もっと僕を見て

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 潮島がシャワーを浴びている間に、僕の腹に飛び散った精液をティッシュで拭いとる。べたべたして、何枚使ってもキリがない。十枚くらい使ってやっと液体は取り除けたけど、皮膚がつっぱる感じがして、僕の体に伸ばしただけみたいな気分で変な気持ちになった。
 僕もシャワー浴びよう。
 服と靴下を脱いで待っていると、潮島が上がってきた。下にデニムを履いただけの体からは湯気が立っているけれど、髪は濡れていない。どうやら頭は洗わないでいいらしい。

「僕も入るね」

 すれ違いざまに声を掛けたのに、綺麗に無視された。こっちを見ようともせず、ソファに置いたままだったらしいスマホを掴んで弄り始めている。
 しょうがないか、僕のこと嫌いなんだもんな。
 好かれる事は多々あっても、面と向かって嫌われた事は実は少ない。なんとなく嫌われてそうだな~、という雰囲気の相手でも、僕に冷たくすると僕を好きな人達から総スカンを喰らうから、それを避ける為に表面上は表に出さないのだ。
 それでも、嫌っている相手だと分かってもエッチを続行してくれたのだから、潮島はイイヤツなのだと思う。あの感じだと、今後はもう関わる事も無いかもしれないけれど。
 お湯で腹を流すと、やはり拭いきれていなかったものがヌルヌルと緩んで流れていった。
 風呂から上がって身体を拭いて服を着ると、湿気って脚に張り付いて気持ち悪い。着ないと冷えて風邪をひきそうだからしょうがないけれど、帰ったらすぐに着替えよう──。
 身支度を整えて部屋の方に戻ると、潮島はまだスマホを使っていた。優しくしてくれそうな雰囲気も無いし、と彼の座る横に引っ掛けられたカーディガンを掴んでそれに袖を通した。

「あの……それじゃ」

 この態度に、これ以上を期待するほど馬鹿じゃない。返事が返ってこないのも折り込み済みですぐに立ち去ろうとしたのに、潮島は目線を上げてこちらを見た。

「……ん」

 す、と立ち上がった彼は、どうやらドアまでは送ってくれるつもりらしい。嫌いな僕にもそんな真似をしてくれるなんて、やっぱり根は優しい人なのだろう。

「俺は少し時間ずらして出るから」
「はい。今日はありがとうございました」
「……あ。忘れてた」
「え?」

 何をだろう。
 横に立つと少しだけ顔を上げないと視線の合わない潮島を見ると、つつ、と指で腹を撫でられた。

「……出したのに」

 欲しがる目線で、彼が僕に何を要求しているか分かってしまった。

「あ……ありがとう、ございました」
「何が?」
「……っ、に、僕に、出してくれて」
「最初っから、ちゃんと言って?」

 優しく言われると拒めない。僕のお腹を撫でる指が、愉しげにくるくると円を描いている。

「ぼ、僕に、出してくれて……、ありがとうございます……」

 目元が熱い。顔も、たぶん耳まで真っ赤になっているに違いない。
 ちゃんと言えた僕に満足げにして、潮島は僕の額にちゅっとキスしてきた。そして、ドアを開けて手を振る。

「じゃーね。気が向いたらまた遊んであげる」
「え……、あ、はい」

 これっきりだと思っていたのに、潮島は最後にそんな事を言ってくれた。
 少し嬉しくなったけれど、それが社交辞令だったと気付いたのは、ふわふわした頭で電車に乗って独り暮らしのアパートに帰ってから送ったメッセージが、未読のままの翌朝だった。









 

 大学生活は、つまらなくはないけれど楽しいわけでもない。
 本当は高校を卒業したらどこかのプロのアシスタントにでもなってカメラマンを目指す気でいたのに、親に大学だけは出てくれと言われてそうしただけだ。大学さえ卒業したらあとは好きに生きていい、と確約されて、だから僕は四年でキッチリ卒業するために、そこまでランクの高くない大学で、出席やレポート提出が緩めの教授を選んで必修を受けている。
 授業の無い時間のほとんどを写真を撮ることか写真に関する勉強に費やしていて、だから僕には時間が無い。

