高尚とサプリ

wannai

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 イツキが向かったのは駅前の、だけれど一本裏に入った通りにある居酒屋だった。
 駅前の居酒屋は大学のサークル仲間たちとよく来るけれど、そこには入った事がない。
 中に入ると店員の元気な声が出迎えてくれて、すぐに席へ案内された。
 不思議な内装だった。薄い座布団が四枚あるから最高で四人座ることを想定しているんだろうに、片側に一人ずつ座っただけで狭苦しい。二人が隣同士で座ったりしたらぎゅうぎゅうだ。その上、席と席は磨りガラスのようなシルエットしか見えない壁で区切られていて、席と廊下の間には長い暖簾が降りている。
 隣に座る客がどんな人間なのか全く分からない造りで、けれど聞こえてくる喧騒はいつも行く居酒屋と同じくらいだから、結構客は入っているんだろう。
 こんなに窮屈な居酒屋は初めてだ、とキョロキョロ物珍しく見回していると、メニューを開いたイツキが俺の前へそれを置いて目を細めた。

「何飲む?」
「あ、なんかジュースを」
「明日成人なのに、律儀な子だね」
「いいこなんで」

 イツキはどうやら俺が彼の褒め言葉を自称するのが面白いらしく、何度言っても笑ってくれる。
 飲み物を決め終えるとちょうどお通しを持って店員が来たので、先にそれだけ注文して料理のページを二人で覗き込んだ。

「ここね、居酒屋の割に和食が美味しいよ。肉豆腐とか手羽先のみぞれ煮とか」
「よく来るんですか?」
「離婚してからはしょっちゅうね」

 イツキはあははと軽く笑ってから、一度止まって「料理しない訳じゃないんだけどね」と訂正を入れてくる。

「週に三回は僕が作って、残りの四回が嫁、って分担だったんだ。だから普通に作れるんだけど、自分の分だけを作るのって、結構面倒でね」
「俺も一人暮らしなんで、その気持ちめっちゃ分かります。栄養とか気にせずずーっとカップ麺でいいやーってなりますもん」

 あんまり元嫁の話とか聞きたくないな、と思いつつ、イツキのオススメを中心に選んで注文した。

「ここね、全然隣の席が見えないでしょ?」
「はあ、そうですね」

 メニュー表を壁際に戻したイツキに促されるように視線を巡らせて、それから彼がじっと目を合わせてきたのでそれとなく下に逸らす。

「棗。こっち見て」

 顎を下から指に掬い上げられて、そこにイツキの顔が寄ってきたから半ば強制的に視線がかち合った。

「……み、見なくていい、って」

 最近はずっと目が合いそうになると逸らしていたから変な気分になる事もなくて、イツキもそれを叱ってくる事は無かったのに。どうして急に、と腹の底がモヤモヤするような不安に動揺するのに、イツキは指先で擽るように俺の顎下を撫でてくる。

「たまにはいいでしょ。ね、ここ、他の席からよく見えないから、こんな風に顔寄せててもバレないんだよ」
「え……っと」
「ここだったら、いっぱい撫でてあげられるよ?」

 どうする? と囁かれて、耐え切れずに視線を逸らした。顔から火を吹きそうに熱い。
 今のイツキは前髪も自然に下ろしていて、普通にその辺にいそうなオッサンなのに。父親くらいの歳の、そんなオッサンに「撫でてあげる」と言われて、俺は──して欲しがってる。

「棗」

 甘くて低い声に名前を呼ばれて視線を上げようとしたけれど、戸惑いの末にぎゅっと瞼を閉じた。

「ぃ、イツキ、その、そういうの、ずるい」
「ずるい?」
「俺、マゾじゃないから……羞恥プレイとか、そういうのは」
「羞恥プレイ???」

 イツキが驚いたような声を出すから俺も驚いて目を開けたら、彼はテーブルに肘をついて顔を覆って笑っていた。俺の顎下にある片手は笑いに合わせて震えて、それで彼が結構なツボにはまっているのが分かる。

「え? え?」

 もしかしてそういう意味じゃなくて、普通にさっき撫でなかった分を撫でてくれるというだけの意味だったんだろうか。
 だとしたらとんだ赤っ恥だ、とそれまでと違う意味で恥ずかしくて顔が赤くなって、耐え切れなくなってイツキの手から逃げようとしたのに。

