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しおりを挟む今日の部屋は、フローリングの真ん中にぽつんと一人掛けのソファが置いてあるだけの部屋だった。
珍しくずっと俺の先を歩いていたイツキはソファにどっかと腰掛けると、無言でその前の床を指差した。また床か、と思いつつそこに胡座で座ると、「違う」と冷めた声が掛けられる。
「僕の物になりたいんだろう。だったら君はこれから、犬だ。犬はそんな座り方をしない」
「……」
やっぱり今日のイツキはいつもと違う。さっきもだったけれど、やけに言葉が刺々しくて命令形が多い。いつもだったらもっと柔らかくて、訊ねるように言ってくれるのに。
「返事は」
組んだ膝の上に腕を置いたイツキは前屈みになりながら俺を見下ろしてきて、吐息が酒臭くて知らず眉間に皺が寄った。
さっき店を出て行く時点ではそれほどでもなかった。
店に戻ってきて俺に話し掛けるまでの短い間にどれだけ呑んだんだろう。相手の女に用事が出来たと言っていたけれど、不機嫌なのはそれが原因だろうか。ヤケ酒ってやつ?
イツキの様子がおかしい理由を考えつつ、犬がどんな風に座っているか思い出そうとする。うちで飼ってたのは猫だから上手くイメージ出来ないけど、まあ大体一緒なような気がする。
膝を曲げて蹲んで、腕をその前に揃えて。こんな感じだよな? とイツキを見上げると、眼前に靴裏があった。
「イッ……!」
鎖骨辺りを押すように蹴られて後ろに倒れ込んだ。背を丸めていたおかげで頭を打つというよりは達磨のようにごろんと転がったのだけど、イツキから暴力じみた行為を受けて驚くしかない。
目を白黒させて上半身を起こすと、イツキは眉間に深い皺を寄せて唇を噛んでいた。
「イツキ……?」
今日の彼は、本当に色々変だ。怖さより心配になる。
どうかしたのか、と訊こうと俺が口を開くより前にイツキは苛立ちを吐き出すようにらしくなく舌打ちして、組んだ指を組み替えた。
「ご主人様に対しては敬語を使いなさい。呼び方は『イツキ様』だ」
まただ。
今日は──いや、もしかしてこれからずっと、イツキはこんな感じなんだろうか。俺が彼の物に、犬になるっていうのはそういう事なのか。今までみたいに、いいこにしてたら撫でてもらえる、そんな愛玩犬希望だったんだけど。
「棗。返事」
イツキの声は低く冷めていて、そこに優しさも気遣いも感じられない。
「……はい」
希望通りとはいかないらしいけれど、だからって撤回するつもりもないから返事をした。
座る格好は合っているのか、俺が姿勢を直して再び見上げると今度は蹴られなかった。
「……」
イツキは睨むように俺を見下ろして、けれど言う通りにしたのに何も言ってくれない。忙しなく組み替えられる指は彼の苛立ちを表しているに違いなく、何かしらが気に障っているのだろうが理由が見つからなくて戸惑う。
俺から何か言うべきなのか、それともただ黙っていればいいのか。SMの作法なんてサッパリだからただひたすらにイツキが何か言ってくれるのを待つしかない。
「……だ」
「え?」
「今日はもう、終わりだ。帰りなさい」
終わりも何も、全く何もしていないのに。目を丸くする俺から目を逸らし、イツキは椅子から立ち上がった。
そのまま歩き出しそうな気配を感じて慌てて彼のズボンを掴むと、眇められた目に鬱陶しげに睨まれる。
「離しなさい」
「でも、イツキ……様」
「離しなさい」
取りつく島もない態度に目が潤んだ。
イツキだったら全部忘れさせてくれると思ったのに、どうしてこうもタイミングが悪いのか。
昨日までの彼だったらきっと、撫でてあやして、俺の欲しい言葉をくれた。強姦された事なんてどうでもよくなるくらい甘やかして、俺を更にずぶずぶに惚れさせた筈だ。
