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しおりを挟む「こっちだよ」
「え? 上……ですか?」
店の出入り口から出たイツキはエレベーターまで行くと上へのボタンを押した。ボタンの横にある階数表示には特に何の表記も無い。
すぐに開いた扉の中にイツキが入っていくが素直についていけるほど世間知らずでもなく、振り向いた彼が首を傾げながら目を細めて笑うのを見て思わず一歩後退った。
「あの、俺……」
「この上はね、レンタルルームになってるんだ。錘の──さっきの店で鍵を借りて、上でプレイする為のね」
チャリ、と握り込んでいた鍵を見せて揺らして、イツキはもう片方の手で『開』のボタンを押したまま安心させるように説明してくれた。
「初対面の男とラブホテルに行くよりはマシだろう? ここなら怖くなったら下に逃げて店員に助けを求めればいいし」
なんだったらドアの鍵も開けたままでいいよ、とまで言われ、そういう事ならと完全に警戒を解きはしないもののエレベーターの中へ足を踏み入れる。
イツキは六階のボタンを押し、ゆっくりとドアが閉まると背中を軽く壁に凭れさせながら俺の方に視線を向けてきた。
「僕の名前はイツキ。まあ偽名だけどね」
「え?」
言われた意味を一度で飲み込めずに目を丸くして彼を見つめると、イツキは人好きしそうな柔らかい微笑みを浮かべてショルダーバッグから小さな四角い物体を取り出した。
透明なプラスチックケースに入ったそれはどうやらネームプレートのようで、おそらく服に付ける金具の部分を指で摘んだイツキはそこに書かれた文字が俺に見えるように近付けてくる。
「清戸、壱衣」
バストアップ写真は結構前に撮ったものなのだろうか、今より若い。写真の隣にはおそらくは職場の名前と役職、それから本名が記載されていた。俺が無意識にそれを目で追って読み上げると、イツキは小さく頷く。
「そう。本名はイチイ。だから偽名は樹木繋がりでイツキ」
覚え易いでしょ? と言われても、イチイなんて木があるのを初めて知った俺は曖昧に頷くしか出来ない。
「職場は書いてある通り、『ひまわりルンルン園』って認可外保育園。そこで二十年近く経理事務をしてる。ホームページにも名前だけは載ってるから、確認するならしていいよ。今年で四十二歳。錘に来たのは十年ぶりくらい。結婚してからは来てなかったんだけど、先月離婚したからまたSに復帰しようと思って……」
「ちょ、ま、待って下さい」
「うん?」
怒涛の自己紹介を始められて、急にどうしたのかと慌てて止めるとちょうどエレベーターも動きを止めた。自動で開くドアの横でイツキは『開』のボタンを押したまま、先にどうぞ、と手で指し示してくる。
エレベータの外はまっすぐな廊下になっていて、普通のホテルみたいに両側に互い違いに部屋のドアがあるようだった。敷かれた杢灰色のカーペットの毛並みが潰れているのが見える程度に明るく、ゴミも落ちていないし落書きも無い。敬遠すべき場所は雰囲気だけでヤバいと分かるものだけれど、どうやらここはそう警戒する場所では無さそうだと胸を撫で下ろした。
「603ね」
「はい」
小綺麗だけれど狭い廊下に二人が他人としての隙間を開けて並んで歩く余裕はなく、イツキの前を歩くことになった俺は通り過ぎるドアプレートを見ながら進む。
「あの、なんで急に自己紹介を始めたんですか?」
店では偽名を名乗っていたのなら、それがあの店での流儀なんだろう。店員たちもおおよそ本名だとは思えない名前だったし。
イツキが鍵を開け易いように目当ての部屋を少し通り過ぎた所で立ち止まると、彼は持ったままだったネームプレートをショルダーバッグに仕舞ってから鍵穴に鍵を挿して回した。
「だって、すごく警戒してるから。僕の身元と、どうして君を選んだのか理由が分かれば安心してくれるかなって」
俺を選んだ理由?
