高尚とサプリ

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初恋と最後の恋(壱衣視点)

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 暗がりの廊下でこちらを振り返った彼を見た時、ああこれが一目惚れか、なんて馬鹿げた事を考えた。

「ち、違いますっ! あの、ただ入る勇気が無かっただけでっ」

 遠目にはかなり背が高く見えた男は僕と目線が変わらず、痩身の所為で更に高く見えるんだろうと推測させる。
 男。それもまだ子供、男の子だ。
 生まれてこのかた男に懸想した事なんか一度も無く、だからきっと前の店で呑んだ酒で変な思考が浮かんだのだろうと自分自身に呆れた。
 冷やかしか知人を尾行けたか、歳若い様子にどちらかだろうと追い払おうとしたら、彼は恐ろしげにドアノブを見つめて後退る。
 ……かわいい。
 浮かぶ感情に、いやだから男の子だぞ、と打ち消した。

「じゃあ一緒に入ろう」
「へっ」

 そのままにしておくと他の客とまた揉めるだろうと判断してそう言い、先にドアを開いた。
 金曜夜の錘は十年ぶりだというのに細かな調度品以外は何も変わっておらず、その懐かしい雰囲気にホッとした。
 ああ、帰ってきた。
 そう感じるって事は、やはり僕は根っからのサドだったって事なんだろう。結婚する時に馴染んだ縄を含めて全ての道具を捨ててしまったけど、それでS性まで捨ててしまえる訳じゃなかったんだ。
 こちらに向く視線のうちどれが相性の良さそうなマゾかいまだに判別が付くのを内心で苦笑して、それから背後で立ち竦んでいる男の子に手を伸ばした。

「ほら、おいで」

 つい女にするようにしてしまったけれど、男の子はよほど店に入るのが怖いのか、おずおずと僕の手にその手を乗せてきた。
 僕より少し高い体温と、柔らかい指の腹の感触。触れた瞬間に、手放したくなくなった。
 もっと欲しい、と体のバランスを崩す方向にわざと引いて抱き止めてやろうとしたのに、彼はすんでのところで踏ん張って息を飲んだ。
 間近に迫る彼から、甘い匂いがする。いいや、しない。しているのは安っぽい柔軟剤のシトラスの香り。なのに、ひどく甘ったるくて、まるで誘うみたいに僕の鼻腔を刺激する。
 なんなんだろう、この子は。
 足元に気を付けてね、と言うと彼は顔を微かに赤らめて照れ笑いを返してきた。
 ……ああ、これを、この子を、今すぐ縛りたい。縛り上げて苦しげに呻く彼をミニチュアにして、ずっと部屋に飾っていたい。

「はいはい~、お二人さんは新規さんかな?」

 馬鹿げた妄想に飛びそうになったところで、懐かしい声が聞こえてきた。昔緊縛の手解きをした青年はまだこの界隈で働いていたのか、と離れていたのは自分の方なのに嬉しい気持ちになる。
 紫に男の子を任せてカウンターに座ると、こちらもまた懐かしい顔が酒を作っていた。

「やあ、久しぶり」
「ええ、本当に久しぶり。もう何年になるかしら?」
「十年ちょっとかな? 三十の時に見合いをしたから」

 せっつかれて親の知り合いの娘と見合い結婚したのが確かそのくらい前だった気がする。もう今年で四十二ってことは、十二年は結婚していたのか。
 恋愛感情皆無にしてはよく保った、と思いながら渡されたお絞りで手を拭くと、店長の澄川は十年前より少しだけ皺の増えた笑顔で酒のグラスを差し出してきた。

「あらあら。マンネリで火遊びしたくなったの? 貴方、相手の子を本気にさせるからあんまりお勧めしないわよ?」
「離婚して身綺麗だから問題無いよ。いくら本気になってもらっても大丈夫」
「そんなこと言って、応えてあげる気も無いくせに」
「いくら可愛いといったって、犬と本気で恋愛する人なんかいないだろう?」
「いつか噛まれちゃうわよ」
「ご主人様を噛むような悪い子は飼わないから」

 澄川は僕が二十歳前後で緊縛を始めた頃からこの店の店長で、店で主催するパーティに何度か縄師としてゲストで呼んでくれたりもした。
 気の置けない間柄と会話するのは久しぶりで、日本酒を飲みながら楽しんだ。
 そんな視界の端に、またあの男の子がチラチラとよぎってくる。

「……彼女がマゾらしくて、俺もサドっぽいことしてあげた方がいいのかな? って……」

 漏れ聞こえてくる紫と彼の会話の単語を気が付けば拾い集めていて、彼女持ちか、と落胆したのにまた自分でも驚く。
 同じように落胆の色を見せた紫が彼を狙う他の客に向けて首を振って、パートナー持ちだと示している。
 それとなく店内を窺えば初顔の男の子を熱い視線で見つめている視線は少なくなく、そのどれも彼を『マゾだ』と決め付けているサドと推測出来るのが面白い。
 とはいえ、僕もその一人だ。
 彼は彼女の為にサドになりたいらしいが、無理だろう。
 醸し出す雰囲気も目つきも、マゾのそれだ。むしろ今までよくサドっ気のある女に捕まらなかったものだと驚きすらある。
 紫と交替で彼の接客に入った店員は初めて見る顔で、綺麗な顔と意味ありげな視線の動きが男の子を捕らえるのに妙に胸がざわついた。

「これね、百均で買えるやつ」

 自然な話の流れで男の子を鞭打つ機会を得た店員に、いつの間にか周囲から相当な数の視線が集まっている。
 そうだ、教えてやれ、君はマゾだろう、と好奇の目たちは男の子が自分の性を自覚するのを今か今かと待っている。

「やだわぁ、みんなエッチなんだから」

 澄川が小さく笑ってボックス席の方へ酒を届けに行く為にカウンターから出て行って、それで知らず僕まで鞭打たれる男の子に釘付けだったのを自覚して視線を逸らしてグラスを噛んだ。

「っ……あ、の」

 二度目に強く打たれた男の子が、戸惑うような掠れ声をあげるのを聞いて奥歯を噛み締める。他の人間の視線が彼に向いているのが無性に頭にきて、またそれに気付いていなさそうなのにも虫酸が走る。
 ちゃんと自覚してくれ。じゃないと、今夜にも君がマゾだと気付いてる人間に取って喰われるぞ。
 澄川に怒られたアイという店員はすごすごとカウンターの中に戻ってきて、そして彼にはサドが向いてない、とハッキリ言い切った。
 向いてる向いてないの話じゃない。マゾがサドのフリをするなんて、土台無理なんだ。だって、どうしたってきっと、満足出来ない。自分がされたい事をすれば相手は満足するかもしれないけれど、彼は永遠に満足出来ない。
 そんな無意味なことをするくらいなら、さっさと自覚して僕の手の中に落ちてくればいい。

