もっと僕を見て

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 潮島は、あるラブホテルに入って部屋を選ぶパネルの前でやっと足を止めた。
 振り返って僕の姿を見つけて、目を細めて「良かった」と微笑んでくる。

「部屋、どうする?」

 潮島は、二つの部屋を交互に指差した。僕に選ばせたいらしい。部屋の内装写真が貼られたパネルを見ると、片方は普通の部屋だが、もう片方は……普通じゃなかった。三角木馬とか、吊り下げられた手錠とかが見える。つまり、SM用の部屋らしい。

「……こっちで」

 SM用とは言っても、普通のセックスをしちゃいけない部屋じゃないだろう。「無理だったら普通のセックスをする」と言ってくれた事だし、とそっちを選ぶと、潮島は一層ニコニコと笑みを深めた。

「嬉しいなぁ」

 潮島はSM部屋のパネルを選ぶと、さっさと料金を払って出てきた鍵を受け取った。半額出そうと財布を取り出そうとした僕を、「いいからいいから」と手を繋いでエレベーターへ引っ張っていく。急に手を繋がれたことに驚いて、けれど振り払うのも悪いかとそのまま部屋まで足早に連れ込まれた。
 性急さに少し怖くなったが、部屋に入ると潮島はすぐに手を離してくれた。
 黒木目の床に真っ赤なシーツのベッド。ベッドの横にはこれまた真っ赤な、謎の『X』みたいな形の置物がある。合皮だろう、やけにテカテカした黒いソファだけが見慣れた形で逆に浮いていた。照明はかなり暗いのに、部屋の至るところに貼られた鏡が光を反射していて、入り口からでも部屋の奥まで見える程度の光度は保たれている。黒と赤ばかりの内装の趣味の悪さにクラクラした。このインテリアで良しとしたホテルのオーナーの気がしれない。SM部屋だからなのだろうか。パネルで見た感じでは、普通の部屋もそんなに色味はよく無かった気がするけれど──。
 僕が視界の配色に頭痛を感じているのなんて知らず、潮島はベッド横のソファに座ると、靴と靴下を脱ぎ始めた。

「ごめんね、俺靴下嫌いでさ~」

 照れ臭そうに笑う彼は、僕の写真を貶していた彼とは別人みたいだ。この愛嬌に女がやられるのだろうか。見た目の雄臭さと逆に、庇護欲をそそる中身は好意的にしかとれない。
 この潮島と初対面だったなら、もしかしたら好きになれていたかもしれない。
 そう頭の片隅で思いながら、僕はカーディガンを脱いでその場に落とした。Tシャツも脱ごうと捲り上げた僕を見て、潮島が慌てて止めてくる。

「モルちゃん、まだ脱がないで? ほら、ムードとかあるでしょ?」
「ムード……。あの、すみません、童貞だから」

 よく分からないです、と正直に言うと、潮島は困ったように首を傾げてから、自分の膝をトントンと叩いた。

「おいで」

 おいで、って。膝を叩いてるってことは、その上に座れってことだろうか。
 ほぼ初対面の人の膝に? と考えて、初対面の人間とセックスしようとしていた癖に、他人に触れる覚悟が全く出来ていなかったことに気付いた。

「し、失礼します」
「はい、どうぞ」

 膝の上に座ろうとすると、少し膝を開いてくれた。足の間に座れという事だったらしい。太腿の間に尻を降すと、後ろからゆっくりと腕を回された。僕の身体の前で交差された腕を見て、咄嗟に逃げたくなっても無理かな、と不安になる。

「怖い?」

 耳の後ろで声がして、ビクッと肩を揺らしてしまった。

「だい、じょうぶ……です」
「いいんだよ。怖い時は怖い、って言ってくれた方が、俺も安心するから」
「安心……ですか」
「そ。信頼出来ない相手とSMは出来ないからね」

 そうですか……、と頷き、呼吸を落ち着けて少し背中に体重を乗せた。後ろに座る潮島が、僕の肩から二の腕あたりを優しく摩って安心させようとしてくれる。

「今日は絶対に、モルちゃんの嫌な事と痛い事はしないからね」
「……はい」
「じゃあ、合言葉ね。『限界』って言ったら止めるから。絶対無理、出来ない、って時は、イヤ、とかじゃなくて、限界、って言うんだよ」
「はい」
「モルちゃん、素直でいいこだね。今日会ってくれて、本当に嬉しい」

 潮島は落ち着いた声で、優しく囁きながら僕の身体を撫でていた。腕から首に指が滑ってきて、ぞわっとした性感に襲われて首を反らしたら、潮島が低く笑った。

「少し気持ちいい?」
「わ……から、ない、です」
「初めてだもんね。ゆーっくり、モルちゃんの好きなところ探してあげる」

 首から鎖骨の上を撫でた指は、Tシャツの上から胸を通って腹に下りる。さすさす、と掌で臍の上を撫でられると、その温かさに息を吐いた。少しだけ警戒していた心が、優しい手の動きに解けていく。

