵をようやく納めることができ、一安心。
 コリーヌ婦人には、とても気に入ってもらえたようです。新たな絵を依頼してくださるつもりだとおっしゃるので、できるかぎり早くノエリアに戻ることを、約束してきました。
 それから最も苦労したのが、グリフォンに乗るための特訓です。
 グリフォンには何度か乗せてもらっているから、大丈夫……なんて軽く考えていたら、一蹴されました。なんでも、手綱たづなにぎるアルベリックさんに何かあったときのことを考え、一人でも落ちないで座っていられる必要があるとか。
 グリフォンは、乗り手に異変があれば、命令がなくても地上に降りるよう訓練されているのだそうです。それなのに私が勝手に落ちてしまっては、意味がない。そう言われれば、やるしかありません。
 ということで、はじまった訓練。しかし乗馬経験すらない私には、それは恐ろしいものでした。
 グリフォンに乗るところから、落第点をいただいたのです。そのあとのことはして知るべし、とだけ申し上げておきます。
 それから少ない時間をやりくりしてこなしたのは、鬼教官リュファスさんからの最後の授業。
 本当は私よりも忙しいはずのリュファスさんが、仕事の合間に、王都で貴人を前にしたときの心構えや、マナーなどを教えてくれました。
 あ、いえ……正式なマナーというより、『無難ない方』と言った方が正しいかもしれませんね。
 私はそんなバタバタとした日々ですが、ノエリアの街の様子は、相変わらずのどかで平和そのものです。私とアルベリックさんの王都行きは、またたく間に街の人たちに知れわたっていましたよ……平和でしょう?
 買い物や訓練の合間に出会う街の人々は、風邪を引かないようにとか、おいしい物を食べすぎてはだめだよとか、優しく声をかけてくれます。それから、いつ戻ってこられるのか、とも……
 にがお絵屋御用達ごようたしの紙屋のおじいちゃんは、ぎゅっと私の手をにぎりしめ、涙でうるんだ目をして別れを惜しんでくれました。
 そうそう、紙屋のおじいちゃんってば。
 私を見ては、うわごとのように『けが……』とつぶやくので、ちょっと不審に思って問いつめたんですよ。


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