「……それは人によるんじゃないかな」

 上手く会話に絡む隙を見つけて割り込むと、アイは目を眇めて僕を睨んできた。この男も、筋金入りのサドなんだろう。男の子を気に入ったのは傍目から見ても明らかで、手を出そうとする僕を牽制してきた。

「盗み聞きするような真似してごめんね。店に入る前にすごい緊張してたし、気になって」

 優しげに微笑みかければ男の子──ナツメはいとも簡単に警戒心を解いて、紫を呼んで「イツキさんは優しい」と言わせて駄目押しすると少し不安そうにしながらも店の外へ付いてきた。
 錘の上のレンタルルームへ行くのにエレベータへ乗せようとすると急にまた警戒し始めたけれど、それもまた餌付け途中の仔猫みたいで可愛らしい。
 少し自己紹介してやっただけでそれが自分への気遣いでやっているんだと、僕が本当に優しい人間なんだと判断したみたいで逃げる素振りも見せず部屋の中へ入った。

「ここでお金のやり取りは御法度だからね」

 冗談めかして言うのに、返ってきたのは「はあ」という生返事。
 僕の言葉より家具もほとんど無いような部屋を見回す事の方が大事なのか、と思うと気が付けば彼の口元を鷲掴んでいて、けれど彼は目を丸くしてキョトンとしただけだった。

「……。意味、分かって返事した?」
「え?」
「お金のやり取りは御法度、って」

 力を込めなかったのが幸いしたのか、ナツメは僕の行動を『ただ叱っただけ』と判断したようだった。小首を傾げて慌てて僕の言葉を反芻して返事する様子に、思ったよりお子様だ、と心の中で嘆息する。
 僕がベッドに腰掛けて床を指し示すと、彼は少し不思議そうにしながらも床に座り込んだ。……そんなに従順で、よくもまあサドになりたいだなんて言えたものだ。
 じっと見つめながらどう扱えばマゾだと自覚させられるか思案していると、彼は居心地悪そうに目を逸らした。
 ほら、そういうところ。心の中を読まれるのが怖いんだろう。サドの格好の餌にしか見えないよ、とたっぷり時間を掛けて見つめて、彼の我慢の限界手前で話を始めた。

「これから教えるのは、『僕のSM』だから」

 口を開いた僕にナツメはあからさまにホッとした表情になって、でも視線を上げてこない。顔を見て欲しいな、と背中を丸めて覗き込むと、彼は視線を下の方でうろつかせながら嫌がった。

「そもそも初対面の人の距離じゃないですし」

 その初対面の相手とこれから何をしようとしているのか、全く考えていないんだろうか。
 まさかSMがどんなものなのかすら知らないんじゃないだろうな、と頭痛がしてくるのに、彼は僕の反応を怖がるみたいに窺ってくる。
 視線を合わせなくていい代わりに、と手を繋がせると、面白いくらい可愛い顔で指を震わせてゴクリと唾を飲んだ。
 撫でて、摘んで、擽って。
 指の触れ合いだけで出来る限りを尽くしてやれば、彼はそれだけで顔を真っ赤にしてぼんやりしてきたようだった。
 ──早く、縛りたい。この子はきっと、縛ったらとても可愛く縄酔いしてくれる。縄を軽く引いて軋ませるだけで甘い声を上げて、潤んだ瞳でもっととせがんでくるに違いない。

「実践いってみようか」

 僕が話す適当な話に集中していないから、と叱るように理由をでっち上げてそう言うと、ナツメは怖がるみたいに繋いでいた手を引っ込めてしまった。掴み取って押し倒してやりたいのを我慢して、優しい顔で笑い掛けてやる。

「そんなに怖がらないで。言ったでしょ、僕は君が望まない事をしない」

 言ってから、マゾ扱いしていると言っているようなものだとハッとするけれど彼はそれに気付かなかったようで、「スパンキング?」とそっちに興味を示してきた。
 おいで、と誘って手を引くとナツメは簡単に僕の膝の上に倒れ込んできて、長身の割に軽い体が火照ったような体温と速い鼓動を伝えてきてゾクゾクする。
 何度か軽く叩いてやると恐怖心が無くなったのか膝に体重を預けてきて、平らな胸と肋骨の硬い感触にやっと彼が男なんだっけと思い出した。
 男。……男かぁ。
 趣味じゃないスパンキングだけでとても楽しめているけれど、本気で縛るとなったら女とは体の凹凸が違ってくる。
 見映えに満足出来るだろうか、と考えながら叩いているとナツメの体が反応を返してこなくて、また気を散らしているのか、と前髪を掴み上げて叱りつけた。

「イ……った」
「痛い? ごめんね、俺も久々だから」

 痛みに呻いた彼にしれっと謝って髪を離し、それから上向かせた顔に掌を乗せて中指で顎下を撫でる。顔を上げたままなのは苦しいだろうに彼は俯くこともせず、俺の手の下で熱い息を吐いた。

「……っ、は、ぁ」

 そのまま尻を叩いてやると掠れた声で喘いで、それに自分で驚いたみたいに体を揺らした。……もう少し。

「スパンキングはね、痛くしないのがコツなんだ」

 どうでもいい話を続けてやるとナツメは自分の反応が僕に気付かれていないと思っているのか素直に息を荒くして、叩かれる度に嬉しそうな吐息を漏らした。
 僕の掌の窪みに残る僅かな酸素を吸って吐いてしている様は可愛いとしか言いようがなく、胸に湧き上がる愛しさに男だなんて些末な事じゃないかという気になったのだけれど。

「ナツメ、ちゃんと聞いてる?」

 悪戯心が湧いて口の中に指を突っ込んでやるとナツメは真っ赤な顔で僕のそれを舐めて、もぞもぞと太腿を擦り合わせた。
 それを見て、そこに付いている物を思い出してげんなりする。
 そうだ、僕と同じモノが付いているんだっけ。縛る時にアレを目にしながらするのは嫌だなぁ、と瞬時に気持ちが萎えて、指を引き抜いてナツメの背中を撫でた。