なんでこんな日に限ってイツキの機嫌が悪いのか、とそこまで考えて、ようやく自分の身勝手さに気が付いた。
イツキだって人間なんだから気分の上下はある。お目当ての女にフラれれば悔しいし、そんな時にどうでもいい男に付き纏われれば不愉快にもなるだろう。
常に優しい人でいて、なんて勝手な我儘でしかない。
「……はい」
結局俺は、イツキが自分にとって都合良く甘えられる存在だから縋っただけだ。そんなの、『好き』だなんて呼べる綺麗な感情じゃない。
俺がイツキのズボンから指を外すと、急に前髪を掴まれた。根本辺りを鷲掴みに引っ張り上げられて、彼の股間に押し付けられる。
「っ!」
「そんなにしたいならさせてあげてもいいよ? 代わりが出来るなら、だけど」
鼻の頭に布越しのイツキの逸物が当たって、ソコが硬くなっているのを感じて反射的に身を捩ると簡単にイツキの手は離れた。
俺を見下ろすイツキは嘲笑を浮かべ、けれど指先はそっと前髪を撫でてくる。
いつもだったら、もっとちゃんと掌で撫でてくれる。
今はそういう気分じゃないんだろう。けど、だからこそ覚悟が決まった。
「はい」
彼のズボンのファスナーに指を掛けて引き下ろすと、イツキは戸惑ったように数歩後退った。
「棗?」
「……初めてなんで、ちゃんと代わりが出来るか分かんないですけど」
頑張ります、と呟いて、窮屈そうな下着の中からイツキの陰茎を取り出した。
下着のスリットからギリギリ出るくらいの太さに若干怖気付きそうになりつつ、ファスナーの金具に当たらないように指で根本の辺りを守る。
ずる剥けの亀頭ははち切れんばかりにパンパンで、こんな状態で女に逃げられたらそりゃあ機嫌も悪くなる、と納得がいった。
「棗。冗談だから」
やめなさい、とイツキの声が焦りを誤魔化すみたいに柔らかくなって、俺の額を押して遠ざけようとする。
それを押し返すように頭を寄せて、思い切って肉の先を口に含んだ。
「な、つ」
驚いたような声と共にイツキがまた後退ろうとして、だけれど膝裏がソファに当たってそのままどすんとそこへ座り直す形になった。逃げ場を失くしたイツキの股間に吸い付いて、俺は口腔深くへ彼の肉を迎え入れる。
男のってのはどんな味なんだろうと妄想する事は何度もあったけれど、実際はほとんど味という味がしなくて逆にびっくりした。舌の根に当たる先端だけが少ししょっぱいくらいで、他は全くの無味だ。
短く切り揃えられた茂みに鼻を押し当てて根本まで飲み込むと微かに汗の臭いがして、自分が本当に男の肉をしゃぶっている事実に頭がクラクラしてくる。
ずっと妄想だけだった。初めてはたぶんたーくんになるんだと思っていた。
けど今、俺はイツキの陰茎を飲み込んでいる。
身体がゾクゾクして、腹の方に熱が集まっていくのが分かる。ああ、良かった。口の方だけでもイツキに初めてを捧げられて。
「棗、こら……、やめな、って」
舐める感触だけで脈打っているのが分かるほど太い血管が浮いている裏筋は少し吸うだけでビクビクと震える。口の中の肉はまるでそれ自体が生き物みたいに鼓動を打って、俺が舌を動かす度に膨らんだ。
イツキは俺の頭を剥がしたいみたいに額を押してきたが、舐めて吸ってすると指が震えて力が抜けていく。大きく開いた口いっぱいに肉が詰まっていて呼吸すらままならないけれど、イツキの手や太腿がビクビク震えるのを感じると興奮してくる。
ちゃんと出来てる。俺にだって、女の代わりくらい出来る。
「……ん、ぐっ」
じゅ、ちゅ、と強めに吸いながら一度抜いて呼吸を整えようとしたのだけど、先端が唇から抜けそうになった瞬間後ろ頭を押さえ付けられた。
強く押されてそのまま腔内に戻ってきたかと思えば更に奥まで捻じ込みたいみたいにぐっぐっと頭を掴んで揺す振られて、喉奥の柔らかい粘膜を抉られる。
