高尚とサプリ

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 また錘の上階のレンタルルームへ向かったイツキは、今日は部屋に入るとまず戸棚を開けた。

「あったあった。ねえナツメ、今日は縛りでいいかな?」
「え? えっと、はい」

 丁寧に折り畳んで仕舞ってあった赤い縄を取り出したイツキは顔だけ俺に向けて訊いてきて、教わる内容について特に希望がある訳でもないから頭を縦に振る。
 今日の部屋はこの前と違ってベッド自体が置いてなくて、代わりに天井に何本も太いパイプが通っていたり壁から謎の金具が生えていた。その壁も床もコンクリート打ちっぱなしで冷え冷えとしている。
 どうやらSMプレイに使う道具を収納しているらしい戸棚も金属製のロッカーで、見慣れない雰囲気の部屋にそわそわしてしまう。

「怖い?」

 俺が入り口のドアを閉めた所で立ち尽くしているのを見たイツキは安心させるように笑みを浮かべて、縄を解いてから手招きしてきた。
 真っ赤な縄が何本も床に大きなとぐろを巻いていて、もしかして今日も『マゾが何をされるのか体験』として縛られるのかと躊躇する。

「僕、麻縄しか使いたくないんだけど、まだ自分のやつは下処理の途中でね。他の部屋に置いてるのはポリ縄ばっかりだって紫が言うから」

 この部屋の雰囲気が怖くて落ち着かないなら部屋だけでも変えてもらおうか? と気遣われて、別に部屋が怖い訳じゃないんだけど、と恐る恐るイツキの方へ近付いた。

「あの、やっぱ俺が縛られるんですか」
「君への授業、兼、僕のリハビリだからね。ナツメは反応が素直で分かり易いから、練習にもってこいなんだよ。復帰早々に君みたいな子捕まえられてラッキーだったな」

 縄を片手に持ったイツキは俺の肩を撫で、そしてTシャツの布地を摘んで不愉快そうに眉を顰めた。

「ごめんね、上だけ脱いでくれるかな? この布たぶんすごく縄に絡むから」

 鬱陶しげに俺のTシャツを撫でたイツキは俺の返事を待たずに腹から裾を捲り上げてきて、されるがままに幼児みたいに両腕を上げて脱がされる。
 上半身が裸にされて少しドギマギするのに、イツキの方は特に何のコメントも寄越さず背後に回ってきて俺の腕を背中の方で組ませた。

「本当に久しぶりだから、少し時間掛かるかもしれない。聞きたいことあるなら答えながらやるよ?」

 立ったまま後ろ手が重なるようにイツキの片手に固定されて、そこに少しザリザリした縄が掛かる。肌の上を撫でていった縄が何度か腕に巻かれて、ぐっと少し上に持ち上げられて若干苦しい。

「聞きたいことっていうか、聞いて欲しいことはあります」

 アダルトビデオのイメージだとギュウギュウに縛られて痛そうだと思っていたけれど、全然痛くない。腕の周りに縄があるな、くらいで特に拘束されてる感じはなくて、動かしたらすぐ外れそうな気さえする。
 俺が話し始めるとイツキは首元と腰骨を押さえて背筋が伸びるように後ろから押してきて、猫背じゃ駄目なんだなと判断して肩を開いた。

「ん、いい姿勢」
「それで、こないだ言ってた彼女のことなんですけど」
「ああ、上手く出来た?」

 ブランクがあると言っていた割にイツキが手を止める様子はなく、手早く一度完成させたのか「よし。もう一回最初からやるね」と言って縄を解き始めた。全て外して、それからまた縄が巻かれる。
 ……そう。縛られてるっていうより、巻かれてる、って感じだ。さっきアイに鞭で打たれたの比べると痛みも苦しさも何も無くて、こんなのがアレと一緒くたに『SM』と呼ばれているのが不思議なくらいだ。

「いえ、途中で逃げられました」
「ふはっ」

 イツキなら馬鹿にしないで聞いてくれると思っていたのに、素直に言った途端に彼は噴き出した。俺の腕を押さえる手が小刻みに震えて、遠慮も無く笑っているのを伝えてくる。

「……もういいです」
「え? 何、笑われて凹んだ? ごめんね、なんか可愛くて」
「…………」

 可愛いって、前戯の最中に逃げられる男の何処に可愛らしさがあるんだ。
 俺がむっつり黙り込むと、イツキがまた手を動かし始めながら今度は労わるように優しい声を掛けてくる。