「な~、真広、今度の合コン来てくれよ~」
「ごめん、その日は撮影だから」
「そんな事言わないでさぁ。今まで一回も来てくれたこと無いじゃん?」

 こうして、合コンの誘いを断る時間さえ正直言って時間の浪費だと思う。今まで一度も行かなかったんだから、今後も一度だって行かないと気付いて欲しい。

「俺の顔を立てると思ってさあ~」

 お前の顔なんて知ったことか。大体僕は君の名前も知らない。
 黙ってじっと見つめると、目の前の男は頬を赤らめて視線を逸らした。

「えっ、ちょ、真広? 俺の顔になんかついてる?」
「ついてないよ」
「そんな顔で見つめられると……あああもう、分かったよ。今回は諦める。そんな甘えた顔されたら無理言えねーって」

 なんだ、甘えた顔って。真顔で見ていただけなのに、どうやらかなり頭のおかしい奴だったらしい。それでも、合コンの誘いを諦めてくれたのは有難い。僕は机の上で開いたままだったタブレットPCに目を落とした。
 昨日撮った写真をSNSにアップする用にリサイズしている最中だったのだ。僕は基本的に加工はしたくないんだけれど、SNSで開くと画像のサイズが大きいと重いだの見にくいだの文句を言われることがあるのだ。
 高画質な元画像で見て欲しい気持ちはあるけれど、そこはSNSだと割り切ることにしている。どうせネットで僕をフォローして写真を見てくれる人達は、しかし写真展にまで足を運んでくれるのは稀なのだ。パッと見て綺麗ならそれでいい。『エモい』写真であれば、彼らは気楽に拡散してくれる。
 知名度さえ上がればいい。だから僕は付いたコメントにも返事はしない。アップするのも、写真とタイトルだけ。それ以上を書いて、下手な事で炎上なんてしていられない。かかずらうのは時間の無駄だ。

「……次の写真?」

 横で本を読んでいた大山おおやまが、僕の作業が再開されたのを見てタブレットを覗き込んできた。
 今日も彼は長い前髪で目元を隠していて、その視線が本当に僕の写真に向いているのかさえ見えない。が、その綺麗な鼻筋が僕の写真に映る花を見てスンと匂いを嗅ぐみたいに動くのが面白かった。

「うん。茨城のバラ園に行ってきたんだ」
「真っ赤だね」
「ダリアを撮ったのもあるよ。見る?」
「見せて」

 大山は、写真は撮らないけれど見るのが好きらしい。
 大学の入学式の日、校舎を撮って回っていた僕に声を掛けてきて、どんな風に撮れたのか見たいと言った。カメラからタブレットに写真を移して彼に見せると、目の前の実物と写真とを見比べて「ずいぶん印象が違うね」と言った。

「この写真は、僕が見た景色だからね。君から見える景色とは違うと思うよ」

 僕の顔を目当てに近付かれるのは日常茶飯事で、だから彼もそうかと思って、伝わらないのを承知でそう突き放したつもりだったのだけれど。大山はそうかそうかと頷いて、「これが君の世界か」と言った。そして、

「写真の良さが分からなかったけど、そうか。撮る人の生きる世界を楽しむものだったんだな」

 と、風変わりな感想を溢して去っていった。
 変わった奴だったなぁと思った翌日から、何故か大山は気がつくと僕の傍に居て、写真があるなら見せろと強請ってくるのだ。彼は僕の写真を絶賛することは無く、いつも興味深そうに見つめるだけで、感想など見たまましか言わない。だけれど、いつのまにか僕にとってはそれがとても好ましくあった。

「綺麗だな」

 大山はひとしきり僕の写真を見てそれだけ言うと、また読み途中の本に視線を戻した。僕が言うのもなんだけど、根っからの変わり者だ。
 授業が始まっても僕と大山はその調子で、片手間に板書をとって。授業が終わったら女の子に囲まれながら次の教室へ移動して、授業の傍ら今度は次の撮影場所のピックアップをして。
 昼飯を買い忘れたと気付いたのは、大山が大きなバックパックの中からいつものコンビニのサインドイッチを取り出した時だった。