「んぶ、んん、……っぇ」
「もっと、棗。もっと奥まで飲み込んで」
喉を硬く張り詰めた肉で擦られるとえずいて胸の辺りから逆流してくる心地がするのに、舌の根っこの更に奥まで詰め込まれているから外へは出てこない。
何度も胃が引っくり返りそうに痙攣して、イツキはまるでそれに合わせるみたいに俺の頭を揺さぶってくる。イツキの指が頭の両側の髪の根本をきつく握って、手綱みたいに引っ張られて痛い。
吐き気に合わせて狭まる喉は彼の陰茎を扱く為の穴になったみたいで酸素が足りなくて、段々と視界が白く濁っていく。
「棗、棗……っ」
乱暴で身勝手で、だけどイツキの声が俺を求めているみたいに甘ったるく呼んでくれる。代わりじゃなくて俺がいいみたいに聞こえた。だから苦しくても痛くても、彼を止めようなんて思わない。
何度も喉奥へ突き立てられて、狭い粘膜の中を陰茎が抜き挿しされるとごぼごぼと音がした。
溺れてるみたいだ、と思いながらされるがままに使われて、意識が途切れそうになる寸前に喉に刺すような痛みが走った。
「んッ……!」
「吐くな。飲みなさい」
反射的に咳き込んで吐きそうになった俺の頭を押さえ付けてイツキが熱っぽい声で囁いてくる。
消毒液みたいな生理的に嫌悪感の湧く臭いに我慢しながら何とか嚥下すると、目尻をイツキの指が撫でた。いつの間にか滲んでいたらしい涙を掬った指はそのまま俺の頭の上に乗って、汗ばんだ掌がゆっくりと撫でてくれる。
「ちゃんと出来たね、棗。いいこだ」
「……っ」
優しいイツキの声を聞いて、じわ、と新しい涙が浮かぶ。
ああ。これ、これだ。これさえあれば、この優しく撫でてくれる掌さえあれば、俺はなんだっていい。なんだって耐えられるし、何をされたって言われたっていい。
口の中のイツキの肉は萎んで柔らかくなって、すると呼吸がし易くなった。
弾む息を整えながら尿道に残ったものも吸って飲むと、イツキの手が頭から頬へ下りてきて犬猫を誉める時みたいに撫でくり回してくる。
暖かい手に撫でられるのはただただ気持ち良くて、瞼を閉じてしばらくの間それを受け入れていた。
「棗」
「……はい」
俺を撫でる手が離れていって、名前を呼ばれたからふわふわしたまま返事したのだけど、目を開けて見上げた先のイツキは彼の膝の上に置いた俺の手首を無表情に見つめていた。
「あ、あの」
「これ、消えたらまた連絡しておいで」
長袖から覗く縄跡をなぞったイツキはそれだけ言うと俺を押し除けてソファから立ち上がる。
「ああ、それから、次に他のSとプレイしたら捨てるからね。僕以外とはしないように」
いいね、と目も合わせず言い含められてコクコクと頷いた。
俺の反応を見たイツキは何故か一瞬痛みを堪えるような表情をして、けれどすぐに無表情に戻る。
股間を整えた彼は話は終わったとばかりに俺に鍵を押し付けてさっさと部屋を出て行ってしまった。
良かった。なんとか首の皮一枚繋がった。
一人なのをいいことに口の中に残る陰茎の感触を反芻しながら自分の肉茎を扱いて出して、痛くなくても出た事に少しだけホッとした。
「八幡ー、お前藍沢ちゃんと別れたってホント?」
授業が終わってノートや筆記用具をリュックに仕舞っていると、いそいそと寄ってきた斉藤に話し掛けられた。
たーくん──藍沢は同じ授業をとっていたから、まだ同じ教室に居る。
声が聞こえたのかあいつの周囲の女子が嫌悪感丸出しの目で睨んできて、それに気付かないフリをしながら質問に頷くだけで返事をした。
「マジで? ……なぁ、結局ヤッたん?」
斉藤の声はさっきより控えられているのに、藍沢の視線が刺さってきている気がする。ヤッたというより犯られたって感じだけど、セックスしたかと訊かれればイエスだ。けれど、肯定したらそれも『他人に言った』という判断になるんだろうか。