「途中で逃げられるって事は、無理矢理しなかったんでしょ。相手がマゾだって分かってても無理強いしないで、偉かったね。ナツメは優しい子だ」

 ぽんぽんと褒めるみたいに縛った腕を軽く叩かれて、少しだけ機嫌が直った。

「マゾが嫌がることはしちゃ駄目、ってイツキが言ってたから」

 ちゃんと教えを守ったんだぞ、と誇るみたいに言うと、背後でイツキはクッと一度笑ってから、「次は足ね」と太腿を撫でてくる。
 後ろから腿の内側の柔らかい所を指先になぞられて思わず脚を閉じるのに、イツキはそれを割り開くみたいに指を捻じ込んで左右に開かせた。

「……っ」

 ズボンを履いているとはいえ、ガニ股はどうしても格好悪いから恥ずかしい。身を捩ってイツキの手から逃げようとしたのに、緩いと思っていた縄は動こうとすると急に締め付けてきた。

「なっ、これ、苦し」
「動かないで、縄の形が崩れる。……僕の教えたこと、ちゃんと覚えて実践したんだ?」

 偉いね、と耳の後ろで囁かれてゾクッとしたものが背筋を駆ける。だけどイツキはその唇で触れてくることはなくて、上半身の姿勢を直しただけで俺を蹲ませた。

「はい、お尻ついていいよ」
「あ、はい」

 左右に開いた状態で折り曲げた脚に縄が回って、脚を固定した縄の先は後ろに回って腕の縄と繋げられたようだった。
 脚を動かそうとすれば腕の方の縄が絞られ、腕の方を動かせば脚が絞られる。縄自体は痛くも苦しくもないのに、全く身動きが出来ないという事実に急に怖くなった。

「痛かったり痺れたりは無いよね?」
「はい」
「だろうね。ナツメ、聞かなくても言ってくれそうだし」

 安心安心、と俺の肩を撫でたイツキは正面に回ってきて、そこで立ったまま腕組みして俺を見下ろしてきた。

「……あの?」
「うん? なに?」
「縛り終わったんですよね?」
「うん。終わったよ」

 終わったという割に、イツキは俺をじっと見つめるばかりで縄を解こうとする様子は無い。

「……」
「……」

 なんだろう。完成度とか納得のいかない所について考えているんだろうか。リハビリだと言っていたし、何かしらの考えあってのことだろう。
 動かなければ特に痛くも苦しくもないから黙って待っていると、イツキは首を傾げて小さく「残念」と呟いた。

「はい?」
「ううん、なんでもないよ。解く前に緊縛の注意点を教えていくね」
「はあ」

 俺の横に膝をついたイツキは俺の足や腕をつつきながら、縄を乗せてはいけない場所だとか腕や脚の曲げ方、関節の向きに関して教えてくれた。縄の扱いについては最後の最後にちょっとだけで、それ以外はずっとマゾの体をどう保護しながら縛るか、についての講釈だった。

「今日は君が相手だから全然聞かなかったけど、君が他のマゾを縛る機会があったらこまめに痺れとか痛みが無いか聞いてあげてね。慣れないうちは縄解くにも時間掛かるし、血が止まって壊死したりしたら大変だから」

 はい、はい、と聞いていると、イツキは縄を全て解いてから俺の頭をひと撫でした。

「今日はちゃんと話聞けたね。えらいえらい」

 ……Sだっていうのが信じられないくらい優しいんだよな、この人。
 もっと歳が若かったらたぶん、俺も彼を取り合うマゾの一人になっていたかもしれない。縛られても特に何も面白くも気持ち良くもなかったけれど、イツキに褒められるのは嬉しい。もっと言う事を聞いて、褒めて欲しくなる。
 SMっていうより、イツキの人間性が狡いのだ。
 この優しさがマゾになら誰にでも向けられるものだと分かっていて、それでもあんまりに優しく笑うものだから、自分だけだと勘違いしそうになる。
 そういう表情は好きな人だけにとっとけってママに教わらなかったのか人誑ひとたらしめ、と胸中で悪態をついていると、イツキは俺の腕をマッサージするように揉みながら、「来週も来る?」と訊いてきた。

「……たぶん」
「そっか。待ってるね」

 にこ、と緩く笑った顔も声も俺を気に入って誘ってくれてるようにしか見えなくて、やっぱり狡い、と唇を噛んだ。









 それから翌週の金曜も、その翌金曜も俺は錘へ行った。
 イツキの縛りは少しずつ複雑なものになって、何回目かには天井のフックに縄を掛けて爪先すら付かない状態で宙に吊るされた。そのくらいになるとやっと苦しいかな、と思うようになったけれど特に気持ち良くも悪くも無かった。

