依存の飴玉

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「はいはい、どなたさ……何か用ですか。下らない用なら帰って下さい」
「うわっ、冷てぇな」

 土曜の午後、ライブ配信を見終えてからやる事もなくだらだらとテレビを見て過ごしていたらインターホンが鳴って、なんの気無しに玄関を開けたら坂原が立っていた。
 紺色の半袖ポロシャツに膝下丈のカーゴパンツ、それにサンダルを合わせた格好は完全に休日のオッサンだ。だらしなくはないが、年齢よりも老けて見える。スーツ姿はあれだけシャキッとしているのに、この男には好きな相手に会う為に着飾るという価値観は実装されていないのか。
 じろじろと無遠慮に見た目を測る俺に気付いたのか、坂原は軽く頬を掻きながら「付き合ってから失望されんのやだし」と自覚はあると言わんばかりに顔を赤くする。

「あなたと付き合う気は全く無いので」
「今はそうなんだろうな」
「これからも、です。根っからストーカー気質ですね、あなた」
「いいな、その『あなた』って。ちょっとドキドキする」
「お帰り下さい」

 ノブを掴んでドアを閉めようとして、坂原が慌てたように片手で反対側のノブを掴んで止めた。

「待った待った、なぁ、ただデートに誘いに来ただけなんだって」
「行かないのでお帰り下さい」
「そこをなんとか」

 俺は両手で足を踏ん張って引っ張っているというのに、片手の坂原がじりじりドアを開いていく。
 そこまで自分が非力だと思ったことは無かったのだが、こうも俺の周りの人間の方が強いのが続くと悔しくなってくる。筋トレでもしようか。

「嫌です。お断りです。全く興味がありませんしそれ以上の時間の無駄を知りません」
「一回デートしてくれたらもう俺からは付き纏わない、って言っても?」

 語彙を尽くして誘いを断る俺に、坂原は苦笑を浮かべながらドアの隙間に靴先を捻じ込んで閉められなくしてから手を離した。ふー、と息を吐いて手をにぎにぎと開閉する仕草に、涼しい顔して結構本気で引っ張っていたらしいのを察して少し溜飲が下がる。
 それから坂原の言葉を反芻し、本当に大人しく諦めてくれるのなら条件としては悪くないか、と考えた。

「……三十分だけなら」
「移動時間含めて三時間」
「どこまで行く気ですか。俺の準備も含めて一時間」
「駅辺りまでぶらっと歩いて軽く飯食うだけ。土曜で店も混んでるだろうから予備時間を多めに計上してる。二時間半でココまで送り届ける」
「二時間」
「なら筑摩が準備出来てから二時間」

 さすがに営業成績ナンバーワンの男は手強い。無茶な要求を押し通そうとすればまた俺が扉を閉めて全拒否の姿勢に戻るのを察して、俺がネックに思っている『何処へ』『何をしに』『どうしてそれだけ時間が必要なのか』を全て開示してきた。
 遠出する訳でもなければ、人目を避けるわけでもなく、ただご飯を食べるだけ。
 それ一度で煩わしい関係が清算出来るのなら、と迷った瞬間を狙ったように坂原が一気にドアを引いてきて、勢いのまま俺もつんのめるように外側へ飛び出した。

「よっと。……あー、やっぱすげーいい匂い」
「ちょ」
「生き返る~~~」
「俺を吸うな!」

 バランスを崩した俺の身体を抱き留めた坂原はすかさず俺の頭に顔を寄せてきたかと思えばそこで深呼吸をし始めて、その仕草が完全にペットを『吸う』ものだったので呆れながら顎を下から押しのけた。

「後生だ、もうちょっとだけ」
「坂原にはクロがいるでしょう」
「お前の匂い、寝ても覚めてもずっと頭から離れねんだわ。正直これ以上駄々捏ねるんなら一回ぶん殴って大人しくさせてから持ち帰っちまうかなって思う程度にキてっから、大人しくデートしてくれると助かる」
「っ……」

 すーはーすーはーと息荒く俺の頭頂部を嗅ぎながら坂原は玄関の中に押し入ってくる。後ろ手でノブを持ってドアを閉めた彼は人好きしそうな爽やかな笑みを浮かべながら空恐ろしいことを口にして、けれど俺はその犯罪じみた内容ではなく彼の執着心を感じて背筋が震えた。
 寝ても覚めてもずっと頭から離れない。
 そんなことを言ってくれた人間は過去に一人もいなかった。俺が言うばかりで、一方的に重く愛するばかりで、返されたことなんて無かった。
 自分が酷く動揺しているのが分かる。握った手が震えて、勝手に俺を吸い続ける坂原を止めなければと思うのに力が入らない。