下世話な興味津々といった表情の斉藤に肩を竦めて今度は首を横に振って返事すると、纏わりつくような藍沢の視線が剥がれていった。
今の返事で合っていたらしい。
「お前もか~」
「……え?」
まるで俺以外にも知っているような口ぶりに手を止めると、斉藤は藍沢が女子達とたむろして教室を出て行くのを横目で見送ってから内緒話をするように顔を寄せてきた。
「いやさ、ここだけの話、藍沢ちゃんて一部で有名なんだよね」
有名。まさか、被害者は一人二人ではないのか。いやでも、他言すれば動画をネットに晒される恐れがあるのに他の人に話したりするか? それも、……男に強姦された、なんて。
俺が目を丸くして驚くのをどう解釈したのか、斉藤は慰めるように俺の肩を叩いてくる。
「思わせぶりな事言って散々貢がせて、いざヤるぞってなったら急に音信不通。気が付いたら周りに悪い噂流されてて、常に女友達でバリア作ってるから近寄れもしねー、だろ? ひっでぇ話だよな~」
「……」
どうやら俺の予想とは違う被害で、けれど同意するみたいに曖昧に笑ってみせた。
斉藤は俺が『結局ヤれたのか』だけが気になっていたようで、元気出せよー、なんておざなりに言いながらさっさと去っていく。
貢がせるだけ貢がせて結局ヤらせない、か。
そういえば何度かプレゼントを強請られて、バッグやアクセサリーをあげた気がする。付き合っているんだからプレゼントくらいするものだろうと気にしていなかったのだけど、そうか、あれは貢がされていたのか。
荷物の整理を続けながら、もうすっかり縄跡の消えた手首を撫でる。
あれからもう二週間。
まだイツキには連絡出来ていない。
手足の縛られた跡は三日もすると綺麗に消えていたのだけど、尻にカッターで刻まれた傷痕は案外深かったのか、瘡蓋が剥がれるまでに一週間、それが剥がれてからも忌々しいことに刻まれた正の字が残ってしまっていた。
姿見に映して自分の尻を確認する情けなさにも慣れ、けれどうっすら白く残るそれを万一イツキに見られたらと思うと電話を掛ける気にはなれなかった。
荷物を纏めてリュックを背負い、教室を出る。今日はもう他に授業はなく、これからバイトに行くだけだ。
「ナツくん」
近道しようと中庭を抜けていこうとしたら、途中で呼び止められて心臓が跳ねる。
高く可愛らしい声で俺を呼んだ藍沢は、校舎と中庭の影、ちょうど人目に付きにくくなった所から顔と手だけ出してこちらへ向かっておいでおいでしていた。
「……何か用?」
その場に立ち止まったまま、誘う手は無視して訊く。
背中に冷や汗が流れて、呼吸が浅く苦しくなる。忘れて平気になったと思っていたのに、この場に彼と俺しか居ないとなると急に恐怖心が蘇ってきて膝が震えだしそうだ。
「用っていうか、ちゃんとお約束守ってくれてるかな? って聞きにきただけだよ~」
にこにこ無邪気に笑う藍沢は俺がそっちに行かないと感じ取ったのか、物陰から出てきて弾むような足取りで寄ってきた。後退りそうになるのを拳を握って堪え、平然とした風を装う。
「言えるわけないだろ」
例え俺が被害者だとしても、話を聞いた誰かが信じてくれたとしても、それでも面白可笑しい噂話にされるのは俺の方だ。その上に話したのが藍沢にバレればリベンジポルノで人生終わり。
誰が好んでそんなバッドエンドルートに進むのか、と視線を合わせないようにしながら返事をすると、藍沢はクスクスと笑いながら下から上目遣いに見上げてきた。
純朴そうな、濁りの無い澄んだ瞳。だけれど、その表情は今まで見た誰のものより醜悪だ。
「ねぇ、またしてあげよっか?」
「……」
まるでちょっとした親切心みたいに藍沢は言う。俺の両手を掴み取って手首に柔らかい指を這わせ、あの夜を反芻させたいみたいに握ってくる。