「してあげよっか、羞恥プレイ」

 すい、とイツキの手が顎骨をなぞるように耳の方まで伸びてきて、小さな囁き声が俺の唇に当たった。

「……っ」

 これまでで一番顔が近い、と思った時には唇に感触があって、だけれどそれと同時に暖簾が上がって飲み物や料理の皿を運んできた店員が顔を覗かせた。

「失礼しまーす」

 俺が色んな事に驚き過ぎて硬直しているのに、すぐに離れたイツキは平然と日本酒の瓶を持って自分で注ぎ出す。

「ご注文以上でよろしいですか?」
「はい」
「それではごゆっくりー」

 店員の方も男同士でキスしていたのを目撃したとは思えない落ち着き払った態度ですぐに去っていって、もしかしたら今一瞬夢でも見てたんじゃないかと思い掛けたのだけど。

「……」
「……なに? もう一回?」

 チラ、と目の前のイツキに視線を送ると揶揄うみたいに下唇を舐めながら言われて、ブンブンと頭を横に振った。
 夢じゃない。全然夢じゃない。本当に今、イツキにキスされた。
 落ち着く為にオレンジジュースを飲むけれど、唇に冷たいグラスが当たったことで逆にイツキの唇の温かさを思い出してしまって耳まで熱くなってきた。

「~~っ……」

 なんで、どうして。こんな事までされて、好きになるなって方が無理だろ。なんだよ。なんでこんな事すんだよ。これもSMプレイのうち? ……他のマゾも、こういう事してもらってんの?
 そこまで考えて、急に冷めた。
 ああ、そうだ。こういうの、きっとSMでは普通なんだ。だからみんな勘違いするんだ、イツキに本気で好かれてるって。
 何度か深呼吸してからもう一度ジュースを飲んで、それから割り箸を割った。

「落ち着いた?」
「はい」

 あぁ、なんて厄介な人誑しに捕まったのか。
 黙々と食べ始めた俺にイツキは苦笑しつつ他愛ない雑談を振ってきて、それに答えているうちに食べ終える頃にはいつもみたいな雰囲気に戻っていた。

「棗、今月ピンチだって言ってたけど、なにをそんなに買ったの?」
「あー、色々……。俺、通学用のリュックの底が真っ黒になってきたから買い換えようかなってネット見てたら、いい感じの見つけて。そのブランドの他の商品見てたら財布とかキーケースもいい感じで……」
「ああ、たまにあるよね。デザインがツボなブランドだと全部欲しくなる」
「イツキもあるんですか?」
「コレがまさにそれかな。財布を買いに行った時に一目惚れして」

 飴色の革のショルダーバッグを撫でたイツキは懐かしむように笑った。

「どうしても欲しくて、でもあの頃は同時に二つ買えるほどの給料でもなくて。結局、バッグだけ先に買って、次の月に財布を買いに行ったらもう売り切れてた。あの時は悔しかったな。だから、買えたコレはすごく大事にしてる」

 年若い頃に買ったものなのか、愛着は相当なようだ。端が擦れて色が薄くなっているけれど、みすぼらしい感じではない。むしろ、色艶からは丁寧に手入れされているのが滲み出ているようだ。

「なんかかっこいいですね」
「かっこいい?」
「俺が買うの、そんな高いブランドじゃないから。飽きたら買い換えられるくらいの手頃なやつばっかりっていうか。だから、高いやつを使い続けるのって、大人っぽい」
「どうかな。気に入る物自体があまり無いから、これに執着するしかないだけかも」

 イツキは自嘲するように唇を歪ませて、傍らに置いたバッグを撫でる。

「俺はそういう拘りみたいなの無いから、やっぱり大人っぽいですよ」

 その時々で自分の中の流行はやりみたいなものはあるけれど、熱しやすく冷めやすいタイプだからか服もバッグも飽きたらすぐにリサイクルショップ行きが多い。それが分かっているからいいなと思っても高い物には手を出さず、バイト代の範囲で賄える程度の安価な物にしている面もある。
 気に入った少ない物だけを、というのは憧れる。
 ミニマリズムに嵌まっていた時は気に入るかどうかより実用的かどうかで線引きしていたし、その後増やした物も必要で買ったけれど気に入っているかと言われれば微妙だ。
 イツキみたいな人はシンプリストって言うんだっけ、と昔見た雑誌に書かれていた分類表を頭に浮かべながら、彼の部屋はきっと持ち物同様洗練されているんだろうなと想像する。

「拘り……ねぇ。確かに、好みにはうるさいかも」

 イツキは透明の酒が入ったグラスを揺らしながら首を傾げた。

「甘口が好きなんだよね、それもかなり濃いくらいのが。甘口の日本酒自体置いてる店が少ないから、見つけると通っちゃう」

 ここもそういう店、とイツキはグラスに唇を付けて酒を飲む。
 そこがさっき自分に触れたのだと思い出しそうになって、また照れて顔が赤くなってしまいそうだからそれとなく視線を逸らした。
 言われてみれば、イツキは錘でもいつも日本酒を頼んでいる。
 拘りって誰にでもあるよなぁ、と思いながら酒の入ったグラスに視線を戻したら、「いいこは明日まで待とうね?」と微笑みの不意打ちを喰らった。
 やばい、サシ飲みやばい。心臓がもたない。
 せっかく早いうちに「本気になるな」という有難いアドバイスを貰っていたのに。
 ごめんなさい、紫さん。手遅れみたいです。

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