「それじゃ、今日はこれくらいにしようか」

 僕が切り上げる旨を言うとナツメは残念そうに眉をハの字にして、その表情にまた可愛い、という気持ちが湧いてくる。
 連絡先を聞かれたけれどいつも通りそつなく躱して、けれど「錘においで」と言うのも忘れない。
 気が向いたら、また遊んでみるのもいいだろう。男だけど、着衣で縛る分には問題無いだろうし。
 きっとこの子は来週も来るんだろうな、と見当をつけてほくそ笑んで、駅まで送ってその夜はさっぱり別れた。








 そして、翌週の金曜日。
 てっきり来るものだと思っていた彼は錘に姿を見せず、それが無性に頭にきた。
 あんなに別れ難そうにしていたくせに、と苛立って、せっかく何人も美味しそうな身体の女が誘いを掛けてきたのにそういう気分になれなくて全部断ってしまった。
 ちょっと興味が湧いた程度で足を突っ込んでみて、深みまで踏み込む勇気が出なくなったのか。
 逃したことが悔しいと思うのは久々の感覚で、けれどそれもSM自体が久々だからだろうと結論付けた。十年ぶりにマゾっ気の塊みたいな強烈な子を前にして、毒気に当てられただけ。そうじゃなきゃ、男になんか揺らぐわけがない。
 今度こそ良い子を捕まえて久々のプレイに興じようと翌週は気合を入れて見た目を整えてから錘に行って、そうしたらあの綺麗な顔の店員に鞭打たれているナツメが居た。
 前回みたいな玩具じゃなくちゃんとした革を使ったバラ鞭で尻を打たれたナツメは膝をガクガク震わせながら許しを乞うていて、その様はサドの喜びを誘うものでしかない。
 ──どうして、そんな簡単に他のサドに捕まるのか。
 僕の手をすり抜けていった癖に、と煮えくりかえる臓腑はらわたを抑え込んで手近な席に座ろうとすると、カウンターに居た紫が手招きしてきた。

「イツキさん、こっちこっち」
「……? 何か用?」
「用っていうか、ほらあの子、イツキさんに会いに来たって言ってたから」

 横の席に座って待っててあげれば? と示されて、黄色い液体の入ったグラスが置いてある席の横へ腰を下ろす。
 ……僕に会いに。
 感じたのは確かな喜びと優越感で、それであの店員に鞭打たれているのも許してやろうという気にさせた。

「日本酒冷や」
「甘口、でしょ。イツキさん、来るとなったら毎晩でも来るからって用意してあるよー」

 注文する前に用意を始めていたらしい紫は瓶のラベルを見せてからグラスに注いで僕の前に置いた。
 僕を目当てに来たというなら今夜こそ縛り上げて堕としてやろうと画策し、ナツメのものだろうコップを持ち上げて匂いを嗅いでみる。
 酒だったら少し手加減してやらないと吐くから、と思ったのだけど、匂いがしないから試しに一口飲んでみたら混じり気無しのオレンジジュースだった。

「あの、それ俺の……」

 おずおずと話し掛けてきたナツメを振り返ると、彼は一瞬驚いたみたいに目を丸くしてから硬直した。

「おーい?」
「……あ、すいません、えっと、まだ十九なので」

 酒を頼んでいない理由を答えるナツメに、若いと思っていたけどまだ未成年なのか、と少し躊躇する。いや、猥褻な事をする気は全くないから、後ろめたい気持ちになる必要はないのだけど。
 僕を目当てに待ってたんだろう、と言うと彼は素直に頷いて、その裏表の無さそうな様子を見ていると否応無しに期待が膨らんでいく。
 また上の階のレンタルルームを借りて部屋に連れ込んで、久々に触る麻縄を掌でしごきながら適当な事を話した。本当に適当に喋っていたから、内容なんてほとんど覚えていない。
 人と会話する時は大体そうだ。流し聞きしながらいくつか単語を拾って、欲しがっていそうな返事をくれてやればそれで勝手に満足する。
 僕が欲しいのは素直に縛られてくれる体だけで、その中身がどんなでもどうでもいい。

「それで、こないだ言ってた彼女のことなんですけど」

 裸にさせた上半身は薄っぺらく脂肪が無く、縛っても面白くなさそうだと思うのに掌で触れるとその感触に腹の奥がゾクゾクしてくる。
 彼女、彼女。なんの話だっけ、と思い出して、そういえば彼女の為にサドになりたいとか馬鹿な事を言ってたっけと失笑を漏らす。
 君は今夜僕のマゾになるんだよ、と逸る気持ちを押さえながら両腕を背中で縛り上げて、ブランクの割に見た目は綺麗に出来たのに彼は全くの無反応だった。
 緩過ぎただろうか、と一旦縄を解いてまた縛り直すのに、ナツメは息を乱す様子も無ければ体を震わせもしない。カンが鈍ったか、と焦るのに、当のナツメは僕の様子なんか気にもせず、微かに肩を落としてから唇を尖らせた。

「いえ、途中で逃げられました」

 逃げられた? 途中で?
 それは情けないな、と思わず噴き出して笑うと彼はぐっと唇を噛んで、その表情が殊更可愛らしくて縛った腕を撫でた。

「相手がマゾだって分かってても無理強いしないで、偉かったね。ナツメは優しい子だ」

 本当に。僕みたいに、マゾだと早く自覚させたくてこんな騙しうちみたいな真似もせず、逃げる猶予を与えているんだから。

「イツキが言ってたから」

 だからだ、と言うナツメに、そんな事言ったっけ、とクッと喉を鳴らして笑ってしまう。こっちが心配になるくらい騙され易い子だ。もっと人を見る目を養わないと、社会に出たら真っ先に食い物にされるタイプだ。
 疑う大事さは知っているくせに、人の表しか見ないからすぐ信じる。
 馬鹿な子供、と思うのに、それがどうにも可愛らしく見えるから不思議だ。
 次は足、と座らせて縛るとナツメはやっと少し顔を赤くして、けれど完成する頃にはまた素面のように戻ってしまっていた。
 少し時間が掛かるんだろうか、と待ってみても縄酔いする様子は見えず、想像と違う様子に落胆してしまう。
 縄酔いしたら絶対に可愛いのに、と悔しく思いながら縄を解き、来週も来るかと聞いたらナツメは少し考えるように間を開けてから「たぶん」と答えた。
 だったら、まだチャンスはある。
 来週こそは絶対に縄酔いさせて僕のマゾにしてやる、と意気込んで、けれどその次もその次も、……何度縛っても棗は縄酔いしてくれなかった。
 そのうち自分の感覚の方に自信が無くなって錘で他のマゾの子を引っ掛けて縛ってみたらそっちはすんなり酔ってくれて、いつまでもナツメだけが堕ちてくれなかった。
 内心の動揺を押し隠しながら色々な縛り方を試して、吊りまでしたのにそれでもナツメは「ちょっと苦しい」と言うだけだった。
 どうして縄酔いしてくれないのか。
 すっかりお手上げで紫に愚痴ったら、彼はそれはもう楽しそうに笑ってくれた。