「好きにすれば」
どうでもいい。何度同じ事をされても、どうせ傷は消えるし忘れてしまえばいい。
なるたけ平坦に聞こえるよう俺が吐き捨てると、藍沢は白けたみたいに俺の手を離した。
「なにそれ、つまんなーい。怖がるか喜ぶかしてよ、萎えるんですけどぉ」
悪趣味な彼は俺の反応が薄いと分かると興味を失くしたようで、こちらに背を向けてすたすたと校舎の中へ戻っていった。
バクバク鳴る心臓の上辺りを押さえてゆっくり息を吐き、何も無かったかのように再び歩き出す。
大丈夫、大丈夫。このまま忘れてしまえばいい。
いつも通りバイトをこなし、家に帰って寝る。起きて大学へ行って授業を受けて、またバイトへ行って、寝て、起きて。それだけだ。
必要な行動をルーチンとして繰り返していれば、余計な事を思い出さずに済む。
──そうやって過ごして、気が付けば一ヶ月経っていた。
もう傷痕が残っているか確認するのもやめた。イツキの顔を思い出すと胸がギュッと絞られたみたいになるけれど、どうせモテ男の彼は俺のことなんか忘れているだろうし、今更って感じだ。だから連絡する気なんか無い。
……嘘だ。
何度もしようと思った。
したかった。だけど出来なかった。
電話して、またこの前みたいに「先約があるから」と断られたら。それを考えるだけで辛く、毎晩のようにスマホに残る一度だけイツキに掛けた発信履歴を見つめては画面を消した。
痛いのも苦しいのも辛いのも、もう嫌だ。出来るだけ感情の振れ幅を小さくして、平常心で生きていたい。
そうすればきっと、そのうち全部俺の中から消えてくれる。
平常通りを装いながらそんな正体のない希望に縋りたくなるくらいには、俺のどこかに見えない傷が残っていた。
今日もそうして『いつも通り』をなぞってバイトをしていたのに、出入り口の自動ドアから入ってきたイツキを目にして思わず泣きそうになった。
錘に来る時のように前髪を後ろに流していて、今日は仕事が休みなのか紺色のTシャツに黒いスラックスの私服姿だ。
全力で走った後みたいに心臓が早鐘を打って、頬が熱くて目がそっちを見られない。
今マトモに彼を見たらきっと、また溺れる。やっと忘れられたのに、やっと平坦でいられそうなのに。
「い、いらっしゃいませ」
「ブレンドMで」
俺の声がみっともなく震えるのに、ひと月半ほどぶりに聞く彼の声は変わらず落ち着いた音だった。
会計をして、注文されたコーヒーを作る。
何か話し掛けられたらどうしよう、連絡しなかったのを責められたらどう言い繕おうと内心大慌てだったのだけど、イツキは何も言わなかった。
俺に用があった訳ではなくただコーヒーを買いにきただけだったようで、カップを手渡しても赤の他人にするように軽く会釈されただけだった。
「ありがとう、ございました」
だから俺もただの店員として頭を下げて見送ろうとして、瞬きしたら視界が歪んだ。
やばい、と思わぬ事態に自分で驚いて目元をごしごしと腕で拭うと、俯いた後ろ頭に重みが乗ってくる。視線を上げると、カウンターの向こう側からイツキが腕を伸ばしてきていた。
頭の上に乗る温かい感触が彼の掌だと知って、鼻の奥がツンと痛む。
「……っ」
何でだか分からないけれど、胸の方に詰まっていたものが溢れ出して目から出てきたみたいだった。俺の頭を撫でた指はボロボロ落ちるそれを撫でて、そして困ったみたいな表情でまた頭へ戻ってくる。
「怒ってたんだけどね、僕は」
短くため息を吐いたイツキは俺のつむじをコンコンと軽く叩いて、それから小さく「終わるまで待ってる」と囁いてイートインスペースの方へ歩いていった。
「八幡くん? どしたの?」
「すみません、目にゴミ入って……っ。裏行って洗ってきます」