単純に気が向いたから俺にSMのイロハを教えてくれるだけだと思っていたのだけれど、いつの間にか『選ばれて』いたらしい。
イツキが開いたドアの向こうは真っ暗で、彼は片手でドアノブを持ちながらもう片手で入り口のすぐ脇にあるスイッチを押して照明を点けた。
パ、と点いた瞬間は暗いオレンジだった明かりが、イツキがスイッチ横の丸いノブを回すのに合わせて白く明るくなっていく。
カラオケみたいだな、と思いながら明るくなった部屋の中を覗くと、白いシーツカバーが巻かれただけの脚付きマットレスと腰高の戸棚しか無い殺風景な部屋だった。
「一応言っておくけど、ここでお金のやり取りは御法度だからね」
「はあ」
SMバーが所有するレンタルルームというから、三角木馬とかスケベ椅子とか、そういうエログッツが溢れているのかと思ったのに、どちらかといえば少し前の俺の自宅に近い。ミニマリズムにハマって一時期寝袋で寝てた事もあったから、ベッドがあるだけこの部屋の方がマシだけれど。
今? 今は『普通よりちょっとシンプルな部屋』くらい。半年フローリングに寝袋生活をしていたら腰が悲鳴を上げて、ベッドを買い直してからはあれもこれもと増えてしまった。不便な期間を経たからこそ現代の便利さを実感したんだ、無意味なんかじゃない。
窓が無いから当然カーテンも無く、如何に持ち物の数を減らすかに執心していた昔の自分がこの部屋に来ていたらここに住みたいと思ったかもしれない。
昔を懐かしむように部屋を眺めていたら、不意に伸びてきたイツキの手が俺の顎を掴んだ。
「……?」
人差し指と中指が右頬に、親指が左頬に。薬指に顎下を撫でられて、呆気に取られる。
痛くはないけれど、他人にこんな触れ方をされた経験は無い。なんだろう、とほとんど目線の高さの変わらないイツキと視線を合わせると、彼は無表情に首を傾げた。
「意味、分かって返事した?」
「え?」
「お金のやり取りは御法度、って」
意味。言われてやっと考えて、それが『売春』を表しているのだと気付いて納得した。
「えっと、大丈夫です。そういう目的じゃないので」
「今考えたよね」
平坦なトーンのイツキの声に、まるで叱られているような気分になる。生返事が気に障ったのだろうか。強い言葉で脅されているわけでもないのに、触れる程度に掴まれた顎とじっと見つめてくる目に気圧されそうになる。
「Sはプレイ中ずっと頭使うんだよ。ボーッとする癖あるなら、まずはそこから直さないとね」
ああ、もう授業は始まっているのか。
はい、と素直に頷くと、イツキは微かに眉間に皺を寄せてから手を離してくれた。
「じゃあまず、座って話そうか」
壁際にバッグを置いたイツキはマットレスに腰掛けて、けれど彼が指で差し示したのはフローリングの方だった。
確かに二人して横並びに座るのも変な気がするけれど、問答無用で俺が床というのもどうなのか。内心で文句を言いつつも口には出さず言われた通り床に腰を下ろして胡座をかくと、イツキはじっと俺を見つめてくる。
……この人の目、怖いんだよな。
悪癖というなら、彼の黙って見つめる癖の方が直した方がいいと思う。何を思って見てくるのか分からなくて戸惑うし、不安になる。
「……あの」
「これから僕が教えるのは、『僕のSM』だから。その辺ちゃんと考えて、教わった事そのまま覚えるんじゃなくて『君のSM』に昇華させてね」
無言で見つめられるのに耐えかねてこちらから質問を切り出そうかと口を開いた瞬間、被せるようにイツキが声を発した。
「俺のえすえむ」
「そう。SMに正解は無い。あるのは確実な『不正解』だけ」
イツキはゆっくりと片脚を組むと、その上に肘をつけて俺の方に身を乗り出すように猫背になる。組んで浮いた足の先、革靴の裏が砂で煤けているのが見えて自分が座っているのが土足の床だというのを意識して微妙な気持ちになった。
「こっち見て」
寄ってこられたから居心地悪くて視線を逸らしたのに、そう言われてしまっては目線を合わせるしかない。
十数センチの距離しか無いイツキの顔の方へ視線を戻すと、また彼はじっと見つめてきた。