「イツキさん悩ますなんて、やるなぁナツメくん。っていうか、そもそもあの子マゾじゃないんじゃない? たまに居るじゃん、マゾっぽいのにフラットな子」
「……僕の勘が外れてる、って?」
「だって何度縛ってもダメなんでしょ? ……それかぁ、痛いのが好きなタイプのマゾとか? だったらイツキさんとは一番相性悪いじゃん」

 それは確かに、そうだ。痛がらせたいと思ったことは無いし、縛っている間は怪我しないように細心の注意を払っている。
 だとしたら、これ以上関わっても無駄か。
 そろそろ諦めて放逐するか、と考えた脳裏に、アイに叩かれて膝を震わせていたナツメの背中が過ぎる。
 他の、僕以外のサドの前で、掠れた声で喘ぐナツメ。
 そんなことは許せない、とグラスの端を齧った。あれは僕のマゾだ。僕のマゾじゃなくちゃいけない。
 酒を呷ると頭痛がして、そしていつも部屋を出て行く時のナツメの背中を思い出した。
 何が、『僕のマゾ』だ。あれは今も、『誰かの彼氏』だ。彼女の為、なんて理由で僕に縛られて、なのに何の反応も見せず、また彼女の元に帰っていく。

「……早く別れればいいのに」

 思わず吐いた言葉に、紫がまた高い声で笑う。

「彼女と別れたからってイツキさんの物になるとは限らないでしょ?」
「……」
「……え、待って。イツキさん目がマジだよ? 男の子落とす気? ナツメくんの事好きなの?」
「……」
「うわー鬼畜! 好きでもないのに落とすだけ落として都合の良い犬にする気なんだ! イツキさんちょー鬼畜!」
「……なんにも言ってないんだけどね」

 紫とは長い付き合いになるから、言わなくても僕の考えが透けて見えるらしい。あの子もこれくらい人の意図に敏感になれば悪い大人に騙されなくて済むのに。











 ナツメが「彼女と自然消滅しそう」と言い出したのはその翌週で、僕にとって都合の良い状況にほくそ笑んだ。

「ナツメみたいな素直で尽くし体質の男を切るなんて、勿体無いことするなぁ」

 僕が思ってもいない慰めを口にするとナツメは照れ笑いして、それがまた可愛くて閉じ込めて飼いたい衝動に駆られる。
 こんな子を捨てるなんて、本当、この子以上に人を見る目が無い馬鹿女だ。まあ、そのおかげで僕にチャンスが回ってきたから良いんだけど。
 どう口説くか脳内でシミュレーションしながら縛り上げて、完成してからいつも通りその出来の良さに惚れ惚れと眺めていると誕生日の話になった。

「僕はもう四十二だけどね。……そっか、二十二歳差か。はたから見たら親子にしか見えないね」

 自分で言って、それからその鋭い切っ先で自分を刺し貫いた。
 ──親子にしか見えないほど歳の差がある子に、僕は何をしようとしているんだ。
 正気に返ってみると判断力の無い子供をいいように騙してその気持ちを弄ぶなんて紫の言う通り鬼畜としか言いようがない所業だ。
 何かする前に正気に戻れて良かった、と安堵しつつ、なのに心の中の悪い部分が「じゃあ諦めるのか」と囁いてくる。
 この子を手放すのか。他の人間にみすみす渡すのか。次に捕まるのが女とは限らない。僕のように表面上だけ優しい顔の出来るサドの男はいくらでも居る。その男が、ナツメに触れていいのか。
 全てに『駄目に決まってる』と答えを出した時、唐突に合点がいった。
 僕は、本当にあの時、ナツメに一目惚れしていたんだ、と。
 縄を解きながら、腑に落ちたその結論に動揺する。
 好きなのか、僕は、この子を。
 これまで四十余年生きてきて、恋愛感情なんてとくと自分とは無関係なものだと思っていたのに? 人間なんて縛って見映えがするかそれ以外かでしか見てこなかったのに?
 きっと死ぬまで普通の恋愛なんて理解出来ないと思って半ば諦めていたんだから、そう決め付けるのは早合点だろう。そうだ、恋愛のれの字すら感じず生きてきたんだから、気の迷いだ。自分で気付いていなかっただけで、離婚が精神的なダメージになって、それでストレスで──。

「……?」

 いつもならもっと眺めているところなのに、早々に縄を解き始めたのが不思議だったのか、ナツメが綺麗な目を瞬かせてもう終わり? とばかりに見つめてきた。
 彼が自分から視線を合わせてくるのは珍しく、なのにそこに映る自分が急に酷く醜悪なものに見えて目を逸らした。

「何か、欲しいものでもある?」
「欲しいもの?」
「ああいや、僕が渡すと援助交際みたいだね。やめとこう」

 俺が訊くとナツメは首を傾げて、その仕草に幼さを感じて慌てて発言を取り消した。
 心臓が、痛い。
 馬鹿じゃないかってくらいうるさく鳴って、出た結論から逃げようとする僕を責めてくる。

「現物支給でいいんで。米が欲しいです」
「米?」

 誕生日に?
 綺麗に包装された米俵を抱えて喜ぶナツメを脳裏に描いてしまって、くっくと笑い出すと彼は笑われてるのに嬉しそうに目を細めた。
 優しい顔で笑うその表情に、喉元が苦しくなる。
 ……ああ、認めよう。好きだ。この子が好き。
 だけど。

「イツキは何か欲しいものありますか?」
「今月ピンチなんでしょ。息子みたいな歳の子に無理させたりしないよ」

 歳が、離れ過ぎてる。
 僕とナツメ、二人が並んで歩く姿を見て、誰もそこに恋愛が絡むなんて思わないだろう。良くて上司と部下、でなければ親と子。
 僕が成人式を迎えた頃、この子はまだ産まれてもいなかった。
 そんな子に恋するなんて、馬鹿げてる。結果なんて見え見えで、まだウサギとカメのレースに賭ける方が勝率が高いだろう。