客席の清掃に行っていたバイト仲間がカウンターの中で何故かガチ泣きしてる俺を見て目を丸くして、それにありがちな言い訳をしてバックヤードへ走った。
食材の仕込みをする小さな厨房でざばざば顔を洗い、水道を止めてから呼吸を落ち着ける。
忘れられてなかった。
何故だか怒ってたみたいだけど、怒って『た』だし。過去形だし、俺のバイトが終わるまで待っててくれるつもりみたいだし、情けなく泣き出した俺を憐んで怒りが収まったというなら災い転じて何とやらってやつだ。
それから一時間と少し働いて、上がり時間ぴったりにタイムカードを押して急いで着替えた。
裏口から出て店の表に回ると、イツキはもう外に出て俺を待ってくれていた。
「あっ、の、あの、イツキ……さん」
まずは連絡しなかったことを謝ろう、と思っていたのに、俺の姿を見たイツキはくるりと踵を返して先に歩き出してしまう。
「一つ聞いておきたいんだけど」
前を向いたままイツキは喋りだし、小さな声を聞き逃さないように慌てて駆け寄った。
「連絡しなかったのはどうして?」
ちら、と責めるような視線を寄越されて、思わず頬が緩みそうになって口元を隠す。……俺からの連絡が無かったことで怒ってくれて嬉しい、なんて。自分勝手にもほどがある。
「しなかったんじゃなくて、出来なかった、っていうか……」
「どうして」
俺が言い訳するのにイツキは即座に訊ね返してきて、その声が怒気を孕んでいるのが堪らない。怒られてるんだから神妙な顔をすべきだと分かっているのに口元がヘラヘラしてしまって、俯いて誤魔化す。
「……また、今日は先約がある、って断られたらどうしようって、怖くて……」
理由を口にすると反射的に毎晩スマホを握っている時の気持ちを反芻してしまって、本当のことだからか自分で思うより辛そうな声になった。
イツキは俺の返事を聞くなり黙り込んで、少し歩いてから赤信号の交差点で立ち止まった。
「僕の家と君の家、どっちがいい?」
「え?」
「いちいち錘まで行くのも面倒だろう」
そういえば、前にイツキの家は一つ隣の駅の方なんだと言っていたっけ。錘は最寄り駅から電車で五駅ほどだから、どちらかの家に行く方が近くて楽というのは分かるのだけど。
「イツキさんの家、行っていいんですか」
あくまで犬に過ぎない俺が、と窺い見ると、イツキは表情を変えずに軽く頷いた。
「良くないのなら言わないよ」
僕の家で良いんだね、と呟いたイツキは青信号になった横断歩道を渡ってから路肩に停車していたタクシーの窓を叩き、開いた後部座席のドアから中に乗った。追い掛けてそれに乗り込むと、イツキが住所を言って車が走り出す。
五分ほど走ったタクシーは住宅街で停まり、さっさとクレジットカードで料金を支払ったイツキに急かされるように降りた。
マンションとアパート、二階建ての一軒家が混じり合う区域で、夕陽も落ち掛けて薄暗くなってきたからか人通りはほとんど無い。ジャージ姿の高校生が自転車で通り過ぎていくと歩道には見える限り俺とイツキだけになって、チカチカと点滅する街灯が少しだけ不安な気持ちにさせた。
一駅隣なだけで、俺の住んでいる地区とは結構雰囲気が違う。
駅はどっちだろう。終わった後は自力で帰らなきゃならないだろうに、タクシーで来たから方向が分からない。最悪スマホさえあれば地図アプリでどうにかなるけど、バッテリー残量は大丈夫だったっけ。
「おいで」
イツキはキョロキョロと周りを見回す俺を不思議そうに見て、それからすぐ近くのマンションのエントランスに入っていく。
カードキーで正面玄関のオートロックを開けたイツキにくっ付くように入ると、彼は自嘲するみたいに薄く笑って「悪いことしてる気分だよ」と呟いた。
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