「あの、それ、ソワソワするんでやめて欲しいです」
「うん?」
「じーっと見つめるの……。睨まれてるみたいで怖いし、そもそも初対面の人の距離じゃないですし」
別に人嫌いでもないし、目を見て話すのは苦手ではない筈なのだけど、どうにも彼だけは駄目だ。身の置き所が分からなくなるような、とにかく不安な気分になる。
視線をまた彼の脚に落としながら言うと、イツキは「睨まれてるみたいっていうのは初めて言われたなぁ」と呟いた。
そりゃそうだ、咄嗟に口から出た嘘だから。睨むどころか安心させるような微笑みが目にも浮かんでいて、だからこそ俺の中に浮かぶ感情が不気味なのだ。
「分かった。じゃあ、目を合わせなくてもいいから、手を繋ごうか」
「……手?」
訝しむ俺の前に、先にイツキの手が伸ばされてくる。掌が上に向いているから乗せろという意味かと指先をそこに置こうとすると、くるりと反転して上から俺の指を掴まれた。
「!」
「ふふ。びっくりした顔、いいね」
穏やかそうに微笑んだままイツキは一度俺の指を離して、それから驚きで硬直したままの俺の指の上を歩くように指先でつついてきた。
「Sはね、『与える側』でいなくちゃダメなんだ」
俺の指先から移動してきたイツキの指は、手の甲までくるとそこを軽く抓る。やはりまた痛みはなく、数ミリ引っ張られた皮膚は次の瞬間には平らに戻った。イツキの指先は抓った所をすりすりと撫で、それからまたスキップでもするみたいに弾んだ動きで指先まで戻ってくる。
「最初から最後まで、与えるのはSじゃなくちゃいけない。だって、サドはマゾの為にいるんだから」
「……マゾの為に?」
「そう。僕はそう思ってるから、彼女の為にSになろうと思った君に共感した」
イツキの長い指が、俺の指の間を交互に割るように差し入れられてきた。指の股まで辿り着いた指先にそこを擽るように撫でられて、ぞわっとした感触に指が跳ねる。けれど、手が動かない。何故だか彼の指を跳ね除けようとまでは思えず、ピクピクと震える俺の指にイツキの視線が向いているのを感じて何故だか無性に恥ずかしくなった。
「紫や、さっきのアイって店員はたぶん逆だね。彼らにとってマゾは、サドの為に存在してる」
ぎゅ、と指で引き寄せるように握られて、初めて明確な感触が与えられて指先が震える。
「サドの欲求を満たす為にマゾが存在する。僕の考えとは真逆だけど、間違ってるとは思わない。一人一人に違うSMの世界がある。だから明確な正解は無い。けどね」
握られたのは一瞬で、イツキの指は俺の指と絡めたまま指先まで移動していく。
なんだこれ。なんで、手で触られてるだけでこんなにぞわぞわするんだ。嫌悪感なら分かる、けどそうじゃない。嫌じゃない。気持ち悪くない。なのに、やめて欲しくて振り払いたくて、けど指一本すら自分の意思で動かない。
「いいかい。絶対にやっちゃいけない『明確な不正解』。それはね、『マゾが望まない事をすること』」
視線を合わせなくていいと言ったくせに、イツキは俺の目が弄り回される自分の手から剥がせないのが分かっているみたいにそこに顔を寄せてきた。チラ、と俺の視線を確認するみたいに見上げてきたイツキが、ふ、と笑いながら指先に息を吹き掛けてくる。
「……っ」
「ちゃんと聞いてるかい、ナツメ」
俺はゲイだから相手が男って事に嫌悪感が湧かないとしても、初対面の人間に手を撫で回されるなんて普通に考えて嫌な筈だ。別に顔が好みなわけでもないし、そもそも親と同じくらいの歳の人をそういう目で見たことなんか無い。ゲイだけど、老け専でもショタコンでもなく、普通に同年代が好きだ。
だから、こんなのおかしい。なんで俺の心臓はこんなにバクバクいってんだ。
「おーい?」
何度か瞬いたイツキが目を丸くして低い声で呼び掛けてきて、ハッと正気に戻る。
「真面目に聞く気無いなら終わりにするよ?」
「あ、あの、いえ、聞いてますっ。ゆ、指、気になって」
イツキは怒る時に目を見開くタイプらしい。ランみたいだ、と実家の猫が怒る時の表情を思い出して、目の前の彼と重ね合わせて変な笑顔になった。