「金のかかるものは無理ですけど、それ以外で俺に出来ることだったらなんでもしますよ」

 無邪気な笑顔で言われて、唇が震えた。
 だったら今すぐ僕を好きになってくれ。年齢なんて関係ない、貴方が好きだと言ってその小さな唇の感触を教えてくれ。
 うるさく叫ぶ厄介な本能を深呼吸で抑えつけて、「なんでも、なんて軽弾みに言っちゃ駄目だよ」と大人ぶって嗜める。

「イツキにだから言ってるんですけど」

 僕がナツメからの信用を裏切るだなんて有り得ない、とでも言いたげな表情に、唇を噛んで視線を逸らす。
 そんな簡単に騙されてくれるなよ。僕はそんな良い大人じゃない。君を取って食おうとしてる、だいぶ性質の悪い方の大人だ。

「じゃあ、次縛る時は全裸ね」

 にこ、とわざとらしい笑顔を作って言うとナツメは頬をヒクつかせながら硬直した。
 ああほら、僕がそんな事を言い出すなんて思ってもみなかった、って顔をしてる。
 全く、と呆れ笑いすると僕の言葉を冗談だと思ったのか彼も苦笑して肩の力を抜いた。まだまだお子様で、そこが可愛くもあるのに、憎らしくてたまらなくもある。
 なんでそんなに遅く産まれてきたのかな。もっと早く、もっと近くに産まれてくれたら、四十二年も無駄にせずに済んだのに。

「十キロだと重いし邪魔になるかな」

 錘に米をどう持ち込むか考えていたら、ナツメは少し言い淀んでから口を開いた。

「あの、どこかご飯連れてってくれるとかでどうですか」
「ご飯? 僕と? どうして?」

 僕なんかと飯に行く必要性が何処にあるの、と真顔で訊くとナツメは一瞬ショックを受けたみたいな表情になって、繕うように笑顔を浮かべ直したのを見てから返答を間違った、と焦るも間に合わない。

「米、五キロでお願いします」

 今、踏み込めた。もう少し踏み込めたのに、ナツメが自分から誘いかけてくれたのに、僕が潰した。
 しくじった悔しさに湧き上がる吐き気を飲み込んで、いつも通りの笑顔を貼り付けて「美味しいの探してみるね」と言うのがやっとだった。











 好きだと自覚すると、初めてこの世界にやたらと恋愛ソングが蔓延はびこっている理由が分かった。
 十代の女の子が歌う、会えない辛さ、相手が自分以外と楽しそうにしているのを悲しむ歌詞がグサグサ刺さって我ながら呆れる。もっと頑張ればいいのに、努力しないでぐちぐちと煩いな、なんて思ってた昔の自分に盛大なブーメランが刺さってきて痛い。
 努力する気を失くすくらい、望みの無い相手に恋する事だってあるんだ。四十代になって初めてそれを経験して、十代のアイドルに教えられる滑稽さに恥ずかしくてたまらない。
 下らないと思っていたものに共感なんてしたくないのに、勝手に耳に入ってくる恋の歌はどれも全てがナツメの事を思い出させる。
 ナツメに会いたい。
 錘で会う小一時間だけじゃ耐えられない。あのビルの外で彼がどんな風に生きているのか、その日常の一部に僕も入り込みたい。
 同じ想いを返してくれなくてもいい、ただ、今以上に僕を身近に置いて、「イツキさん」と──いや、「壱衣」と呼んで欲しい。
 全く本当に馬鹿だ、と寝ても覚めてもナツメの事ばかり浮かぶ思考を自分で叱りつけながらコーヒーショップの自動ドアをくぐると、いらっしゃいませ、の挨拶の途中で言葉を止めた店員が驚いたように僕を見た。

「……あれ」

 とうとう白昼夢まで見るようになったか、と瞬きすると、ショップの制服を着たナツメも同じように瞬きした。
 白いワイシャツの左胸のポケットにはネームプレートが光っていて、その『八幡』という文字をなぞってから、

「ナツメのバイト先、ここなんだ」

 と訊いた。
 ナツメというのが偽名なら実生活で出されれば焦るだろうと計算したのだけど、彼は「はい」と少し顔を赤らめながら頷いた。
 八幡が苗字なら、ナツメは名前の方か。
 やわたなつめ、やわたなつめ、と胸中で呟いて、柔らかく甘ったるいその響きを知れたことに喜びを噛み締める。
 頼まれた飲み物の注文数が多い事を思い出してメモを見せるとすぐさま仕事用の言葉遣いに戻るのが面白くて、でも雑談を振るとすぐに砕けるのが可愛い。

「そっか、保育園」

 最初に会った夜に教えた僕の勤務先を覚えていたのか、納得して頷く様子を見て思わず撫でてやろうと手を伸ばそうとして、そしてここが彼のアルバイト先だというのを思い出して思い留まった。
 ……そうか。棗の日常に入るってことは、『一般的に四十代の男が二十代の男にしないだろうこと』は出来ないってことなのか。
 彼に触れられるのは錘という特殊な空間だから許されることで、そうでもなければ髪に触れることすら出来ないのか。
 気付いてみると至極当然で、けれど歯噛みして地団駄踏みたくなるくらい苦しい。
 いつも通りの笑みを張り付けてぐっと堪えたのに、当の棗が僕の手の甲を見つめて残念そうな表情をするのを見て掻き抱きたい衝動に駆られた。

「……撫でてほしい?」

 まさかね、と、でも期待を込めるように小さく訊いてみれば、彼は顔を真っ赤にして周囲に視線を巡らせた。

「あのっ、バイト中っ」

 小声で返してくる声は震えて、見透かされたのがよっぽど恥ずかしかったのか耳まで真っ赤になっている。

「誰も聞いてない。……君の他はね」

 君にさえ聞こえたらいい。わざと声を抑えて囁くと棗は耐えきれないみたいに視線を手元に落としてぎゅっと拳を握った。
 その様子が、希望にしか見えなくて縋りたくなる。もしかしたら、棗も同じ気持ちかもしれない。棗も、僕に惹かれてくれているのかもしれない。

