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2巻
2-1
しおりを挟む第一章 冬支度は旅支度に取ってかわりました
ここはジルベルド王国の辺境の街、ノエリア。
この世界にはときおり、世界の壁を越えてくる異世界人がいるのだとか。そういう人は、『落ち人』と呼ばれています。
私、遠野和葉もその一人。二ヵ月ほど前のある日、私はマンホールの穴からこの世界へ落ちたのです。
しかも、もう元の世界には戻れないとのこと。それを知ったときはショックでしたが、この世界で生きていかねばならないので、沈んでばかりもいられません。
そこで私は得意の絵を生かして『にがお絵屋』をはじめ、本日も仕事に励んでいるのです。
今、私が描いている絵のモデルは、街へ興行に来ている芸戯団『エトワール』の団長、ディディエさん。
彼らがこの街に滞在するのは、八月中に行われる夏祭りの間のみ。その期間、ブロマイドがわりに彼らの絵を売る許可をいただいています。八月もあと一週間となり、残りの日数で私が描ける絵の枚数は、多くありません。精一杯描いて、売り上げを伸ばしたい所存です。
「いい男に仕上がってるか?」
「もちろんです、アルマさんの太鼓判をいただいてます」
今日の出番を終えたディディエさんが汗を拭きながら、観客にまじって絵を描いていた私のもとへやってきます。私の隣には、一緒に興行を見にきた肉屋の女将アルマさん。ディディエさんはアルマさんに挨拶をしてから、私の絵をのぞきこみました。
ディディエさんの技は剣舞です。エトワール芸戯団は様々な出し物をしている、いわゆるエンターテイメント集団。大道芸的な見世物から、演劇小屋のように物語を上演したり、ひとつの一座でいくつもの催しが楽しめるのです。
ディディエさんは、いつもは広場に張ったテントの中で芝居の合間に剣舞を披露しているのですが、今日は外で興行しています。
ということで、テントの中とは違う、人垣に囲まれて拍手を浴びるディディエさんを描いてみました。
「へえ、こういう絵もいいもんだな」
「ディディエさんに気に入ってもらえたなら、嬉しいです」
アルマさんも私の手元をのぞきこみ、うなずきます。
「昔から役者絵といえば、かしこまって立つ絵ばっかりで、つまらないからね。異世界流ってやつなのかな。カズハの絵は生き生きしていて、私も好きだよ」
「アルマさんってば、ほめすぎです」
「いいじゃないか。俺もカズハがノエリア一番の絵描きだって、保証してやるよ」
「ディディエさんまで。そんなことを言っておだてても、何も出ませんよ」
私がそう言うと、ニタリと笑うディディエさん。
「そいつは困ったな。宣伝にちょうどいいから、何枚か絵を融通してもらおうと思ったんだが」
なんと、私に絵を依頼してくれるつもりだったようです。
ディディエさんからの依頼は、もちろん二つ返事で引き受けました。そのあと二人とは別れ、私は上機嫌で自宅へ戻ります。
さっそく、新たな依頼のため、画材などの用意をはじめましょう。
自宅兼お店に着き扉をくぐると、そこにはお客さんがいました。
「あれ、アルベリックさん?」
「カズハ……戸締まりを忘れるなんて、不用心だ」
彼、アルベリック・レヴィナスさんは、この街を守る辺境警備隊の隊長さんです。
怒っているのかと思うほど厳しい顔つきで、碧の瞳を真っすぐこちらに向けているアルベリックさん。長身の彼にそんな表情で見下ろされたら、子供なら泣き出してしまうかもしれません。
でも本当は、頼りがいがあって優しい人なんですよ。
この世界へ落下した私を救ってくれたのは、彼でした。そして突然異世界に来て途方に暮れた私を、辺境警備隊で保護してくれたのです。それ以来、私はノエリアでお世話になっています。
いつも何かと気にかけてくれるアルベリックさん。今もそう。にがお絵屋が、鍵もかけずにもぬけの殻だったから、店にいてくれたみたい。
「ええとですね、出がけに慌てていて、鍵をかけ忘れちゃいました……すみません」
てへっと笑いながら、そんな言葉で済ませられるのは、ここが平和な街だから。
それに私のお店があるのは、警備隊宿舎のすぐ目の前! どこよりも安全な場所ですよね。
「そうだ、聞いてください、アルベリックさん! ディディエさんから大きな絵を依頼してもらったんです。興行先で宣伝に使いたいって言ってくれて」
「そうか」