「そ、……そんなに、俺が……好き、ですか」
「ああ」

 即答に胸が締め付けられる。
 嬉しい。
 坂原に対して一片の恋愛感情も無いのに、そう言われると泣きそうなほど嬉しかった。
 ぐらぐらと俺の中の天秤が揺れる。
 好きだけれど、好きになってはくれない幸。
 好きではないけれど、好きだと言ってくれる坂原。
 普通なら比べるまでもない二人を『どちらに依存しようかな』という傲慢な秤に掛けている自分の内心を軽蔑するのに、今確かに嬉しくて震えている手が坂原の腕を離せない。やめろと突き飛ばせない。

「俺、本当に……すごく、依存が……すごく、本当に、重くて」
「だからそれがなんだってんだよ。前にも言ったろ、俺の方が重いから安心して依存しろ」

 言い切る坂原に、傾きかける。
 だって、幸は依存出来るけれど、それはいまだ損得勘定で許されているだけで、受け入れてもらえているわけじゃない。坂原が俺の全てを受け入れてくれるというなら、そっちの方が安心出来るんじゃないか。
 幸は金と住む場所さえ提供してくれれば誰でもいいんだから、俺じゃなくたっていいし、……近いうちにきっと俺を捨てるから。
 ユキトと彼の店の店長という人が幸を『普通の生活』へ導いてくれるから、俺の所よりもっと良い居場所があると気付くから。
 そうなったら俺はまた一人だ。自分の心の安定を図る為に予備を作っておくことは悪いことだろうか。
 俺だってどうせ、幸じゃなくたって──。

「ただい、…………何してんの?」

 ガチャリ、とドアが開く音がして、ハッと正気に返った時にはもうそこに幸がいた。
 俺は坂原に抱き締められたままで、坂原は背を丸めて俺の首筋に鼻を付けて深呼吸していたところから頭を上げて不機嫌さを隠しもしない顔で振り返った。

「ああ、同居人がいるんだっけ。ごめんね、玄関先で」

 笑みを浮かべもせず、けれど坂原は声だけは愛想よく幸に謝る。
 慌てて離れようとする俺をがっちり抱き締めて身動きさせず、僅かに横に避けて幸へ室内へ入るよう促した。

「いやだから、何してんだって」
「会えて嬉しいから抱き締めてるだけだ。君になにか関係あるか?」
「関係とかの問題じゃ……」
「分かった、なら俺達が外へ行く。筑摩、着替えてきて。俺はその間に店の目星つけておくから」

 すい、と俺の頬を撫でて笑いかけてきた坂原はあっさり俺を放すと、そう言って幸と入れ違うように外へ出ていく。
 再び閉まったドアはカチャンと静かに金具の音をさせて、室内に取り残された俺と幸の間には気まずい沈黙が流れた。

「あ……と、あの、幸、そういう訳だから、俺これから二時間くらい外出してくるから……」
「は?」

 坂原があの格好なのだ、俺もめかしこむ必要は無いだろう。とりあえず外行き用の襟のヨレていないTシャツとデニムを履けば十分かなとさっさと着替えるつもりで自室に戻ろうとすると、幸に肩を掴まれた。

「俺、帰ってきたんだけど」
「え?」
「俺が帰ってきたのに、一人でどこに行くって?」
「……え、っと」

 質問の意味は分からないが、幸が俺に何を言いたいのかは分かる。出掛けるなと言っているんだろう。それは分かるけれど、どうしてそんなことを言うのか、それもそんな眇めた目で睨むようにするのかが分からない。

「行かない方がいい、ですか?」

 一応間違っていないか確認する為に訊いてみると、チッ、と小さな舌打ちが返されて閉口する。不機嫌になったり拗ねたりすることはままあれど、こんな態度を取るのは珍しい。どうして、と考えてから、あぁと気付く。
 休日は二人で過ごして、と条件を出したのは俺だ。土曜に幸がバイトに出ているのはそれを俺が許したからで、バイト以外の時間は一人で外出することすら許されない幸からすれば、言いつけ通りまっすぐ帰宅してきたのに俺が一人で外出するのは不公平だと感じるんだろう。

「俺の方から頼んだことなのに、失念していてすみません。後日にしてもらいますね」

 外で待っている坂原にリスケジュールを頼まなければ、と幸の横を抜けようとすると、俺の肩を掴んだままだった幸の指が肉を抉るつもりかというほど強く食い込んできた。

「イッ……」
「後日じゃなくて、断って」
「はい?」
「行く必要無いでしょ。後日じゃなくて、行かない、って言うんだよ」
「いえ、それはちょっと、事情が……」
「日高」