「そういえば、彼女とはどう?」
「いやーダメそうですね。あれから全然連絡取れないし、自然消滅かも」
「ふぅん。ナツメみたいな素直で尽くし体質の男を切るなんて、勿体無いことするなぁ」

 最初はちゃんと習うつもりで縛られていたのだけど、たーくんと連絡がつかないままなのに真面目にやる気も起きず。それを察したのかイツキはただ俺を縛る練習台として扱うようになって、そのうちだらだら雑談しながら彼の望む体勢をとっているのが俺の役目みたいになった。

「尽くし体質~? いや、俺そんなじゃないですよ。どっちかっていうと塩っぽいっていうか」
「塩? アッサリしてるって事?」
「あーいや、……意味としては同じか」
「?」

 たまに当たり前に使ってる言葉が通じなくて困る以外は特に不都合は無くて、大学の課題が多すぎてだるいとかバイトで迷惑な客が来ただとか、そういうどうでもいいことでもイツキは笑って聞いてくれる。
 全肯定って訳ではないけど、頭ごなしに否定したりどうでも良さそうに流したりされない。ちゃんと聞いて、それで穏やかに笑いながら欲しい言葉をくれる。そりゃ依存するよ、って感じだ。俺だって、彼が異性愛者じゃなかったら本気で好きになってた。紫さんの助言のおかげでなんとか踏み止まれてる感じだ。

「恋人の為に興味の無かったSMの練習しようと思うくらいには尽くし体質でしょ」
「結局その恋人、一回もヤらせてくれませんでしたけどね」
「焦って童貞捨てようとする事ないんじゃない?」
「……童貞だって言いましたっけ?」
「ふふっ」

 縛り終えたイツキはいつも必ずたっぷり五分くらい俺を眺めて、それからじゃないと解いてくれない。

「十九で童貞なんてまだまだ恥ずかしくもないでしょ。気にすることないよ」
「来週二十歳なんですよ……」

 十代童貞と二十代童貞じゃあ、一歳違いでもなんか重みが違う。
 はぁ、とため息を吐くとイツキは珍しく驚いたみたいに首を傾げて、「何日?」と訊いてきた。

「十二日の木曜です」
「僕、十一の水曜日なんだよ」
「え?」
「誕生日」

 今度は俺が驚く番で、まさかの一日違いにポカンと口を開ける。

「僕はもう四十二だけどね。……そっか、二十二歳差か。はたから見たら親子にしか見えないね」

 苦笑するイツキはまだ体感で二分くらいしか経っていないのに縄を解きに寄ってきて、もう終わりか、と瞬きすると珍しく向こうから目を逸らされた。

「何か欲しいものでもある?」
「欲しいもの?」
「ああいや、僕が渡すと援助交際みたいだね。やめとこう」

 離婚直後に買春で捕まりたくないや、と冗談みたいに流して、イツキは手早く縄を解いていく。

「え、くれるんなら貰いますけど。ていうか下さい、今月ネットで買い物し過ぎてちょっとピンチなんで」
「現金はあげないよ」
「現物支給でいいんで。米が欲しいです」
「米」

 ぷふ、とイツキは噴き出して、くっくっと笑い始める。たまに俺の言葉がツボに入るようで、いつも穏やかに笑ってる人が目尻に涙を浮かせるくらい本気で笑ってくれるのを見るとなんだか嬉しい。他のマゾはきっとこんな風に雑談で笑わせることは無いだろうから、少し優越感も湧く。

「……イツキは、何か欲しいものありますか」

 俺が訊くと、彼は何度か瞬きしてから俺の頭をぽんぽんと撫でた。

「今月ピンチなんでしょ。息子みたいな歳の子に無理させたりしないよ」
「金のかかるものは無理ですけど、それ以外で俺に出来ることだったら」

 なんでもしますよ、と言うと、イツキは縄を手繰って畳む手をぴたりと止めて無表情に頭を横に振る。

「ナツメ。なんでも、なんて軽弾みに言っちゃ駄目だよ」
「え?」
「世の中悪い大人はいっぱい居るんだから。言質取って酷いことされたらどうするの」

 いつも叱るトーンより一段低い声で責められて肩を竦めた。

「いや、イツキにだから言ってるんですけど」

 イツキが俺に酷い事をするなんて地球がひっくり返っても無いでしょ、と答えると、彼はぐっと唇を噛んでから思案するように目を伏せて、それからニコッといつもの笑顔に戻った。