「君、集中力無いよね。すぐ他のこと考え始める。プレイ中に目の前のマゾ放ったらかしたりしたら一発でフラれるよ?」
「う……、気を付けます」
実際、たーくんが話している最中に生返事をして怒られる事が何度かあって、けど頬を膨らませて拗ねるたーくんが可愛いからあまり気にしていなかったのだけど。それを理由にフラれるのは避けたい、と反省して肩を竦めた。
ついでに自然な動作で手を引っ込めようと思ったのに、イツキの指がするっと絡んできてそれを引き留めてくる。
「話が聞けないなら、もういっそ実践いってみようか」
「実践?」
「そう。マゾがどんな事されるのか、自分で体験したらそうそう無茶な事しようとは思わなくなるから」
「え……と」
実践ってもしかして、鞭で叩かれたり蝋燭垂らされたり縄で縛られたりするのか。
ぐ、と逃げようと腕を引くと、今度は呆気なくイツキの指が外れた。
「そんなに怖がらないで。言ったでしょ、僕は君が望まない事をしない。SMの基本中の基本ってことで、まずはスパンキングから教えるから」
「スパンキング……?」
「ただのお尻叩きだよ。素手のね」
さっきまで俺の手の上で這い回っていたイツキの指が、ぐっぱ、ぐっぱ、と握って開いてを繰り返してから自らの太腿を叩く。
「お尻叩き、って……、その、小さい子の躾みたいな?」
「うん、それ。まあ今のご時世、躾とか言ってもそんな事やったら虐待扱いだけど」
おいで、と言ってまた太腿を叩いたイツキに、腰を上げて膝立ちになってみたはいいけれどどうすればいいか分からなくて膝を見つめて困惑した。すると彼は俺の戸惑いを躊躇だと思ったのか、薄く微笑んで「痛くしないから」と手首を引っ張ってくる。
イツキの手に引かれるままに体を動かすと彼の膝の上にうつ伏せに乗っかる形になって、本当にイメージそのままの格好だ、と顔が熱くなった。
「一度叩いてみるね」
言うが早いかイツキの左手が俺の尻を叩いて、デニムを叩いたパンっという乾いた音が部屋に響く。
「痛くないでしょ?」
「あ、はい」
さっき錘でアイにバラ鞭で撃たれた時よりは『叩かれた』という感覚が強いけれど、それほど痛くもない。
「スパンキングは基本的にご褒美だからね。痛いのが好きなマゾには痛くしてあげるけど、そうじゃないマゾにはちょっとビリビリするくらいがちょうどいいよ」
叩く力加減を練習する時は自分の太腿を叩くといいよ、と言われながら、もう一度叩かれる。乾いた高い音は小気味よく、少し興奮する。
たーくん、お尻叩かれるの好きかな。好きだといいな、たぶん俺もこれ好きだから。
「また気が散ってる」
ぐ、と前髪を鷲掴まれたかと思えば、そのまま上を向くように引っ張られた。
「イ……った」
「痛い? ごめんね、俺も久々だから、少し加減間違ったかな」
顎を逸らすように上向かされて苦痛の声を上げると、すぐさまイツキの手は髪から離れて額から鼻筋をなぞって唇の上を通り、顎の下を撫でてきた。
「ふ……」
「ごめんね、ナツメ。もう痛くしないように気を付けるから、続けてもいい?」
イツキの掌が俺の顔面の上にある。うっすら湿っている気がするのは、彼も少しは緊張しているからだろうか。そういえば、さっき結婚してから十年くらい錘に来てなかった、って言ってた気がする。奥さんがマゾじゃなかったんだとしたら、実際かなり間隔が空いている。力加減も忘れて当然だろう、と思って承諾を示すように頷いた。
「ナツメは優しい子だね」
指先だけで顎下を撫でられ、擽ったさに息を吸おうとしても掌が乗っていて少しの空気しか入ってこない。酸素が少なくて頭がクラクラする。首を反らすのも辛くて手を離して欲しいのに、何故だか「手をどけて」の一言が喉から出ない。
俺の尻を撫でたイツキの左手がふっと空気を揺らすのを聞いて、腕を振り上げた気配を感じて息を詰めた。
「……っ」
次いで、バチ、と叩かれる。
痛くない。全然痛くない。けれど、酸素が少ないからか身体が大きく跳ねた。
「痛かった?」