 じっと見つめる目が寄ってきて、唇が触れる寸前で止まる。
 俺は思わず息を詰めるのに、幸は俺の唇にわざと吐息を掛けてにっこりと笑った。

「日高が好きなのは誰?」
「……あなたです」
「そう、俺。日高の大好きな俺。その俺が行くな、って言ってるんだよ。行かないよね」

 ね、と拒絶を許さない目に強制され、頷くと唇が触れそうなので瞬きで肯定を返す。
 すると幸はぱっと離れて、「じゃあそう言って」とドアノブに手を掛けた。
 開いたドアの外では坂原がスマホを使いながら待っていて、視線を上げた彼は俺が着替えていないのを見て訝しげに眉を潜めた。

「どうした筑摩。まさかその格好で行くつもりじゃ……」
「すみません、今日はその、行けなくなってしま」
「行きたくないから行かないんでしょ、日高」

 言い訳しようとする俺の言葉にかぶせるように幸の上機嫌な声が重なり、坂原の視線が一瞬幸に向いてから俺に戻ってくる。
 そんな目で見るな。
 事態を察したらしい坂原は目元をヒクヒクと攣らせて俺を睨むが、幸を睨んだりはしない。好きな相手に弱いのは同じ性質を持つ彼も理解出来るからだろう。

「行かねぇの?」
「はい。すみません」
「じゃあ、あの条件も無しな」
「…………条件?」

 条件って何、と幸が口を出してくるのを横目に、坂原は一歩こちらへ踏み込んできたかと思えば俺の首の後ろを掴んで唇をぶつけてきた。

「……っ!?」

 じゅ、ちゅ、っと大袈裟な音を立てて唇を吸われ、一瞬呆気に取られてから慌てて暴れると坂原は俺の手を掴んでそこにも口付けてくる。

「さ、坂原!」
「月曜からは昼飯も仕事上がりも付き纏うから覚悟しとけよ。絶対ぇ諦めねぇからな」
「イ……ッてぇ!」

 がじ、と手の甲に噛み付かれたまらず痛みに叫ぶと、坂原は忌々しげにそこを舐めてから俺を突き飛ばすように放して荒々しく玄関から出て行った。
 じんじんと痛む手の甲を押さえて撫で、よく見るとうっすら歯形が付いていた。なんて奴だ。
 半開きだったドアを掴んで閉め、厄介な男だとため息を吐くと俺以上に呆然としていたらしい幸がやっと目の前の出来事が飲み込めたみたいに瞬きした。

「なに、……なんなの、あいつ?」
「お見苦しい所を見せてしまってすみません。俺も迷惑しているんですが……」
「は? いや、迷惑って、日高、なんでそんな冷静なの? さっきあいつ、日高に」

 男が男にキスする所を目の当たりにしたのが相当衝撃的だったのか、幸は常になく狼狽えたように身振りを大きく無意味に手を振り回している。男女ですら人前でキスすることなんて滅多に無いのだから、同性同士なら更に見る機会なんて無いだろう。
 可哀想なほど困惑している幸を宥めたいが、今俺が彼に触れれば怖がらせてしまうかもしれない。何せ、俺は幸を好きなのだ。同じことをされるかも、と怖がらせてはいけない。なので肩を竦めて辟易としているポーズを作り、なんでもない事のように自室へ爪先を向けた。

「もう二回……あれ、三回目でしたかね。あの人、隙あらばああいう事をしてくるんですよ」

 ハハ、と笑って流し、部屋のベッドに座ってまたテレビを見ようと視線をそちらへ向けると、遮るようにその前へ幸が立って俺を見下ろしてきた。

「あんな事するような奴だって分かってて、一緒にどこか行こうとしてたわけ?」
「今日一度デートしたらもう付き纏わない、と言われたので。……まぁ、不意になってしまいましたが、幸が嫌というなら仕方ないです」
「デート……それがさっき言ってた条件ってやつ? だったらちゃんと説明してくれれば」
「説明しようとしても聞く耳持たなかったでしょう」

 黙殺したのはあなたでしょう、と首を傾げると幸は言葉に詰まったように唇を引き結んだ。暗い表情の幸に少し言い過ぎたかと反省し、「大丈夫ですよ」と笑顔を作る。

「あの人がしつこいのは前々からなんです。それに、さすがに同僚の前でああいう事はしてこないでしょうから、周りをウロウロされる頻度が上がるだけなら俺が気にしなければいいだけです」