にがお絵屋はまだ開店して一ヵ月ですが、お祭りで売っている芸戯団の役者絵の評判がよくて、滑り出しは順調。
それもこれもたくさんの人が支えてくれるおかげです。
「カズハ、ちょっといいかい? あら、隊長さんも来てたんだね」
そのとき、店にやって来たのは、二軒隣の宿屋『オランド亭』の女将セリアさん。
彼女は私にとって、はじめてのお客さんでした。それだけでなく、絵を宿に飾って宿泊客にも宣伝してくれています。
「どうしました、セリアさん?」
「うちの客に頼まれてね、ディディエの絵が一枚欲しいんだってさ。まだ余っているかい?」
「あ、一枚だけ残っていますよ!」
「そうかい、じゃあそれを売ってくれるかい?」
「はい、ちょっと待ってくださいね」
私は残っていた役者絵を取り出します。
実は、私の描いた絵には、不思議なことが起きるのです。
それは、異世界からトリップしてきた『落ち人』に与えられた、加護と呼ばれる現象。
なんでも、加護というのはこの世界を造った女神さまからの贈り物なんだそうです。
加護がどのように現れるかは人それぞれな上に、恒久的なものではないのだとか。私の加護は、涙に反応して『描いた絵が動く』というものでした。
この加護は、元の世界にいるお母さんの様子を垣間見せてくれたり、大切な友人のカーラさんやニコラ君を助ける術になったりしました。また加護がアルベリックさんに私のピンチを教えてくれたおかげで、彼に助けてもらえたこともあります。加護サマサマです。
ただ、絵が動いてお客さんを驚かせたら困ります。そこでお客さんにお願いしているのは、絵の前で泣かないでほしいということ。幸い、今のところは、絵が動いたという報告はありません。
私は絵を布で包むと、商品をセリアさんに渡します。
「思ったより商売がうまくいっているようで、安心したよ」
絵が売れると、誰より喜んでくれるセリアさん。私ににがお絵屋をやったらいいとすすめてくれたのは彼女でした。
セリアさんは、旦那様のラウールさんと一緒に、何かと私の世話を焼いてくれます。この自宅兼店舗を貸してくれたのも二人です。
「はい、ありがとうございます。今日は、ディディエさんからも絵の依頼があったんですよ」
「へえ、団長もよほどカズハの絵が気に入ったんだねえ。だけどあんまり根を詰めないようにしておくれよ?」
そばで聞いていたアルベリックさんも、セリアさんの言葉にうなずいています。
「そうそう、カズハの好物のパイが焼き上がったところだった。あとで食べにおいでね」
「はい!」
セリアさんの特製パイを楽しみに、私は作業に戻ったのでした。
そして迎えた九月。
普段は穏やかなノエリアをにぎわせた夏のお祭りが終わり、芸戯団や大道芸人たちは、次の街へ向かう準備をはじめています。
祭りの片付けに追われる人で、ごったがえす広場。
ただいまアルベリックさんたち警備隊員は、興行終了後の立ち入り検査のために、芸戯団の方々の荷物を見分中です。違法なものを積んでいないか、犯罪者を匿っていないかを確かめて、犯罪を抑止しているのだとか。
私はというと、片付け中のエトワール芸戯団に別れの挨拶に来ました。エトワールの大ファンである肉屋のアルマさんも一緒です。
彼らが次にこの街に来るのは来年だというのですから、寂しいかぎりですね。
「ディディエさん、本当にお世話になりました」
私が頭を下げると、ディディエさんが笑って答えます。
「お互いさまだ。あんたの絵のおかげで今年の興行はいつも以上に大入りだった。最後に描いてもらった絵も、見ごたえのある立派なものだ」
「ほめすぎですよ、ディディエさんってば。こちらこそ、たくさんお仕事をさせていただけて、助かりましたとも。ぐふふふ」
おっと、品のない笑い声がこぼれてしまいましたね。
この一月、仕事が順調だったのは、ひとえに快く絵を描かせてくれたエトワール芸戯団のおかげです。
祭りの期間に描いた彼らの姿絵はよく売れたので、しばらくの間、私の生活は充分に潤うでしょう。ノエリアは、短い秋が去ると雪深くなると聞いています。厳しい冬を乗り切るための資金にさせてもらうつもりです。
そんな季節が来る前に私が楽しみにしているのは、牡丹鍋を食べること! 姿形が猪によく似た獣がいると、ついさっきアルマさんから教わったんですよ。今月末には群れが狩れるらしいので、旬のきのこと野菜を鍋に放りこんで……
ふふふ、牡丹鍋パーティーを開くのが、楽しみです。