「買い忘れたから、今日は学食行こうかな」
「そっか。じゃ、また明日」

 着いてくるつもりの無い大山は、サンドイッチのビニールを剥きながら僕に手を振った。寄ってくる割にベッタリじゃないから、僕も気楽でいられるのかもしれない。
 手を振って席を立つと、すぐに女子に囲まれた。

「学食行くの? 私たちもだから一緒に行こうよ」
「うん」

 返事だけして、あとは放っておく。なんやかんや話しかけてくるどうでもいい近況におざなりに相槌を打ちながら学食へ向かうと、そこで見つけてしまった。
 昨日ぶりの彼は、今も穏やかに笑っている。やたら顔の良い男と肩を並べてうどんを食べていた。二人とも長身なのか、座った状態なのに周りの生徒から頭一つ飛び出している。

「あ、小鳥遊くん今日来てるんだぁ~」

 僕の視線の先を追った女子が、やおら黄色い声で騒ぎ出した。

「タカナシ?」
「うん、モデルなんだってー」
「仕事忙しくてあんまり学校来てないんだよねー」

 僕と灰色がかった金髪の彼とを見比べてソワソワしだした彼女達に、苦笑しながら手を振る。

「挨拶しておいでよ。たまにしか来ないんだったらチャンスじゃん」

 がんばれ! と両腕の拳を握って応援すると、女子達はクスクス笑いながら僕に別れを行ってそちらへ向かった。

「じゃ、お昼はまた今度ね~」
「じゃーね、高久田くん」
「またねー」

 移動中にも増えていたのだろうか、五、六人に挨拶されて、内心ホッと息を吐いた。彼女達の中に、本気で僕を狙っている子はいない。チャンスがあれば、くらいでしか興味を持っていないから、モデルをしているようなイケメンが居ればそっちに行くのは当然だ。僕にとっては静かに昼食をとれそうだから万々歳。
 彼女達が向かった先に視線をやると、一瞬潮島がこちらを見た。
 けれど、すぐに視線は逸らされる。
 ガッカリなんてしない。──いや、嘘だ。すごくガッカリした。少しくらいは笑いかけてくれるかも、なんて期待を持っていた。
 忌々しげに目を細めて視界に入れたくないみたいに顔ごと逸らされて、僕はなんでもない風を装って券売機の列に並んだ。悲しい? いいや。むしろ、あの時みたいに怒りで腹わたが煮えくり返っている。
 僕を見てあんな顔をするなんて。喜べとは言わないけれど、そんな邪険にされるような事をしたか? 写真家を目指していれば比べられるとは言っていたが、そんなのどの世界でもある事だろう。実力が無いお前が悪い。そんなの僕のせいじゃない。
 怒りに任せて、焼肉丼のボタンを押した。イライラする時はお肉を食べるに限る。
 出てきた券を食堂のおばちゃんに渡して、焼肉丼のトレーを受け取って窓際の席に着いた。外を見るように窓に沿った長いテーブルはいわゆるお一人さま用のぼっち席で、食堂のアレコレを見ずに済む。
 ふつふつと沸き立つ怒りを収めようと丼を掻き込んでいると、不意に頭に手が乗った。不愉快で見上げると、そこには午前中合コン合コンと五月蝿かったあの男がいた。

「食事中なんだけど」
「隣いい?」

 食事のトレイを持った彼は僕の返事を待たずに座って食べ始めた。すごいマイペースだ。

「珍しいな。いつもスダレとコンビニおにぎりじゃん?」
「スダレ?」
「ほら、あのいつも一緒にいる幽霊みたいなやつ。すだれみたいな前髪した」

 彼の言うのが大山の事だと分かって、無視する事にした。友人を悪く言う人間に振り撒く愛想は無い。……元からそんなに愛想の良い人間でもないけれど。

「怒んなよ。見たままを言ってるだけじゃん」
「……」
「なー、真広ー」
「……」
「まーひーろ」

 僕の名前を呼び捨てにしてくるこの男の名前が思い出せない。いつ出会ったのかすら覚えていないし、いつの間にか付き纏ってくるようになった。大学に入ったばかりの頃は合コンに誘ってくる男はそれこそゴマンといて、その中の一人だったから覚えていないのもしょうがない。僕が頑なに誘いに乗らないから、誘ってくるのはもうこの男だけなのだが。
 食べ終えて丼を置き、執拗に名前を呼んできていた彼を見る。
 僕が見つめると、やはり彼は顔を赤くした。これだけ分かりやすいと、逆に心配になってしまう。