 だから幸が気に病む必要はない、そう説明するのだけど、幸は苦虫を噛み潰したような表情でますます肩を落としていく。

「俺が我儘言わなきゃ、もうあいつ、日高のこと諦めてたってこと? 俺が余計なことしたから」
「幸。あの人の迷惑行為は幸の所為じゃありません。デートしたら諦めるというのも嘘の可能性がありますし、幸が気にする必要ありませんよ。忘れて下さい」

 ね、と笑いかけるが、幸の表情が好転する様子はない。
 切り替えの早い彼らしくなく、よほど坂原の行動が衝撃的だったのだと思うと坂原に怒りが湧いてくる。男に対して嫌悪感か恐怖心か、どちらか分からないが触れられることに抵抗感があるのは確実だった幸が最近は自分から抱き付いてくれるくらいになったというのに。
 あいつのせいで幸がまた俺に警戒するようになったら恨むぞ、と思いながら視線を外して話を終わらせようとすると、幸が膝を折ってしゃがむ素振りを見せた。縁に腰掛けるのかと避けようとすると、顔に影が落ちてくる。

「……なに、この手」
「え、いえ。どうしました?」

 触れる寸前で顔と顔の間に手を差し込むことに成功し、俺の手のひらに幸の柔らかい唇の感触が触れて一気に動悸が速くなった。
 細められた幸の目が目の前にある。
 あぁ、瞳の色、本当綺麗だな。つやつやクリクリで、飴玉にしたらきっととても甘い。
 小さい頃、母と姉と一緒に作ったべっこう飴を思い出す。市販の薄い黄色じゃなくて、煮詰めすぎてカラメル色になったほろ苦くて甘い甘い飴玉。姉は「絶対黄色のを作るんだ!」と奮起して、一時期は毎日おやつがべっこう飴だったんだっけ。
 結局一週間くらいで姉はレモン色のべっこう飴を作るのに成功したけれど、俺はそれより失敗作として姉がくれていた濃い茶色のやつの方が好きだった。
 幸の目玉は、舐めたらどんな味がするんだろう。

「なんであいつのは受け入れて、俺は避けるの」
「はい?」
「好きでもない奴にキスされて可哀想だから、俺がキスしてあげるって言ってんの。手、どけて」

 幸の言葉をそのままでは上手く飲み込めず、三回ほど脳内で反芻してから「いやいや」と苦笑した。

「大丈夫ですよ。特に気にしてませんから」
「気にしてない?」
「はい。彼に何をされようと特に何も思いません。だからそんな気遣いは不要ですよ」

 にこ、と笑いかけるが、やはり幸は目を眇めたまま何か思案しているように黙っている。
 同情でキスなどされたくないし、そもそも幸がそんな事を言い出すなんて何がどうなっているのか。
 幸の態度がおかしい理由を探して必死に頭を働かせ、もしかして、と幸の顔を抑えている手を外した。

「もしかして、俺が心変わりすると思ってるんですか?」

 問い掛けると幸はもっと表情を険しくして、けれどその通りだったのか下唇を噛んだ。
 かわいい、と心の中で呟きながら幸の肩を優しく叩き首を横に振る。

「無いですよ。幸が俺の傍にいる限り、幸が俺の視界の中にいる限り、俺の一番はあなたですから」

 そう、その限りでは。幸が俺を捨てたらそうではなくなるけれど、それは幸には関係ないことだ。

「幸が俺を必要とする限り、他の人に心変わりしたりしません。俺から幸を捨てたりするような無責任は絶対にしませんから、そんな心配は二度としないで下さいね」

 無用な心配を掛けたことが申し訳なく、大丈夫ですよと安心させるように言い切って笑いかけた。

「……俺が傍にいる限り」
「はい」
「じゃあ、俺がここを出てったら?」
「………………え?」
「俺がここを出て一人暮らしする、って言ったら、俺のこと好きじゃなくなるんだ?」

 わざと湾曲した言い方をしたのに、さとい幸は明言しなかった部分を探り当てて俺に突きつけてくる。

「……そ、れは、だって、ここから出て行くってことは、俺を捨てるってことですし」
「出て行くだけで捨てることになるの? じゃあ一人暮らししてる人はみんな親を捨てたの?」
「それは全然話が違う……」
「違わない!」

 急に怒鳴られて俺がビクッと身体を震わせると、幸は俺の顎骨を掴んで間近で笑った。

「俺、出てく」
「は……?」
「この家を出て行く。前から誘われてたんだ、社員寮用意するから引っ越さないか、って。でも日高を捨てるわけじゃない。日高を捨てるつもりで出て行くんじゃない。ただ、ちゃんと自立したいだけ。普通の『人間の大人』として生きたいだけ。メッセージは今まで通り返すし、出退勤の連絡もするしバイトのシフトも教える。土日はこっちに遊びに来る。……日高なら、俺が言ってる意味、分かるよね?」