「おい、カズハ、ヨダレが垂れてるぞ」
「はっ、ヨダレ?」
慌てて袖で口元を拭い……って、ヨダレなんて垂れてません! どうやらディディエさんにからかわれたようです。
「カズハ……あんたも年頃なんだからさ、だらしない顔しないの」
アルマさんには呆れられちゃいました。
湯気が立つアツアツの鍋を想像したら、顔の筋肉がゆるんでも仕方ないと思いませんか。
それはともかく、ディディエさんにはこれからも末永くお付き合いしていただきたいので、今後のお話をすることに。
「ディディエさんたちは冬の間、王都に滞在されるんですよね?」
「お。そうだった、ここに書いてあるのが俺たちの定宿だ。王都に来ることがあったら、いつでも訪ねてくれよ。宿の親父は古い知り合いだから、手紙なんかも取り次いでくれるはずだ」
国の辺境にあるノエリアと王都は、とても遠いのだと聞いています。
「王都に行くことはないと思いますが、お手紙は必ず書きますね」
ディディエさんから受け取ったメモには、王都の宿屋の名前と住所、簡単な地図が書かれていました。
最後に依頼された絵は、昨日のうちに渡しました。描いたのは芸戯団の顔でもあるディディエさんと、看板役者ファビアンさんの二人。
時間があまりなかったので、描きこみが甘いことが悔やまれます。
しかし絵が芸戯団の宣伝となり、ほかの街でも興行に足を運んでくれる方が増えれば、絵描き冥利に尽きるというものです。
「興行先でカズハの絵が欲しいって客がいたら、紹介してやるよ」
「え、いいんですか?」
「ああ、持ちつ持たれつってやつだからな」
「ありがとうございます、ディディエさん!」
「へえ、よかったじゃないかい。カズハの絵はびっくりするほど上手だからね。王都に出てもっと大勢の人の目に触れれば、王国一の人気画家なんてのも夢じゃないよ」
「え……あ、あはは、そうですね」
アルマさんも喜んでくれましたが、歯切れが悪くなってしまった私の返事。二人とも不思議に思ったようです。
「なんだ、カズハには野望がねぇのか?」
「それはもちろん、ありますよ。でも……」
私は絵を生業としたくて、美大で絵を学んでいました。認められたい、自分の実力で成功したいという野望は、持っています。
だからといって、ここノエリアの街から出て、王都で画家としてやっていくなんて……。言われるまで、まったく想像していませんでした。
お店こそ持っていますがお客さんはさほど多くありませんし、役者絵が売れたのは芸戯団の人気のおかげ。まだまだ駆け出しです。
「ここに落ちてきて二ヵ月。私はようやく、ノエリアを新しい故郷にしようと思うことができたんです。まずはここでしっかりと根を張りたい。心から、ノエリアが故郷だと言えるようになりたい。そうしたら、たとえどんな場所に行っても、私はがんばれると思うのです」
そう伝えると、二人とも私の気持ちを理解してくれたみたい。
「カズハは若いから、時間はたっぷりある。体力勝負の俺たちの商売と違って、絵描きは時間に限りがあるわけでもないしな。だが、産まれたばかりの赤ん坊も半年もすれば寝返りを打つし、一年経てば歩く。あっという間だぜ? 絵を描いて生きていくと決めているなら、チャンスは逃さないようにしろよ?」
「はい」
ディディエさんらしい、ぶっきらぼうだけど優しい忠告にうなずきます。
「故郷があるってのは、幸せなことだ。俺たちみたいな生活をしていると、忘れがちだがな」
ディディエさんは少しだけ真顔になって言うと、仲間のもとへ戻っていきました。
ノエリアに来たときと同じように何台もの荷馬車を連ねて、エトワール芸戯団一行がゆっくり動き出しました。
街の人々が別れを惜しんで街道沿いを埋め、手を振って役者たちを見送ります。エトワールで一番人気のファビアンさんの馬車に追いすがるのは、若い女性たち。その様子には正直驚きましたが、人気者の証ですね。
長い時間をかけて馬車が街を出るまで、私も手を振って見送ったのでした。
気づけば九月も中頃。ときおり肌寒い風が吹きはじめました。
ノエリアは真夏なのに涼しくてずいぶん過ごしやすい土地だなと思っていましたが、やはりその分、冬は長く厳しいのだそうです。
最初、ノエリアに雪が降ると聞いたとき、それはもうウキウキしましたよ。
もしかしてスキーができる? なんて能天気な発言もしたり。
でも、この世界には電気もなければ、ガスも灯油もありません。床暖房など論外。