「……あのさ」
「なに?」

 やっと返事をした僕に喜んでいる彼に、こんな事を言ったら傷付けてしまうかもしれないと少しだけ躊躇したけれど。大山を馬鹿にするようなあだ名で呼んでいるのはやはり許せなくて、口に出した。

「君、名前なんだっけ?」

 驚きに止まった彼は、きっと悲しむか怒るかすると思ったのだ。毎日話しかけているのに名前すら覚えられていなかったなんて、僕ならきっと帰って泣く。
 けれど、違った。彼は嬉しそうにニヤニヤと唇を歪めて、僕の頭を撫でてきた。

「何するんだ。やめろ」
「だって、やっと俺に興味持ってくれたじゃん? 嬉しいわー」
「持ってないよ。持ってないから名前を知らないんだよ」
「俺、俺ね、鏡田かがみだ。鏡田 承馬しょうま。承馬でいいよ」
「呼ばないから」

 勘違いを誘発させてしまった事に後悔する。というか、かなりポジティブだなこいつ。
 頭を撫でてくる手を振り払おうと腕を上げたところで、背後から嘲笑するような声が掛けられた。

「……気持ちわる」

 それが僕に掛けられたものだというのは、その声で分かった。昨日さんざん傷付けられた、それと同じだったから。
 黙って振り向くと、やはりそこにトレイを持った潮島が佇んでいた。片付ける途中で目に入ったのだろうか、僕らのやりとりが目障りみたいに睨んでいる。

「あ? なんだお前……」
「何か用?」

 言い返そうとした鏡田より先に立ち上がって、潮島へ真っ向から向き直る。
 顎を上げて不遜に見えるように、小首を傾げて彼を見上げた。

「気持ち悪い、って、急に言われる意味が分からないんだけど」
「同性カップルには反対じゃないけどさぁ、場所は選んでくんねーかな。目障り」
「は? 更に意味が分からないな。カップルじゃないし、僕たちはご飯食べてただけだ」
「男同士で頭撫でたりとかが気持ち悪いって言ってんだよ」
「なんだ、そんな事か。狭量過ぎるね。世界が狭い」
「は?」
「そんなだから、君の写真は僕と比べて下なんだよ」

 カッと目を見開いた潮島が握った拳を振り上げる。トレイが傾いてうどんの空容器が落ちていくのが見えた。
 そのまま殴られるかと思ったのに、彼の手は横から現れた金髪の男によって止められていた。
 カランカラ、と床に落ちたプラスチックの食器が高い音を立てて、それでようやく食堂の中が静まりかえっているのに気付く。

「あ……」

 今のやりとりを見られていたと知って、急に恥ずかしくなった。こんな風に他人と言い合ったことなんて無い。目線を下げて、トレイを持って足早に返却口に走った。

「あ、真広、待って」

 鏡田が追ってくる気配がするけれど、無視して食堂を出る。
 恥ずかしい。激情に駆られてわざと潮島を傷付けるような事を言ってしまったし、それを大勢に目撃された。僕がSNSをやっている事は多くの生徒が知っているから、もしかしたら言っていた内容を拡散されたりするかもしれない。潮島を下に見て馬鹿にするような事を言っていたというのが広まれば、僕の性格が悪いと知ってファンが離れるかもしれない──。
 小走りで構内を駆け抜ける。最悪だ。もう今日は帰って寝る。大学を出て家に逃げ帰って、スマホの電源を切ってふて寝した。
 怒りでどうにかなりそうなのもあったけれど、一番胸が痛かったのは、潮島が「男同士で気持ち悪い」と言った事だった。僕をあんなに気持ち良くさせた癖に、彼にとっては苦痛だったのか。そんなに気持ち悪かったか。いつの間にか布団の中で吐き気がするくらい泣いて、そして寝落ちていた。
 潮島の優しい声が耳に反芻して、だけど全部あれは嘘だったんだと夢の中でまた泣いた。
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