「ね、棗、バイト何時まで?」

 今度こそ間違えないつもりで、けれど逃げ道を残した誘い方をしたら棗はあからさまに迷っていて、だけど最終的に僕の連絡先を受け取ってくれた。
 その夜、待ち合わせてから行った食事はとてつもなく楽しい時間だった。
 人生でこんなに充実した二時間は無かったんじゃないかというくらい幸せで、軽く触れただけのキスで棗が蕩けていきそうな表情を見せてくれたのは最高だった。
 これはもう、勘違いなんかじゃなく僕に惚れてるんだろう。
 そう思うと柄にもなく踊り出したい気分だった。
 明日は棗の誕生日だ。今度は居酒屋なんかじゃなくもっと良い店に連れていこう。
 酔わせてホテルに連れ込むような無粋はしない、あの子は大事に大事にしよう。男同士だってことに最初は躊躇するかもしれないけれど、甘い言葉で何度でも口説いてやればきっとなし崩しに受け入れてくれる。あの子は優しい子だから、僕がちょっとみっともないくらい好きだと言い続ければ絆(ほだ)されてくれるに違いない。
 打算と妄想が入り混じった想いを抱いて次の日も棗のバイト先へ行った。居なければ電話して誘うつもりで、だけど誕生日の筈のあの子はその日も働いていた。

「今日もバイトなの?」

 気遣うように訊くと棗は注文したアイスコーヒーを作りながら「人が足りなくて」と呟いて、浮かれきっていた僕は様子が変なのにすぐに気付かなかった。

「何時に終わる? 今日は棗の好きな所連れてってあげるよ」

 若い男子だと高くてお洒落な店より焼肉とかの方がいいのかな、とまずは棗の希望を聞いてから店の見当を付けようと思っていたのに、彼は気まずそうに顔を顰めてから首を横に振った。

「あの……、今日は、その、ちょっと難しくて」

 僕の提案を曖昧な言葉で断りながら、棗は店内のイートインスペースの方へ視線を向けた。釣られるようにそっちを見て、こちらに背を向けて座る女の子の姿を見つけて喉元が絞られたように苦しくなった。

「……彼女?」

 声が震えないように細心の注意を払って訊くと、彼は「一応」と答えた。
 一応。
 ……一応、の彼女に、僕は負けるのか。
 昨日はあんなに楽しそうにしていたのに、キスを嫌がるどころかもっとして欲しそうにしていたくせに、結局、一ヶ月も連絡してこなかった彼女を選ぶのか。
 煮えくりかえる臓腑にかえって冷静になって、作り慣れた微笑みを浮かべて棗の手からコーヒーのカップを取り上げた。
 まだ蓋を閉めてない、と慌てる棗に強がって「楽しい夜になるといいね」なんて台詞を吐いて、店を出てから駅のゴミ箱に一口も飲んでいないコーヒーを投げ捨てた。











 怒りを宿したまま人を縛るのは危険だと、それくらいの分別は残っていた。
 だからその日の夜は自宅に帰って浴びるように酒を飲んで寝落ちして、翌日は二日酔いで痛む頭を抱えながら仕事をした。
 一晩経てば落ち着くかと思った怒りはしかし、ふとした時に湧き上がって腹を焼いた。
 思い出すだけで楽しい気持ちになった棗の顔は浮かぶだけで憎しみが湧き、なのに同時に狂おしく愛おしい。
 涼しい顔で備品の領収書を確認する脳内では棗を殴り飛ばして縛り上げてぐちゃぐちゃに泣かしてから犯す妄想が繰り広げられていて、自分の中に潜んでいた加虐衝動に少し引くほどだった。
 これはもう、一度吐き出さないとどうにもならない。
 そう判断して仕事上がりに錘へ寄って、昔馴染みの姿を見つけて自分から誘いをかけた。

「珍しいわ、イツキさんから誘ってくれるなんて」
「ちょっとね、ストレス溜まってて。少し乱暴になっちゃうかもしれないんだけど、それでも大丈夫?」
「……本当に珍しい。マゾに八つ当たりしたいなんて、よっぽどね」

 鷹揚に笑った女は同年代で、ふくよかな身体つきと長い黒髪が気に入って昔何度もプレイした。
 振り返ってみれば復帰してから棗以外とプレイするのは久々で、ここ最近だけでなく恋心を自覚する前から彼に心酔していた事実に打ちのめされる。

「失恋したんだよ」

 僕が嘲笑混じりに吐き捨てると女は「あらあら」とだけ言って笑って、それから肩にしなだれかかってきた。
 ……低い。
 触れる体温を棗と比べて、あれだけハッキリ振られてまだ未練があるのかと自分に怒りが湧いて酒のグラスを呷った。

「イツキさんをここまで乱すなんて、妬けちゃうな」
「慰めてよ」
「私でいいならいくらでも」

 そう言いつつも女は慰めの言葉はくれず、視線を向けると意外そうに目を丸くした。

「え、本当に慰めて欲しいの? プレイじゃなくて?」
「……」

 これが自業自得ってやつだろうか。今まで人を喋る肉袋くらいに思っていたツケがきたのか。
 組んだ指に額をつけて深くため息を吐いて、酒のグラスをカウンターに上げてお代わりを頼む。酔うと手元が狂い易いからプレイの前には軽く引っ掛ける程度しか飲まないようにしているのだけど、どうにも素面じゃいられない。
 ちびちびやっているのを見兼ねた女に「もう行きましょう」と嗜められて、自分から誘ったくせに乗り気になれないまま席を立とうとした所で店の出入り口の扉が開いて棗が入ってきた。
 彼は僕を見つけると即座に寄ってきて、その嬉しそうな顔に腹の中に色々な感情がとぐろを巻いて鎌首を擡げた。

「あの、イツキ」
「ごめんね、今日はもうこの子と遊ぶ約束したんだ」

 お願いだから、もうこれ以上僕の中を掻き乱さないでくれ。
 怒りと喜びと憎しみと愛しさと、それらがない混ぜになってから出てきたのは最終的にそんな泣き言だった。
 いつも通り微笑みを浮かべてすげなく断ると、それだけで何か察したような女が僕の腕に腕を絡ませてくる。……そんな挑発に乗って嫉妬してくれる相手だったら、どんなに良かったか。
 棗は女の方へ視線すら向けず、寂しそうに眉尻をハの字に下げて「少し話だけでも」と食い下がってきた。
 話だけ。その、だけ、で君はきっと、また僕を惑わすんだろう。可愛い顔で僕に微笑んで、気がある素振りで「何をされてもいい」なんて言うんだろう。
 憎らしく思ってもそうなるのは分かりきっていて、立ち上がろうと視線を落とした先に棗の手首があった。
 季節的に長袖なのは珍しく、不思議に思ったその袖から縄跡が覗いていてひゅっと息を呑んだ。
 くっきり残る縄目はありがちな素人向けの綿ロープのものだと一目で分かる。
 ──他の奴に、縛らせたのか。
 湧き上がる怒りを酒で飲み下して、今度こそ椅子から立ち上がった。