私は雪国育ちではありませんから、すでに恐怖を感じています。
ああ、私、春を迎えられる自信が、まったくもってありません。
……ということで、私はオランド亭にて絶賛修業中なのです。
暖炉の火の入れ方から、夜間の火の管理、食料の貯蔵方法なんかを教えてもらっています。知らなければ、生きていけないのです。もし水が凍ってしまったら、今の私では飲み水を確保できません。
最悪、氷を舐めれば……と言ったら、セリアさんにため息をつかれました。
これまでもセリアさんたちにおんぶに抱っこでしたが、冬が来る前にもっと自分でなんとかできるようにならなければ。四六時中オランド亭でお世話になっていては、自立のために店舗兼自宅を借りている意味がありません。
そんなこんなで慌ただしく冬支度をしているのですが――
実は最近、にがお絵屋の仕事が行き詰まっているのです。夏の間お店が好調だったのは、エトワール芸戯団のおかげ。彼らの人気に便乗させてもらったにすぎません。
だから今日は、これから何を売りにしていけばいいかを思案中。
たくさんのスケッチブックから最も古いものを手に取り、その中にあるお母さんの絵を広げます。
私がこの世界に来たときに持っていたのは、たった一冊のスケッチブックと油絵の具の道具一式。あとはケロちゃん財布くらいで、まさに着の身着のままでした。
そのスケッチブックに描いてあったお母さんが、ここに来てからの心の支えでもあります。
元の世界で最後に会ったお母さんを描いたスケッチ。キッチンで朝ごはんを作ってくれている、後ろ姿です。
こんな風に何か悩むときは、いつもこのスケッチブックを手にしてきました。今日もそう。
お母さんの絵が動いたのが、私にとって最初の加護でした。
絵が動き、帰らない私を案じるお母さんの姿を見たことで、現実を突きつけられたのです。
異世界に来てしまった私はもう、母と会話を交わすことすらできないと。
「……そういえば、あれからぴたりと動かないままだね、お母さん」
筆跡がにじまないよう、スケッチブックの端を指で撫でてから、そっと私の横に置きます。お母さんに見守ってもらうみたいに。
見守る……というより、発破をかけられそうな気がしなくもありませんが……
さて、にがお絵屋の今後の方向性を考えようかな。
そうしてすぐに、真っ白な紙にアイディアを書きはじめます。
そのうちに、なんだか眠くなってきました。ちょっとだけ、と机に突っ伏します。気づけば、窓から入る秋の日差しの心地よさで、まぶたがゆっくり閉じていました。
――すると、懐かしくて泣きたくなるくらい大好きな声が、聞こえます。現実では会えるはずがないから、これはきっと夢です。
『──ねえ、和葉』
いつの間にか膝を抱えていた私。見上げるとすぐそばに、声の主が立っていました。
「お母さん!」
『なあに、そんな泣きそうな顔して』
くすくす笑うお母さんに手を伸ばします。なのにお母さんは、すうっと遠くに逃げました。
──ああ、私はきっと夢を見ているのだ。そう悟りました。
「行かないで、お母さん」
『あら、お母さんは、どこにも行かないわよ?』
そう言っておどけてみせるお母さんは、私の知る通りです。
でも現状は、帰れない私と待ちぼうけのお母さんから変わりません。思わずしゅんとしました。
『こらあ、元気出しなさいよ。悩みごとがあるの?』
「だって……寂しいよ」
『大丈夫、周りをよく見て。和葉は昔から、人に恵まれてるよ』
「でも、お母さんがいません。それに、仲よくなってもすぐにお別れで……」
お母さんは、少しだけ困ったように微笑みます。
『別れをくり返すことが、そんなにつらい?』
お母さんの言葉で、ノエリアから引っ越したカーラさんやニコラ君、そして次の興行へ向かったディディエさんたちを思い出します。
「つらいよ。だってこの世界では、一度離れたら再会は簡単じゃなくて……」
日本では、会えなくても、いつだって電話で声が聞けた。でも、元の世界のようにはいかない、この世界。サヨナラがここではどんなに重いことかを実感してばかり。
ノエリアに根づきたいと言ったことは、決して嘘ではありません。でも、それは不安だったから。ノエリアを離れたら、ここは私にとって未知の世界だから。
私はただ、動くのを恐れているだけかもしれません。
ノエリア――この小さくて優しい世界を、元の世界のように失いたくないのです。