心配そうな声で訊かれ、無言で首を横に振る。痛いというなら、反らしたままの首の方が痛いくらいだ。
鼻から吸った僅かな空気が、吐く時にイツキの掌の中に籠もって生暖かい湿気になる。それを吸うと更に酸素が薄くなったみたいに視界がぶれて、息を吐いた瞬間に尻を叩かれて喉から息なのか声なのか分からない変な音が出た。
なんだ今の、と俺が自分の反応に驚くのに、イツキは全く動じず、どころか何も聞こえなかったみたいにスパンキングに関しての講釈を垂れ始める。
俺の頭を上向いたまま固定させて、何度も、少し間を開けて叩いてくる。
「スパンキングはね、痛くしないのがコツなんだ。思いっきり叩いて痛くすると、こっちの手も痺れてたくさん叩けなくなるからね。お仕置きするつもりでやる時はスラッパーっていう平らな棒みたいな鞭を使う事が多いかな。あれは力を込めなくても痛いし、叩く手も痺れにくいから」
「ん、……ぁ……」
「一回一回は痛くないと思うかもしれないけど、何度も叩かれてるうちにジンジン痺れてくるでしょ? マゾってね、殴るとか蹴るとかそういう大きい痛みより、積み重ねた小さい痛みを好む子の方が多いから、スパンキングはやっぱり基本だし鉄板なんだよね。……ナツメ、ちゃんと聞いてる?」
「っふ」
顎を撫でていた指が急に唇を割って口の中に入ってきて、掌が上に上がって出来た隙間から新鮮な酸素を吸い込んだ。
「また気が散ってたのかな。それ、本当にどうにかした方がいいよ」
口の中を、イツキの指がにゅるにゅると抜き挿しするように動く。少ししょっぱい。引っ込めた舌の先を爪に引っ掻かれて、ゾクゾクと背中に怖気が走った。
股間に熱が集まって痛くなって、嘘だろと焦る。いくらゲイだからって、彼氏でもない、さっき会ったばかりのオッサンの指を舐めさせられて興奮するのはまずい。それはちょっとやばい。俺はSになりたいんであって、Mにはなりたくない。
顔を振って嫌がると驚くほどあっさりイツキの手が離れて、そして彼は尻ではなく背中を撫でてきた。
「それじゃ、今日はこれくらいにしようか」
「え……」
「もっと他にも教えて欲しくなったら錘においで。たぶん僕は毎週末来るだろうから」
仕事上がってからだから今日くらいの時間には居ると思うよ、と言われて、え? と思っているうちに膝の上から丁寧に降ろされた。
「えっと……、これだけ、ですか?」
「うん。彼女、喜んでくれるといいね」
イツキは微笑みながら濡れた指をスラックスのポケットから出したハンカチで拭って、ついでみたいに俺の口元も拭いてくれる。
「僕ね、元々は縄師だったんだ」
「なわし?」
「いわゆる緊縛だよ。亀甲縛りくらいなら君でも聞いたことある? 縄でMを縛って気持ち良くしてあげる、そういうSなんだ、僕は」
だから言葉責めとか鞭の扱いを教わりたいなら錘の他の店員さんの方がいいかも、と言いながら、イツキはマットレスから腰を上げた。
その動きに本当に今日はこれで終わりなんだ、と察して、慌ててデニムの前ポケットからスマホを取り出す。
「あ、あの、連絡先っ」
どうしてか連絡先を聞かなきゃいけない気がしてスマホを掴んでイツキに詰め寄ったのだけれど、彼は困ったように眉尻を下げて俺の肩を叩くと首を横に振った。
「言ったばかりだよ。錘においで、って」
「あ……」
「人の話、もっとよく聞こうね?」
優しい微笑みにきっぱりと拒絶されて、スマホをポケットに戻す指が震える。恥ずかしい。連絡先を聞いて拒否されるのは初めてで、けれどイツキの断り方が遊び慣れた大人っぽくてドキドキする。
「すみません……」
「謝らなくていいよ。僕はもうこれで帰るけど、ナツメはどうする?」
「俺も帰ります」
「電車? じゃあ一緒に駅まで行こうか」
この人にもっとSMについて教わったら、彼みたいに大人な男になれるだろうか。
さっきは女扱いされてるみたいで気に障った先にドアを開けて待つ仕草さえ憧れに変わって、俺は来週も錘に来ようと決めたのだった。
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