「彼女と仲良くね。……行こうか」

 袖から縄跡が見えている事をそれとなく伝えると棗は慌ててそれを隠して、誤魔化すように言い訳しようとするのを一睨みして黙らせた。
 もう一秒も、棗の姿を視界に入れていたくない。
 そんな心持ちで女を伴って歩き出そうとするのに、彼はつい昨日まで聞きたくて仕方なかった言葉をこんな時に叫んだ。

「俺のこと、イツキの物にして欲しい」

 縋るような目に、心が揺れた。
 承諾の言葉を吐きそうになる唇をわざとらしい微笑みを作ることで抑え込んで、「ごめんね」と絞り出す。

「今夜はこの子と遊ぶんだよ」

 僕に完全に拒絶された棗は黙って俯いて、その哀れさを誘う姿に嘘だよと言って抱き締めたくなる。
 これ以上ここに居たらまたこの子に狂わされる、と必死の思いで女を伴ってその場を立ち去って、錘のビルを出た。
 噛み締めた奥歯がギリギリ鳴って、脳内に棗の「イツキの物にして」という声がリフレインしていた。
 あれだけ僕が縛ったのに、何度も何度も本気で縛ったのに、一度も酔わなかったのに。たった一度女に縛られただけでマゾだと自覚して、それで、だから僕がいい、って?
 なんだそれは。そんなの、僕が『上手なS』だからってだけで、そこに僕の人格なんて何も関係無いじゃないか。
 棗が欲しいのは僕じゃなくて『縛りの上手い御主人様』じゃないか。
 駅に着く前に僕の腕に絡んでいた女がふと立ち止まって、「困った人ね」と言いながら僕の頬を撫でる。
 気が付けば頬は涙で濡れていて、視界は透明な膜でも張ったみたいにゆらゆらと歪んでいた。

「……っ」
「泣くほど悲しいなら戻ればいいじゃないの」
「あの子は……っ、僕じゃ、なくてもっ」
「はいはい、落ち着いて。全く、本当に貴方あのイツキ様なのかしら?」

 一人のマゾにそこまで肩入れするなんて考えられないわ、と笑われて、スーツが濡れるのも構わず腕で顔を拭った。

「恋なんて知りたくなかった」

 周囲は女の他に人影はなく、だから小さく愚痴ると女はふふふっと軽やかな声で笑って僕の背中を叩く。

「やだ、子供みたいな事言い出さないでよ。あーあ、イツキ様がこんなに落ちぶれちゃうなんてほんと残念。萎えちゃったから、もう私帰るわよ」
「……慰めてくれないのか」
「嫌よ、赤ちゃんプレイは範囲外なの」

 そこまで子供じゃない、と気を抜くとまだ涙の溢れてきそうな目元を擦っていると女は僕から離れて別れの挨拶をするように手を振った。

「今の貴方ならきっと、中身だけなら釣り合うわよ。お子様同士で」

 女はそのまま駅の方へ歩いて行って、僕はそこで少し立ち尽くして息を整えてから踵を返した。
 錘へ戻る道は大通り一本で、駅へ向かうならわざわざ他の道を通る理由は無い。だからまだ棗は店に居るんだろうと見当をつけて、錘のドアを開けた。
 店に戻った理由は……、女の都合が悪くなったとか、適当でいいか。
 棗のことだから、そんな見え透いた嘘でも信じて、戻ってきたことに喜んでくれるだろう。
 みっともなく人前で泣いたことで、もう覚悟は決まった。
 棗にどんな扱いをされようと、棗を僕の犬にする。
 棗が同じ意味での好きを返してくれないとしても、僕は彼を所有し続けてやる。他に恋人を作ろうが、結婚しようが子供を作ろうが、絶対に手放さない。
 だって、彼が言い出したんだ──僕の物になりたいって。
 さあさっきみたいに顔を輝かせて走ってこい、と店内にまだ棗の姿を見つけて視線を向けたのに、彼は見たくないみたいに俯いてそのまま体を縮こませて固まった。

「どしたの? 具合悪い?」

 下を向いたままの棗に、横に座っている男が背中に手を回して撫でながら顔を寄せていく。押し退ければいいのに棗はただもっと背中を丸めるだけで、調子に乗った男は唐突に彼を抱き寄せた。

「玲、離してやりなさい」
「えー、やだ、今日はこの子で遊ぶ」

 ……ああ、そう。
 棗が俯いているのは、僕にフラれてすぐに他の男を引っ掛けた気まずさからか。
 どうするか咄嗟に良い対応が思い付かなくて、結局棗の座る席のすぐ近くのカウンター席に座った。
 店員がさっき帰ったばかりの僕が戻ってきた事に少し不思議そうな顔をして、けれど何も言わずいつもの日本酒を出してきた。
 それをぐいっと一口で飲み切って、お代わりじゃなく瓶ごとくれ、と指で示して手酌で二杯目を飲む。

「あの、俺、帰ります」
「ええ。ほら玲、聞いたでしょう。離れなさい」
「やーだー。じゃあ俺も帰る、今日はちゃんと帰るから連絡先教えて。これ、ID交換して」
「あ、……はい」

 棗が自分から誘いを掛けたのかと思ったが、どうやら違うらしい。
 逃げ出したい雰囲気の棗に同席する金髪の男が助け舟を出すように一緒に店を出ようとしていて、だけど棗に絡む黒髪のヤクザじみた男がゴネている。
 連絡先だけ交換したら今日は諦める、と言われて棗は馬鹿正直にスマホを出していて頭痛がしてくる。

「ごめん、やっぱもう少し話してくからミチは先帰って」

 三人で店を出るような話から一転して、黒髪の男は棗の肩を抱きながら金髪の男に先に帰るよう促した。
 聞き耳を立てるけれど、かなり声を落とした棗と男の会話は内容の判別が付かない。それとなく横目で窺うと、さっきまで肩を撫でていた男の手が棗のズボンの中に入ってそこを揉むように動いていた。
 ……まだ、僕も触れた事のない場所を。
 カッとなって爆発しようになるのを酒で飲み込んで、焼けるように熱くなる喉に奥歯を噛み締める。
 棗が僕を信用しているのは、こうして理性がきくからだ。大人っぽく、余裕があって、優しい。それが彼から見た僕で、だから激情に身を任せるような真似だけはしちゃいけない。
 酒を飲むことでなんとか怒りを抑え込んで、体を寄せ合って小声で話し続ける二人の様子をチラチラ窺っていると不自然にこちらを振り返った黒髪の男と目が合った。
 男はニヤ、と目を細めると挑発するみたいに棗の耳に口付けて、それを見た瞬間に耐え切れず立ち上がった。いつにないペースで飲んだからか一瞬よろけて、それでも脚に力を入れてしゃんと立つ。
 棗の前で無様は晒さない。絶対的な『ご主人様』であり続ける。