『チョーップ!』
突然、お母さんの右手が、容赦なく私の脳天に振り下ろされました。
「いたっ! ひどいです、お母さん!」
攻撃された頭をさすっていると、お母さんはしたり顔になります。その表情は、二ヵ月の空白を感じさせないくらい、いつも通り。
すごく嬉しいのにジンジンと痛くて、目に涙がにじみました。
そんなお母さんの姿は、次第に薄れていって……
夢でもいい、もっと話がしたい。焦る私に、お母さんが言います。
『大丈夫。和葉はいつだって自分の意思で走り出してたじゃない?』
「だって……この世界は、お母さんもお父さんもいなくて! どこに向かって走ればいいのかわかりません、お母さん」
行かないで──お母さん。
追いすがろうとしても動かない足が、もどかしい。
そう思っていたら、誰かが私を呼んでいる気がしたのです。
「……ハ、カズハ、起きろ」
肩を揺すられて、机から顔を上げました。
目の前には、心配そうに私を見るアルベリックさん。
「あれ……どうして?」
「見回りのついでに寄った」
店の扉に鍵もかけずにうたた寝している私が窓から見えて、心配してくれたようです。大丈夫ですよと言おうとしたところで、袖口が濡れているのに気づきました。
不思議に思っていると、椅子に座る私の横にアルベリックさんが膝をつき、手袋を外した手を伸ばしてきます。その指が私の頬を拭うように撫でて……
「寝ながら泣いていたのか」
「……え?」
そこでようやく私は、自分が泣いていたのだと自覚しました。
「悲しい夢でも見たのか」
「お母さんの、夢です……」
思い出すお母さんの姿。そして言葉……
そのとき、私たちのすぐそばにあったスケッチブックが、突然光り出したのです。
開いてあったのは、お母さんを描いたページ。きっと夢を見て流した涙に、加護が反応したのでしょう。
私とアルベリックさんが見守る中、お母さんの姿がスケッチブックから浮かび上がりました。
スケッチブックに描いてあったお母さんの後ろ姿が、半透明な立体映像のように動きます。そこはキッチン。お母さんはごはんを作っている手を止めて、ふとこちらを向きました。
心臓が、懐かしさと愛しさでおかしくなりそう。
「……お母さん、少し痩せた?」
思わず、すがるように手を伸ばすと……アルベリックさんの手に止められました。以前、絵に触って加護を中断させてしまったことがあります。失敗を阻止してくれた彼の手を握って、手元に引っこめます。
『……和葉』
お母さんに呼ばれ、私はびくりと震えます。
夢にまで見た母の姿が、目の前で動いているのです。すがって泣いて、離れたくないと叫びたい衝動を、抑えられなくなりそう。
浮かび上がった半透明のお母さんは、キッチンのカウンターに置いてあった写真立てを手に取り、見つめました。その表情は優しく、でも悲しみもにじんでいます。私の方からは見えませんが、そのフレームにおさまっているのは、きっと私。
それを証明するかのごとく、お母さんが話しはじめます。
『和葉、お母さんは知ってるよ。和葉には、どんな困難も乗り越えられる力があるって』
――どこにいるの、早く帰ってきて。そんな言葉が出るかと思っていました。
だけど、まるで夢の続きのように私を励ます、お母さん。
やつれてしまったお母さんを……私の方が励ましたいのに──
『お母さん信じてるから』
夢同様、右手を振り下ろしチョップの仕草をするお母さん。その姿が、徐々に薄れていきます。
一筋の涙で現れた加護は、ほんの短い逢瀬で終わってしまいました。
「はは、さっき見た夢でも、お母さんにしっかりしろと言わんばかりに、チョップされちゃったんです。しかも加護でも、同じようなことを言って……」
笑っているのに、再びこぼれそうになる涙。
スケッチブックを抱きしめてむせぶ私の頭を、アルベリックさんは黙って撫でてくれます。
帰れない悲しさを埋めるように、加護が見せてくれるお母さんの姿。
最初こそ、その現象に驚いて恐れ、逃げ腰でした。
でも今は……違う。
家族の動く姿を見ると、実際には会えないのだと思い知り、引き裂かれるかのように胸は痛む。けれど、一方的でもこうして家族を見られるだけ、加護がないよりずっといい。
アルベリックさんの手の温もりを感じながら、改めて加護に感謝するのでした。
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