「なんでもしてくれるんだね?」
「はい」
「じゃあ、次縛る時は全裸ね」
「は……」

 全裸?
 イツキの申し出に驚きで硬直した俺を、彼はまた肩を揺らして笑う。
 ああ、なんだビックリした、揶揄からかわれただけか。異性愛者の彼が裸の俺を縛りたいなんて思う筈がない。そんなのを誕生日プレゼントに望むわけがない。一瞬変な期待をしてしまったのを誤魔化すように俺も苦笑いした。

「お米かぁ……。ここに持ってくればいいのかな? 棗、帰りは電車でしょ? 十キロだと重いし邪魔になるかな」

 どうやらイツキは本気で俺に米をプレゼントしてくれるつもりらしく、少し考えてからおずおずと提案を口にする。

「あの、どこかご飯連れてってくれるとかでどうですか」
「ご飯? 僕と?」

 イツキはその申し出がよほど意外だったらしく、「どうして?」と目を丸くした。
 どうして、って。本当にこの人、自分がどれだけ俺をたらし込んでいるか自覚が無いんだな。
 ホストやキャバ嬢みたいに誑している自覚があれば、店の外での食事に誘われれば釣れた釣れたと喜ぶところだろう。全くの無自覚だからこそ、一緒に食事に行きたいという俺の気持ちが分からないのだ。

「……米、五キロでお願いします」
「うん、美味しいの探してみるね」

 結局プレゼントは米になって、それを残念がっている自分に自覚がある。深い沼の前で足踏みしているような心地に笑うしかなかった。










「いらっしゃ……、え?」
「あれ」

 翌週の水曜日、いつものようにバイト中に出入り口から入ってきた客に挨拶しようとしたら見知った顔でお互いに固まった。

「ナツメのバイト先、ここなんだ」
「あ、はい」

 イツキは最近錘に来る時の服装じゃなくて、最初会った時と同じような普通の濃灰のスーツ姿だった。やはり普通の格好だと普通のオッサンだ、と見つめていると、イツキは手に持った小さな紙をヒラヒラと揺らしてからレジに立つ俺の前に置いた。

「少し数が多いんだけど、テイクアウト出来るかな」
「えっと、ブレンド四つとアイスティー一つ、それからカプチーノとカフェラテ……七つですね。袋二つになっちゃいますけど大丈夫ですか?」
「うん、両手空いてるから大丈夫」
「それじゃあお先にお会計よろしいですか」

 丁寧にサイズとミルクの有無まで書かれたメモを見ながらレジを打ち込んで精算を済ませる。
 午後二時、アイドルタイムだからちょうど同じシフトの相方は昼休憩中で、注文の受け付けから作るのまで一人でやらなきゃならない。

「すみません、一人なんでちょっと時間かかりますけど」
「いいよ、急いでないから。制服、……いいね」
「はあ、そうですか?」

 制服と言ったって、白のワイシャツに黒スキニーは私物で、制服として支給されているのは腰から下しかない黒いカフェエプロンだけだ。
 特に何の面白みも無いはずなのだけど、イツキは興味深いものみたいに俺を見つめてきて、久しぶりに居心地が悪くて身体がむずむずした。

「職場用ですか?」

 気を逸らそうとコーヒーを淹れている間にアイスティーの用意をしつつ訊くと、イツキはレジに軽く寄り掛かりながら頷く。

「そう。ちょっとゴタゴタがあってね、先生たち疲れちゃってて。美味しいコーヒーが飲みたい! ってこの店指定されたから、僕がお使いに来たの」
「先生……、あ、そっか、保育園」
「そ。覚えてたんだね、えらいえらい」

 いつものように俺の頭を撫でようとしたのか、イツキの手が一瞬動いて、けれど何でもなかったように元の場所に戻った。
 ……あー、撫でられたい。イツキの声に褒められて撫でてもらえないのはいっそ苦痛に近く、けれどバイト中だし誰に見られるかも分からないのだから我慢するしかない。
 カフェラテ用のミルクを作業台の下の冷蔵庫から取り出して濃いめのコーヒーに注いでいると、俺は何も言っていないのにイツキが小さく笑い出した。