「手、……撫でられるの、好きです」

 片手は腹を撫でたまま、もう片方の手が太腿の内側に下りてくる。スキニーデニム越しでも潮島の手は温かくて、危うい所を撫でられても逃げたいという気持ちは湧いてこなかった。

「モルちゃん、その調子で、気持ちいい時はいいって言ってね」
「……っ」

 首の付け根に、濡れた感触がした。ちゅ、と音がして、キスされたのだと知る。吸われるような感触と、何度もちゅっちゅっと音がするのが恥ずかしいけれど、嫌ではない。少しふさふさした柔らかい感触は、彼の髭だろうか。見た目は硬そうだったのに、随分と印象が違う。
 耳たぶに少し歯を立てられて震えると、すぐに謝るようにそこにキスされた。

「あ、ちが……、嫌じゃ、ないです。痛くもなかったです」
「ふぅん? じゃあもっとしてもいい?」
「や、ぁっ」

 言うが早いか、かぷっと耳を噛まれて、思わず高い声が出た。恥ずかしくて口を手で押さえると、潮島は耳を噛みながら囁きかけてくる。

「声出して。大丈夫、俺しか聞いてないから」

 ふるふると首を横に振ると、初めて強く噛まれた。

「痛っぅ」
「声。出して?」

 鋭い痛みが走った耳は、しかし舌で舐められるとすぐに痛みがひいた。ちゃんと加減してくれているらしい。そう気付いて、僅かに残っていた警戒心が消えていく。
 任せて大丈夫。彼に預けて大丈夫。そう心を落ち着けて、口から手を離した。

「いいこだね。……耳、好き?」
「す、好き、だと思い……ます」
「じゃあ、首は?」
「好き、です、たぶん……、っ、あっ」
「あ、ごめん、当たっちゃったね」

 耳や首を舐められたり吸われたりしながら、太腿を撫でていた手が僕の股間に触れて、また声を出してしまった。女の子みたいな高い声が出て恥ずかしいのに、口を押さえると怒られるからそれも出来ない。
 全然性器と関係ない所を撫でられているだけなのに、もうデニムが窮屈だと感じるくらいソコは勃起してしまっている。こんなに興奮したのはいつぶりだろう。精通したばかりの頃にエロ漫画を拾った時とか、そんな昔のような気がする。
 手が当たって僕の股間が硬くなっているのは分かった筈なのに、潮島はそれには触れずに今度は僕の胸を弄り始めた。Tシャツの上から平らな胸を揉むようにされて、何だか申し訳なくなった。

「ごめんなさい……」
「ん、何が?」
「僕、男だって言ってなかったから」
「んー……まぁ、確かにね? 少しは残念だったけど」

 やっぱり。胸を揉む手に、本当はもっと柔らかいものが揉みたかっただろうにと胸中で謝った。

「でも、初めてなのは本当でしょ?」
「それは……はい」
「だったらいいよ。聞かなかった俺も悪い」

 そういうものだろうか。男でも初めてならいい、というなら、今夜は……やっぱり、最後までされてしまうのだろうか。心の準備は出来ていなかった癖に、身体の準備はしてきた。ネットで見た通り、中の洗浄をしてきて良かったと逸りそうになる呼吸を噛んで落ち着ける。

「それに、男だとしても、これだけ可愛ければ全然抱けるし」

 やわやわと胸を揉まれ、くすぐったさに身を捩るが、彼の手は執拗に追ってくる。

「顔、好み……ですか?」

 それなら良かった、と言うと、不意に手が止まった。

「あの……?」
「顔? なに、モルちゃん、顔に自信あるの?」

 ハ、と鼻で笑われ、急な態度の変化に困惑する。

「この程度で?」

 後ろから顎を掴まれ、じっと見つめてまた笑われた。悪意しかないその笑顔に、言われた内容よりその変化が怖くなって彼の手を振り払った。

「はあ……。ちょっとどいて」

 僕に叩かれた手を見つめて、溜息を吐いた潮島は僕を膝から下ろして立ち上がった。そして、部屋の棚を開けて中を物色し始めた。
 何故急に冷たくされるのか。自意識過剰なのが気に障ったのだろうか。
 彼の背中を見つめながら、逃げた方がいいだろうかと部屋のドアへ視線を向ける。機嫌を損ねたら、冷たくされるだけでなく酷い事もされるかもしれない。
 迂闊に警戒心を解くべきでは無かったと、そろそろと物音を立てずにカーディガンを拾ってドアの方へ後退した。

「あ、あった。よし、じゃあこれ着けて……って、モルちゃん?」

 棚の中から何かを取り出した潮島は急に振り向いて、僕がソファから離れた位置に居るのを不思議そうにした。そして、僕の手に脱いだカーディガンが握られているのを見て苛立たしげに半目になった。