 俺の顎を指でなぞってからすりすりと頬を撫でた幸は、ついでとばかりにそこに軽く口付けてきた。ちゅ、と耳元で鳴るリップ音にぞわりと鳥肌が立つ。
 ここから出て行くけれど、関係は今まで通り。
 ──それはつまり、自由を得た上で俺を金蔓のままにするという宣言に他ならない。
 俺を絶望の淵に立たせておいて、笑う幸の顔はそれでも綺麗だ。
 こんな時くらい醜悪な表情をしてくれれば目が覚めるかもしれないのに、レースカーテン越しに部屋に入ってくる柔らかな午後の日差しを受けた幸はまるで聖母のような慈愛に満ちた優しい表情で俺を見つめてくる。
 ……慈愛。そう、我が子を心配して思い遣るような気持ち。きっと幸からすれば、俺を捨てないのはそれなのだ。自分を好いていて、自分がいなくなれば壊れてしまう俺を心配して、気遣っているつもりなのだ。そうだ、金蔓とまでは思っていないに違いない……。

「あ、でも、お小遣いは今まで通りちょうだいね? 一人暮らしって初めてだし、滞納してた税金関係とかで最初は生活苦しくなるだろうし」
「……はは」

 まんま金蔓だった。
 乾いた笑いを溢した俺に、幸は首を傾げてパチパチと瞬きする。

「嬉しくないの?」

 嬉しい? ああ、好きな人に気遣ってもらえて?

「嬉しいですよ。……ええ、とても」
「えー、反応薄いなぁ。なんか予想外。もっとこう、わーってなってぎゅーってしてくるかと思ってたのに」

 ワーッと泣いてギューと縋ってくるかと、って? その通りだ。出来るならそうしたい。それで幸が撤回してくれるならそうする。けれど、幸にそれをしても響かないだろう。ただ厄介だ面倒だと思われるだけ。しても意味が無いのだから、する必要を感じない。

「……引っ越しはいつ頃するんです?」
「んー、ユキトはいつでもいいって言ってるし、日高が良いって日付でするよ。捨てる時は三ヶ月猶予が欲しいって言ってたけど、捨てるわけじゃないしそんなに要らないよね?」
「そうですね。俺も休みの日なら手伝えますが」
「あ、じゃあ明日とか? ちょうど日曜だし、ユキトも店長も出勤してるからどっちかは部屋の鍵持ってると思う」

 ちょっと電話してみるね、と胴に掛けたままだったボディバッグからスマホを出した幸の手を思わず掴んでしまって、けれどそれを見た幸はコロコロと笑って俺の手の甲を撫でた。

「急過ぎる? ならしばらく平日は終電までこっちに来ようか?」

 幸の表情に面倒そうな色は無い。俺を気遣う気持ちは本当なのだ。嫌われてはいない。捨てられるわけじゃない。……ただ少し、遠くへ追いやられるだけ。
 引き攣れる胸を呼吸で落ち着け、表面上は何事も無いように笑顔を作って手を引いた。

「いえ、大丈夫です。……そうですね、俺も、そろそろこの悪癖をどうにかした方がいいですし」
「んー? 悪癖って、依存したいって気持ちのこと? 別にそのままでいいんじゃないかな。俺は嫌じゃないし」

 そりゃそうだろう、この強すぎる依存心が無ければ俺が金を渡してまで男を飼ったりしないんだから。
 心に黒いもやがかかるが、幸の笑顔を見るとすぐさま浄化されてしまう。
 言っていることは酷いはずなのに、おそらく幸はその事に全く気付いていないから。純粋にやりたいことをやって、言いたいことを言っているだけだから、憎みきれない。悪意があって俺を追い込んでいるなら切り捨てられるのに。

「──はい、はい。分かりました。では明日、よろしくお願いします。……日高~、引っ越し、明日で大丈夫だって~」

 目の前で電話を終えて報告してきた幸はやおら立ち上がり、それから思い出したみたいにまたしゃがんでから俺の頬を撫でた。
 どうしたのか、と思っている間に、顔が寄ってきて唇が触れる。
 柔らかく温かい感触が一瞬だけ触れて、すぐ離れてから間近の幸が瞬きの後にふふっと破顔する。

「しちゃったー」

 悪戯が成功した、くらいの気持ちで奪われたキスは、悔しいことに涙ぐむほど嬉しかった。
 
 
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