「……あの?」
「棗、顔に出過ぎ」
「えっ」

 一体どんな表情になっていたのか、慌てて営業用の笑顔に戻すのにそれがまたツボに嵌ったみたいにイツキの笑いが止まらない。

「撫でてほしい?」

 小さく、掠れるような声でイツキが訊いてくる。

「っ……! あの、バイト中っ」
「分かってるよ。誰も聞いてない」

 君の他はね、と付け足されて、顔が熱くなった。図星で照れているようにしか見えないだろうと焦るのに、イツキは急に話題を変えてくる。

「ね、棗、バイト何時まで?」
「えっ、あ、あの、今日は早番だから十七時です、けど」
「じゃあその後ご飯行かない? ほら、今日僕の誕生日なんだけど、オジサン一人で寂しくてさ。奢るからちょっと慰めてよ」
「な……」

 慰める? イツキを? 俺が?
 声を掛ければいくらでもMが寄ってくるだろう男が、誕生日という特別な日に俺を指名してるという不思議。
 返事を忘れて呆気に取られていると、イツキは眉尻を下げて申し訳なさそうな表情になった。

「……あーごめん。嫌だよね。聞き流してくれる?」
「え、違っ」

 無かったことにされたらたまらない、と慌てて否定しようとすると手元にあったカップを倒してしまって、中身が溢れて指に掛かる。幸いにして溢したのはたっぷりミルクを入れたカフェラテだったから火傷することはなくて、やばいやばい、とわたわたしながらウエスで拭いてからコーヒーを入れ直した。

「ごめんね」
「いや、俺が勝手にミスっただけで」
「僕が変な事言ったからでしょ」

 カフェラテを淹れ直し終えた頃には他の注文も全部出来上がって、それぞれ蓋を付けてから溢れないように箱に固定してからテイクアウト用の袋に入れる。

「それじゃ、バイト頑張ってね」
「あの、上がったらどこで待ち合わせますか。連絡先知らないんですけど」

 袋を渡しながら訊くと、イツキは一瞬手を止めてから視線をウロウロと彷徨わせて、何か書くものを探すみたいに指を振った。バイト用のメモ帳とボールペンを渡すとイツキはそこに九桁の数字を書いて、それを俺に返すと目も合わさずに袋を掴んで足早に店を出て行ってしまった。

「……ありがとうございましたー」

 返されたメモ帳に書かれているのはおそらくイツキのスマホの番号で、だけどこれを渡した彼の態度がよく分からない。誘ってきたのはあっちなのに、どうしてあんなに素っ気無かったんだろう。冗談だったにしては、俺に断られたと勘違いする顔は確実に凹んでいた。
 飯……行くんだよな?
 どっちにしろ、今日はバイトは定時で上がろう。そう決めた俺は後回しにしていた冷蔵庫の整理に手を付けた。十五時過ぎに一度急に忙しくなって、それから十七時で上がるまではいつも通りくらいの混みようだった。
 制服にしているシャツからTシャツに着替えて、店の裏口から出てからハタと気付く。
 これ、俺から電話すんの?
 スマホを握り締めてメモに書かれた番号を見つめて、何故だか緊張に手汗が滲んでくる。
 もう仕事は終わったんだろうか。というか、掛けて出てくれるんだろうか。上がる時間は教えたのだから、本当に飯に行くのならこっちに来るかもしれない。……来ないかもしれない。
 どうしようどうしようと悩みながらいつもの癖で歩いているうちに家の前まで戻ってきてしまって、玄関に入ってから思い切って番号を押して掛けてみた。もう家に帰ってしまっているから、だから出なくても別に、時間の無駄なんかじゃない。

『はい』

 電話は六コール目を数えたくらいでやっと繋がって、聞こえてきた声がイツキのものでホッと息を吐いた。

「あの、棗です」
『棗? 今、お店の前にいるんだけど』
「え、あっ、ごめんなさい、着替えに家に戻っててっ」

 うわ、やっぱり店の方に来てくれていたのか。慌てて玄関から出て鍵を掛け直していると、ガチャガチャという音が聞こえたのか電話の向こうでイツキが笑った。

『ゆっくりでいいよ。信号はちゃんと守ってね』
「分かってます! 俺、いいこですから!」
『くっ』

 くくくく、と笑う声が嬉しい。良かった、一緒にご飯というのがただの社交辞令だったらきっと、こんな風に笑ってくれない。
 通話を切ってから全力で走って店まで戻って、着替えたばかりのTシャツが汗だくになっているのを見てイツキに笑われてから少しだけ反省した。


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