「棗。暇なら来なさい」

 酒の勢いのまま話し掛けて、傲慢に見えるように冷めた表情を作って棗へ手を差し伸べた。
 棗は困ったような表情を浮かべて、だけど迷惑そうではない。行ってもいいのか、まるで許しを乞うみたいに僕の手を見つめて不安げに瞳を揺らしている。

「さっき振った癖に態度でかくね? 何様だよオッサン」

 黒髪男は棗の肩を抱きながら口を挟んできて、軽く口論になりかけた。
 途中で割って入ってきた紫が男を兄と呼ぶのを聞いてはそれ以上揉める事も出来ず、男も紫に言われて引き下がったからなんとか男から棗を引き剥がせた。
 上の部屋へ連れ込んで、怒りを押し殺しながら彼を仕込み直した。
 言葉遣いと、態度と、絶対的な立場の違い。
 今まで棗には強要してこなかった性処理までさせて、なのに彼は無理やり喉に押し込まれて明らかに恍惚としていた。積極的な割りに下手くそで、男のモノをしゃぶるのが初めてなのは明白で余計に興奮を呼んだ。
 慣れた女相手でもした事がないくらい乱暴に使って喉に直接吐き出して、少しくらいは怒るかと思ったのに頭を撫でてやっただけで嬉しそうに笑った。

「他のSとプレイしたら捨てるからね。僕以外とはしないように」

 Sじゃなければいい。ご主人様と呼ぶのが僕一人ならそれでいい。君の日常に入りたいなんてもう望まないから、せめて非日常だけは僕だけの物でいて。
 そんなささやかな願いを込めて、ひたすらに柔らかい猫っ毛を撫でた。










 それから、三日が経ち、一週間が経ち。
 縄跡が消えたら連絡してこいと言った筈なのに、一向に棗からは連絡がこなかった。
 あの程度なら毎度長めに風呂に入れば二日で消えただろう。浮腫むくみやすい女でも一週間も残らないはずだ。
 なんで連絡してこないのか分からず、こっちから連絡しようかとも思ったけれど実生活が忙しいとかだったらと思うと出来なかった。
 もう、踏み込まないと決めた。
 ご主人様と犬。それでいい、それで満足しようと決めた。
 だから待った。ひたすらに待って、ある夜スマホを握り締めながら寝ている自分に気付いてどっちが犬なんだかと苦笑が浮かんだ。
 ご主人様を放置プレイだなんて、なんて傲慢な犬だ。毎夜毎夜、連絡が来たらどう叱りつけて、どうお仕置きしてやるか考えるようになっていた。
 脳内だけならいくらでも殴り飛ばせるけれど、実際彼を前にしたらあの可愛い顔を傷付けるなんて到底出来ないだろう。
 けれど、ただ許すことも出来ない。
 泣き顔はきっと可愛い、と想像して、泣かすくらいなら出来そうだと色々な仕置きの道具をネットで探した。
 尿道プラグ、電極責め、ペニスリング、ニップルクリップ。「痛いのが好きなタイプとか?」と言った紫の言葉がチラついて、気が付けば手元には軽い痛みを与えつつ同時に快楽も与える玩具が勢揃いしていた。
 でも、それらで泣かせてもまだ満足出来ない気がして、辿り着いたのはバイブや張り型だった。
 あの細い腰を押さえつけて男根を模した玩具を捻じ込んで泣かす妄想をするとやっと求めていた物が分かった。
 泣かせて、喘がせて、もっとと叫ばせたい。
 快楽で頭を白痴にさせて、日常に帰れないくらい僕に依存させたい。
 何が『ご主人様と犬でいい』だ。全く諦められてないじゃないか、と自分に呆れつつ、初めての恋にオッサンが一人で頭を悩ませているのに無性に腹が立った。
 翌日、昼休みに棗のバイト先のコーヒーショップを覗くと彼は平然と仕事に勤しんでいて、僕がこんなに焦れているのにと八つ当たりするつもりで店に入った。……のに。

「い、いらっしゃいませ」

 僕の姿を見つけた棗はそれだけで泣きそうな顔になって、それでも気丈に注文を聞いてきた。声も手も震わせてコーヒーを作るのを見て、溢れそうだった怒りが力を失って萎びていく。
 なんで連絡しないの、なんて叱り付けたら泣き出しそうだ。
 あれだけ泣かせたいと思っていたのにいざ泣きそうな棗を前にすると罪悪感の方が先に立って、興奮なんて出来やしない。
 何も言わず帰ってやるのが彼の為か、と会釈だけして立ち去ろうとしたのに、消え入りそうな声で「ありがとうございました」と言った棗は瞬きと共に涙を溢した。
 驚いて思わず慰めようと頭を撫でて、けれど叱られる恐怖で怯えているなら逆効果かと手を止めたら棗が目線を上げて僕を見た。

「……」
「……っ」

 ゆっくり瞬きした棗は僕の手の重みを喜ぶみたいにまたぼろりと涙を溢して、鼻を啜って手の甲でそれを拭おうとしたから先に僕が指で拭った。
 温かくて、少し冷たい。とめどなく流れてきて指を濡らす涙に彼も会えない時間を辛いと思ってくれていたんだと感じられて、たったそれだけで絆されてため息を吐いた。

「怒ってたんだけどね、僕は」

 そう呟くと棗はあからさまに体を震わせて、怯えた表情で見上げてくるのが可愛くて撫でていた手をゲンコツに丸めて軽く叩いてやった。
 終わるまで待ってる、と囁くと棗は大きく目を見開いて驚いて、それから顔をくしゃくしゃにして俯いてからカウンターの中へ駆けていった。
 ……あれで僕に惚れてないっていうんだから、卑怯だ。
 頼んだコーヒーは苦く、砂糖もミルクも入れ忘れてる、と小さく笑った。


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感想 1

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みんなの感想(1件)

ツキトジ
2023.01.18 ツキトジ

なつめくんもいちいさんもとてもかわいい
wannaiさんの作品めっちゃ好きです、ありがとうございます

解除

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