「この程度で逃げる気かよ。これだから、顔だけで生きてきた奴は……」

 はあー、とこれ見よがしに大きく溜息を吐いて、潮島は手に持った小さな物を僕に向かって投げてきた。

「自慢の顔が使えなくなると不安かぁ? ちょっと冷たくされただけで逃げ出すなんて、居場所の多い美人は生きやすくて羨ましいなぁ?」
「……そ、んな、こと」

 投げられて床に落ちた物を見ると、細長い黒い布の両脇に紐がついている。アイマスクらしかった。顔が使えなくなる、というのは、顔を隠す、という意味だろうか。顔に自信がある態度が相当気に障ったようだ。
 態度の落差に困惑してしまったが、謝ろうとしたところで掛けられた言葉に凍りついた。

「ほら、逃げるんならさっさと逃げろよ、将来有望のアマチュア写真家、高久田たかくだくん」

 本名で呼ばれ、掛ける言葉もなく動けなくなってしまった。
 分かってて僕をホテルに連れ込んだのか? どうして?
 驚愕に止まってしまった僕を蔑むように睨み、潮島はシッシッと猫でも追い払うみたいに手を動かした。

「ほら、早く行けよ」
「な、……なんで」
「は?」
「なんで、僕のこと」

 知ってるんだ、と喉から搾り出した声は、潮島の笑い声にかき消された。

「なんで? なんでってお前、そんだけ綺麗な顔しててどうやって知らずにいられると思うんだよ。写真家目指してるって言うだけで必ずお前と比較される。お綺麗な顔とお綺麗な写真、さぞお綺麗な中身してるだろうと思ってたが、まさか本当に清い体だとは思わなかったよ」

 潮島はひとしきり僕を馬鹿にして笑ってから、また長い溜息を吐いて、吐き捨てるように付け足した。

「……お前は俺を知らないだろうけどな」

 その言葉に無言で首を横に振ると、彼は心底意外そうに目を見開いた。

「学内ででも見掛けたか? でも、名前も知らねぇだろ」
「……潮島」
「…………マジか」

 長い沈黙の後、潮島は気まずそうに頰を掻いた。

「あ~……。うん、俺も誰にも言わないから、お前も誰にも言うなよ?」

 投げたアイマスクを自分で拾いに来て、潮島はまた人好きのする笑みを浮かべて僕に笑いかけた。でも、瞳の奥は笑っていない。さっきの言い方からして、彼は僕を相当嫌っているらしい。僕が彼を嫌い始めたより、長い間。

「……貴方だって、意気地なしじゃないか」
「は?」
「知り合いだと分かったら続けられないんでしょ? 大丈夫だよ、下手クソだなんて言いふらしたりしないから」

 少し安心した。彼が僕を嫌っていたからだと知れば、僕の作品を貶められた事にも納得がいく。やっかみからのあの評価なら、理解できない情熱だのなんだのは気にしなくてもいい。
 だから、少しくらいはやり返してもいいかと思ってしまったのだ。
 僕の評価を知っているから、マウントをとれた気になってしまったのかもしれない。
 ──それはすぐに、後悔する事になったけれど。

「下手糞だぁ?」
「な、……なん」

 ずかずかと大股で寄ってきた潮島に腕を掴まれ、殴られるのかと身構えたら、口に柔らかいものが触れて目を見開いた。視界いっぱいに、潮島の顔が映る。
 驚いている間に唇の隙間から舌が差し込まれて、上顎を舐められて背筋がビリっとなった。

「んんっ」
「開けろ、ほら」

 唇の端から潮島の親指を入れられて、閉じられなくなった口の中に彼の舌と唾液が入ってくる。ぴちゃぴちゃいやらしい音を立てて舌を擦られると、恥ずかしくて目を瞑った。

「や……やぁ……」

 彼の唾液で口の中がいっぱいになって、垂らしたら服が汚れるからと反射的に飲み込んでしまう。ごく、と僕の喉が動くのを、潮島の指が首を撫でて感じている。

「言いふらされて困るのはお前の方だろ。いつもあれだけ冷めてんのに、感じやすくて男相手でも股開くって知ったら……どれだけの奴が、お前に寄ってくるかな?」

 言われた事を想像して、ぶるりと身を震わせた。そんなの、怖すぎる。怖いのに──どうしてか、喉の奥が熱くなった。

「や、優しく、してほしい」
「あ?」

 我慢出来ず、唇を離した隙に潮島の胸元を掴んで縋った。

「貴方の言う通りだ。僕は、冷たくされるのに慣れてない。……だから、どうか、優しくしてくれ。逃げないから……だから」

 彼のキスは気持ち良すぎた。そのまま逃げ帰る気なんて無くさせるくらい、この先を期待させるには十分過ぎた。

「……」

 潮島から、返事は無かった。
 眉間に皺を寄せて訝しげに僕を見つめて、僕が目を逸らさずにいると諦めたように彼が先に目を逸らす。

「それ、着けて。お前の顔見ると萎えるから」

 どうやら、潮島の俺への悪感情は想定以上だったらしい。
 それでも、膨らんだ彼の股間は欲望に正直なのか、僕にアイマスクを装着させる事で続行するつもりのようだ。
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